自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その13
2025年7月3日

5日目 2月21日 パート2
前回のパート1ではホルヒの創業者アウグスト ホルヒを主人公に据えてアウトウニオンが形成され、さらにはアウディがフォルクスワーゲン グループの一員になるまでの経緯をざっと俯瞰した。
本稿では私がミュージアムでぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、初めて見たモデルを紹介していこうと思う。
ホルヒはぜひ見たかった。私が知る限り、トヨタ博物館が1937年製ホルヒ 853カブリオレを所蔵しているが、長らくバックヤードに仕舞い込まれたままだ。ホルヒは日本では簡単に目にすることができないブランドなのである。そんなわけで、1937年製ホルヒ853 シュポルト カブリオレと、1932年製670 シュポルト コンバーチブルの実物をこの目で見た嬉しさはひとしおだった。
パート1で見たようにアウグスト ホルヒは1899年に創業したホルヒ社を1909年に去っている。つまりアウグストが同社に在籍した1909年を最後に、ホルヒ社は設計の中枢となる人物を失ったことになる。それにもかかわらず、このブランドが高く評価される製品を世に送り出すことができたのはなぜだろう。事実、メルセデスベンツやマイバッハと並び評される、ドイツを代表する高級車ブランドとしての名声は今も健在なのだ。その答えを求めていろいろな文献に当たった私は、フリッツ フィードラーという名前の技術者に行き着いた。
この名前、BMWの稿でも紹介している。例の328スポーツカーを設計したのがフィードラーだった。彼は1924年にホルヒに入社、同社がアウトウニオンの一員になる1932年に辞するまで、チーフエンジニアの立場から8気筒や12気筒モデルの設計の主導役を勤めた。高品質な高級車メーカーとして、ホルヒの名声を確たるものにした立役者の一人がフリッツ フィードラーだった。彼はホルヒを離れたあとBMWに移籍、ここでも大いに活躍する。

ホルヒ853シュポルト カブリオレは、威風堂々たる体躯をアウディミュージアムの特等席に鎮座させていた。周囲をがっちりプラスチック板で囲まれており、近づくことさえできないが、他車とは一線を画するオーラをはっきり感じ取れた。
5リッター直列8気筒エンジンは100hp/3400 rpm (1937年以降は120hp/ 3600 rpmにチューンされた)を生み出し、最高速135 km/hを誇った。ちなみに燃費は100km当たり約25リッター、つまり4km/リッター(!)だったから、容量95リッターの燃料タンクをもってしてもその航続距離は計算上380kmに過ぎない。

Photo: Audi AG
そんなわけで、アウトバーンを高速巡航するホルヒ853シュポルト カブリオレは頻繁な給油ストップを要した。写真は1930年代終盤に撮影された1枚。1929年に起こった世界大恐慌の影響はこの頃のドイツ経済になお色濃い影響を及ぼし、本来のガソリンにベンジンを混ぜた燃料を用いていた。なお、シュポルト カブリオレは1935~1940年の製造期間中に1024台が製作されている。

V12エンジン。排気量 : 6021cc。最高出力 : 120hp / 3200rpm。最高速度 : 139km/h。燃料消費量 : 9mpg (約3.2km/リッター)。
ヘルマン アーレンという人物がデザインしたホルヒ670 シュポルト コンバーチブルは、世界的な経済危機の中、1931年秋のパリサロンにてデビューを果たした。チーフエンジニアのフリッツ フィードラーはこのモデルで、従来のV8からV12エンジンへの移行を敢行する。すでにライバルのマイバッハは1930年のDS8ツェッペリンでV12モデルを発表しており、ホルヒがヨーロッパのラグジュアリーカーセグメントでリーダーの立場を保持するには、多気筒化は避けて通れない選択だった。
フィードラーの製図板から生まれたV12エンジンのバンク角は66度。6リッターの排気量から120hpの最高出力を生み出した。フィードラーはこのV12に当時最先端のテクノロジーを駆使した。7個のベアリングが支持し、12個のバランスウェイトを備えるクランクシャフトはその一例。とりわけ油圧を用いたバルブクリアランスの自動調整機能は時代に先んじた技術で、フィードラーの面目躍如たるところだった。しかも振動を抑制するダンパーを備えて、ホルヒの名に相応しいスムーズな走行性の実現に万全を期している。
トランスミッションは一部がシンクロ化された4速マニュアルで、センタートンネルに位置するシフトレバーで変速する。ボディ外側のレバーで操作するか、長いロッドを介したコラムシフトが大半だった当時、フロアシフトは珍しかった。

Photo: Audi AG
フィードラー渾身の力作エンジンを搭載したホルヒ670だったが、いかんせんデビューのタイミングが悪かった。1929年、アメリカの株価暴落に端を発する世界大恐慌のあおりを受けて、このホルヒは高価な希少品のまま終わる。コンバーチブル仕様の生産台数は58台、それ以外にこの12気筒エンジンを積んだタイプ600プルマン サルーンが20台生産されたに留まる。
ホルヒの話が長くつづいたので、そろそろ話題を変えよう。以降、アウディミュージアムで初めて見たなかから印象に残ったモデルを3台紹介したい。

1960年 アウトウニオン1000Sクーペ。ボディ形式は2ドアハードトップ。写真では見えないが、リヤウインドウは3枚の曲面ガラスから成るラップラウンドタイプだ。
1960年に登場したアウトウニオン1000Sクーペの源を辿ると、1953年発表のDKWゾンダークラッセ(Sonderklasse:特別クラス)に行き着く。34hpを生み出す900cc 2ストローク直列3気筒エンジンを搭載したFWD車だった。その後、DKWは、2ストローク直列3気筒のパワーとスムーズネスは4ストローク6気筒に匹敵するとセールストークで謳い、1955年からモデル名を「3=6」に改めている。1957年にはエンジンを44hpの980ccに拡大、130km/hに向上したモデルを発表、これにはDKWではなくアウトウニオン1000クーペ デラックスと名づけた。さらに1960 年には50hpの強化版を発表、これがミュージアムで見たアウトウニオン1000Sクーペだった。

右の写真は「F89Lはこんな使い方もできます」というデモストレーションで、コーヒー豆の移動販売車を想定している。実際には小規模な工事などの用途に重用されたようだ。(右の写真はアウディミュージアム館内で配布している資料を撮影しました。)
DKW F89Lは2ストロークエンジンを搭載したFWDのデリバリーバンで、1949年、ハノーバーのスプリングフェスティバルにて一般公開された。「Schnellaster(=ファスト デリバリーバン)の別名で親しまれたF89Lは、第二次世界大戦によって荒廃したドイツの道路事情にあって、フットワークのよさを活かした理想的な輸送手段になった。高い耐久性もF89Lの美点で、様々な用途に用いられ、1951年末までに1万1504台が製造された。
2ストロークエンジンは登場当初は700ccの2気筒で20hpだったが、1952年には22hpに強化され、1955年に32hpを生み出す3気筒に換装されている。

1959年 DKW ユニオア(Junior)
DKW ユニオアの前身は1957年3月のフランクフルトショーにてデビューしたDKW 600だった。DKW 600は当初から好評をもって迎えられ、1959年にモデル名をユニオアに変えて本格的な大量生産に移る。3気筒2ストロークエンジンは741 ccの排気量から34 hpを発揮。4速トランスミッションを介して前輪を駆動した。1961年当時の価格は4790マルクだったが、市場をリードするフォルクスワーゲン ビートルより室内空間も荷物スペースも広いのが利点だった。しかも空冷エンジンのVWより効率よく室内が暖まるので、ユニオアの顧客は大抵160マルクを払ってオプションのヒーターを注文したという。
Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか
【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。