【クラシック オブ ザ デイ】このクルマのメーカーとモデル名は? 当てた人にはクルマ馬鹿(ガソリンヘッド)の称号を授与!
2022年11月22日
多くの人が、え、そうなの?と思うはず。この車のメーカーはBMW、モデル名は505だ。ミュンヘン発のアデナウアー オルタナティブ。この車で1955年、BMWは官庁街に入ろうとしたが、ボンの権力中枢から拒否された。BMWのステートカーは、依然としてワンオフである。
バイエルン州とボン(文壇時代の1949年から1990年までドイツの首都)の連邦首相は、常に難しい関係にあった。バイエルンの政党、CDU/CSU候補者は、何度もボンからの立候補者に対抗して、首相選挙に挑んだが、そのたびに失敗した。1950年代半ばから、BMWは、新しく選ばれた首相の新しい公用車に関して、ずっとボンから拒否され続けてきたのである。
その頃、国のトップが、「メルセデス300」に不満を持っていることは、ドイツ連邦共和国では公然の秘密であった。1951年の発表会で、彼はダイムラーの上司に、「もっと大きなものはないのか」と聞いたと言われている。そこで、4年遅れではあったが、ミュンヘンのコンペティターであるBMWが、首相車に不足しているものをすべて取り入れた車を開発したのだった。
帽子をなくした話
当時のBMWのトップ、ヨアヒム ブレネッケが首相官邸に国産車の候補である「505」を運び込んで、提示したときのことは、詳しく伝わっていない。しかし、確かなことは、当時の首相、アデナウアー自身はその場にいなかったということである。1955年11月の第1回テストドライブも、1956年1月17日の第2回テストドライブも、ドライバーのヴィリー クロックナーと首相補佐官のハンス キルブしか乗っていない。アデナウアーがBMWから降りるときに帽子を落としてしまい、そのためメルセデスに乗り続けることにしたという話は、都市伝説であり、寓話なのである。
メルセデス300より静か
最初のわずか数kmでわかることは、BMWはアデナウアー首相車であるメルセデスより静かだということだ。そして、1列目と2列目の間には巨大な食器棚の壁が備わっているが、それでも筆者はゆったりと体を伸ばすことができた。アデナウアーも、1.86メートルという身長のため、十分なスペースがあったはずだ。1955年、クロックナー首相は「505」のパワーデリバリーとロードホールディングを絶賛したと言われている。実際、「メルセデス300」はどちらの分野でも光っていなかったし、BMWには6気筒だけでなく8気筒もあった。「505」の運転手たちも、限られた膝のスペースに苦労しながらも、運転することにある種の喜びを感じていた。
しかし、アデナウアーの側近であり運転手だったキルブは、BMWのあまりの騒音に苦情を言ったと言われている。だがメルセデスの実際の騒音を知り、「505」がいかに静かであるかを体験した者なら、「これはインチキな議論だったのではないか」という結論に至る。
キルブは、アデナウアーの了解の下、1954年から1958年の間にメルセデスから合計8台の無料貸与車を受け取り、「実質的に自分の所有物のように処分できた」と『シュピーゲル』誌(48/1958号)は報じている。アデナウアーに「BMW 505」の導入を進言したとされることもあり、1958年に収賄の疑いで逮捕された。結局、刑事訴訟には至らなかったが、まだ若いドイツ連邦共和国にとって、最初の司法スキャンダルの1つとなった。
キルブは、2回目のBMWのテストドライブの前に、上司がメルセデスに乗り続けることをすでに決断していたのだ。このとき、シュトゥットガルトの会社が当初生産を拒否していた「300」のロングホイールベースバージョンが市場に出ようとしていたことも、その選択を後押しした。
熱針で編む
BMWにとっては、これで一件落着だった。首相用の公用車採用を通じたボーナスがなければ、ミュンヘンの社長は「プルマン」サルーンの販売機会がないと考えたのだ。当初、「プルマン」は「ディプロマット」という社内タイトルが与えられ、1955年に虱潰しに設計が進められていた。本社からルガーノにある契約メーカーのギア社に、ボディパネルの厚みなど重要なポイントをすべて送ったのは、4月に入ってからである。完成したクルマは、すでに9月のIAA(フランクフルトモーターショー)で展示されていた。一方、BMWのボディワークの責任者であるクルト ブレッドシュナイダーと、エグゼクティブデザイナーとしてのジョバンニ ミケロッティは、7月半ばにトリノを訪れ、地元のマッジョーラ社が製作したボディシェルを見ていたという。
見本市での展示のために、同社は工作キットに自由に手を伸ばした。例えば、20cmほど長いフレームを持つベーシックな「502(バロッケンゲル)」には、シャシーナンバー(59034)の2.6リッターエンジンではなく、より大きな3.2リッターのユニットが搭載されていた。IAAで配布されたプレスリリースによると、120馬力しかなかった。現在も「505」は3.2リッターV8を搭載している。ただし、エンジン番号の横に「160馬力」と刻印されているのは、1961年以降に発売されたものだからだ。この仕様は、BMWのアーカイブによると、「505」が1967年に受け取った交換用エンジンに相当する可能性がある。
チップスの広告塔としての終焉
アデナウアー首相に拒否された後、バイエルン州政府の公式行事用に数回貸し出された後、BMWは1957年にプロトタイプを12,000マルク(約90万円)で販売した。その後、「505」は南ドイツの貴族の手に渡り、リュッセルスハイムの自動車王朝のイルムガルト フォン オペルに譲渡されることになった。彼女の息子カルロは、プファルツでクリスプ工場を経営していたが、「505」は巡回広告の柱として苦労を強いられ、1988年にあるコレクターが立ち寄った際に、BMWに戻されることになった。
バイエルン州とドイツ首相のコンビネーション。それは我々の試乗が証明するように、1950年代の別の状況下ではやはり夢の中だけの関係だったかもしれない。しかし、BMWが権力の中枢と接触することは当時としては不運なことであったため、現在ではメルセデスに当時乗っていた首相の名前がつけられている。
【ABJのコメント】
不勉強なことで申し訳ないが、今回の一台はまったく知らなかった(ので、タイトルに記されているクルマ馬鹿の勲章は残念ながらもらえない)。だがその歴史を見ると、そのころの時代背景とかメーカー間の力関係、そして当時の流行のはしくれのようなものが感じられてなんとも興味深く、楽しい話題である。
さて、BMWといえばやはり、重厚なショーファードリブンではなく、自分でステアリングを握り軽く回るエンジンと軽やかなステアリングフィールを楽しむ、ドライバーズカーというのが「古い自動車好き」の先入観なのだが、2022年の今でも、やはりメルセデス・ベンツよりは、ドライバーズカーであるという印象が個人的には強い。今回の一台が登場した当時はより一層その傾向が強かったことと予想するが、今回の写真を見て痛感したことは、この一台の持つ自動車としての魅力が大変強い、ということであった。特に心地よさそうな生地で貼られたシート、上質なウッドを多用したインテリアデザイン、なんともお洒落で素敵なインスツルメンツパネル・・・。それらの意匠は見れば見るほど美しく、快適そうでしかもメルセデス・ベンツとは対極的な明るさにあふれたものとなっている。
もちろんこの車は特別な一台だから、お金に糸目をつけずやりたいことをすべてできたから、というのが成立の理由かもしれないが、それでもこれだけの内装の自動車をこのころ開発できたということは、やはりBMWのセンスと開発力の賜物であろう。この内装からしたら、今の自動車はなんとも暗く、デジタル満載で目がちかちかするような内装で、なんとも落ち着かない・・・。というのは、やはり古い自動車好きの感覚なのだろうか・・・。(KO)
Text: Martin G. Puthz
加筆:大林晃平
Photo: autobild.de