【あの日に帰りたい】名車、珍車、スーパーカー&実用車 1960年代のクルマ124選 中編

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ランドローバー シリーズII: ランドローバーは、1963年から1971年まで「シリーズII」を販売した。初代ランドローバーと比較して、ボディはすべての寸法が大きくなり、エンジンはパワーアップし、1967年からは6気筒も用意された。
大林晃平: 「ディフェンダー」になる前の「ランドローバー」、といえばこの形と顔。より目でシンプルなバンパーが特徴。実用本位の車なのに、幌やミラーがカラーコーディネートされているのが素敵である。
ロータス エラン: 1962年に発表された「ロータス エラン」は、プラスチックボディと中央のチューブラーフレームにより、軽量化と低重心化を実現した。ショートホイールベース、後輪駆動、フォールディングヘッドライト、デュアルオーバーヘッドカムシャフトを採用したパワフルな4気筒エンジンなど、走りの楽しさを徹底的に追求している。
大林晃平: 永遠の憧れの1台、という人も多い「エラン」。かつて「ガレージに置いておきたい究極の2台」という特集企画で、老舗自動車誌の編集部員の多くが、2台のうちの1台として挙げたモデルが「エラン」であったと聞いたことがある。ということはともかく、軽くてシンプル、そんなスポーツの持つ理想を形にするとこうなるという見本だ。
ロータス ヨーロッパ: ヨーロッパは、ロータスの創業者であるコリン・チャップマンが、できるだけ外国製の部品を使ったピュアなGTを構想していたことに由来する。エンジンはルノー16から借用し、82馬力のパワーで665キログラムのヒラメを力強く加速させた。
大林晃平: パン屋のバンと比喩されたように、昔からカッコ悪いクルマだという人も多いヨーロッパではあるが、日本では漫画「サーキットの狼」で伝説的な存在。「スタビを打ったな」というセリフで、スタビライザーを覚えた小学生も多いはず。
マセラティ3500GT: イタリアで最も伝統のあるスポーツカーブランド(1926年創業)が、1957年に発表した「3500GT」は、より快適なグランツーリスモの遺伝子を持っていた。直列6気筒で、当初は220馬力を発揮し、完璧なフォルムのクーペは、トゥーリング社(写真)が、コンバーチブルはヴィニャーレ社が製造している。
大林晃平: ランチアのエレガンスさをさらにスポーティにした感じのマセラティ。「3500GT」は今でいうスーパーカーの範疇に入るような高性能車ではあるが、それでもノーブルな空気が漂う。クーペモデルのほうがその雰囲気は強く、このボディカラーも実に上品。
マセラティ ミストラル: 「ミストラル(またはドゥエ ポスティ= Due Posti)」は、「3500GT」の技術ベースを使用しているが、ホイールベースを短くし、リアアクスルにコイルスプリングを採用している。特徴的なのは、「ミストラル」には、それまでイギリスのスポーツカーにしかなかった、大型のテールゲートが装備されている。クラシックな直列6気筒エンジンを搭載した最後のマセラティ。
大林晃平: 写真のクーペは7年間で820台余りが作られたが、自動車評論家、故徳大寺 有恒氏も所有していた。デザインはピエトロ フルア。名前のミストラルとはフランス南東部に吹く風のこと。
マセラティ クアトロポルテ: 特にアメリカでは、マセラティの顧客は家族に適したセダンを切望していた。1964年、マセラティはこの要望に応え、「クアトロポルテ」を発表した。パワーウィンドウ、パワーステアリング、オートマチックトランスミッションが初めて搭載された。
大林晃平: ちょっとフロントフェイスがアグリーだった初代「クアトロポルテ」、デザイナーはピエトロ フルア。初期モデルと後期モデルがあり、後期モデルは600ccほど排気量が大きくなる。生産台数は500台余り。日本にも輸入され、名古屋に長期に1台が存在していた。ちなみに現在の「クアトロポルテ」は6代目にあたる。
マセラティ ギブリ: 1967年、ジウジアーロがデザインした、スポーティな装いで登場した「ギブリ」。名前の由来は、砂漠の熱い風だ。1967年から1973年まで、クーペとコンバーチブルで展開されたギブリは、傾斜したフラットなフロントが特徴的だ。リジッドリアアクスルを採用したシャシーは、その外観には到底追いつけない。
大林晃平: ジウジアーロのデザインしたギブリ。写真はコンバーチブルだが、クーペは流麗でさらに美しい。「ギブリ」の由来も、もちろん「風シリーズ」だが、「スタジオジブリ」のジブリも、このギブリが語源、読み方が違うだけ。
メルセデス・ベンツ220 SEbクーペ: テールフィン時代の偉大なクーペは、1961年にデビューした。フランス人のポール ブラックがスタイリングを担当し、セダンのプラットフォームを利用して、時代を超えた傑作が誕生した。「W111」は、フロントディスクブレーキを標準装備し、計算されたクランプルゾーンを持つ最初のメルセデスである。
大林晃平: メルセデス・ベンツの中でも優雅な雰囲気の一台、というのもフランス人がデザインしたからで、良くそういうことが当時のメルセデス・ベンツで許された、と妙に感心してしまう。写真にちらっと写っている白いステアリングホイールもスタンダード。
メルセデス・ベンツ280 SE 3.5カブリオレ: エレガントなクーペに加えて、4人乗りのカブリオレも用意された。1969年11月からは、クーペ、カブリオレともに、よりフラットなラジエターグリルが採用され(「フラットラジエターモデル」)、エンジンも3.5リッターV8、200馬力のものが新たに搭載された最上級モデルとなった。1971年、「W111」のクーペとカブリオレの生産は終了する。
大林晃平: 昔からメルセデス・ベンツにはこうした4座のカブリオレが存在し、どのモデルにも全天候型のごつい幌が備わっていたものだった。個人的にはクーペの美しいCピラーがなくなっていることが残念。
メルセデス・ベンツ230/250/280SL: アジアの寺院を思わせるハードトップの形状から「パゴダ」と呼ばれていたパゴダは、1963年に「190SL」と「300SL」の後継モデルとして登場した。内部的には「W113」と呼ばれ、「300SL」のような妥協のないスポーティさはないものの、日常的な使用に適した、かなり快適なモデルであった。
大林晃平: 美しく、上品なカラーのパゴダ。ボディ同色ホイールキャップとホワイトリボンタイア(ラジアルタイヤだ)も相まって繊細な印象さえ受ける。今でもSLといえばこれ、というファンも多い。まだAMGパッケージなど存在しない、旧き良い時代だった。
メルセデス・ベンツ250 S-300 SEL 3.5: 1965年、メルセデスでは、テールフィンが流行遅れとなっていた。デザイナーのポール ブラックは、シンプルで時代を超越したフィリグリーエレガンスを、社内で「W108」または「W109」と呼ばれるモデルシリーズで実現した。テールフィンのプラットフォームと、もはやスイングアクスルのサスペンションはそのままである。
大林晃平: 当時の最新メカニズムを集結した一台。ヘッドライトのデザインも妙に凝っていて、このガラスを当時、品質を保ったまま作るのは大変だったそうである。
メルセデス・ベンツ300 SEL 6.3: 1968年のジュネーブモーターショーで、世界最速の市販セダン「6.3」がデビューした。ボンネットの下には、エリート自動車である「メルセデス600」の記念碑的なV8エンジンが搭載され、エアースプリングを備えた「6.3」は、約7秒で0から100km/hに達した。
大林晃平: スーパーメルセデス・ベンツの始まりはこの車であったといってよい。靴ベラで押し込んだと形容されたV8は強大なトルクを発揮し、ガソリンスタンドから出る時にアクセルを踏み込むとその場でスピンしたという。ハイドロニューマティックのサスペンションが鬼門で、日々のメンテナンスは必須。
メルセデス・ベンツ600: 1963年に発表された巨大な「600」は、それまでの高級車を陰に追いやった。ショックアブソーバーの調整、ドアの閉鎖、窓、サンルーフ、シートの操作は、中央の油圧システムで行うことができた。写真のランドーレットは、わずか59台しか製造されなかった。
大林晃平: 本当の、本物の、まごうかたなきメルセデス・ベンツのリムジンと言えばこれ。複雑怪奇なシステムを持ち、メンテナンスは泣くほど大変。オーナーはもちろん世界の国家元首や、我々がうかつに触れてはいけない層の方々であった。
メルセデス・ベンツ200-250: 1968年、メルセデスはついにテールフィンのバロック時代に終止符を打った。発売年にちなんで「/8」と名付けられたメルセデスは、3年前に登場した「Sモデル」のスタイルを踏襲していた。パッシブセーフティが大幅に強化されたことに加え、セミトレーリングアーム式のリアアクスルを採用した。
大林晃平: 当時はコンパクトメルセデス・ベンツと呼ばれたシリーズ。コードネームは「W113」。ディーゼルエンジンのモデルも、200Dと240Dがあり、後期には5気筒の300Dも追加された。上品でいい雰囲気を持ち、これならメルセデス・ベンツ嫌いの方にも受け入れてもらえるかも、と思えるほどだ。こういうお洒落なボディカラーのベンツを見かけなくなって久しい。今や、白か、黒か、シルバーばかりだ。
MGミジェット: 1961年に登場した初代「ミジェット」は、筋金入りのロードスター純粋主義者のためのクルマだった。1964年に登場した「Mk II」では、スロットインウィンドウに代わってクランクウィンドウが採用され、ドアハンドルも装備されたが、真の英国製ロードスターとしての原始的な性格は失われていなかった。
大林晃平: MGと言えば「ミジェット」、「ミジェット」と言えばMG。そういう意味でもロードスターの世界的なお手本。釈迦に説法ながらMGとはモーリスガレージの略。モーリスギターじゃありません。
MG B: 欲張りな「MG A」の後継車は、1.8リットルの4気筒エンジンで170km/h弱の速度で走ることができた。1962年から1980年までの18年間に約44万台が生産され、世界で最も成功したスポーツカーとなった。生産台数のほぼ80%はアメリカ向けであった。
大林晃平: イギリスよりもアメリカを向いた「MG B」。生産台数も驚くほど多く、まだいまでも現存する数は多い。写真は最近写されたもの(右ハンドル)と思われるが、オリジナルを保った良いコンディションだ。メッキ部分が「MG A」よりはるかに多い。
モーガン4/4: モーガンは1960年代にはすでにクラシックカーとして存在していた。「4/4(写真)」は、ほとんどがトライアンフの4気筒エンジンを搭載していた。1969年、モーガンは、「プラス8」で車の世界を驚かせた。150馬力のローバーV8がロードスターを楽に走らせた。その横方向の加速は今でも印象的だ。
大林晃平: 100年経っても、200年経っても、モーガンはモーガン。保守王国大英帝国の象徴ともいえるが、今でもまだ買えるのにはびっくり(なので、購入する時は、何年モデルなのかをはっきり見極めないと、いつのモデルか、一見さんには判別つかない)。一般的には木のフレームとして知られるが、別にそのすべてが木工ではない。
NSU ヴァンケル スパイダー: 1964年、世界で初めてヴァンケルエンジンを搭載した市販車の生産を開始。フェリックス ヴァンケルが発明したロータリーピストンエンジンは、50馬力を発揮する。しかし、顧客は懐疑的で、1967年までに2,375台の「ヴァンケル スパイダー」が製造されただけだった。
大林晃平: 写真のスパイダーは、500台ほどが作られたが、1ローターのエンジンはコンパクトで、ボンネットを開けるとスカスカの眺めである。ちなみに「ヴァンケル」というのは人名で、フェリックス ヴァンケルというドイツの発明家で、ドイツ海軍の魚雷などの開発に携わっていたが、晩年は動物実験反対運動などに尽力していた。
NSUプリンツ: NSUは、リアに30馬力の2気筒を搭載した経済的な「プリンツ4」に加えて、1967年からは65馬力の4気筒と空冷を備えたホットな「TT」を発売し、60年代の道路交通で武器となった。さらに速いのは、70馬力の「TTS」だった。
大林晃平: こちらはロータリーエンジンではなく、普通の2気筒エンジンを積んだ「プリンツ」。プリンツとはいってもお菓子のことではなく、「プリンス」が語源。25,000台とかなりのヒットを記録し、わが国にもちゃんと上陸、今でもイベントなどで見かけることもある。
NSU Ro 80: 1967年のIAA(フランクフルトモーターショー)を境に、何もかもが普通ではなくなった。NSUは「Ro80」を発表したが、それ以外のものは古いものばかりだった。とても古い。その特徴は、最高のエアロダイナミクス、20年後に標準となったウェッジシェイプ、革新的なヴァンケルエンジン。アウディは、「Ro 80」のために作られた、「技術による優位性(Vorsprung durch Technik)」というスローガンを今でも使っている。
大林晃平: なんとも先進的でクルマで、まるでUFOで飛来した(人間のふりをした)宇宙人のような女性と相まって、未来的な写真である。ということはさておき、実際には、ロータリーエンジンはトラブル頻発で、ちゃんと走らず(おいおい)、レシプロエンジンを搭載されたモデルが追加される顛末となった。

Text: Lars Busemann
Photo: autobild.de