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【80年代のドイツ車物語】写真で振り返る80年代のドイツ車×80台超! アウディ、BMW、ベンツ、ポルシェ、VW等勢ぞろい! 前編

2023年5月7日

エスコートXR3iで、フォードはゴルフGTIのニッチに参入することを望んでいた。ラリールックのヘッドライトを追加し、コンパクトレーサーに必要な追い越しの威信を与えた。100馬力を超えるパワーは、XR3iを立派なパフォーマンスへと導いた。
大林晃平: エスコートは、地味だけれど良い実用車の見本のような一台。その後に発表されるフォーカスもそうだが、決してフォルクスワーゲンなどに劣らないばかりか、優れた部分が多くあるのに、日本ではブランドとして過小評価されているのが残念。写真のカブリオレもゴルフの好敵手だと思うし、ハイパフォーマンスモデルはGTIとガチンコ勝負の性能を持っていた。それでも多くのエンスージャストは、つい、華のあるゴルフGTIを選ぶのが通例だったが・・・。
Photo: Christian Bittmann
1982年、タウナスに代わってシエラが登場したとき、フォードはついにバロック的な冷蔵庫のデザインに終止符を打った。その抗力係数0.34は印象的だった。ケルンで1世代飛び越えたと思われても仕方がない。
大林晃平: このころは、Cd(空力)競争が勃発していて、当時、0.34というのは確かにセールスポイントであったと思う。(今は、0.3は切ってて当たり前な世の中である)。確かに今見ても古くさくないデザインであるし、ダッシュボードデザインなども飾らず機能的で、なかなかいい感じで個人的には好き。日本でもごくたまに東京の街でみかけたことがあるが、アウディ100に劣らないほど未来的であった。
Photo: Roman Raetzke
1993年に、”ワールドカー”モンデオに取って代わられるまで、270万台のシエラが製造された。3ドア(写真)からエステートまで、さまざまなモデルがあった。最もホットなのは、コスワースが開発したハイエンドモデル、2リッターターボエンジンを搭載した「シエラ コスワース」だ。204馬力のターボエンジンは、とてつもない威力を発揮した。
大林晃平: フォードの主力車種がこのシエラ。シエラマウンテンのシエラ、である。エンジンバリエーションは最低限のしょぼいモデルから、コスワースのドッカンターボまで様々ではあったが、もちろんボリュームゾーンは最低限の排気量か、その上ぐらいのアンダーパワー上等、くらいのモデル。それに4MTを組み合わせて、エアコン・パワステなし、といった車種が当たり前であった。
Photo: Uli Sonntag / AUTO BILD
スコーピオは1985年にABSが標準装備された。トランジットを除く最大のフォードは、13年間ポートフォリオに残り、リクエストに応じた多くの装備とパフォーマンスで印象付けた。
大林晃平: 実はヨーロッパにおいて、当時の様々な賞を総なめで受賞したのがこのスコーピオ。なかなか先進的な設計で、フラッシュサーフェイスのボディは、Cd値も低かった。よくスコーピオンと勘違いされるが、スコーピオ、と「ン」はつかないのでお間違えなく。
Photo: Klaus Kuhnigk
1984年、ドイツでの3代目カプリの販売は終了した。そして、60年代のアメリカのポニーカーブームを再現しようとする試みも行われた。当初、ヨーロッパのマスタングは、確かにその兄弟車の成功に匹敵することができた。
大林晃平: カプリの語源はもちろんカプリ島のカプリ、ということはちょっと洒落て明るい島、という意味合いも込められているのだろう。確かに他のフォードからすればなかなかお洒落ではある。残念ながら日本で見かけることは当時も皆無。今入手したければ・・・。ヨーロッパの片田舎で使い古された(か、あるいはジャンクヤードにあるか)一台を見つけるしかないかも。
Photo: Werk
メルセデス190(W201)の発表で、メルセデスの価値観が高まると期待した人は間違いだった。精巧な技術、高い安全基準、最高レベルの品質、どれをとっても、他のベンツと同じだったのだ。
大林晃平: この当時のメルセデス・ベンツは、W201、W124、W126と、名車が惑星直列のように並び、そのどれもが優秀かつ実用的な自動車であった。写真はサッコプレートのついた後期モデルのW201だが、それでもリアシートにヘッドレストが見当たらず(当時はオプション扱い)、柔らかい素材のホイールキャップであることに注意。この写真からも、ドアミラーが非対称であることもわかる。こういう理由のある機能性が、このころのメルセデス・ベンツの特徴だった。
Photo: Toni Bader
発売後まもなく、メルセデスはフューエルインジェクションエンジンを追加した。標準の190はまだキャブレターとして生産ラインから出荷されていた! 伝説: 75馬力の190Dは、7桁の走行距離を記録した。1993年までに180万台のW201が工場から出荷された。
大林晃平: W201の本来の姿はこの上の写真のようなモデル。写真のW201はサッコプレートのつかない前期モデルだが、当時の本国ではパワーウインドウもオプションだったし、ホイールキャップ、黒バンパーに布シート(写真のモデルにはリアヘッドレストさえついていないのに注意)が標準、みたいなシンプルな実用車。こういう実用一点張りのメルセデス・ベンツ、もう今のラインナップには一台も見当たらないのが残念である。
Photo: Roman Raetzke
先駆的な役割を果たした「ベビーベンツ」: W201は、その後10年間のメルセデスの路線を先取りしていた。1983年、スワブ人は190をさらに研ぎ澄まし、190 E 2.3-16(写真)というデコボコした名称を与えた。
大林晃平: コスワースの特別なエンジンを積んだ2.3‐16(と2.5‐16)。最初は街で見かけると、その日がラッキーに感じられるほど珍しかった・・・のだが、のちのちオートマチックトランスミッションが組み合わされたりして、ちょっと路線をスポーツカーから、スポーティ&ラグジュアリーに変更し、それが今のAMGをはじめとするメルセデス・ベンツの高性能モデル路線の発端となったような気がする。その頃人気絶頂だった羽賀研二が、BMW M6と2台同時購入したことで有名になった。
Photo: Roman Raetzke
メルセデスは、年金生活者ルックのレーシングカーに好意的な意見を多く得た。とはいえ、多くのメルセデス・ドライバーは、トランクリッドのエアロパーツに慣れる必要があった。1988年までに、19,500台の190E 2.3-16が生産ラインから出荷された。
Photo: Roman Raetzke
大林晃平: 写真は2.3-16、ということは前期のモデル(サッコプレートは、前期(2.3)、後期(2.5)に関わらず装着されていた)。高価格にも関わらず、結構な台数が日本にも輸入されたが、最初期の一台を、「愛読者からのありがたいお申し出」を受け、CG誌の小林彰太郎さんが慣らしを兼ねてテストし、雪解け水で泥だらけになりながら、いつものコーナーを抜けていたショットが懐かしい。なお初期はMTのみだったが、のちのちATも追加された(だがコスワースの高性能エンジンにオートマチックトランスミッションかぁ、とちょっと当時は違和感を覚えたものだった)。
185馬力の2.3-16は始まりにすぎなかった。その後、メルセデスはさらなるアップグレードを施していった。1992年には、強大なウイングを装着した190E 2.5-16 EVO IIがDTMシリーズを制覇した。
大林晃平: DTM全盛の時代、このW201 2.5‐16とBMW M3が、それはそれは熱いバトルを繰り広げていたものだった。今は無き恵比寿のミニカー専門店「ミスタークラフト」のショーケースには、一面DTMのミニカーが並び、実に細かい差異まで表現され、マニアの琴線をくすぐっていた、写真の車の「SONAX」や、「BOSS(といってももちろん缶コーヒーではなくファッションブランド)」のステッカーが妙に懐かしい。それにしても、あの頃のような熱いDTMやF1のようなカーレース、カーボンニュートラルだなんだと、複雑な要素が取り巻く今、いったいレースの世界はこれからどうなっていくのだろう。
Photo: Daimler AG
1984年に登場したメルセデスW124は、特大の足跡をたどることになった。先代のW123は270万台近くも売れたのだ。メルセデスの記録である! 当初、タクシードライバーは品質上の欠陥に不満を抱いていた。
Photo: Toni Bader
大林晃平: 今でも名車の誉れの高いW124。写真の一枚は初期のモデルに、後期のアルミホイールセットを組み合わせたものだが、本来ならば初期モデルには、もっと細かくコストのかかったアルミホイールがオプションで用意されていた。前期と後期モデルでは、そのように全体的にコストダウンもされており、前期モデルのほうが部品の肉厚も立派だったりする部分もある。だが細かいトラブルに関しては、後期モデルのほうが少なく、そういう意味では過剰な部分を取り去りながらも、不具合個所をきちんと直す、というモデルチェンジを施されていたといえる。
メルセデスは綿密な改良を加え、1993年までに約260万台を販売した。そのうち34万台がエステートモデル(写真)であった。ディーゼルエンジンの200D(72馬力、後に75馬力)から320馬力の500Eまで、メルセデスはあらゆるテイストの車を提供した。
Photo: Angelika Emmerling / AUTO BILD
大林晃平: W124のTモデルのコード番号はS124。写真は後期モデルのAMGで太いタイヤホイールと、角張ったエグゾーストパイクがいかにも悪っぽい雰囲気だ。写真の色の名称はウイローグリーン、柳の緑色はドイツ人にはこういう感じに見えるらしい。
W124は、サルーンやエステートとしてだけでなく、長期的なクオリティを提供した。よりプライベートな走りを求める人は、クーペを選択することができた。コンバーチブルは、モデルサイクルの終盤に登場した。
大林晃平: クーペモデルのC124。こちらもホワイトのウインカーレンズに小さくなったグリルを持っていることから後期モデルとわかるが、サッコプレートは前期と後期を問わず装備されていた。前期モデルでもステアリングホイールの径が、4ドアモデルとクーペでは異なると言われていたが、残念ながら未確認。それにしても、手前の木いちごのような枝(枯れていたりしてきれいとは言えない)くらい、撮影の時にはどけてほしい。
今でも熱烈な愛好家が多いW124。確かに乗ってみれば滑らか、かつ重厚感のある乗り味であり、今のメルセデス・ベンツでは味わえない世界を持っている。セダン、ワゴン、クーペ、カブリオレ、6ドアモデル(!)とバリエーション豊富。さらにエンジンの組み合わせで無数に様々なモデルが存在する。もちろん500Eなども神様扱いされることに反対はしないが、今もアフリカの片田舎で使われているはずの、100万kmくらい走りぬいたタクシーのW124あたりが、本来メルセデス・ベンツが意図した使われ方なのかも・・・。
Photo: Aleksander Perkovic
80年代、国家を背負う自動車に興味を持つ者は、メルセデスのW126を避けて通ることはできなかった。IAA(フランクフルトモーターショー)でダイムラーは、先代よりも派手さを抑え、経済的で、しかもパワフルなニューモデルを発表した。
Photo: Toni Bader
大林晃平: 日本ではあまり見かけないマルーンのW126。上品でなかなか良いと思うのだが、今やこういう色のメルセデス・ベンツなど、すべてのラインナップで皆無になってしまっているのは残念というか、時代が変わったというべきか・・・。上等なつくりのヘッドランプワイパーが備わっているのも、この時代のメルセデス・ベンツらしい。写真から推測すると、この一台はSELではなくSEと思われる(リアドアが小さめ)。
スパーからスーパーへ: メルセデスは直列6気筒とV8エンジンを搭載したSクラスを発売した。エントリーグレードは166馬力の260Sで、当時の技術的に実現可能なのは300馬力の560SELであった。
大林晃平: SクラスらしいSといえば、このW126かW116ではないだろうか。特に126は日本がバブル全盛のころの自動車であり、最上級モデルの500・560がガンガン並行輸入されたり、ドゥシャレットなどが豪華絢爛に開場したキャラットメルセデスなどが、ブーメランアンテナを背負って六本木をブイブイ走っていたりと、そんな時代であった。
だがSクラスの本質はそんなところにあるわけもなく、本来は300SEとか300SDあたりのモデルを最上級実用車として使うのが正しいのになぁ、と思いつつ、冷めた目で見送っていた大林少年であった。写真も上品な色の後期モデルだが、ナンバーから推測するとおそらく420SEか。
Photo: Holger Neu / AUTO BILD
1981年、フランクフルトで開催されたIAA(モーターショー)で、Sクラスクーペがデビューした。より美しく、より良く、より高価に: C126で、メルセデスは大型クーペをSクラスの上位に位置づけるという長い伝統を引き継いだのである。SECは8気筒エンジンのみの設定であった。
大林晃平: 個人的にメルセデス・ベンツのクーペの中で一番好きなのが、このC126(ホイールの形状から推測すると前期モデルだろうか)。R129SLよりも、リッチさではこちらの方が上だと思う。写真でもちらっと見えるが、ドライバーズシートの首のあたりから、シートベルトが装着しやすくなるように、電動でサポートしてくれるアームが装備されていたのにも憧れたものである。80年代、故松方弘樹が愛用し、太秦に通うときに使っていたのがこのSECで、そういう使い方が実に似合っていた。そしてその頃のスターと同じように、自分の住む世界とは全く次元の違う世界に存在しているような自動車がこのころのメルセデス・ベンツだった。
Photo: Ruddies
1989年、古くなったR107に代わり、R129が18年の時を経て登場した! 当時のテスターは「世界で最も優れた車」と称した。デザイナー、ブルーノ サッコが手がけたこの高級コンバーチブルは、技術革新でも輝きを放っていた。例えば、Aピラーは横転時に座屈しにくい構造で、ロールバーは0.3秒で跳ね上がる。R129には、SクラスシリーズW140とW220の6気筒、8気筒、12気筒のエンジンが搭載されていた(1998年以降)。
大林晃平: このR129のSLが出た時のインパクトは、今のAMG SLの比ではない(個人比で、だが)。すべてが完璧で、特に安全性への配慮と、みっちり詰まった質量感は、メルセデス史上でも特記されるものであったと思う。バブル全盛期、このSLも取り合い状態になり、かなりの数の並行輸入車がプレミアム価格で取引された。個人的な思い出だが、91年の冬、青山の中華料理屋さんの前に出たばかりのSLがとまっており、店に入っていくと、そこにいたのは徳大寺有恒先生で、店の前に止まっていたのは徳大寺先生が所有しているSLなのであった。緊張しながらサインをいただいたことを思い出す。
写真は後期モデルだが、個人的には前期モデルで、チェック柄の布シートの個体が一番好き。
Photo: Christian Bittmann / AUTO BILD
その時代が終わったのは1981年。1970年代の終わりには、ローマ法王と一握りの退廃的なロックスターだけが、手作りのメルセデス600で移動するようになっていたのだ。メルセデスはW100で儲けることはなかったが、名声を得ることはできた。
大林晃平: W100こと、メルセデス・ベンツ600が80年代・・・とは驚くしかないが、少数を作り続けていたのは驚くべき事実。ビートルズのメンバーも愛していたし、新興宗教の教祖なども多数愛用していたと聞く。写真のランドーレットは珍品の中の珍品だが、幌ももちろん油圧作動なのでトラブルは必至だろう。最近大富豪が、600ランドーレットをフルレストアしたというニュースがあったが、金額はウン億円(もちろんレストア費用だけで)だったという・・・。
Photo: Toni Bader

Text: Matthias Brügge and Lukas Hambrecht and Lars Hänsch-Petersen