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【あの日に帰りたい】 名車、珍車、スーパーカー&実用車 1960年代のクルマ124選 前編

2021年8月29日

オースチン ヒーレー スプライト: 1961年には、初代「スプライト」のカエルのような目が消え、新しいボディによって活発なロードスターが大人っぽくなった。「スプライトMk II」は、「MGミジェット」と同じ構造である。あまりにも似ているので、「スプリジェット(Spridgets)」とも呼ばれている。
大林晃平: あくまでも正統派の、絵にかいたブリティッシュ2シーター。正統派のデザインで、「カニ目」かこの「スプリジェット」かって、言われたら、こっちを選択する人が多いのもうなずける。言ってみれば、「マツダロー ドスター」の起源をたどれば、こういう魅了的な2シーターが英国にあったからこそ、である。なお、「オースチン ヒーレー スプライト」は、「MGミジェット」の兄弟車ではあるが、いわゆる「格」としては、MGのほうが上、ということになっている。
オースチン ヒーレー3000: 1960年代、イギリスのロードスター市場は活況を呈しており、「ビッグヒーレー」も、アメリカを中心に飛ぶように売れていた。1968年、ブリティッシュレイランド社は、「トライアンフ」ブランドをグループのポートフォリオに加えた。1968年、「ヒーレー」は、よりモダンな「トライアンフTR5」に取って代わられ、多くのファンを落胆させた。という解説はなんとも、超おかしい。
大林晃平: 抱腹絶倒であるが、とにかく古典的でクラシカルな「ヒーレー」を愛する人が多いのも事実。写真は最近写されたものだが、この一台は、ツートンカラーも実にいい感じ。ドライバーの頭はフロントスクリーンからはみ出ているが、座高の高い人はこうなるので、気にしてはいけない。
アウトビアンキ ビアンキーナ: 「ビアンキーナ」は、基本的には、「フィアット500」に独立した高貴なシートメタルドレスを着せたものだ。実用的なフォールディングルーフを備えたキュートなオープンカー「トランスフォーマビーレ」(写真)も、このベースで作られた。
大林晃平: 「フィアット500」をベースに作られた、言ってみれば裕福なオーナー向けの粋な小型車。色も内装もお洒落で、こういう自動車が50年以上も昔にあったことは、その時代のヨーロッパの裕福で成熟した社会を連想させる。後ろ開きのドアも優雅で素敵だ。そんな「ビアンキーナ」には写真の「トラスフォルマビレ」という、クーペオープンモデルの他に、セダンとワゴン(ジャルディニエラ)などのバリエーションもあった。
アウトビアンキ プリムラ: この目立たない車が、1964年にフィアットグループとなったアウトビアンキの方向性を示した。「フィアット128」の5年前、「ゴルフI」の10年前に登場した3.72mの「プリムラ」は、前輪駆動、横置きエンジン、オプションで大型テールゲートを装備していた。
大林晃平: どことなく、「ミツビシ コルト」とか、「ダイハツ コンパーノ」あたりを髣髴とさせるデザインだが、本家はこっち。うしろに写っているようなファミリーのマイカーとしても好適だったであろう。どこにもとげとげしい部分がないデザインは、今の自動車が見習うべき点。デザインを含む開発を担当したのは、もちろん、「チンクエチェント(500)」の生みの親、ダンテ ジアコーザである。
アウトビアンキA112: 3.22メートルの背の低いイタリアの小人で、1969年からミニと競合した。横置きエンジンと前輪駆動に加えて、大型テールゲートと折り畳み式リアシートを装備していた。約130万台が生産された後、1986年に生産が終了した。
大林晃平: 日本でも一時期大人気だった「A112」。その登場も50年も昔となった。日本ではエンスージャスト向けの楽しい小型車として有名だったが、漫画『ドクタースランプ』で、ものり巻きせんべい博士の愛車として登場。漫画の中で、アラレちゃんを乗せて走っていた姿を記憶している方も多いことだろう。
ベントレーT1: 伝統を重んじるロールスロイスやベントレーも、1965年にはモダンなポンツーン型を採用した。ロールスロイスの「シルバーシャドウ」とベントレーの「T1(写真)」は、デザイン的にも自立している。高くそびえるラジエーターグリル、クラシックなツインヘッドライト、そして紳士クラブのようなインテリアが、甘やかされた顧客との和解をもたらした。
大林晃平: 「ロールスロイス シルバーシャドウ」のクローンが、当時のベントレーであった(2ドアオープンの「ロールスロイス コーニッシュ」のベントレー版も「コンチネンタル」としてちゃんと存在した)。こういう時代は長く続き、ちゃんとした新生ベントレーオリジナルモデルの登場は、この後の「ベントレー ターボR」の成功以降の話、なのである。ちなみに写真は初期モデルで、この後フロントの「エアダクトなし・スポイラー付き」の後期モデルに発展するのは、「シャドウ」と同じ流れである。
BMW 501: 「バロッケンゲル(Barockengel)」と呼ばれる、「501」のような豪華なセダンが予想以上に売れず、BMWは窮地に陥る。1960年、バートホンブルク出身の実業家クァントは、ダイムラー・ベンツの支配から、バイエルンのメーカーを解放するために、独自のリストラ計画を打ち出した。
大林晃平: 「501」は直列6気筒エンジンを持つのに対し、「502」はV8気筒エンジンを持つ。ボディバリエーションには写真の観音開き型4ドアセダンの他に、2ドアクーペもあったが、いずれも燃料タンクの設計など、安全にも配慮したものであった。写真のうしろに写っている文化住宅は、きっと当時の最先端だったのだろう。
BMW 1500/1600/1800: 1961年、フランクフルトモーターショーで、BMWの新時代が始まる。経済的に厳しかった1950年代を経て、BMWは画期的な「ニュークラス(New Class)」を発表し、本格的に始動したのである。これ以降、BMWはスポーティなコンパクトセダンのスペシャリストとして評価され、「ニュークラス」はその基礎を築いたのである。
大林晃平: BMWの新時代を担ったこのモデルは、内容的にも革命的な部分が多く、性能も大変優れていたし、ジョヴァンニ ミケロッティがデザインしたスタイルも時代を先取りしていたといえよう。今見ると、トレッドがなんとも狭く感じられるが、これでも当時としてはワイドな方だったのだ。
BMW 1600-2: 「ニュークラス」セダンは、1960年代にBMWを深刻な危機から救い出し、未来への道筋をつけた。1966年に発表された「02」シリーズは、まさにそれを提供し、ニッチを復活させたのである。
大林晃平: なんともシンプル、しかしクリーンで、これぞBMW、ともいうべきバウハウス調デザイン。もしこれがEVとして、このまま出ても、決して古びて見えないだろう。この2灯ライトも、表情が柔らかくてとてもいいし、カラーリングもやさしい(控えめな)ものが当時のBMWには多い。
BMW 2000 C/CS: 「スラントアイドクーペ(slant-eyed coupe)」は、「ニュークラスをベースに作られたものだ。BMWのデザイナー、ヴィルヘルム ホフマイスターがエレガントなラインを担当し、カルマンがボディを製作した。1965年から1970年にかけて、12,000台のクーペが製造された。
大林晃平: 上級モデルの表情は、一転大人びたものとなるが、それでも全体的なデザインはクリーンでシンプル。キドニーグリルの大きさも上品で、繊細である。空気取り入れ抗がバンパー上に多数開いているのに注意。フェンダーに一つだけついたミラーは、この位置で正常である。「633」などを彷彿させるCピラー形状に注意。
ボルクヴァルトP100: エアサスペンションを搭載したボルクヴァルトのトップモデルは、遅かった、遅すぎた。「P100」はドイツの名車となる可能性があったが、1961年9月11日、ボルグワードの破産手続きが始まった。偉大なブランドの終焉である。わずか2,587台の「P100」がブレーメンの生産工場から出荷された。
大林晃平: どことなくメルセデス・ベンツを思わせるデザインのボルクヴァルトは、メルセデス・ベンツと同じ、ドイツ生まれで、メルセデス・ベンツ工場のある、ブレーメンに本社を構えていたが、残念ながら1961年に経営破綻した(2015年には中国資本下で、メーカー名は復活している)。
シトロエン2CV: 1963年、「アヒル(2CV)」の心臓は、2つのシリンダーで16馬力に増強され、95km/hのスピードを出せるようになった。しかし、アヒルのドライバーは決してスピードにこだわらない。ボクサーの鳴き声が聞こえ、ヒンジ式の窓が開き、ロールアップルーフから無限の空が見えるとき、アヒルのドライバーは、自分自身と世界との調和を感じているのだ。
大林晃平: 「みにくいアヒルの子」と言えば、このクルマのこと。特に写真の初期モデルは簡素、質実剛健、そして独創の塊で、ワイパーさえスピードメーターケーブルで駆動するという徹底ぶり(だから、クルマが止まっている時は、ワイパーブレードは動かない)。テールランプも、この初期モデルだと、なんとも頼りない大きさで、バックランプもないが、当時の耐乏型ヨーロッパ車はこういうものだった。
シトロエン アミ6: 「ダック(2CV)」の技術的基盤の上に、シトロエンは非常に実用的でありながら、非常に奇抜な外観の車をもたらした。「アミ6」は広々として快適だが、「2CV」のような人気には至らなかった。
大林晃平: フランス人にしかできないデザイン。特にリアの逆クリフカットになったCピラー部分など、今のデザイナーには絶対にできないだろう(ちなみに、こういう形状だと自動洗車機には入らないので、オーナー予備軍は注意してほしい)。ボデイサイドのプレスの入り方も前衛的なら、写真に写っていない、フロントグリルものすごく個性的。美しいかどうかは、見る人の審美眼に任せたい。
シトロエン ダイアン: 「ルノー4」の成功は、シトロエンを驚かせた。1967年、シトロエンは「ダイアン」で対抗した。少し角張って、少し力強く、大きなテールゲートを備えたこの車は、アヒルよりも少し実用的であるが、それでも密接な関係があった。トップエンジンは602ccの2気筒で32馬力。
大林晃平: 「ダイアン」といっても、ダイアン キートンではない。一言でいえば、「シトロエン2CV」をデラックスにした仕様。フェンダー一体型のライトや、同色トップが魅力的かというと、かえって普通の「2CV」のほうが、清く格好いいことは言うまでもなく、結局あまり長く存在せずに消えてしまった。写真のようにフランス人女性3人と、デルセイのスーツケースを3つは楽に載せることはできる。
シトロエンDS: 1955年に発表された「DS」が前衛的でなかったかのように、シトロエンは、1967年にもうひとつのスクープを打ち出した。ガラス越しのツインヘッドライトが大きなシトロエンの表情をさらに豊かにし、カーブに追従するハイビームヘッドライトが暗闇でも神々しいまでの視界を確保した。
大林晃平: かつてパリのグランパレで発表された時、偉大な自動車ジャーナリスト・F1パイロット・ルマンウィナーであった、故ポールフレール氏は、DSを見たとたんに「宇宙から来た車だ」、と思ったという。そしてそれから60年以上が経過しても、その言葉は今でも通じる。これほど時代を先取りし、永遠に未来に向けて走り続ける自動車はもう2度と出てこないだろう。ハイドロニューマティック、半透明のルーフ、操作が大変難しいセミオートマチックトランスミッション、丸いボールのようなブレーキペダル・・・、文字通り、個性と特記すべきパーツの塊のような自動車である。
ダットサン1000: 日本では「サニー」として販売され、ベストセラーとなった。ヨーロッパでは、1984年に日産から発売されたダットサンの後の輸出成功の基礎を形成している。「1000」は当初オランダで販売され、その後継車である「ダットサン1200」は1972年から、ドイツでも提供されている。
大林晃平: 日本ではカローラVSサニー戦争、そしてそこからブルーバードVSコロナ戦争、クラウンVSセドリック・グロリア戦争へと、ステップアップした日産とトヨタのがっぷり四つ試合。なんだかいまになって思えば良い時代だった。今見ると、きっと軽自動車のように小さいが、当時は庶民にとって夢のマイカーだったのである。
ダットサン240Z: アルブレヒト グラーフ ゲルツのデザインは、現代の技術と同様に賞賛された。ドイツでは、2万ドイツマルク(約130万円)以下で購入でき、「911 E」は5,000ドイツマルク(約33万円)ほど高かった。アメリカでの大ヒットにより、「240Z」は世界で最も多く作られたスポーツカーとなった。
大林晃平: 片山 豊氏の努力と情熱で生まれた、「ズィーカー」。このクルマがあったからこそ、日本車はアメリカで認知されたといっても過言ではない。今でも熱狂的な愛好家も多く、日産はそういう意味からも、「ダットサン」というブランドをもっと大切にするべきだ。
デ トマソ マングスタ: デトマソは1966年、初期の傑作のひとつである「マングスタ」を生み出した。厚さ110cmの「マングスタ」には、305馬力のフォードV8が搭載されている。しかし、ミッドエンジンであるにもかかわらず、その走行特性は決してニュートラルではない。フロントはあまりにも軽く、ウエットではほとんど操縦できない。
大林晃平: 「マングスタ」の中身はアメリカンV8だが、デザインはジョルジョット ジウジアーロ。合計401台が製造されたというが、日本にも輸入された。当時小学生だった私は、小学校の近所にあるシーサイドモータースで見かけたことがあったが、迫力はなかなかのものだった(しかし、認知度はいまいちで、他の同級生に知っている者は少なかった)。
ファセル ヴェガ ファセリア: 4気筒モデルで台数を稼ごうという試みは、1960年代初頭にはまだ通用したようだ。しかし、「ファセリア」は、エンジンの故障が相次ぎ、小さなメーカーであるファセル ヴェガ社を破滅に追い込んでしまった。同社は1964年に廃業した。
大林晃平: ファセル ヴェガを愛していた女性がいた。雰囲気も佇まいもこの車に本当にぴったりで、ファセル ヴェガの名前を聞くたびに、その人のことだけ思い出してしまう。ノーブルで、崇高な雰囲気を持ちながらもどこか妖艶、そんなファセルは乗り手を激しく選ぶ車だと思う。誰でもが似合わうわけではない、オーナーを限定する自動車、今の世の中にこういった雰囲気のクルマはない。そしてファセルの成り立ちを理解したものだけが許される世界なのだろう。
フェラーリ250GTO: 1962年から1964年にかけて製造された「250GTO」は、フェラーリで最も成功した高価なグランツーリスモと言われている。セブリング12時間レース、タルガフローリオ、スパ1000キロ、ニュルブルクリンク、1962/1963年のル・マン24時間レースでの2連覇、これらの年のGT世界選手権など、すべてが、そしてすべてがこの素晴らしい車を物語っている。
大林晃平: 「GTO」も登場から60年、といってもまったく古さを感じさせないのか、それとももっと古いクルマと思っていたのか、人によって印象は異なる。昨今では、「世界一落札価格の高い自動車の定番」で、ホンダジェット3機分くらいのお金が必要だ。写真のクルマにはミラーがついていないが、この当時の「GTO」では「よくあること」であって、「これが正しい姿」で、気にしてはいけない(そもそも手作りなので、ディテールの処理やサイズなどは一台一台異なっているという)。
フェラーリ275GTB: 1964年のパリモーターショーで、フェラーリは新しいタイプナンバーを発表した。新しい「275」は、3.3リッターV12エンジンを搭載し、フェラーリとしては初めて、バックリジッドアクスルの代わりにリア独立懸架を採用していた。空力的に平滑化されたフロントエンドとプレキシグラス製のヘッドライトを備えた「275」は、「250GT」よりもはるかにモダンな印象を与える。
大林晃平: そのキャラクターでたくさんの人に愛されたモータージャーナリストであった、故川上 完さんがいうところの「もっとも美しいフェラーリ」。よりエレガントではあるが、レーシーな魅力では「250」に軍配があがる。いずれにせよ、今では十億円以上は当たり前、の高価格車。芸術品レベルとしての存在である。
フェラーリ365GTB4デイトナ: 1968年に発表された「365GTB4」は、まるで別の星から来たようなデザインだった。飾り気がなく、表面が滑らかで、ワイドでフラット。ファンの間では「デイトナ」と呼ばれていたが、これはデイトナ24時間レースでの勝利に由来する。しかし、フェラーリがこの名前を公式に使うことはなかった。
大林晃平: 圧倒的に支持する人も多い「デイトナ」。レプリカも多数生まれ、そのうちの一台は、映画『マイアミバイス』で活躍していた。かつてカーペンターズのLPジャケットにも登場したが、あれはカレンの兄の、リチャード カーペンターの愛車であった。
フェラーリ500スーパーファスト: この車は名前がすべてを物語っている。空力的に最適化されたボディワークにより、5リッターV12エンジンを搭載した「500スーパーファスト」は、280km/h以上のスピードを出すことができた。1964年から1966年にかけて、わずか36台しか製造されなかった。道理で、購入価格が60年代に10万ドイツマルク(約650万円)近くもしたわけだ!
大林晃平: その名も「超速い」フェラーリ。当時の280km/hというのは、まさにマッハクラスで、100km/hがやっとだった日本車には異次元の世界だったであろうから、その名前も伊達ではない。36台しか生産されていないため、めったに市場には出てこないが、「250」よりは、ちょっと安いくらいが相場だ。

Text: Lars Busemann
加筆: 大林晃平
Photo: autobild.de