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ポルシェの歴史を写真と短いキャプションでたどる(1950~2005)Part1

2020年4月5日

1950年から2005年まで55年間のモデルを通してポルシェを振り返る

そして戦後が始まった。フェルディナント ポルシェ博士と孫のフェルディナント ピエヒ(右)、フェルディナント アレクサンダー ポルシェ。ポルシェ356ロードスターNo. 1のモデルを手に孫たちと語らい合う。(Photo: Werk)
ロードスター第1号は、ポルシェのブランド名を持つ最初のモデルだ。フェルディナント ポルシェ博士の左側にいるのは息子のフェリー。(Photo: Werk)
最初のポルシェ356は1949年にシュトゥットガルトのツッフェンハウゼン工場で生産された。スポーツカーには、ギアボックス、ブレーキ、40馬力にブーストアップされたエンジンなど、VWからの部品が多く使われていた。(Photo: Werk)
生産開始からわずか5年で、ポルシェは356の記念すべき1万台目のモデルを製造した。1965年の生産終了までの16年間で、合計で77,766台生産した。(Photo: Werk)
356 Aカブリオレを運転するフェリー ポルシェ。1955年の秋に、オリジナルモデルをまず改訂した。改定版は分割されていないフロントガラスとパッド入りのダッシュボード上部によって認識された。(Photo: Werk)
(当時)おそらく世界で最も幸せなドライバー警察官たち。バーデン ヴュルテンベルク州の警察は1963年当時、数台のポルシェ356を使用していた。パトカーなのにオープンモデルであることがおかしい。回転灯の位置がなんともユーモラスだ。(Photo: dpa)
1955年、ポルシェ356 Aが登場した。ドーム型のフロントガラスによって認識される。最高時速175kmの356 1600スーパーは、当時ドイツ国内で最速の1台だった! (Photo: Werk)
ポルシェ356スピードスター(左)は、1950年代にポルシェを運転するための安価なオプションだった。今日、状態のもっとも良い個体の販売価格は10万ユーロ(約1,250万円)を大きく超える。ドイツの高級住宅前で撮影された写真が、これ以降、高級なスポーツカーメーカーとしての、ポルシェの歩む道を象徴しているかのようである。(Photo: Werk)
赤の禁欲。薄いパッド入りシートは調整できず、サイドウィンドーは差し込むだけだ。 そして、乗り込む際には柔軟性が必要とされる。まだシートもノンリクライニングである。
ポルシェ356最大の130馬力のカレラバージョンで、アスファルトを燃え上がらせた!ダブルイグニッションと4基のオーバーヘッドカムシャフトが、ショートストロークエンジンを、6000回転以上可能なものにした。(Photo: Prototyp)
ポルシェ356は後継者に典型的なポルシェ遺伝子を引き継いだ。クラシックなスポーツカーのシルエットだ。(Photo: Angelika Emmerling)
左側にイグニッションが付いたスポーティなコックピット。助手席前のラリーコンピューターはもちろんノンスタンダードだろう。(Photo: Angelika Emmerling)
リアマウントボクサーエンジンは後継911でも面々と生き続けている。ボッシュの点火系の水色や、ディストリビューターの赤がチャーミングだ。それにしてもなんともシンプルなエンジンルームであることか!(Photo: Angelika Emmerling)
野外スポーツ。ポルシェ597ヤークトヴァーゲンは、舗装されていない道路でのダイナミックな操縦を1953年当時既に可能にした。結局3年間で71台だけが生産されたが、製造コストなどが理由により、それ以上の台数が量産されることはなかった。 (Photo: Werk)
サーキット上のスポーツ:550Aスパイダー(1956)は、ポルシェに最大のモータースポーツの成功をもたらした。車重はたった550キログラムであり、その550㎏の数字こそが、550のネーミングの由来ともなっている。(Photo: Werk)
映画スターのジェームス ディーンは1955年、映画『ジャイアンツ』の撮影から一周間後、カリフォルニア州サリナスで行われるレースに出場するため、納車間もない車を慣らし運転中、大学生の運転するフォードと衝突し、帰らぬ人となった。(Photo: AUTO BILD TEST & TUNING/Michel De Vries)
ポルシェ804は、グランプリレース用に特別に設計され、1962年にのみ使用された。その年、ダン ガーニーによってフランスGPで勝利した。ポルシェにとって、現在に至るまでF1における唯一の勝利だ。
1950年から、ポルシェはヒトラーからの命をうけフリードリヒスハーフェンでトラクターを製造していた。日本でも株式会社ヰセキが、ポルシェ トラクターの輸入 販売を手掛けた。(それが後々、1980年代にグループCカーにおいて、ポルシェ956のスポンサーとなるそもそものきっかけを作ったとも考えられる)
結局、1962年、ポルシェ‐ディーゼル モトレンバウGmbHがMAN社に買収され、1963年に生産を停止した。(Photo: Werk)
スタイルアイコンの登場。1961年のポルシェ プロトタイプ754。特に後の生産モデル911のフロントの明確な特徴を有している。だがこのままのスタイルであったならば、今のようなアイコン的存在になれたかどうかは、あやしい。(写真:Werk)
ポルシェ911のモデルに取り組むフェルディナント アレクサンダー ポルシェ。クレイモデルの大きさが標準と比べても小さく、削る道具の数や服装などを考えると、やらせの写真である可能性は高いが…。
最初の911が1963年に完成し、IAA(フランクフルトモーターショー)で発表することができたとき、チームの全員が誇りに思った。ドイツらしくほとんど全員がスーツ姿で直立不動だ。
スポーツカーの伝説の始まり。911の形状、そのドライビング性能、ダイナミクスは、多くのドライバーを刺激する。 後ろの色とりどりに並べられた356もキュートだが、山高帽を被った女性モデルもなかなかチャーミングである。
最初のポルシェ911は1964年9月に市場に登場し、21,900 ドイツマルクの価格で売られた。130馬力で最大210 km/hまで加速した。わが国にも三和自動車が輸入し、当時は六本木のショールームに飾られていたものである。(Photo: Werk)
エントリーレベルのモデル。1965年、ポルシェは356の市場を受け継ぐモデルとして、911の廉価版である、912を開発した。911のボディに356の最終型SC用水平対向4気筒OHV、1,582ccエンジンをリアに搭載していた。(Photo: Werk)
1969年にポルシェとフォルクスワーゲンが共同して製造したのは、VWからのパーツが多く使われているミドエンジンスポーツカー、ポルシェ914だ。ワーゲン ポルシェと呼ばれた。だが残念ながら地味なスタイリングが災いし、大ヒットにはならなかった。(Photo: Werk)
914/6からは、911Tの110馬力6気筒ボクサーエンジンを搭載した。3年の間に3332台を生産した。この角度からだと、トヨタMRSと似ているのが興味深い(どちらともスタイリングが仇となって大ヒットには至らなかった)(Photo: Werk)
低重心、ミッドエンジンレイアウト、1000kg未満の車重のおかげで、914はカーブの芸術家(agile curve artist)と呼ばれた。(Photo: Werk)
ポルシェ914は、ワーゲン ポルシェとも呼ばれていたが、914/6は完全にポルシェによって製造されていた。ボディシェルのみがカルマンから供給されたものだった。914/6からは、911Tの110馬力6気筒ボクサーエンジンを搭載した。3年の間に3332台を生産した。この角度からだと、トヨタMRSと似ているのが興味深い(どちらともスタイリングが仇となって大ヒットには至らなかった)(Photo: Werk)
ワーゲン ポルシェスタイルと鮮明なハンドリングは多くの女性ライダーたちインスピレーションを与えた。当時最先端だったリアジェットから降り立ったビジネスマンと秘書、それを迎えに来た彼女(?)いう意味ありげな一枚。彼女の持つバニティボックスの中身やいかに。(Photo: Werk)
シンプルで機能的な内装である。使いにくそうな位置のハザードスイッチ(この当時の車はみんなそんなものである)と、シガーライターがいかにも当時らしい。
914は3人乗り!で、誰かがセンターコンソール上の緊急席に座ることができるようになっていた。だがもちろんシートベルトはないし、この位置に座られてしまったら、シフトノブはいったいどうやって操作したらいいのだろうか??(Photo: Angelika Emmerling)