【あの日に帰りたい】最終回 名車、珍車、スーパーカー&実用車 1960年代のクルマ124選 後編

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サーブ95: 1959年から1978年まで製造された「サーブ96」のステーションワゴンバージョン。フロントは空力的な卵、リアは車輪の上に立つ最も奇妙なお尻で飾られた小さなステーションワゴンだ。フロントの調和は、バックのコーナーとアングルのカオスで終わっている。
大林浩平: 「サーブ95」は「96(初期)」のワゴン、ということは、初期モデルは直列3気筒、後期モデルにはV4エンジンが搭載された。写真ではわかりにくいが、リアコンパートメントに、後ろ向きにランブルシートを持ち、7人乗り。大柄な北欧の巨人が7人乗って、ちゃんと走ったかどうかは不明。
サーブ96: 1960年に登場した「サーブ96」は、1947年の初代サーブの面影を色濃く残している。当初は試行錯誤を重ねた3気筒エンジンを搭載していたが、1967年からはフォードのV4エンジンも搭載するようになった。1962年と1963年に、サーブは「96」でラリーモンテカルロを制覇した。
大林浩平: 信じがたいかもしれないが、サーブはかつてラリーで大活躍したというショット。中でもエリック カールソンはサーブを操った著名なドライバーの一人だが、女性のドライバーも存在するなど、ラリー活躍の一時代を築いたといえる。写真はモンテカルロラリーのものだが、リエージュ ソフィア リエージュ ラリー(100時間!!も走るラリーとして有名)などにも出場している。
サーブ99: 1967年11月、サーブは新開発モデル「サーブ99」を発表した。1968年に最初の車が顧客に届けられる前に、選ばれた個人グループがこの新型サーブをテストすることが許された。その結果、細部に至るまで多くの改良が加えられ、シリーズ化された。
大林浩平: 「サーブ99」、とはいってもバブル期に妙に日本で人気を博した「900」の前身がこの「99」。16年にもわたり作られ、当時には珍しかったターボチャージャー搭載モデルも登場した。ヘッドライトワイパーやシートヒーターなど、北欧車らしい装備も満載。手動式のサンルーフも選べた。
サーブ ソネットII: 「サーブ・ソネットII(1966~1970)」には、2ストロークと4ストロークのバージョンがあった。サーブはフォードからV4エンジンを購入した。このエンジンは非常に頑丈だったが、世界の市場で買えるものの中では最も洗練されていない鈍重なものだった。
大林浩平: こんなクルマもサーブにはあった。中にロールケージが見えるのは、そもそもこの「ソネット」はレース(ラリー)に登場するために開発された、という大人の事情があるためだ。ケロヨンみたいなボディはFRPであったが、正直そのつくりはあまり良くなさそうだし、全体的なフォルムもあまり良くない。
サンビーム アルパイン: イギリスのルーツグループには、サンビームというブランドもあり、1959年から1968年まで「アルパイン ロードスター」が販売されていた。「アルパイン」のトップモデルは、フォード製の4.7リッターV8を搭載し、200馬力を発揮するタイガーであった。「アルパイン」が最も有名になったのは、ジェームズ・ボンドの記念すべき第1作「ドクターノー(Dr. No)」(1962年)である。
(1962).
大林浩平:もちろん「007 ドクター ノー」に、サンビーム アルパインは登場してはいるが、Qが開発した秘密兵器を搭載したボンドカーとして登場したわけではまったくなく、あくまでもちょい役で出演したに過ぎない(写真のカットはもちろん、007からではないし、ミスター ビーンでもない。なんでドアを開けておりないのか、まったく不明)。
タトラ603: 西ドイツではタトラは正式には存在せず、ドイツ民主共和国でも一部の人に限られていた。しかし、ドイツ民主共和国でも、空冷V8をリアに搭載したタトラは、道路上では例外的な存在だった。
大林浩平: タトラはチェコのメーカーで、その名前はスロバキアのタトラ山脈に由来する。乗用車よりもトラック、軍用車両、路面電車等のほうが主流であったとさえもいえる。エンスージャストならば覚えておいた方が良いのは、タトラのハンス レドヴィンカという主任設計者の名前で、これを知っているか知っていないかで、ぜんぜん自慢の度合いが違うといえる。なお写真の「603」も言うまでもなくリアエンジンモデルだが、おそらく不釣り合いな黒いドアミラーはあとでつけたものであろう(ぜんぜん似合っていない、ハンス レドヴィンカも草葉の陰で嘆くであろう)。
トヨタ2000GT: 「世界で最も高価な豆粒」と呼ばれたトップモデルのツイッギーは、そのひょろっとした体型とミニスカートで、新しい美の理想を打ち立てた。「トヨタ2000GT」の前でポーズをとっている。
大林浩平: 「トヨタ2000GT」の解説でもなんでもなく、そもそも写真もモデルにピンがあってしまっているなど、「2000GT」に対して失礼千万な感じではあるが、まあこのクルマに関しては皆様ご存じでしょうから、許してあげてくださいな。
トライアンフ1200ヘラルド: リアには独立懸架、フロントにはラック&ピニオンステアリングを採用し、回転半径はわずか7.60mとフォークリフト並み。1954年(フォード サンダーバード)から1991年(トラバント)まで続いた、台形のフォルムは、現代のエレガンスを約束している。イタリアのスターデザイナー、ミケロッティが手がけたものだ。
大林浩平: トライアンフにはこんなモデルもあった、というべき一台。ミケロッティのデザインと聞いてしまうと、「バランスよく、さすがですなぁ」と思ってしまうが、そうでなければ、まあ普通のデザインな感じにもとれてしまう(端正な感じはやっぱりさすがですけどね)。それにしてもライトの表情など、今のLEDを使ったスポーツカーには求められないあたたかさ、である。
トライアンフ ビテス: 1962年に発表された「ビテス」は、一見しただけではわからないが、真のスポーツカーである。全長3.89メートルの「後期ビテス」に搭載されたのは直列6気筒エンジンで、フロントにはディスクブレーキが標準装備されていた。リムジンのようなスタイリングになった理由: ヘラルドのシートメタルを流用したことだ。
大林浩平: つり目の、いわゆるチャイニーズアイ(中国の女性は、目がつり上がっていると思われていたのだろう)を持つ「ビテス」。デザイナーはジョヴァンニ ミケロッティである。写真のようにオープンモデルもあるが、よりらしいのは、クローズドのほう。さらによりらしいのは、サイドのボディカラーを部分的にツートンカラーにしたモデルであろう。今でもこの車を愛するものも多く、クレージーケンバンドの、ケンさんなどもその一人。
トライアンフ スピットファイヤ: 騒々しく、タフで、開放的で、俊敏な、英国デザインの生粋のロードスターである。1962年に登場した「スピットファイヤ」は、瞬く間にヨーロッパとアメリカでベストセラーとなった。「ヘラルド」の技術を引き継いだのが「スピティ」である。写真は1967年に登場した「スピットファイヤMk III」で、1.3リッターロングストロークエンジンを搭載し、75馬力を発揮する。
大林浩平: 実に1980年まで生産していた「スピットファイヤ」。そもそもは「トライアンフ ヘラルド」をベースに作られた2シーターであった。写真はマークⅡだが、最終的にはマークⅣまで発展し、日本にも阿部モータースによって輸入されたので、覚えている方も多いだろう。
トライアンフTR4: 1961年、老朽化した「TR3」に代わって登場した「TR4」。英国車としては初めて完全同期式4速トランスミッションを搭載した。ラック&ピニオンステアリングを採用し、正確なハンドリングを実現した。1965年までに約43,600台の「TR 4」が生産されたが、そのうち英国に残ったのはわずか2,600台だった。
大林浩平: いわゆるカニ目、「トラ3」に代わって登場した「トラ4」は、カニから一転、猫のような顔つきになった。結局「TR」は1980年代の7まで続くが、イギリスらしいのはやはりこの時代だろう。デザイナーはもちろんジョヴァンニ ミケロッティで、2リッターのエンジンはなかなかパワフルであった。ドイツナンバーの写真の車は左ハンドルだが、アメリカに3万台以上輸出されたことから推測しても、右ハンドルモデルは少数派である。
ボルボP142/P144/P145: 1966年、「ボルボ アマゾン」よりも大幅に余裕のあるサイズの新型ボルボミッドサイズカーが登場し、1968年まで継続して提供された。ディスクブレーキ、デュアルサーキットブレーキ、パッド入りの内装などで安全性を高めている。6桁のオドメーターが長い耐用年数を示している。
大林浩平: 通称日本では「イッチョンチョン」と呼ばれた「144」。写真は2ドアの「142」で、当時のボルボは、2桁目がエンジンの気筒数(つまりこれは4気筒)で、最後の数字がドア数(4がフォードアセダン、5はワゴン)。実に上品な雰囲気で、日本でも開業医のお医者さんの家に停まったりしていた。写真もスパイクタイアを履いて、仲良さそうな家族が雪上ドライブするカット。
ボルボ164: 1968年、ボルボは「P164」で高級車の仲間入りを果たした。フロントエンドが延長された以外、ボディは「P144」と同じであるが、「P164」は、当初130馬力の3リッター直列6気筒を搭載した。
大林浩平: 「164」、ということは6気筒モデルの4ドアだが、「144」と比べるとはるかに上級モデルという雰囲気である。ボルボ伝統の、「タスキがけ」のフロントグリルは、この164からスタートし、このあとしばらくボルボのアイデンティティとなった。完成間近の一台がライトなどの最終点検を受けている。
VW 1200: 1960年代のドイツで最も売れた車が「ビートル」である。1960年、「ビートル」には、昔ながらのウィンカーの代わりにターンシグナルシステムが搭載され、1965年には「タイプ1」プログラムを拡大して40馬力の「1300」を、1967年には44馬力でフロントディスクブレーキを搭載した「1500」がビートルのラインナップの頂点に立った。写真はその時のもの。VW 1200(34馬力)。
大林浩平: 言うまでもなく自動車の歴史上、絶対に忘れられることのない一台。日本にもヤナセが輸入し、良い家のファミリーカーとしても愛用された。同級生でかわいいことで有名だった「まややん」の家も、水色のフォルクスワーゲンだったが、緑色のコーナーポール(通称ヘタクソ棒)も素敵だった。
VW 1500: VWは、ビートルだけでは永続的な成功は望めないと考えていて、1961年、「ビートル」に兄貴分の「1500(工場名:タイプ3)」が誕生した。プラットフォームフレーム、空冷リアエンジン、2つのトランクという技術は同じだ。しかし、ポンツーンボディは、「ビートル」よりも広いスペースを確保している。価格は6400ドイツマルク(約42万円)だった。
大林浩平: いってみれば、「フォルクスワーゲン カブトムシ」を強引にノッチバックにした車。より普通の自動車に近くなった分、オリジナルの魅力は薄れてしまい、皮肉なことに本家の「フォルクスワーゲン ビートル」よりも短命に終わってしまう結果となる。やはり世の中、なんでもオリジナルが一番という好例。
VWカルマンギア タイプ14: 小型の「カルマンギア」は、当時の流行の先端を行くものであり、特にオープンカーは、女性を中心に人気を博した。生産台数の半分以上がアメリカに送られ、50馬力が限界だった低速エンジンにもかかわらず、熱烈なファンコミュニティが形成された。1974年には、443,466台が生産された。
大林浩平: 「カルマンギア」という名前を、あえてもう一度解説しておくと、ドイツのコーチビルダーである「カルマン」がそもそもの車を企画し、それをイタリアのカロッツェリアである「ギア社」がフォルクスワーゲンのコンポーネントを使ってデザインした車、なので、カルマンギアである(実際の生産はカルマン社)。
小学校時代、担任の沖田 侃先生はある日いきなり、「サバンナ」から中古の「カルマンギア」に乗り換え、学校に乗りつけた朝は、我々にとっての一大スターとなったものだった(写真のオープンモデルではなく、クーペだったが)。
VWカルマンギア タイプ34: 大型「カルマンギア(1961~1969)」のボディ形状は、シボレーのコルベアから大胆にパクっており、GMから盗用の疑いで訴えられる恐れがあったため、アメリカでは正式に販売されなかった。
大林浩平: 「フォルクスワーゲン カルマンギア」は、1955年から1975年まで、20年間も作られたが、その途中にはこの「タイプ34」のような、やや異端なモデルもあった。確かにこのシルバーのボディカラーに塗られてしまうと「シボレー コルベア」の雰囲気も感じられるが、十分にスタイリッシュで流麗なクーペに思える(しかし、アメリカに輸出しなければ、裁判にはならなかったのだろうか??)。
VWタイプ181: ドイツ軍のために開発された「クーリエカー」、「VW181」が1969年に生産開始。「ビートル」譲りの1.5リッターボクサーエンジン(44馬力)を搭載。安価なファンカーとして人気を博した。折りたたみ式のフロントガラスと取り外し可能なドアは、新鮮な空気を無限に楽しむことができる。
大林浩平: 「フォルクスワーゲン ビートル」は様々に形を変えた。「タイプ181」は、メキシコでも生産され、リゾート地などでも珍重され、高級ホテルの敷地内移動車としても多数導入されたが、その場合、フロントグリルを前にぱたっと倒して、風を感じる形態で使用されることも多かった。蛇足ながら少数生産された右ハンドルモデルは、「182」と呼ばれる。
VWタイプ2 T2: VWトランスポーターの第2世代である「T2」がハノーバーの生産ラインから出荷された。分割できないフロントガラス、10cm長いボディ、標準装備のスライドドア、改良されたシャシー、最大50馬力のボクサーエンジンを搭載。
大林浩平: こういうコンテンツの終わりはいつもVWタイプ2・・・。それほどドイツ人にとってこの車とフォルクスワーゲンは生活に根ざしたクルマなのだろう。写真は、なにかを測定しているスナップだが、古めかしい測定機器をいじっている車内のエンジニアがつなぎでも白衣でもなく、パープル系のコートとジーンズなのが可笑しい。

Text: Lars Busemann
Photo: autobild.de