自動車ショーとモビリティショー
2023年10月30日
AUTO BILD JAPANに寄稿している私、大林晃平は、自分でまだ歩けない頃から自動車ショーに連れて行かれて以来、ショーの栄枯盛衰の一端を目撃してきたと自負している世代である。自動車ショーでも、モーターショーでもなく、モビリティショーとなった今回、どんな想いを抱いたのか、雑感ではあるが記してみたい。
「自動車ショー」に最初に連れて行かれた時のことはあまりに幼すぎて覚えていない。それぐらい昔の時代だったが、その後の記憶の中で覚えているのは、亡くなった父と浜松町の駅で電車を降り、水上バスで晴海の会場に行った時代くらいからである。具体的には1970年ころだろうか。東京湾の中をのぞくと、そこにはぷかぷかと白いクラゲが浮いていた。そんな海を越えて会場に着くとそこには色とりどりの国産車と外車(輸入車なんて言葉は知らなかった)と、ターンテーブルの上でくるくる回る、見慣れないショーカーがまばゆいばかりにキラキラ輝いていた。各ブースで趣向を凝らして作られたカタログを袋いっぱいにもらい、普段座ることのできない数多くの自動車のシートに座らせてもらいながら幸せな時間を過ごし、電車で帰りながらさっきのカタログを眺め、いつの間にか眠ってしまい帰路に就いた。帰ってからもしばらくはモーターショーのカタログは僕の宝物で、そこに写っている自動車を飽きずに眺めながら翌年のモーターショーに心を馳せたものである。
唐突に古い思い出を語ってしまったが、自動車ショーでもモーターショーでもなく、モビリティショーとなった会場で、ふと頭に浮かんだのはそんな昔の記憶であった。あの時と同じように明るく華やかなアナウンスと音楽が流れている会場には、自動車だけではなく、モーターサイクル、飛行機(飛ぶ車、と言う単語はいつもオカシイなぁと思う)、そして新しい形の移動手段がごった煮状態で展示されていた。
全力投球のようなトヨタ・レクサスのブースに、クルーザーなども展示してあるだろうかと淡い期待をしていたが、なかったことは残念だが、ホンダのブースにホンダジェット・エリートが来ていたことは個人的に嬉しかった。さらにモックアップではあるが中に入ることが可能であったことは、体感型プログラムとして素晴らしいことと思う。
そんなショーの会場独特の空気感はいつものままではあったけれど、予想されたことではあるがプレスキットを含め配布されるカタログ等は一切廃止となり、QRコードを読み込むことで必要なデータなどを画像で確認することになっていたし、さらに違和感を覚えたのは生産車(市販車)の数が圧倒的に少ないことであった。
多くのメーカーはショーカーや、自動車という枠にとらわれない新しい乗り物や新技術を数多く展示していたし、ブースの多くは洗練されスマートで美しいと思うデザインを持っていたし、安普請なブースは見うけられなかった(スズキだけは妙に明るく、すごくフレンドリーで近寄りやすい、いい意味での昔っぽさが感じられた。展示物の中にうわさされていたジムニー5ドアが展示されておらず、普通のシエラが柵の中に展示されていたのは、あそこに5ドアを飾るはずだったのだろうか、とさえ勘ぐってしまったが)。
それでも街を今走っている自動車は数えるほどで、「これからの」自動車が多く、座ることももちろん叶わない展示がほとんどだったことが残念に感じられた。そんな中、スバルだけは市販車を多く展示していたし、戻ってきてくれたBMWもメルセデスベンツもルノーも、それぞれ市販車を多く並べていて、なんだかうれしくなったことは事実である。もちろんコンセプトカーの中には、近日市販する自動車の予告編が仕組まれていることが多いから、それを読み解くことも楽しみの一つだし、華やかなショーカーが多いことはもちろん愉しく活気があり素敵なことではある。
だが、それでも会場に「普通の」今生産されている車が並んでいることは、必要不可欠なのではないか、とも思うのだ(以前は、同じ生産車でもスペシャルカラーに塗られて置かれていることもあり、それはそれで特別感があってよかったものである)。
昔のようにお客様にカタログをじゃんじゃん配ったり、おさわりコーナーのように自動車に自由に座らせたりすることに、大きなエネルギーや配慮が必要なことは予想がつく。だがどんな車であっても座れたら嬉しいというのがカーマニアだし、それが子どものころの原体験として心に刻まれて、やがてエンスージャストや自動車開発に携わる方だって生まれるかもしれない。フルラインナップで生産している自動車を並べろとは言わないが、ここ2年くらいで発表した車が並んでいたっていいじゃないか。この間発表されたばかりのアコードも、アルファードも、一連のクラウンシリーズもなく、壇上の離れた部分に展示されたショーカーを見るだけというのはなんだか寂しすぎる、と思ってしまったことは事実である・・・。
そんなまだ売っていない未来の自動車たちにやや気圧されながら歩いていると、いつの間にか商用車ゾーンに足を踏み入れていたことに気づく。そしてそこには僕の知っているあの懐かしい「自動車ショー」の空気に満ちていて、なんだか妙にほっとした。もちろん商用車といえども、もはやそのパワーユニットも様々なハイテクデバイスなど、あのころとは段違いではあったが、それでもそこに漂うプロのための凛とした空気と、機能にあふれた機械としての自動車がそこに堂々と置かれていたのである。
さっそく展示された一台の大きなトラックにしがみつき、剛性感にみちあふれたドアを開けて、見晴らしの良い世界に座ると、ますますあの頃の自動車ショーの思い出と魅力がよみがえってきた。こういう特別な、普段は触れることのできない世界に、直接接することができるからこそモーターショーは魅力的なのではないだろうか。そしてそれはスーパーカーであろうが、リッターカーであろうが、商用車であろうが、同じ自動車という土俵に生まれたからには同じように大切な直接体験なのだと思う。
心から満足し、大型トラックから慣れない足取りで恐る恐る降りていた私を見かねたUDブースのスタッフが、「後ろ向きに降りるといいですよ」と声をかけてくれた。さらに、無事に地上に降り立った私に、「私たちは100万kmの走行距離は普通に想定して作っていますが、もちろんそれ以上使われる方もいらっしゃいますし、ドアなども(僕ごときが)ぶら下がっても問題ないくらいに丈夫に作ってあります」と嬉しそうに、そして心から誇らしげに語ってくれた彼の姿がうれしかった。
後ろ髪をひかれるようにしながら、そんな商用車コーナーを後にし、かなり離れた別棟に設定された「工具・部品館」へと向かう。華やかな乗用車コーナーを一歩出ると、そこはいつもの無機質な東京ビッグサイトと言う名の展示場そのもので、殺風景な風景を黙々と歩かなくてはいけない、なんともつまらない、ただの長い廊下であった。まったく、こういう長い距離を使って、さっき展示してあったような新時代のモビリティでもガンガンプレゼンテーションしたらどうなんだい、と無責任な悪態をつきながら到着した部品と工具の展示会場は、明るく熱気にあふれ、あのころの自動車ショーの香りがした。
見たこともないようなパーツや工具が、どれほどあるのか把握できないほど並ぶコーナーでは、やはり自分の仕事に誇こりを持った開発スタッフや営業マンがたち情熱的に解説してくれたし、自動車を支えるサプライヤーの多さとその頼もしさに、いまさらながら胸の中が熱くなった。やっぱり自動車の魅力は素敵だし、そこに携わる多くの人たちの知恵と努力と汗があるからこそ、今日も世界にモビリティは成立している。そんなことを実感させてくれる空間が、あの頃と同じようにそこに存在してことを素直に喜びながらすっかり真っ暗になった屋外に出ると、ひんやりとした秋の風が心地よかった。
Text and photo: 大林晃平