【あの日に帰りたい】最終回 名車、珍車、スーパーカー&実用車 1960年代のクルマ124選 後編
2021年9月15日


大林浩平: 「サーブ95」は「96(初期)」のワゴン、ということは、初期モデルは直列3気筒、後期モデルにはV4エンジンが搭載された。写真ではわかりにくいが、リアコンパートメントに、後ろ向きにランブルシートを持ち、7人乗り。大柄な北欧の巨人が7人乗って、ちゃんと走ったかどうかは不明。


大林浩平: 信じがたいかもしれないが、サーブはかつてラリーで大活躍したというショット。中でもエリック カールソンはサーブを操った著名なドライバーの一人だが、女性のドライバーも存在するなど、ラリー活躍の一時代を築いたといえる。写真はモンテカルロラリーのものだが、リエージュ ソフィア リエージュ ラリー(100時間!!も走るラリーとして有名)などにも出場している。

大林浩平: 「サーブ99」、とはいってもバブル期に妙に日本で人気を博した「900」の前身がこの「99」。16年にもわたり作られ、当時には珍しかったターボチャージャー搭載モデルも登場した。ヘッドライトワイパーやシートヒーターなど、北欧車らしい装備も満載。手動式のサンルーフも選べた。

大林浩平: こんなクルマもサーブにはあった。中にロールケージが見えるのは、そもそもこの「ソネット」はレース(ラリー)に登場するために開発された、という大人の事情があるためだ。ケロヨンみたいなボディはFRPであったが、正直そのつくりはあまり良くなさそうだし、全体的なフォルムもあまり良くない。

(1962).
大林浩平:もちろん「007 ドクター ノー」に、サンビーム アルパインは登場してはいるが、Qが開発した秘密兵器を搭載したボンドカーとして登場したわけではまったくなく、あくまでもちょい役で出演したに過ぎない(写真のカットはもちろん、007からではないし、ミスター ビーンでもない。なんでドアを開けておりないのか、まったく不明)。

大林浩平: タトラはチェコのメーカーで、その名前はスロバキアのタトラ山脈に由来する。乗用車よりもトラック、軍用車両、路面電車等のほうが主流であったとさえもいえる。エンスージャストならば覚えておいた方が良いのは、タトラのハンス レドヴィンカという主任設計者の名前で、これを知っているか知っていないかで、ぜんぜん自慢の度合いが違うといえる。なお写真の「603」も言うまでもなくリアエンジンモデルだが、おそらく不釣り合いな黒いドアミラーはあとでつけたものであろう(ぜんぜん似合っていない、ハンス レドヴィンカも草葉の陰で嘆くであろう)。

大林浩平: 「トヨタ2000GT」の解説でもなんでもなく、そもそも写真もモデルにピンがあってしまっているなど、「2000GT」に対して失礼千万な感じではあるが、まあこのクルマに関しては皆様ご存じでしょうから、許してあげてくださいな。

大林浩平: トライアンフにはこんなモデルもあった、というべき一台。ミケロッティのデザインと聞いてしまうと、「バランスよく、さすがですなぁ」と思ってしまうが、そうでなければ、まあ普通のデザインな感じにもとれてしまう(端正な感じはやっぱりさすがですけどね)。それにしてもライトの表情など、今のLEDを使ったスポーツカーには求められないあたたかさ、である。

大林浩平: つり目の、いわゆるチャイニーズアイ(中国の女性は、目がつり上がっていると思われていたのだろう)を持つ「ビテス」。デザイナーはジョヴァンニ ミケロッティである。写真のようにオープンモデルもあるが、よりらしいのは、クローズドのほう。さらによりらしいのは、サイドのボディカラーを部分的にツートンカラーにしたモデルであろう。今でもこの車を愛するものも多く、クレージーケンバンドの、ケンさんなどもその一人。

大林浩平: 実に1980年まで生産していた「スピットファイヤ」。そもそもは「トライアンフ ヘラルド」をベースに作られた2シーターであった。写真はマークⅡだが、最終的にはマークⅣまで発展し、日本にも阿部モータースによって輸入されたので、覚えている方も多いだろう。

大林浩平: いわゆるカニ目、「トラ3」に代わって登場した「トラ4」は、カニから一転、猫のような顔つきになった。結局「TR」は1980年代の7まで続くが、イギリスらしいのはやはりこの時代だろう。デザイナーはもちろんジョヴァンニ ミケロッティで、2リッターのエンジンはなかなかパワフルであった。ドイツナンバーの写真の車は左ハンドルだが、アメリカに3万台以上輸出されたことから推測しても、右ハンドルモデルは少数派である。

大林浩平: 通称日本では「イッチョンチョン」と呼ばれた「144」。写真は2ドアの「142」で、当時のボルボは、2桁目がエンジンの気筒数(つまりこれは4気筒)で、最後の数字がドア数(4がフォードアセダン、5はワゴン)。実に上品な雰囲気で、日本でも開業医のお医者さんの家に停まったりしていた。写真もスパイクタイアを履いて、仲良さそうな家族が雪上ドライブするカット。

大林浩平: 「164」、ということは6気筒モデルの4ドアだが、「144」と比べるとはるかに上級モデルという雰囲気である。ボルボ伝統の、「タスキがけ」のフロントグリルは、この164からスタートし、このあとしばらくボルボのアイデンティティとなった。完成間近の一台がライトなどの最終点検を受けている。

大林浩平: 言うまでもなく自動車の歴史上、絶対に忘れられることのない一台。日本にもヤナセが輸入し、良い家のファミリーカーとしても愛用された。同級生でかわいいことで有名だった「まややん」の家も、水色のフォルクスワーゲンだったが、緑色のコーナーポール(通称ヘタクソ棒)も素敵だった。

大林浩平: いってみれば、「フォルクスワーゲン カブトムシ」を強引にノッチバックにした車。より普通の自動車に近くなった分、オリジナルの魅力は薄れてしまい、皮肉なことに本家の「フォルクスワーゲン ビートル」よりも短命に終わってしまう結果となる。やはり世の中、なんでもオリジナルが一番という好例。

大林浩平: 「カルマンギア」という名前を、あえてもう一度解説しておくと、ドイツのコーチビルダーである「カルマン」がそもそもの車を企画し、それをイタリアのカロッツェリアである「ギア社」がフォルクスワーゲンのコンポーネントを使ってデザインした車、なので、カルマンギアである(実際の生産はカルマン社)。
小学校時代、担任の沖田 侃先生はある日いきなり、「サバンナ」から中古の「カルマンギア」に乗り換え、学校に乗りつけた朝は、我々にとっての一大スターとなったものだった(写真のオープンモデルではなく、クーペだったが)。

大林浩平: 「フォルクスワーゲン カルマンギア」は、1955年から1975年まで、20年間も作られたが、その途中にはこの「タイプ34」のような、やや異端なモデルもあった。確かにこのシルバーのボディカラーに塗られてしまうと「シボレー コルベア」の雰囲気も感じられるが、十分にスタイリッシュで流麗なクーペに思える(しかし、アメリカに輸出しなければ、裁判にはならなかったのだろうか??)。

大林浩平: 「フォルクスワーゲン ビートル」は様々に形を変えた。「タイプ181」は、メキシコでも生産され、リゾート地などでも珍重され、高級ホテルの敷地内移動車としても多数導入されたが、その場合、フロントグリルを前にぱたっと倒して、風を感じる形態で使用されることも多かった。蛇足ながら少数生産された右ハンドルモデルは、「182」と呼ばれる。

大林浩平: こういうコンテンツの終わりはいつもVWタイプ2・・・。それほどドイツ人にとってこの車とフォルクスワーゲンは生活に根ざしたクルマなのだろう。写真は、なにかを測定しているスナップだが、古めかしい測定機器をいじっている車内のエンジニアがつなぎでも白衣でもなく、パープル系のコートとジーンズなのが可笑しい。
Text: Lars Busemann
Photo: autobild.de