モーターレースを語らずにメルセデス・ベンツの歴史を語ることは不可能!(後編)

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シルバーアローの誕生~ル・マンの悲劇

自動車の開発史上、メルセデス・ベンツのモータースポーツ記録は輝かしいものであり、その後の生産モデルには実に多くの革新技術が導入された。例えばオーバー・ヘッド・カムシャフト・エンジン、ガソリン噴射装置、ディスクブレーキ、それに多種に亘るサスペンション等がその主なもの。
今回はその後編として、1934年から1955年のル・マンの悲劇でメルセデス・ベンツが全レース活動を休止するまでを紹介する。

※GPはフランス語・Grand Prix(グランプリ)の略でモータースポーツレースの最高峰であり、現在ではF1レースに与えられ、ドイツGP、フランスGPの様に開催国名と組み合わせて呼ばれる。

メルセデス・ベンツのレーシングマシン・ヒストリー

1934年 W25;メルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生。この年、イタリア及びスペインGP等でも優勝し、翌1935年には7つのGPを制覇した。
W25(リアスタイル)
イタリアGP、カラッチオラとファジオーリのダブル勝利。

1934年 W25
昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトだった。しかし、1932年10月にフランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が、1932年~1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入した。そして1934年のメルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生。354PSのW25は車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場した。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだ。この年、イタリア及びスペインGP等でも優勝し、翌1935年には7つのGPを制覇した。

新フォーミュラ用として最高傑作車といわれるW125を完成させた。エンジンはW25の直列8気筒、DOHC、ルーツ・スーパーチャジャー付きをさらに5.66Lにボアアップ。出力は37年の初期モデルで600PS弱、後半には646PSにも達しそのスピードは433.7km/hを記録した怪物。
1937年の怪物GPマシンW125!モナコGPでブラオヒッチュとカラッチオラのデッドヒート。

1937年 W125
750kgフォーミュラは1936年までとされていたので、メルセデス・ベンツ技術陣は1937年から採用される予定の新3Lフォーミュラの設計試作を1936年より開始。しかし、新3Lフォーミュラの最終決定が遅れた為、1937年は750kgフォーミュラが継続された。そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は急いで、新フォーミュラ用として最高傑作車といわれるW125を完成させた。エンジンはW25の直列8気筒、DOHC、ルーツ・スーパーチャジャー付きをさらに5.66Lにボアアップ。出力は37年の初期モデルで600PS弱、後半には646PSにも達しそのスピードは433.7km/hを記録した怪物。
シャーシはレーサ-よりも速いエンジニアと言われたルドルフ・ウーレンハウトが担当。当時すでに生産モデル500K及び540Kに使用して好評のフロントにダブルウィシッボーン、コイルの組み合わせを初めてレーシングマシンに採用。リアは巨大なトルクに耐えさせるため、ド・ディオンとトレーリングアームとそして縦置きトーションバーの組み合わせで、ダンパーはハイドロリック式を使用した。
彼はW25を自分でテストしてシャーシの欠点を十分に理解していた。つまり、W25は全くハードだったので大規模な設計の転換を実施した。結果、ソフトな乗り心地と優れたロードホールディングを持ったこの新型W125はトリポリやドイツGPを初め、同年13レース中、7回も優勝し、名手ルドルフ・カラッチオラが1937年・1938年に、そして1939年にはヘルマン・ランクがそれぞれヨーロッパチャンピオンに輝いた。

1936年に入るとメルセデス・ベンツはV-12、4.8L 540PSエンジンを搭載した流線型のレコード・レーサーを造った(W25ベース)。
1936年10月と11月にフランクフルト~ダルムシュタット間のアウトバーンで名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L~8L)で計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録。
1936年10月と11月にフランクフルト~ダルムシュタット間のアウトバーンで名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L~8L)で計6つの世界記録を樹立、最高スピード371.9km/hを記録するスタート前。
名手ルドルフ・カラッチオラ
ライバルであるアウト・ウニオン流線型レコード・レーサーを駆ってベルント・ローゼマイヤーが1937年に406.3km/hの記録を達成(タイプCストリームライン)。
宿敵アウト・ウニオンの流線型レコード・レーサーを駆ってベルント・ローゼマイヤーが1937年に406.3km/hの記録を達成(タイプCストリームライン)。 ベルント・ローゼマイヤーが乗車しスタンバイ状態。
ベルント・ローゼマイヤー
メルセデス・ベンツ技術陣は1936年のレコード・レーサーのV-12エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し(W125ベース)、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライングマイル436.36km/h、フライング・キロメーター432.69km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立した(公道上で出した最高速度で現在も破られていない)。
メルセデス・ベンツ技術陣は1936年のレコード・レーサーのV-12エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し(W125ベース)、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライングマイル436.36km/h、フライング・キロメーター432.69km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立するスタート前。
メルセデス・ベンツ技術陣は1936年のレコード・レーサーのV-12エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し(W125ベース)、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライングマイル436.36km/h、フライング・キロメーター432.69km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立した(公道上で出した最高速度で現在も破られていない)。走行時。
メルセデス・ベンツ技術陣は1936年のレコード・レーサーのV-12エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し(W125ベース)、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライングマイル436.36km/h、フライング・キロメーター432.69km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立した宣伝ポスター

1938年 アウトバーンで時速432.69kmの世界最高記録を樹立
ヒットラーが特に自動車レースに力を入れたのは、これまでの全記録を打ち破って、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとした為だった。メルセデス・ベンツとアウト・ウニオンに資金援助をし、このドイツ両車はレースで圧倒的な勝利を獲得した。1936年に入るとメルセデス・ベンツはV-12、4.8L 540PSエンジンを搭載した流線型のレコード・レーサーを造った(W25ベース)。1936年10月と11月にフランクフルト~ダルムシュタット間のアウトバーンで名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L~8L)で計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録。しかし、当時のレースでドイツ勢のライバルであるアウト・ウニオンの流線型レコード・レーサーを駆ってベルント・ローゼマイヤーが1937年に406.3km/hの記録を達成した(タイプCストリームライン)。そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は面目に賭けてもこの記録を打ち破るべく1936年のレコード・レーサーのV-12エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し(W125ベース)、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライングマイル436.36km/h、フライング・キロメーター432.69km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立した(公道上で出した最高速度で現在も破られていない)。

1939年 W165;わずか8か月で開発しトリポリGPで1・2位を独占!
トリポリGP

1939年 W165
3Lフォーミュラの2年目、1939年は初めからメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンのドイツ勢が独占。そこで、イタリアは自国のトリポリGP(イタリアの植民地リビア)を何としても勝ちとるために必死の策を練り、遂にイタリアのスポーツ・コミッションは「最後の切札」を打った。つまり、トリポリGPの制限を急に1.5Lに変更すると発表。このクラスを得意とするのはマセラティやアルファ・ロメオのイタリア勢。しかし、メルセデス・ベンツ技術陣はスペシャルプロジェクトチームを結成し、わずか8ヶ月で全く新しいマシンW165の製作に成功。エンジンはV-8、90度、1.5L、254PS、5速ギアで274km/hをマーク。このトリポリGPで1位がヘルマン・ランク、2位はルドルフ・カラッチオラ。メルセデス・ベンツのエンジニアの意地と実力はフルに発揮され、人々に驚きと感動を与えた。

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