自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その10
2025年6月13日

4日目 2月20日(パート2)
前回のその9で見たように、ようやく第二次世界大戦(1939~1945年)の荒廃から立ち上がったBMWだったが、早くも1950年代序盤、思い通りに収益が上がらず苦しんでいた。それには理由があった。戦後のドイツ市場に向けた同社の製品は501/502系の豪華なリムジーネと、これをベースにしたスポーツモデル503と507しかなかった。
「大戦で疲弊したこの国で高級車が売れるはずはない。戦前と同じ豪華車路線を採用したのは、我々経営陣の戦略ミスだ」経営陣がその事実に気づいたのはまだしも幸運だった。当時のBMWが人々に供給すべきは、乗員を雨風から防ぐボディを備え、少なくとも2名が乗れる簡便な日々の足だった。
しかしBMWにそんなミニマムカーをゼロから開発するだけの人的・財政的余力はない。なにより時間がなかった。そこで彼らはイタリアのイソからイセッタという超小型車をライセンス生産することにする。そのイセッタに自社のモーターサイクル用フラットツインを組み合わせて、BMWイセッタ250の名前で市場に送り出した。1956年のことだった。このイセッタは当時の需要にマッチして、16万台が生産されるヒット作となった。

これで経営陣はひと息つけたが、小さなイセッタがすべてを解決してくれたわけではなかった。しだいに社会が落ち着き、経済活動が活発になるに連れて、人々は4人家族が乗れる“まっとうな”乗用車を求めるようになった。
ところがBMWには高級車と軽便車しかない。もっとも安定した需要が見込める中間車種を欠いていた。501以下、高価なリムジンでは多くの販売台数は望めない。一方、イセッタのような軽便車はいくら作っても利潤は高が知れている。BMWには両者の間をつなぐ、屋台骨を支える稼ぎ手を欠いていた。これはBMWのような中規模自動車メーカーにとって致命傷だった。
果たして1956年以降のバランスシートは赤い数字で埋め尽くされ、1959年には1500万ドイツマルクという史上最悪の欠損を計上する。 BMWが独立した企業として存続するのはもはや不可能と見たドイツバンクは1959年12月9日の株主総会の席上、融資を中止する旨を発表、併せてダイムラー・ベンツによる「救済という名の買収策」を提議した。
しかし経営に大鉈を振るおうとする銀行の提案に労働組合が猛烈に反発する。郷土愛の強い彼らは自分たちがBayerische Motoren Werke、つまりバイエルン州のエンジン工場で働くことに強いプライドを抱いていた。「北のメーカー」の一員になるなど、彼らには到底受け入れられない話だった。
これまで事態を静観していた大株主ヘルベルト・クヴァントがここで声を上げる。「手塩にかけて育てたBMW、みすみすライバルに乗っ取られるつもりはない!」ヘルベルトは株を50%まで買い戻し、経営の主導権を取り戻した。ヘルベルト・クヴァントの大英断によりBMWはようやくひと息ついた。その後、頼みの綱と放ったノイエクラッセ1500がヒットとなり、今日見るような隆盛への一歩を踏み出したのである。

Photo: BMW
話題を変えて、時計の針をBMWが経営危機に陥る前の1940年に戻そう。本稿の主人公BMW328の出番だ。1940年4月のある日、この328にまつわるイタリアから届いた知らせにミュンヘンの本社は歓喜に沸き立った。

BMW328は主として第二次世界大戦以前にレースで活躍したスポーツカー。設計を主導したのは同社主任設計者フリッツ・フィードラーで、ラックピニオンステアリングや油圧ブレーキなど先進的な機構を取り入れた、いかにもBMWらしいスポーツカーだ。
エンジンは1971 cc の直列6気筒。3基のソレックス30 JFダウンドラフト・キャブレターを備え、最高出力80 ps/5000rpmを発揮。アルミボディによる830 kgという軽い重量を活かし、最高速は150km/hに達した。
328はこの駿足と軽量がもたらす優れた操縦性を利して、数多くのレースで好成績を残した。1936年、ニュルブルクリンクで開催されたアイフェルレンネン・レースでは、エルンスト・ヘーネの操縦により2リッタークラスで優勝、自身のデビュー戦を飾った。これを皮切りに、1937年だけで100を越えるクラスウィンを記録している。

1938年にはミッレ・ミリアでクラス1位を遂げ、328は国際舞台で初めての勝利を得る。この結果に意を強くしたBMW首脳陣は、1940年のミッレ・ミリアに照準を絞った328のワンオフモデルの製作を決める。
BMWの意向を受けてミラノのカロッツェリア・トゥーリングが製作したのは、標準型のオープンボディとは異なるクーペボディだった。オープントップの公道仕様と区別するために、このワンオフはBMW 328ミッレミリア・トゥーリング・クーペと呼ばれる。トゥーリングの作品ゆえに、アルミボディは超軽量なスーパーレッジェラ工法で作られた。

エンジンは標準型と同じ6 気筒1971ccだが、136hp/6000rpm とかなりのハイチューンを施されていた。最高速は155 km/h。
迎えた1940年4月28日のミッレ・ミリア。ツーリングクーペボディを架装した328トゥーリング・クーペは、BMWの期待に100%応えてみせた。シャシーナンバー85368上に構築されたクーペボディを操るのは、だれあろうフシュケ・フォン・ハインシュタイン、後のポルシェのレース監督だ。

Photo: BMW
ヴァルター・バウマーというコ・ドライバーと組んだフォン・ハインシュタインは、1491.8580 kmを8時間54分46秒60で走り切り、平均スピード166.7 km/hという驚異的なスピードをもって総合優勝を果たしたのである。しかもこの勝利、ジュゼッペ・ファリーナ駆るアルファロメオ 6C 2500を破っての金星であり、加えてスパイダーボディの328が3、5、6位に入賞、この年のミッレ・ミリアは、さながら328による328のためのレースとなった。
現場のレース監督は、「上位を席巻する」の知らせをすぐさまミュンヘンの本社へ打電した。
328ミッレミリア・トゥーリング・クーペは優勝したシャシーナンバー85368とは別に2台が製作されており、BMWミュージアムではそのうちの1台が展示されていた。輝かしいヒストリーの持ち主であるBMW 328は、その後、同社がサーキットに送り出した様々なレーシングモデルの先駆けとなる。

BMWクラシックという「アリババの洞窟」に隠されているお宝はこれだけではなかった。展示品を見て行くなかで、私はある1台の前で思わず「オッ」と声を上げ、足を止めた。視線の先にあるのはE36型3シリーズをベースにしたBMW Z3。しかしボンネットの下にうずくまっているのはV12エンジンだった。
一時期、Z3に乗っていたことがある。BMW Z3は1995~2002年にかけて製造された2座席スポーツカーで、当初はロードスターのみだったが、シューティングブレークスタイルのクーペが1997年のフランクフルト・ショーでデビュー、ラインナップに追加になった。私が乗っていたのは1.9リッターの4気筒を搭載した初期型ロードスターで、5速MTとの組み合わせだった。
実車をデザインしたのは永島譲二氏。2ドアボディに似合うようE36 型3シリーズのホイールベース2700mmを2446mmに短縮したうえで、トランクの長さを意図的に短く取って、ロングノーズ/ショートデッキのスポーツカーらしいプロポーションを実現したという。
私はこのZ3を大いに気に入り、日々の足に供しただけでなく、たまにはちょっとした旅行にも連れ出した。ベースが乗用車の鑑のようなE36型3シリーズなので、とりわけ高性能でもスポーティでもないが、とても乗りやすいのが魅力だった。
もともと4気筒か、せいぜい大きくても6気筒のエンジンを前提にしたZ3だが、展示品はそのノーズに靴べらを使ってV12エンジンを滑り込ませていた。その詳細は不明だが、インターネットを検索して得られた、あるドイツの媒体による推測を交えた情報をお伝えしよう。
くだんのZ3は1999年に作られたワンオフ。V12は社内呼称M73型の5.4リッターで、7 シリーズのE38型に搭載されたユニットを移植したらしい。最高出力は326hp、最大トルクは490 Nmで、駆動力は6速MTを介して後輪に伝えられた。
あくまで推定値だが0-100 km/h加速は5.5秒、最高速は263 km/h。

V12を無理に押し込んだゆえ、当然ながらこのZ3は極端なノーズヘビーであり、本来の軽快な操縦性は大いに損なわれたことだろう。製作したのは当時のM部門だったという。彼らは無理を承知でなぜこんなZ3を作ったのだろう。
一つには「その気になれば、こういうこともできます」という、首脳陣に向けたアピールだったのかもしれない。あるいは単に自分たちがやってみたかったことを実行しただけの一種のジョークだったのかもしれない。
野暮をわかったうえでモンスター的Z3を作ったBMW M部門。その遊び心に触れたような気がして、私は写真を撮りながらニンマリするのを抑えきれなかった。
BMWクラシックで楽しい時間を過ごした私たちは、昼食を挟んで午後はBMWミュージアムに移動、同社の歴史を中心にした解説を受けた。その後は自由解散となり、参加者はそれぞれにミュンヘンの探索を楽しんだ。
Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか
【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。