モーターレースを語らずにメルセデス・ベンツの歴史を語ることは不可能!(後編)
2021年10月23日
1952年 300SL
高性能軽量スポーツカー300SLはメルセデス・ベンツの歴史上欠くことのできないスーパースターだ。設計部長のルドルフ・ウーレンハウトの構想は、自動車というより航空機に近いものと言われた。当時、自動車では考えもつかなかった複雑な力学計算がなされ、スペースフレームは何本ものパイプをつないで溶接された。結果、フレーム自身の重量は約80kg前後、エンジンは直列6気筒、SOHC、3L、3個のソレックスキャブで170PS/5200rpmにチューンされ、全高(重心)を低くする為、左45度に傾斜して搭載。この2シーターはスペースフレームの為にサイドシルが非常に高く、思い切ってルーフセンターが飛行機の様にヒンジの上に開くドアを採用。このドアは左右両方を同時に開けると、ちょうど「かもめが翼を広げたような形」になるところから、「ガルウィング」という名前が付けられた。1952年の5月、ミレ・ミリア(イタリア語で1.000マイル)ではカール・クリンクが2位になり、まずまずのデビュースタート。そして最大の勝利はル・マン24時間耐久レースで1・2位を獲得。
またニュルブルクリンクのレースでもオープンの300SLが1・2・3位を独占。続いて当時のスポーツカー・レースのビック・イベントであるカレラ・パナメリカーナ・メキシコのレースでカール・クリンクが優勝、2位はヘルマン・ランク。特に300SLの生産モデルは1954年、より美しく改良され「世界初のガソリン直噴エンジン」を搭載し240PSを誇り、世界のセレブ達に愛用された。
この「SL」の意味はドイツ語でSuper Leicht(スーパー・ライヒト)、日本語では「超軽量」という意味。
1954年 W196
戦後、レースから遠ざかっていたメルセデス・ベンツは、1954年に定められたF-1、自然吸気2.5Lかスーパーチャージャー付きの750ccに挑戦する事を決定。結果、メルセデス技術陣は自然吸気2.5Lエンジンで参戦。開発したコードナンバーW196はスペースフレーム構造。ボディはオープンホイールとエアロダイナミックなストリームライナーの2タイプが造られた(テクニカルコース用と高速コース用)。エンジンは直列8気筒、DOHC、2.5L、ボッシュ・ダイレクトフュエルインジェクションで260PS、高さをセーブするために右に70度傾けて搭載。このW196は「シルバースクリューマー」の異名をもち1954年にデビューし、フランスGPではファン・マヌエル・ファンジオとカール・クリンクが1・2フィニッシュ。その強さは圧倒的で1954年及び1955年両シーズンでこの名手ファン・マヌエル・ファンジオは8GPに優勝、スターリング・モスが1レースに優勝し計9GPに勝ち、2年連続ワールドチャンピオンとなった。
1955年 300SLR
W196の機構を使ってもう1種スポーツカー・エディションが同時に造られた。コードはW196Sで通称「300SLR」と呼ばれた。エンジンのみスポーツカー・チャンピオンシップのレギュレーションに合わせて3L、310PSにチューン。この300SLRのデビューは1955年のイタリアのミレ・ミリアで、スターリング・モスとジェンキンソンのコンビが優勝したのは有名(カーNo.722は午前7時22分にスタートした意味)。特にル・マン・タイプは最も大きな特徴を持っていた。このル・マン・タイプはコーナー入り口で制動をかける時、リアの大型エア・フラップが持ち上がり、高速サーキットでの厳しいブレーキングを助ける方式を採用。そのエアブレーキ・フラップを使う時のシーンは実にダイナミックで、大いにル・マンの観衆を沸かせた。
1955年 ル・マンの悲劇
1955年6月11日午後4時にマッジ伯のスタートの合図の元に60人のドライバーは一斉に自分のマシンに駆け寄った。早速、グリーンのジャガーに乗るホーソンが先頭に立つ。自分のマシンを限界ぎりぎりまで無理をさせる走り方だ。一方、300SLRに乗ったファンジオは芸術と言っていいリズムのハンドルさばきで、ぴったりとホーソンに付いた。ストレートではジャガーが伸びる。だが、コーナリングに時、リアのエアーブレーキを開いて急減速した300SLRは差を一気に詰める。この様なレース展開でスタートしたが、6時20分、グランドスタンド前のストレートを3台の300SLRが200km/h以上のスピードで通過する時、前方のクルマが走路妨害にあってスピンし、1台の300SLRが巻き込まれて大破、観客席の人々に多数の死傷者を出した。レース史上最大となったこの事故により、メルセデス・ベンツはその性能の限界を見極めずにF-1を含む全てのレース活動を休止したのであった。しかし、メルセデス・ベンツが長年レース活動で磨き上げた技術を生産モデルに導入し、その技術開発の目的を十分に果たしたものと言える。
その後、1956年からラリーに参戦したことはあったが、あの「シルバー・アロー」がサーキットに復帰するには長い時間を要した。そして、メルセデス・ベンツが参戦したのは1985年からであることはすでに知られている。それも最初はスイスのレーシングカー・コンストラクターであるザウバーのエンジンサプライヤーという目たない形であった。現在、「シルバー・アロー」が本格的にレースに復帰し、大活躍しているのは周知の通りであるので、メルセデス・ベンツのレーシングマシン・ヒストリーも一応、幕とする。
写真=ダイムラーAG、メルセデス・ベンツミュージアム、アウディミュージアム。
Text:妻谷裕二
【筆者の紹介】
妻谷裕二(Hiroji Tsumatani)
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。