自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その3
2025年4月24日

2日目 2月18日(パート2)
シュトゥットガルトは想像以上に大きな街だった。なにしろバーデン-ヴュルテンベルク州の州都で、人口63万人を擁する同州最大の都市なのだ。メルセデス・ベンツ博物館を目指すバスの窓からは、ボッシュやウルトといった自動車関連のメーカーの社屋が見える。「やはりメルセデス・ベンツが本拠を構える所に関連企業が集まってきたのです」とアレックスが説明してくれる。
メルセデス・ベンツ博物館(Mercedes-Benz Museum)の規模も破格に大きい。世界最古の自動車メーカーを自ら標榜する同社の歴史は、1886年に特許を得たカール・ベンツの三輪自動車に遡る。その歴史を語る同博物館の敷地面積は1万6500平方m、常設の展示車両は160台を、展示物は1500点を超える。そのすべてをじっくり観察するにはまる1日あっても足りないだろう。しかるに私たちに与えられたのは約2時間。だからここでは特に印象に残った3台について記すことにしよう。
私たちはまずエレベーターに乗って34mの高さに運ばれた。最上階かららせんを描く緩いスロープを下って行くに従い、過去から現在のメルセデス・ベンツの姿が明らかになっていく。

メルセデス・ベンツ博物館のパンフレットに見る同館の全容。らせんを描く内部の構造を反復すると同時に、未来に向かって上昇する精神を表しているように見える。デザインを手掛けたのはベン・ファン・ベルケルとカロリン・ボスという2人のオランダ人建築家。9階建てで、全高47.5m。2006年5月19日にオープンした。今回訪れた4メーカーの博物館はどれも前衛的なデザインで、建築デザイナーの意図が前面に表れた外観が印象的だった。

同じく同博物館のページから。地上階からエレベーターに乗り一気に最上階に上り、過去から現代にいたるタイムトラベルが始まる。

乗用車はもとより、商用車やレーシングカーにいたるまで、ありとあらゆる自動車を生産してきた歴史を一望のもとに収められる。

陸・海・空を制したメルセデス・ベンツの偉業を表す航空機エンジンの展示。
1936年500 K スペツィアル・ロードスター

500 K スペツィアル・ロードスターのベースになった500 Kは、1930年代のメルセデス・ベンツを代表するグランドツーリングカーだった。1934 年のベルリン・モーターショーにてデビュー以来、1936年までの3年間生産された。
展示車のスペツィアル・ロードスターは、8種類あった500Kのボディバリエーションのなかでもっともエレガントで魅力的との評価を得ている。それだけにもっとも高価で、博物館の説明書きによると当時の価格は2万8000ライヒスマルクだったという。当然ながら500Kは今日すこぶる高額で取引されており、ネット検索したところ、1935年製 500 K “カラッチオラ” スペシャルクーペが413万ドル(約 6億1800万円!)で落札されたとRMサザビーズは伝えている。
500Kスペツィアル・ロードスターは製作されたすべてが顧客のリクエストに応えたワンオフだ。ジンデルフィンゲン工場内部にある特別車両製造部にて、ヘルマン・アーレンスという人物のリーダーシップの元、1台ずつ世界最高峰のクオリティをもって仕上げられた。
搭載するM 29型エンジンは5リッターのストレート8で、スーパーチャージャーが過給した。従って車名の“K”はKompressorの頭文字である。 フルスロットル時の最高出力は100 hp/3400rpmだが、そこからさらに踏み込むと160hpにまで跳ね上がった。最高速は160km/h。
サスペンションは前:ダブルウィッシュボーンにコイルスプリングとダンパーの組み合わせ、後:ダブルジョイント・スイングアクスルで、路面保持性能は1920年代の同社製品から格段に進歩した。博物館の説明書きによると、500 K スペツィアル・ロードスターの製作台数はわずか34台、その希少性と歴史的価値が際立つ。
300SL (1954~1957年)

全長x全幅x全高: 4520 x 1790 x 1300mm。車両重量: 1160kg。トランスミッション: 4 速フルシンクロ。公表最高速: 235km/h(最終減速比3.64の場合)。公表0-100km/h加速: 8.7秒。自動車専門誌『Car グラフィック』は1962年の創刊号で300SLの動力性能を計測しており、0-120km/h加速: 8.2秒を実測している。これを見ると、メルセデスの0-100km/h加速公表値は控えめに思える。
第二次世界大戦が終わって数年を経た1950年代始め、メルセデス・ベンツはモータースポーツへ復帰する準備を着々と進めていた。その第一弾として完成したのが純レーシングマシンの300SL。端的に言って、生産型の300SLはその市販型である。モデル名が同じで紛らわしいので、本稿では便宜的にレース版を「プロトタイプ」、市販版を「クーペ」と表記する。
プロトタイプの設計を主導したのは、かのルドルフ・ウーレンハウトだった。彼は戦時中から多鋼管スペースフレームの利点に注目しており、プロトタイプに躊躇なくこれを採用した。薄肉の鋼管を溶接して立体的に組み上げたこのシャシーは、軽量にして無類のねじれ剛性を発揮し、まさに新時代のスポーツカーに相応しい骨格だった。鋼管スペースフレームはボディのサイド部分も構成したため、通常の前ヒンジドアでは開口部が足りず、代わりに上方に開くドアにせざるを得なかった。左右ドアを跳ね上げた姿が、ちょうどカモメが翼を拡げたようなのでガルウイングと呼ばれた。
エンジンは直列6気筒のSOHCで、3基のソレックス・キャブレターを備え、2996ccの排気量から173.25hp/5200rpmを生み出した。

300SLプロトタイプは1952年のレースシーズンから実戦に投入された。5つの主要スポーツレーシングレースに出場し、4つのレースに優勝、そのうち3つは1-2フィニッシュという望外な好成績を収めた。ハイライトは2つある。まずはルマン。本命のジャガーCタイプが早々にリタイアしたあと、先頭に立ったのはタルボを駆るピエール・ルヴェーというフランス人ドライバーだった。ルヴェーはドライバー交代なしに24時間を単独で走ろうとするが、過労のため23時間目にシフトミスを犯し、あえなくレースから脱落。結局、24時間を通じて精密機械のように周回を重ねた300SLプロトタイプが1位、2位を独占した。
2つ目のハイライトは最終戦のカレラ・パナメリカーナ・メヒコ。エルパソに近いアメリカ国境からメキシコを縦断し、グアテマラ国境にいたる総長3371kmに達する壮大な公道レースだ。このレース、ルイジ・キネッティが駆るフェラーリと先頭争いを演じたすえ、300SLが1位、2位を占めた。1位のカール・クリングは平均165.01km/hという信じがたいペースで3000km超の公道レースを制したのだった。

ガルウイングドアゆえサイドウインドウは固定式。その対策としてエアアウトレットがリヤウインドウ上に設置されているが、どれほどキャビン内の換気を助けただろう。300SL登場当時、車載エアコンの発想はなく、コクピットは相当な高温になったと思われる。これで24時間レースを走った昔のレーシングドライバーはタフだった!
翌1953年、ウーレンハウトのチームは来たる1954年レースシーズンに備えると同時に、市販型クーペの開発に専念した。市販型の開発で最大のテーマは、ズバリ、公道走行に適した柔軟性に富んだエンジンの開発だった。ここでウーレンハウトは大胆な一手に出る。従来のキャブレターに代わる燃料噴射の採用だ。
キャブレターは吸入気の流速を利用したいわば受動的な気化装置。対して燃料噴射は専用のポンプによって能動的にガソリンを霧化して燃焼室へと噴き出す。エンジン出力を高め、実用走向に耐える柔軟性をもたらし、なおかつ実用に相応しい燃費を実現する理想の策だった。かくして300SLクーペは筒内噴射を搭載した初のガソリンエンジンを搭載することになった。燃料噴射の効果は数字になって表れ、プロトタイプと同じ3L直6から215hp/5800rpm、28mkg/4000rpmを生み出した。
300SLクーペは1954年のニューヨーク・オートショーでデビュー、大きなセンセーションを巻き起こした。1400台が生産されたガルウイング300SLクーペは、今日もっとも望ましいクラシック・スーパースポーツカーとして盤石の地位に就いている。
1935年 グローサ・メルセデス770

770はメルセデス-ベンツが1930年から1943年にかけて、世界最古の自動車メーカーの威信をかけて世に放った大型高級車で、Großer Mercedesの別名で呼ばれることが多い。「より大きな」を意味するこのドイツ語を、我が国では「グロッサー」や「グローサー」など様々な読み方をしているが、ネット上の翻訳ソフトを信じるなら「グローサ」と読むのが一番近いようだ。本稿ではグローサ・メルセデスと表記する。
グローサ・メルセデス770の製造期間は前述の通り、第二次世界大戦(1939~1945年)という激動の時代とオーバーラップする。そうした歴史的背景から、おもに各国元首の足として供された。技術的には1930年~1938年までのシリーズ I (社内呼称W07)と、1938年~1943年までのシリーズ II (同W150)に分けられる。後者は前者のシャシーを今日化し、エンジンを強化した発展型である。ともにエンジンは排気量7655ccの直列8気筒。シリーズIの出力はスーパーチャージャーを備えた770Kの場合、30/150/200ps。30psは課税馬力、150psは実馬力、200psはフルスロットルからさらに踏み込んでスーパーチャージャーを働かせたときのパワーである。そう、当時のメルセデスは豪華極まりないリムジーネにもスーパーチャージドエンジンを搭載して高い技術力を誇ったのだ。ちなみにスーパーチャージャーなしの770の最高出力は150psだった。
このグローサ・メルセデス770は我が国とも因縁浅からぬ関係にある。
昭和7年から10年(1932年~1935年)にかけて宮内庁は、当時、東京・青山北町にあった輸入元ラティエン商会を通して、1932年型と1935年型の計7台のグローサ・メルセデス770を輸入した。皇室の御料車に供するためだ。
7台ともジンデルフィンゲン工場製の標準型プルマン・リムジーネだった。ホイールベース3750mm、シャシーの単体重量だけで1980kg、重厚なボディを架装した車両重量は2.7トンに達する巨体だったが、最高速度160km/hを豪語した。
日本にやって来た7台のグローサ・メルセデスには過酷な運命が待っていた。1台は第二次世界大戦中に消失、2台は戦後、天皇の地方ご巡幸用に後部座席部分をランドー風に改装された後、補修部品用に解体された。1台は1971年頃まで生き延びたが、損傷が激しく解体された。最後まで形に残ったのは3台だけだった。
今日、メルセデス・ベンツミュージアムに展示されているのは1935年型の1台で、1972年以来同ミュージアムの庇護の元にある。ドイツに到着したときの走行距離は9000kmに過ぎなかったという。激動の時代を異国で生き抜いたグローサ・メルセデス770は、37年ぶりに生まれ故郷に戻り、安息の場を得たのである。
付記:『アウトビルト ジャパン』の2021年8月21日付けの記事では、かつてメルセデス・ベンツの輸入元だったウエスタン自動車で働いた経歴の持ち主T氏が、皇室の御料車として働いたグローサ・メルセデスにまつわるエピソードを語っている。興味のある向きは下記URLからご覧いただきたい。
https://autobild.jp/9533/
コラム:アウトバーンで思ったこと
正味6日間でドイツの4大メーカーを含む計6つの博物館を見学する今回の旅は、かなりのハードスケジュールだった。それぞれの博物館がある都市を巡る移動距離も相当なもので、全日程を予定通りに実行できたのは、ツアーコンダクターのK氏とコーディネーターのアレックスによる極めて入念な準備の賜物だ。それとは別に今回の旅を可能にした重要な要素が2つある。アウトバーンと貸し切りの観光バスだ。
朝、ホテルの正面に待っているバスに乗り込み、市中を抜けてアウトバーンに乗り、目指す博物館の入り口に到着。見学を終えるとすぐさま次の目的地に向かう。無駄な待ち時間は一切なし。ドア・ツー・ドア移動の高い効率は公共交通機関の比ではない。仮にこの旅を電車で行おうとするなら、宿泊地から最寄りの駅までの移動手段、電車の発車時間、目的地の駅から博物館までの移動手段を一つ一つ勘案しければならない。おそらく倍の日程を要するだろう。
全日程を通じてアウトバーンで渋滞に巻き込まれなかったのも幸いだった。どのルートも概ねスムーズに流れていた。車間距離が日本よりさらに短い代わり(つまり私の目から見ると完全に危険ゾーン)、大抵のクルマは制限速度内で走っている。ドライバーの法を守ろうとする意識も高いのだろうが、監視の目が厳しいのがおもな理由だろう。時々、追い越し車線をカッ飛んで行くのがいるとは言え、前車の後ろにピタリと着いて威嚇するシーンは見なかった。また追い越し車線を走行中に後方から速い車が迫ってくれば、すみやかに右の走行車線に移るのもスムーズな流れに貢献していると感じた。
一方、都市部の交通となると、事情は一転する。私は今回の旅で一度だけタクシーに乗った。BMWミュージアムからミュンヘン市内のホテルまでだった。市内に入ると途端にひどい渋滞、文字通りbumper to bumperだ。逃げようがない。タクシーの運転手氏は次第にイライラを募らせ、前の車が自分の望むタイミングで発進しないとすかさずホーンを鳴らす。動かないのがわかっていてジリジリと車間を詰めるから、メルセデスの近接センサーが作動して、ノーズ全体が前車に接触寸前だと警告する。見ているこちらがハラハラした。ミュンヘン、コペンハーゲン、マンハッタン、東京。大都市の渋滞は世界共通の悩みのようだ。
Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか
【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。