【あの日に帰りたい】 名車、珍車、スーパーカー&実用車 1960年代のクルマ124選 中編

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活気あふれる60年代(その2): フィアットからホンダ、ジャガー、ランボルギーニ、ランチア、ロータス、マセラティ、そしてメルセデス・ベンツまで44台

1960年代のドイツ。ペチコートの代わりにミニスカート、そしてビートルの代わりにコンパクトカー。そして(!)、ハンブルクの港に、初めて日本車が上陸したのも60年代だった。スウィンギングシクスティーズ(Swinging Sixties)のクルマを一気に紹介!

当時はまだ、飲酒運転を禁止するアルコール量の限界値はまだ存在しなかった。
アメリカであらゆる販売記録を塗り替えていた「VWビートル」と同じように、セルフモニター用のパフチューブが大ヒットしていた。
「NSUプリンツ」のデザインは、アメリカでは「シボレー コルベア」に由来している。
そして、1967年、ハンブルクの港にはまったく異なる惑星からの未知なるものが到着する。
1967年、ハンブルクの港に到着したのは、日本からドイツに正規輸入された最初の車、「ホンダS800」だった。
全長3.34メートル、車重760キロ、最高出力67馬力。
さらに、8,750ドイツマルク(約58万円)というわずかな価格も印象的だった。
4気筒で11,000rpmまで回転する。
しかし、ドイツ人は懐疑的で、「ビートル」や「オペル カデット」を好んで購入した。
以下のフォトギャラリーでは、1960年代に、ドイツで走っていたすべての車を、アルファベット順に紹介する。

ユニークでファニーフェイスなクルマがたくさん街中を走っていた60年代のドイツ。
フィアット ディーノ スパイダー: 1966年のトリノモーターショーでは、イタリアの自動車技術を愛する人々にとって、特別な喜びが待っていた。美しい曲線を描くボディはピニンファリーナの作品であり、2リッターV6はフェラーリが供給していた。
大林晃平: ピニンファリーナ作のボディは実にエレガントで美しい。エンジンは2リッターと2.5があったが、後者のみフェラーリ工場で生産された。当時このクルマに乗れた人はもちろん大金持ちかトップスターで、そういう上流階級のための一台である。
フィアット600Dムルティプラ: 1960年、現代初の6人乗り大容量車が改良されて登場した。600と同様、リアに搭載された4気筒エンジンは23馬力となった。しかし、それ以上に購買意欲をそそるのは、そのコンセプトである。可変性と空間利用の点で、ムルティプラはライバルがいなかった。
大林晃平: 革命的な自動車というのはこういうの、のこと。こんなに小さいのに6人も乗れるのだから。写真はタクシー使用だが、上品なカラーリングが小粋である。実際にムルティプラに乗せてもらったことがあったが、柔らかく快適な乗り心地で楽しかった。もちろん絶対的な性能は必要最低限なものだったが。
フィアット850: 4,950マルク(約32万円)という価格は、当時、小型車のように安くて経済的で、大型車のように快適で速いものだった。「フィアット850」は、34馬力で121km/hに達し、10年間の生産期間中、ベストセラーとなった。また、「850スパイダー」と「クーペ」の派生モデルも人気を博した。
大林晃平: 写真はスペシアルと呼ばれる「普通のベルリーナ」だが、他にクーペとスパイダーもあった。スパイダーのデザインは、若かりし頃のジョルジェット ジウジアーロである。価格も安かったため、この「850」は大ヒットし、イタリア全土に普及した。
フィアット1300/1500: 保守的なこのモデルは、ドイツ国内だけで86,945人の購買者を獲得した。この新モデルシリーズにより、フィアットは1960年代中に日量生産を約600台から2,500台以上に増やした。
大林晃平: 当時のフィアットの中でもかなりの上級モデルが「1300」と「1500」、ということよりも、写真のいかしたモデルの女性が着ている服装が実に素敵。60年経過した今見ても、少しも古く見えないのがすごい(クラシックを意識した、パリコレの最新と言っても、通じそう)。
フィアット128: フィアットの新しいコンパクトは、1969年当時、非常に先進的なものと考えられていた。前輪駆動と横置きエンジンを採用した最初のフィアットだったのだ。安全なステアリングコラムの標準装備、頑丈で経済的、かつ俊敏なエンジン、そして完璧なロードホールディングが評価された。
大林晃平: 「フィアット128」は今でも名車と言われ、ダンテ ジアコーサの前輪駆動だが、これはもちろんその影響を及ぼしたのは「ミニ」であることは言うまでもない。ステーションワゴン、クーペ、有名なラリーなど、バリエーションも豊富。良い感じの女性二人が海岸で乗る一枚は、妙に素敵だ(笑)。
フィアット124スパイダー: ピニンファリーナスタイルの「124スパイダー」が大ヒット。絵に描いたようなスパイダーは、ピニンファリーナデザインのスパイダーとして、最後に販売された1985年までフィアットのラインナップにあった。約20万台の「スパイダー」が製造された。
大林晃平: まごうかたなき、ピニンファリーナデザインの洒落たスパイダー。写真はおそらくスパイクタイヤを履いての一枚だが、白い雪とのコントラストが美しい。サイドミラーの位置(ドアではない)にも注意。
フィアット130: 1969年に発売された「フィアット130」は、技術的には納得できるものであったが、販売は伸び悩んだ。ローマ法王を除けば、イタリア当局や政府関係者しか、顧客になっていなかったのである。わずか15,000台で、1976年に生産を終了した。
大林晃平: フィアットとしては高価すぎることもあり、生産台数は伸びなかったものの、V6エンジンや当時は珍しかったエアコン(クーラー)も用意されるなど、中身は革命的であった。デザインはこれまたピニンファリーナである。ちょっとBMW風のデザインは意識したものか??
ホンダS800: 欧州での日本車攻勢の先陣を切ったのは、小型のホンダだった。全長3.34メートル、760キロの軽さ。67馬力の4気筒エンジンは、わずか791ccの容量でありながら、8,000回転させれば問題なかったのである。このロードスターは1967年にドイツで発売されたが、その価格はわずか8,750ドイツマルク(約57万円)だった。
ドイツで最初の日本製正規輸入車は、ハンブルグ港に上陸した単品の「ホンダS800」(上掲写真)であった。
大林晃平: 60年を経過した今でもわが国にも愛好家が絶えない「S600」だが、ヨーロッパでも同じこと。小さなエンジンは宝石のようと評された。
ジャガーMk II: 最上級モデルの「Mk II 3.8」により、ジャガーは、60年代の落ち着いたリムジンの世界に、新次元のパフォーマンスをもたらした。時速100kmまで9.5秒、最高速度は、200km/h以上だった。1960年のドイツの価格表では、Mk II 3.8は21,750マルク(約143万円)となっており、「メルセデス300 SE」は2,400マルク以上(約16万円)高かった。
大林晃平: 当時の高性能スポーツサルーンが「MKⅡ」。ウッドと革の内装など作りも豪華。写真はワイヤーホイールモデルだが、ボディ同色ホイールのものもある。ディスクブレーキも備え、リアバンパーには、「ディスクブレーキなので注意」とエンブレムさえ備わっている(俺の車はディスクブレーキなので効くため、接近注意、ということ)。
ジャガーSタイプ: 1963年に登場した「Sタイプ」は、「Mk II」の上位に位置づけられ、フロント、パッセンジャーコンパートメント、ホイールベースは「Mk II」と同じだ。しかし、リアは長くなり、「Eタイプ」のリアアクスルも採用された。「Sタイプ」は1968年までに約25,000台が製造された。
大林晃平: 「Sタイプ」とはいっても、フォード資本下のクルマではなく、こちらがホンモノ。ボディは「マークⅡ」よりも大きく広いが、その分デザイン的には間延びしている。そのためヨーロッパにおける販売も決して良い成績には至らなく、「420」に席を譲ることになる。
ジャガー420G: 1966年に登場した「420G」は、狭い道には向かない。1.93メートルという、「メルセデス600」と同等の幅を持ちながら、フラットで、ほとんどアメリカ人のような形になっていた。リアアクスルと265馬力の6気筒エンジンは「Eタイプ」のもの。最も高貴なインテリアと最高のドライビングコンフォートを備えていたにもかかわらず、成功は実現しなかった。
大林晃平: 最上級モデルが「420G」で、名前の通り4.2リッターエンジンを持つ高級車。ディムラー版もある。写真を見てもわかる通り、「XJ」に相通ずるデザインを持つ。残念ながら高価なこともあり、販売的には非常に少数なまま終了した。
ジャガーEタイプ: 1961年のセンセーション。「Eタイプ」は発売と同時に、世界で最も人気のあるスポーツカーのひとつになった。息を呑むようなベンチマークとなるデザイン、210馬力の強力な6気筒は、加速時にアドレナリンを放出するのに適している。万人の認める歴史に名を残すスポーツカーだ。
大林晃平: 今でもジャガーと言えばこれ、とも言うべき代表作。ホワイトリボンタイヤを持つ写真の一台はデビューした時のものと思われる。傍らのモデルはハリウッドスターのような風格(グロリア エステファンではない)。
ジャガーXJ 6シリーズI: 魅力的で成功を収めた「XJ 6」は、1968年に登場し、ジャガーの創始者であるウィリアム ライオンズ卿の最後のデザインとなった。「XJ 6」は「420」、「Mk II」、「Sタイプ」の後継モデルとなった。発売当初は2種類の6気筒エンジンが用意されていたが、1972年には絹のように滑らかで、燃料をガブ飲みするV12エンジンが追加された。
大林晃平: ジャガーのサルーンといえば「XJ」。「シリーズI」が一番美しいという人が多いが、デザイン優先でリアシートのヘッドルームなどは犠牲になっている。この後、「シリーズⅡ」、「シリーズⅢ」と発展し、ジャガーの中で最長期にわたり作られた。
ランボルギーニ350GT: フェルッチオ ランボルギーニが1963年に発表した初のグランツーリスモ。12気筒、280馬力、258km/h。価格は53,850ドイツマルク(約353万円)で、「ポルシェ911」の2.5倍の値段だった。1967年に生産が終了するまで、120台が生産された。
大林晃平: ランボルギーニの最初の生産車が「350GT」。フランコ スカリオーネのボディはなんとアルミ製であった。写真は2シーターだが、2+2モデルも登場した。
ランボルギーニ400GT: 「ミウラ」と同様、「350GT」の後継モデルとして、1966年に発売された。技術的には先代モデルとほぼ同じだが、「400GT」は「350GT」とは対照的に、狭いリアに2つのエマージェンシーシートを備えていた。4リッターにボアアップされたV12エンジンは、260km/hに達する320馬力を発揮した。
大林晃平: ランボルギーニとは思えないほど(失礼)、上品で繊細なデザイン。これもフランコ スカリオーネのデザインである。このボディカラー、今のランボルギーニのラインナップの、どれにも似合いそうにない。
ランボルギーニ イスレロ: 闘牛の名を冠した「イスレロ」は、「400GT」をベースに1968年に登場した。わずか1年しか生産されなかった「イスレロ」と「400GT」の違いは、より角張ったボディとフォールディングヘッドライトにある。
大林晃平: 基本的には、「イスレロ」のメカニズム部分は、「400GT」と同一と考えて良いが、フロントデザインの違いだけで、スーパーカーの雰囲気が漂う。ホイールの違いなどにも注目してほしいが、空力を無視したような位置につくドライビングランプ(フォグランプではない)が可笑しい。
ランボルギーニ ミウラ: 1966年のジュネーブモーターショーのランボルギーニのブースでは、観客が驚いていた。そこには、それまでレースでしか知られていなかったV12ミッドエンジンを搭載した「ミウラ」が展示されていたのだ。全高わずか105cmの「ミウラ」は、当時のスポーツカーの中で最もフラットな車のひとつだ。
大林晃平: ランボルギーニの歴史上、もっとも大切な車の一つ。毎度の解説で申し訳ないが、世界中のトップセレブリティ(というよりも、大スターと言ったほうがピッタリくる)に愛された。写真はライトを上げた状態。
ランボルギーニ エスパーダ: 1968年から1978年まで生産された「エスパーダ」は、ランボルギーニの中でも数少ない4人乗りのモデルだ。6つのキャブレターで駆動される350馬力のV12エンジンは、印象的な外観に加えて、音楽のようにハスキーなスタッカートを響かせる。「エスパーダ」は1,200台という記録的な販売台数を達成した。
大林晃平: 10年も生産された「エスパーダ」は、4シーターなので実用性もある……。信頼性を無視すれば・・・だが。ボディデザインは、マルチェロ ガンデーニだが、ミウラと全く違う雰囲気を持つ。10年で1,200台ということは、一年120台。毎月10台というのはスーパーカーと考えれば驚く数だ。
ランチア フルビア: 1963年から1976年までに約34万台が生産された「フルビア」は、ランチアの中で、最も成功したモデルだ。また、1972年には、世界ラリーチャンピオン、1972年にはモンテカルロで優勝するなど、ラリーでも大成功を収めまた。前輪駆動と軽量化により、「フルビア」は万能の武器となった。
大林晃平: ドイツナンバーを持ち、今からクラシックカーイベントに参加しようとしている「フルビア」。完全オリジナルなのが素晴らしい。うしろのアウディやフォードと比べると低く、小さいのがわかる。
ランチア フルビア スポーツ ザガート: オリジナルの販売パンフレットからの引用だ。”This car is not for everyone (これはすべての人のためのクルマではない)” この広告のコピーライターは正しかった。というのも、もともと競技用だったこのクーペは、1965年から1972年までに、約800台しか売れなかったからだ。
大林晃平: ザガートと聞くだけで、昔は憧れたものだが、「フルビア ザガート」も端正なボディデザインを持つ一台。中身はもちろん「フルビア」だが、まったく異なる雰囲気を持つ。ナンバーから推測すると、当時に撮影した写真である。
ランチア フラビア: 1960年に発表された「フラビア」は、見た目にはがっかりさせられたが、技術的には優れていて、アルミ製の1.5リッターボクサーエンジン、前輪駆動と4輪のディスクブレーキを備えたシャシーは、バランスのとれたハンドリングを実現していた。
大林晃平: 「アッピア」と「フラミニア」の中間のセダン。後にピニンファリーナによる2ドアクーペ(ホイールベースが短い)や、ヴィニャーレによるコンバーチブルが追加されるなど、有名関係者勢ぞろい。写真では立派に見えるが、幅は1610㎜しかない。
ランチア フラビア スポーツ: 1963年にはザガートの「フラビア スポーツ」が登場し、レースでも活躍した。ランチアはこの「フラビア スポーツ」のほかにも、ピニンファリーナがスタイリングしたエレガントなクーペと、ヴィニャーレが描いたコンバーチブルを供給した。
大林晃平: こちらはさらにザガートのデザインしたヴィニャーレ。中身は水平対向4気筒と、革新的なエンジン搭載で、先進的なメカニズムを持つのが当時のランチアやアルファロメオであった。写真のようにレースでも大活躍。ジェットヘルメットをかぶったレーサーがかっこいい。
ランチア フラミニア: 1960年代のランチアは、まだ、ジャガーやメルセデス・ベンツと同列に語られる高貴なブランドだった。「フラミニア」は、V6エンジンや、4連ディスクブレーキなどの先進的なディテール、先駆的な台形フォルム、完璧な作り込みなどで、印象深いモデルだ。
大林晃平: フラビアより格調高いフラミニアは言うまでもなく最高級セダン。13年間で約12600台余りが作られたが、当時のイタリア大統領(ジョヴァンニ グロンキ)の車はこのフラミニアだった。大統領専用車はピニンファリーナが製作を担当し、キリナーレと呼ばれている。(キリナーレとは、大統領府のこと)
ランチア フラミニアGTカブリオレ トゥーリング: 「フラミニアGT」は、「マセラティ3500GT」を、ラジエターグリルから切り取ったかのように似ている。クーペ、カブリオレともに、カロッツェリア ツーリング社で、スーパーレッジェラ構造(鋼管フレーム、アルミ板)で製作された。
大林晃平: 運転席にいるのは、イタリアの生んだ大俳優、マルチェロ マストロヤンニ、というように当時の大スターの乗るクルマが「フラミニアGT」。「GT」と「GTL」が作られたが、「GTL」のほうが、圧倒的に数が少ない。

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