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クラッシックカーイベント参加記(前編)「コンコルソ デレガンツァ デラ ヴォルペ ビアンカ」「Concorso d’Eleganza della Volpe Bianca」

2026年8月14日

2026年7月25日土曜日、愛知県豊川市の豊川稲荷で開催されたクラッシックカーイベント「コンコルソ デレガンツァ デラ ヴォルペ ビアンカ」に、日頃からクラッシックカーのイベントで大変お世話になっているポルシェ愛好家の岐阜県在住のK氏と一緒に参加したので、その様子を報告する。今回は2回の連載のうちの前編である。

豊川稲荷とは

豊川稲荷は、愛知県豊川市にある日本三大稲荷の一つで、商売繁盛の神様として有名であるが、神社ではなく正式名称は「妙厳寺(みょうごんじ)」という曹洞宗の寺院である。一般的に「稲荷」と呼ばれると「狐を祀った神社」を想像するが、ここで祀られているのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)で、豐川吒枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っていることから、いつしか「豊川稲荷」が通称となり広まった、とされている。特に、願いが叶った人々が奉納した約1,000体の石狐が並ぶ「霊狐塚(れいこづか)」は圧巻で、参拝後は名物の「豊川いなり寿司」を味わう門前町も有名である。

「コンコルソ デレガンツァ デラ ヴォルペ ビアンカ」とは

今年、豊川稲荷で予定されている「72年ぶりの御開帳」の100日前を記念したカウントダウンイベントの一環として、豊川稲荷でのニュースタイルの夜間参拝イベント「YORUMO-DE(ヨルモウデ)」と連携して開催された。イベント名の由来だが、「コンコルソ デレガンツァ」とは、1920年代にフランスやイタリアで始まったクルマの美しさやデザインを競うコンクールのことで、「デラ ヴォルペ ビアンカ」とはイタリア語で「白キツネの」を意味するので、「白キツネのコンクール」といえよう。当日は、16時〜18時半の間、豊川稲荷の法堂(はっとう)前に20台のクラシックカー(往年の名車や旧車)が展示され、夜の帳が下りた19時15分から、豊川稲荷の本堂に向かう参道に敷かれたレッドカーペットの上を、クラシックカー達が本堂に向かって参拝するランウエイショーが開催され、最後は審査員によるコンクールの表彰式が行われた。

最高気温

開催日の1週間前、いつもクラッシックカーのイベントでお世話になっているK氏より、電話があった。7/25開催予定の「コンコルソ デレガンツァ デラ ヴォルペ ビアンカ」のエントリーの案内を頂いたが、参加するか?否か?迷っている、という内容であった。聞くと、1953年ポルシェ356プリAでの参加を考えているという。問題は気温である。直ぐに、私の住む愛知県豊田市の週間天気予報を調べると、7/21から7/25は連日晴れ、に加えて日中の最高気温は39℃〜40℃(酷暑日)!の予報。愛知県東部の豊橋市も調べるとイベント開催日の7/25はやはり最高気温38℃となっている。ポルシェ356プリAは、当然エアコンは付いていない、かつソレックスのキャブ車である。またイベントは、夕方から夜の予定なのでクルマの会場への搬入時間は14〜15時となっている。どう考えても搬入時間が最高気温の時である。K氏は岐阜県在住で、途中、私を愛知県豊田市でピックアップしてくれるという。豊田市から豊川稲荷まで高速で約1時間弱。普通に行ったら、最高気温の中を移動することになり、クルマも人間も無理だと感じた。だが、せっかくのK氏からのお誘いである。その場で成立する案を考えた。要は、涼しい午前中に豊川稲荷近くのショッピングモールまで移動して、お茶やランチを済ませた後に豊川稲荷に入る案をK氏に提案、結果、K氏と即断即決で2人でエントリーすることになり、私は助手席で参加することになった。

予習

イベントの前日、私は別件もあり、豊田市の市立図書館を訪れた。4階には、おそらく全国トップの所蔵量を誇る自動車関連の書物が収蔵されている。私は以前なんとなく、ポルシェの始まりやフェルディナント・ポルシェの話を雑誌などで読んだことはあったが、しっかりと読み込んだことがなかったので、明日乗せて頂くポルシェ356の本を借りて予習しようと考えた。図書館の本棚には、ポルシェだけで数十冊の本があったが、殆どが911のナロー以降の本で、意外にも「356」の本が殆ど無かったので、日本語のネコパブリッシング社の世界自動車図鑑「PORSCHE」を1冊借りることにした。今回、1冊全部は読みきれないので、本の中のポルシェの生い立ちや、フェルディナント・ポルシェや356の各モデルに絞り、また、特に本の最後に、356各車の諸元表が載っており、次の日に乗せて頂くK氏のポルシェを特定できる様、前日自宅で読み込んだ。特にその中でフェルディナント・ポルシェの記述がとても興味深い内容であったので以下に紹介する。

フェルディナント・ポルシェ (ネコパブリッシング社 世界自動車図鑑「PORSCHE」参照)

2人の孫に囲まれて356の模型を手にするフェルディナント・ポルシェ。左がフェルディナント・ピエヒ、右がフェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ。(Photo: Porsche AG)

1875年(明治8年)9月3日、当時オーストロ・ハンガリー帝国の統治下にあったボヘミアの小さな町、マッフェルスドルフで金属細工の職人の父親の次男として生まれる。1894年(明治27年)、ウィーンで電機会社のデラ・ベッカー社(現在のブラウンの前身)に入社し、持ち前の努力で直ぐに重要なポストを与えられたが、6年後に彼の才能に目を留めたカロッツェリア・ローナー社にチーフエンジニアとして迎えられる。そこで1900年(明治33年)に設計したのが、ポルシェが初めて手掛けた「ローナー・ポルシェ」と呼ばれた電気自動車で、ホイール・ハブ内にモーターを組み込む斬新なアイデアを採用していた。他にもガソリンエンジンによって発電機を駆動するハイブリッド自動車なども設計していた。

1906年(明治39年)、31歳で当時オーストリア最大の自動車メーカーのオーストロ・ダイムラー社に技術部長として移籍し、VWのエンジンの祖先とも言える水平対向4気筒航空機用ユニットから農業用のトラクターまでを手掛けた。しかし、小型高性能自動車を作りたかったフェルディナントは他の重役と意見が合わず、オーストロ・ダイムラー社を辞め、1923年(大正12年)にドイツのダイムラー(後のダイムラー・ベンツ)社に取締役技術部長として就任。前任者の残した過給機エンジンを手掛け、2ℓのレーシングカーを成功に導くも、1ℓクラスの小型車を世に出したいフェルディナントは、またしても重役と衝突し、1928年(昭和3年)辞表を提出する。

その後、シュコダ社やシュタイル社にも招かれるが、1930年(昭和5年)、ついに自らのデザイン事務所のオフィスをドイツのシュツットガルト市に構えた。当時のメンバーにはフェルディナントの長男フェリーも加わっていた。ポルシェ社の始まりである。1932年(昭和7年)に“タイプ12”ツェンダップ国民車プロトタイプ、1933年(昭和8年)に“タイプ32”NSU国民車プロトタイプの設計を行う。高性能小型車の設計を気兼ねなく行えるようになったフェルディナントの精力的な活動が伺えると同時に、VWと繋がってゆく設計思想が見てとれる。この頃、アウトユニオンは政権をとったヒトラーの経済的支援を受けてドイツ製のグランプリカーを走らせる計画を進めており、ポルシェ社はアウトユニオンのためにミッドシップ・レーシングカー“タイプ22”Pワーゲンを設計する。

その時ヒトラーと面識を持ったフェルディナントは、ヒトラーが提示した国民車構想にひとりの技術者として共鳴し、プロトタイプのVWシリーズ3が完成する。この国民車は「KdF」と名付けられる予定だったが、第二次世界大戦勃発により軍用車に切り替えられてしまうが、戦後VWとして生産される。フェルディナントはVWシリーズ3のコンポーネントを使った1.5ℓの小型スポーツカー構想をヒトラーに提案するが、取り上げてもらえなかった。

第二次世界大戦中、ヒトラーの命により乗用車から軍用車までを手掛けていたフェルディナントは、戦後フェルディナントがナチス・ドイツに協力したとみなされフランスに幽閉され、シュツットガルトのポルシェ社の敷地も接収される。この頃、フェルディナントの長男フェリー達は、戦争末期に疎開先の南オーストリアのケルンテン州グミュントで軍用VWの修理などを細々と行いつつ、再興の期をうかがっていたが、イタリアのチシタリア社の依頼により、タイプ360グランプリカーを設計することになる。ミッドシップ、4輪駆動という画期的なレイアウトを持ったこのGPマシーンは、結局チシタリア社の財政難のため、桧舞台に上がることはなかったが、フェリーらはその設計料をフェルディナントの保釈金に充て、1947年(昭和22年)8月、保釈に成功する。

ポルシェ356の誕生

フェルディナントの幽閉が解かれる少し前、タイプ360グランプリカーの開発状況を確かめるため、フェリーらがイタリアのチシタリア社を訪問する。その時、チシタリア社のレーシングカーやスポーツクーペやオープンモデルがフィアット社のコンポーネントを利用していることに強く興味を持ち、帰国後、フェリーらは既存のモデルをベースにした2シーターライトウエイトスポーツカーの開発に着手する。

1947年(昭和22年)6月11日に“タイプ356”のプロジェクトがスタート、7月にはプロトタイプ第1号車 356.001の基本レイアウトが決定、翌年2月にシャシーが完成する。これほど順調に開発が進んだ背景には、フェルディナントらが設計したVWの存在があった。この356.001は溶接鋼管スペースフレームシャシーにVWのサスペンションを装着し、後の量産モデルと異なりミッドシップレイアウトのアルミボディの2席ロードスターで、VWのアクスルと1.1ℓ空冷水平対向4気筒OHVユニットを搭載しており、主要パーツは殆どVWのものを流用していた。1948年(昭和23年)7月に完成したプロトタイプ2号車の356/2.001は、1.1ℓ空冷水平対向4気筒OHVユニットがリヤアクスルより後ろに搭載され(リヤエンジン・リヤドライブのRR)、空力特性を考慮した流線型のクーペボディで、最高速度は140km/hであった。そして1949年(昭和24年)3月、ジュネーブ・モーターショーでポルシェのブースが設けられ、356の販売が開始される。

ミツワ自動車

別件で私が日本で最初に輸入されたポルシェの話を大先輩から教えてもらったことを思い出した。

1953年(昭和28年)、ミツワ自動車が日本で初めてポルシェを輸入する。当時4台のポルシェ356がファーストロットとして日本に輸入されたが、その中の1台の1300カブリオレのオーナーは当時、東京都品川区にあった森村学園の森村衛(まもる)氏であった。森村衛氏は、ポルシェ356を日本で購入する前、米国ニューヨークに留学しており、米国のポルシェのショールームで356の実車を既に目にしていた。留学後、日本に戻ってからポルシェ356を注文するが、その当時、ミツワ自動車の社員は誰1人として、実車を見たことがなかったが、ポルシェ356を注文した森村衛氏だけが、先に実車を目にしていた、というエピソードが「Super CG」誌に載っていたのを思い出した。

今回イベントに参加するK氏の1953年(昭和28年)ポルシェ356プリAは、新車当時米国に輸入され、その後、日本に渡ってきた個体であるが、356が日本に最初に入った同時期の大変貴重なクルマであることが再認識できた。K氏の356はK氏と同じ73歳である。ちなみに1955年(昭和30年)356A以前のモデルを356プリAと呼ぶ。

ポルシェ356プリAの助手席

朝9時にポルシェ356プリAが自宅まで迎えにきてくれた。気温34℃。

7月25日土曜日9時、K氏が豊田市の私の自宅に迎えに来てくれた。朝から快晴の強い日差しに緑のカラーがとても眩しく、クルマはピカピカである。車外で聴く空冷水平対向4気筒OHV 1,488ccのエンジン音は意外に大きく、近所迷惑にならないように、一度エンジンを止めてもらう。K氏のポルシェ356プリA(以下356)は、フロント席のみの左右独立の2シーターで、シートはスチール製のフレームを持ち、ヘッドレストはないが、当時オプションのリクライニング式であった。また新車当時リヤシートは、左右一体のベンチ型と独立したセパレート型があり、リヤシートを装備せず、カーペットを敷いただけのクルマもあったが、K氏の356はリヤシートのないベージュのカーペットを敷いただけの仕様であった。そのフロントシート後ろの「荷室」に持っていく荷物や日傘を押し込み、助手席のシートに座り、スマホで豊川稲荷近くのショッピングモールにナビをセット。

ナビは、東名高速と新東名の2パターンを案内しているが時間や料金はほぼ同じであったので、なるべく日陰のトンネルを走ろうと、新東名の経路を選択した。この時気温は既に34℃。エアコンがないため、左右のドアの窓を全開にして(ただし3角窓はなし)、リヤのクオーターガラスも前ヒンジで後部を数cm開ける。2点式シートベルトを締め、K氏がスターターボタンを押すと、一発でエンジンが目覚めたのには驚いた。そしてゆっくりとスタート。住宅地を抜け、近くの高速道路のインターを目指す。フロントにエンジンやミッションがないため、助手席の足元のスペースは、フロントタイヤハウスがあるものの、前方に長く足が伸ばせて快適である。フロアから生える4速のマニュアルミッションのシフトレバーは、左奥が1速のHパターン。良く見るとシフトレバーは、運転席と助手席のシートよりも更に前にあるおかげで、運転席と助手席のシートの間にスペースは無く、左右のシートは隣り合っており(サイドブレーキはステアリング左下のレバー)、シートの座面サイズも大きく、これなら欧米人にも不満の無いサイズだろう、と感じた。そして意外にもスポーツカーとしてはシート座面のクッションもやや柔らか目である(ただしフワフワではない)。

その後、やはり最初に走り出して感じたのは、乗り心地の良さである。タイヤの扁平率が80%と大きく、かつ先ほどのシートのクッション性が良いおかげだと思う。また荒れた路面でも良く、橋の継ぎ目などの「ガタン」となる強い路面からの入力もとても良く抑えられており快適である。そして対向車とすれ違う時に感じたのが、意外にもシートポジションが低いことである。すれ違うセダン系のクルマが自分の目線から上に見える。乗り込む時には感じなかったが、やはり356はスポーツカー、セオリー通りにシートポジションも低めに設定されていることに気がついた。後ろを振り返ると、フロントシートの後ろは意外に広い荷物スペースになっており、大きくなければ普通の旅行カバンも積めそうである。

そして走行中、リヤアクスルの後ろにあるエンジンからの音や排気音が意外にも静かで、車外で聞くエンジン音とはかなりの差を感じた。エンジンがリヤのとても遠くにあるように感じるのである。この時代、エンジン音の車室内への遮音性に力を入れて開発したとは思えず、リヤエンジンのメリットだと感じた。

そして東海環状自動車道の豊田松平インターに入り本線合流前の大きく左に曲がるコーナーに差し掛かる。その時、356は意外にもフロントが軽やかにコーナーの内側に入っていくのが、はっきり感じ取れた。RRなので車両のフロント部に重量物が無く、軽快にフロントが入っていく様に感じた。また車検証で車両重量を確認すると空車重量:760kg(Fr: 330kg, Rr: 430kg)とあり、やはり現代のクルマよりも圧倒的に軽い(この先、もう2度とこの様な軽いクルマは作れないだろう)。そして本線に合流。メーターは4速約3000rpmで60mph付近を指しているが、直進安定性も良く、ここまででも運動性能が高いことが体感できた。

ちなみに、後で装着タイヤを確認すると、165/80R16のAVONで、73年前に既に16インチタイヤが標準であったとは、この日356の諸元で私が一番驚いたポイントであった(ちなみにこの車には当時の貴重なオリジナルの5.00-16 ピレリのスペアタイヤがフロントのトランクに搭載されている)。高速道路でも両サイドの窓を全開にしているので、意外に風が窓から入ってきて、膝の辺りで風が巻いているのが分かる。そして豊田東ジャンクションで新東名に合流。本線は土曜日の午前中にしては混んでいて、殆どトラックは走っておらず、乗用車ばかりであったが、全てのクルマは窓が閉まっており、開けて走っているのは、我々の356だけであった(笑)。新東名でも356は全く問題なく走行。途中、長いトンネルに入るが、中は日差しが無いだけではなく、意外に温度がヒンヤリ感じ、新東名ルートで正解であった。そして岡崎東インターで下りて、その後R1を東に走る。

356のダッシュ中央は当時オプションのラジオ。ラジオ右下に白のシフトレバーノブが見える。写真は3速の位置であるが、シフトレバーは以外に前方に位置している。空は快晴。R1にて。

片道2斜線のR1は信号のタイミングが良く、渋滞もなく、そのまま豊川市内へ。目的地のショッピングモールに着いたのは、朝の10時過ぎで、ちょうど屋根付きのスペースが1台空いたので、そこに356を駐車。その時気温は34℃のままであった。ここまで356は全くの快調で、人間もなんとか耐えることができた。早速、涼しい店内に入り、お茶とランチと買い物を楽しんだ。

豊川市のショッピングモールの屋根付き駐車場で一旦休憩。気温34℃。

豊川稲荷へ

イベントの車両搬入時間の14〜15時に合わせ、ショッピングモールを14時半に出発。建物を出ると外はまさに熱風に近く、急いで356に乗り込む。この時気温は38℃。K氏がスターターボタンを押すと、ここでも356は一発でエンジンが掛かり「凄い」の一言! この気温の中、ラフアイドルもなくエンジンは普通にアイドリングをしている。そして屋根付きの駐車場を出て、豊川稲荷を目指す。ナビで約15分。途中、市街地で複数の信号による渋滞があり心配したが、356のアイドリングは全く快調で、不安な様子がない。この356のポテンシャルの高さにこの日一番驚いた瞬間であった。正直、流石にこの温度では30分は乗っていられない、と感じながら、予定通り、豊川稲荷西側の入口に無事到着。受付テント手前では、日陰を利用して数台の積車が参加車両を下ろしているのが見えた。受付テントに到着すると、ボランティアスタッフの誘導に従い、クルマに乗ったまま受付を済ます。エントリーパスとリストバンドとゼッケンを受け取ったが、この時気温は38℃のまま。この日はイベントのボランティアスタッフの皆さんに、本当に頭が下がる想いであった。その直後、日陰を見つけて、ボンネットにゼッケンを貼る。

暑さの中、誘導と受付をしてくれたスタッフの皆さん。本当に頭が下がる思いであった。気温38℃!
受付テント近くで日陰を探し、その下でゼッケンを貼るK氏。

その後、スタッフの方々に誘導され目的地の豊川稲荷の法堂(はっとう)前に無事に到着。そこには既に15台程の参加車両が並べられており、再び誘導に従い指定の場所に停めることができた。しかし38℃の気温なので、まずは近くに居たスタッフに冷房の効いた場所を聞き、K氏と直ぐに豊川稲荷の参道南側にある美術館に入った。中に入ると照明がやや落とされた空間が広がり、墨絵師の西元祐貴氏の作品が1階、2階に数多く展示されていた。西元祐貴氏は、狩野派のコレクションなど数多くの美術品を所蔵する豊川稲荷が今、支援しているアーティストである。

356を法堂前に停め、直ぐに冷房が効いた美術館に駆け込む。1階と2階に墨絵師の西元祐貴氏の多くの迫力のある作品が展示されていた。

美術館で西元祐貴氏の作品を見たあとは、同じく冷房の効いた参道北側にある瑞祥(ずいしょう)殿に移動。中に入りしっかり水分補給をすると、参加者の控え室に通され、ここでしばらくゆっくり過ごすことができた。ここの控え室には約10名が居たが,4人は浴衣姿であった。確かにここまで暑いと浴衣が正解、とその時思ったが、事前にはクラッシックカーのイベントと浴衣が結び付かなかった。

法堂前の参加車両展示

法堂前での参加車両の展示は、16時から18時半の予定で、16時直前に再びクルマを停めた法堂前に戻り、今回集まったクラッシックカー20台の撮影を短時間で済ませる。その時、法堂近くで約10名以上のボランティアスタッフ達が集まって打ち合わせをしている様子が目に入った。この暑い中、皆さんには本当に感謝しかない瞬間であった。そして会場で、4月のコッパディ小海でお会いしたフリーランスライター&フォトグラファー(CAR GRAPHIC誌などで活躍)の沼田亨さんが撮影していたので早速ご挨拶。「今日はとにかく暑いですね。東京からですか?」と尋ねると、「そう、今日昼にクルマで。でも大丈夫、エアコンの効いたクルマだし。しかし途中東名で、この会場に向かうランチア・ラムダとトヨタ2000GTを追い越してきたよ」と。この2台は一番暑い時に、東名を自走していたと聞いて、大変驚いた。

暑い中、2台のアルヴィスの間で打ち合わせをするボランティアスタッフの皆さん。左側は今回のThe Best of Showを受賞した1938年アルヴィス4.3Lランスフィールド・コンシールド・フード。
法堂前に展示された参加車両。

左から2番目が今回の参加車の中で一番古い1928年ランチア・ラムダ Tipo224。

一番手前は1971年マセラティ・ギブリ・スパイダー。

夜会

参道北側の瑞祥殿2階で、17時半から夜会が始まった。

瑞祥殿2階の夜会の会場で精進料理が振る舞われた。

約100名が座れる席が用意され、オープニングはオペラ歌手(ソプラノ)の小川里美氏のアカペラからスタート。緑色のドレスと歌声がとても印象的であった。次に豊川稲荷(円福山 豊川閣 妙厳寺)三十五世住職の福山憲隆氏とEXILE üSA氏の挨拶に続き、名古屋を拠点に活動する日本料理店「出雲」の大谷重治氏がシャンパーニュにマッチさせた特別精進料理が振る舞われた。今日、私は運転をしないので(Kさん、ありがとうございました!)、シャンパーニュを数杯頂きながら人生初の精進料理を頂いた。大谷氏の解説を聞きながらの食事であったが、今回の精進料理のテーマは「淡い味」。すべての料理の味と解説に納得であった。

豊川稲荷(円福山 豊川閣 妙厳寺)三十五世住職の福山憲隆氏の挨拶。
お粥に油揚げが入っていることに大谷重治氏の遊び心を感じた(笑)。

その後、墨絵師の西元祐貴氏の挨拶に続き、実行委員の岡田邦雄氏が挨拶。岡田氏は、参加した全車両の紹介を、繋がりを持たせながらその時代での意義や特徴を「流れる」様に紹介。参加車両を全て理解しているからできる、今まで聞いたことのないパターンの紹介で、夜会で一番感心した瞬間であった。

実行委員の岡田邦雄氏の挨拶。今回の全参加車両の解説を「流れる」様に紹介。

ランウエイショーの準備

18時半、このあと始まるランウエイショーに向け、全車両のオーナーが、夜会の席を立ち法堂前に展示されている車両に向かった。この時、まだ空は明るい。参道北側にある瑞祥殿を出ると、目の前の東西に延びる参道には、既に東側の鳥居から西側の鳥居までの約100mに赤絨毯が敷かれていた。この赤絨毯が敷かれた参道でランウエイショーが始まる様だ。また、一般の参拝客も続々と集まってきている。

参道に敷かれた赤絨毯。奥に見えるのが、ランウエイショーのスタート地点になる参道東端の鳥居。
参道中央付近から西側を見る。参道西側の鳥居とその奥が本殿。
参道西側の鳥居の先の本殿。手前はややスロープになっている。ランウエイショーではクルマは本殿まで進み、折り返し赤絨毯まで戻ってくる。

法堂前では、展示されていた車両のエンジンが掛かり始める。その時スタッフから、1人ずつ「白い狐のお面」が配られた。ランウエイショーで走る時に、参加者が被るお面である。周りのクルマの人達も「白い狐のお面」を被りスタッフの誘導に従い、ゼッケン順に車両が移動を始める。我々の356はゼッケン6番で、早めに進むことになる。豊川稲荷の境内の中を進み、ランウエイショーのスタート地点である参道東側の鳥居近くに誘導され、前のクルマに続き整列した。

18時半、ランウエイショーに向け法堂前に展示された車両の移動が始まる。
スタッフの誘導に従いランウエイショーのスタート地点を目指す。
19時前、ランウエイショーのスタート地点の参道東側の鳥居に整列。この時はまだ明るい。

この時はまだ暑いので、我々の356は両側のドアを大きく開けて、エンジンを停止。ドアを開けるとやや涼しい風が車内に入ってくるので、これなら暫く356の中で待っていられそうだ。その後、暗くなり始めた19時から、本殿前でEXILE üSA氏によるダンスの奉納パフォーマンスが始まり、ダンスミュージックがクルマで待機している我々にも聞こえてきた。そして19時15分、参道でのランウエイショーがいよいよスタート。数台前のクルマを見ていると、参道東側の鳥居下のスタートラインで白のスタートフラッグが振られ、赤絨毯の上を一台ずつスタートして行く。前のクルマがスタートラインに立った時、空はちょうど暗くなりかけ、先程まで気が付かなかったが、スタート地点の参道東側の鳥居が青と赤の鮮やかな照明で照らされているのがはっきり見えてきた。もうすぐ356のスタートである。

19時15分頃ようやく暗くなり始め、各車ヘッドランプが点灯し始める。
ランウエイショーのスタート地点。2本のスタートフラッグが振られ、1台ずつスタート。

【後編に続く】

フォトライブラリー

豊川稲荷西側の受付テント近くの日陰で積車から参加車両が下されている。
受付を済ませ、スタッフの誘導に従い法堂前を目指す。
展示場所の法堂前に無事到着。気温38℃の快晴。
中央は1980年メルセデス・ベンツ500SLC。
一番手前は1955年MG A。その後ろがK氏の1953年ポルシェ356プリA。
左手前は1968年トヨタ2000GT。
日本料理店「出雲」の大谷重治氏の精進料理の解説を聞きながら料理をいただいた。
墨絵師の西元祐貴氏の挨拶。豊川稲荷の中の美術館には、多くの西元祐貴氏の作品が展示されていた。
18時半、ランウエイショーに向け法堂前に展示された車両の移動が始まる。一番手前は2003年TVRタスカン。

Text & photo: 有賀英雄