プラモデルはやっぱり面白い Vol. 9 トヨタ(TOYOTA)

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1960年代のトヨタ車は個性的だ。

今回はトヨタ車のプラモデルを採り上げたい。ご存知の通り、現在のトヨタ自動車は世界販売台数が第一位の自動車メーカーである。
その起源は、1933年9月、豊田自動織機製作所内に発足された自動車部である。そして、1936年9月には、初の量産乗用車であるAA型を発売し、現在に至るのである。
その間は、トヨタ自動車の発展と日本の自動車産業発展とが、共に歩んできたことを示している。特に1960年代は、他の国産自動車メーカーと切磋琢磨し、自動車先進国に追いつくべく努力を重ねてきた。
従って、1960年代の国産車は、一際、個性的なのである。
また1960年代は国産プラモデルの創成期でもあり、魅惑的な国産車の模型化は当然の如く行われた。それは新規参入も含めた数多くの模型メーカーによって支えられた(エルエス、大滝製作所、コグレ、山田模型などは残念ながら現在は存在しない)。
当時の自動車メーカーのなかでもトヨタとニッサンは二大勢力であり、車種も多かったので、模型化されたキットも豊富であった。
現在、活動中の模型メーカー各社もカープラモデルを発売しているが、新製品開発のペースは以前より落ちているように思える。また新発売される車種もヒストリックカーの比率が高いようだ。個人的には、ヒストリックカーの模型化は嬉しいが、新車も含めた多くの新規発売も望みたい。

「トヨダ AA型」タミヤ製 1/24 2015年6月発売

このキットが発売された際に、私は非常に喜んだ。「ようやくタミヤ模型もヒストリックカーに注目するようになったか」と、思ったのだ。それまでにも、タミヤは、ヒストリックカーの模型化を行ってきたが、数年毎に発売する程度であまり積極的ではなかった。
久々のヒストリックカーの発売であったが、その中でタミヤは「トヨダAA型」を選択して発売したのである(実車の発表時は、トヨダと呼ばれていた。後に懸賞応募を経てトヨタに変更した)。

ボディー側面のラインのスライドマーク貼付にはコツが必要である。

模型化にはタミヤのこだわりが感じられる。このキット専用のドライバー人形を付属している。それもネクタイ姿の紳士であり、他のキットには流用していない。

グレーのスーツ姿の紳士が運転中。

また漢字の「豊田」をデザインしたボンネット先頭のエンブレムもエッチングパーツで再現しており、はっきりと豊田と読めるのだ。

「豊田」のエンブレムがはっきりと読める。

キットの製作自体は、流石にタミヤらしく、ストレス無く組みあがる。しかし、スライドマークの貼付には多少のコツが必要である。ボディー側面に貼付するスライドマークは細長く(約20cm)、かつ曲線を描いているのだ。作業途中でイライラすると失敗してしまう。その対策としては作業の着手前に充分休憩をとってから、鼻歌まじりで作業することが大事なのだ(笑)
また、貼付するボディー側に水滴を付けておくこと。乾燥したボディーに貼付すると、後に位置調整が出来なくなってしまうからである。

せっかくの素晴らしいキットなのだが、エンジンが再現されていないことが残念だ。やはり精密に再現されたエンジンを組みたいし、完成後もエンジンを鑑賞することはカープラモデルの醍醐味であると思う。

写真はニットー製のキット。

「トヨタスポーツ800」フジミ製 1/24 2013年9月発売

このキットは現在、フジミから発売中であるが、元々は(株)日東科学(以下ニットーと記述)が発売していた物である。惜しくも現在ニットーは存在していないが、当時のニットーはトヨタスポーツ800の1/20のキットも発売していたのである。ただし、この1/20版は、アポロ模型というメーカーから、ニットーが引き継いだものであった。
1/20版については現在発売されていないが、各社メーカーが再販することを望みたい。

さて肝心のキットであるが、前述のようにニットーが発売したものだが、私はニットー製のキットが大好きなのだ。これ以外にもニットー製のホンダS800、フェアレディSR311も製作したが、どれもが40年以上前に発売された。しかしシートベルト類も付属しており、数少ない部品点数で、エンジンルーム内などの再現には精密さが感じられるのである。

エンジンルーム内にパイピングを施してみた。

私はプラモデル製作を基本的には、「素組み」(キット部品だけで説明書通りに完成させる)としているが、ニットーのキット製作時には、その出来の良さから、多少だが手を加えてしまうのだ。

コクピット内も良く再現されている。

実車のトヨタスポーツ800では貴重な体験がある。私が手伝いをさせて頂いているクラシックカーイベントに故小林彰太郎さん(自動車雑誌カーグラフィックの創刊者)がゲストとして来場された際に、展示中のトヨタスポーツ800の前で、私にそのコンセプトの素晴らしさを説明して頂いたのだ。内容は徹底した軽量化と空気抵抗の抑制による走行性能の向上であった。私にも理解し易いように言葉を選んで話してくださった。私にとって忘れられない貴重な思い出となっている。

空力性能が良さそうな可愛いらしいフォルム。
なんだかイタリア車のフォルムを感じさせる。
写真は「トヨタ2000GT 富士24時間 耐久レース優勝車」だ。

「トヨタ 2000GT」ハセガワ製 1/24 1993年5月発売

歴代のトヨタ車を代表するクルマとして外せないのが、「トヨタ2000GT」であろう。これまで生産された日本車を代表する1台ともいえよう。
ご存知の通り、海外での人気も高まっており、その美しさと高性能を両立した日本車として高評価である。
「現在でも通用する格好良さ」という表現を耳にすることがあるが、私は違うと思う。格好良いのは現在でも昔でも格好良いのだ。

スポーツカーのスタイルの公式通りのロングノーズ、ショートデッキ。

ボディーの凹部にブラック塗装をしたが、ホワイトのボディーには対比がきつ過ぎた。グレーで塗装するべきであった(ラッカー系の塗料でボディー塗装を行い、薄めたエナメル系塗装を凹部に流し込む要領で塗装する)。

格好良いクルマは、やはり数多く模型化された。以前はバンダイ、グンゼなどからも発売されていたが、現在はハセガワとアオシマのみである。現在での実車の人気を考慮すると、模型メーカー各社とも発売を考えて欲しい。

さてハセガワのキットであるが、トヨタ2000GTが持つ繊細な美しさを表現していると思う。私が思うハセガワのイメージは、飛行機の模型化を得意とするメーカーで、繊細な表現が素晴らしいと思う。その表現力がこのキットにも活かされている。

キットに注文をつけることが許されるなら、「トヨタ2000GT 富士24時間耐久レース優勝車」のスライドマークはカルトグラフ製を希望する(カルトグラフとはイタリアのスライドマークのメーカーで、同社の製品は曲面にも馴染み易く耐久性も高い)。

以前、トヨタ2000GT(実車)の開発に関わった方から拝聴した件だが、2000GTは337台しか生産されなかった。従って希少性が高く、現在では高額なプレミア価格で取引されるようだ。しかし新車発売当時は販売価格が高額であり、販売成績は芳しくなかったそうである。従ってエンジンをSOHCとして排気量2,300ccとするモデル(いわゆる廉価版)の販売計画も立案されたが、実行には至らなかった。

また最近、トヨタが2000GTオーナー向けに一部のパーツ販売を開始したようだ。これはヒストリックカーオーナーには朗報であり、今後とも発売する範囲を広げて欲しい。

写真は再販時の物。

「セリカXX」タミヤ製 1/24 1981年10月発売
       アオシマ製 1/24 発売時期不詳

最後に「セリカXX(A60型)」を紹介したい。
私の生涯で初めて格好良いと思ったクルマが「セリカXX」であった。当時は世界一格好良いと思っていた(外国車の知識が殆ど無いにも関わらず)。
そこで当時タミヤから発売されたセリカXXを約40年前に製作したのだ。今でも当時のまま手元に残っていて保管しているが、モーターライズ仕様で走行可能、またムギ球を内蔵しヘッドライト点灯可能というキットである(ただし現在は走行も点灯もしない)。
最近、アオシマ製のセリカXXを製作して2台を並べてみた。製作時期が40年間の隔たりがあるが、驚いたことに私の模型製作技術の進歩が殆ど感じられなかった。

手前のピュアホワイト塗装がタミヤ製、奥のアイボリー塗装がアオシマ製。

またタミヤデフォルメにも気付かされた。タミヤはクルマを模型化する際に、若干車高を低くして、車幅も広げて格好良くするのだ。なかなか興味深いことが分かった。
タミヤ製のキットは40年も前のことなので製作時の記憶は無いが、アオシマ製キットの製作時には思いがけない事があった。一部のパーツが付属していなかったのである。最近のキットでは非常に珍しい事だ。そこでアオシマの担当部署に問い合わせたところ、非常に迅速で親切な対応をして頂いた。感銘を受けた私はその後、すっかりアオシマのファンとなり、キットの購入が増えていく。

セリカXXを世界一格好良いと思うようになった原因の一つに、実車が発売された直後に同乗した経験があったことも上げられる。当時、私は学生であったが、友人が突然に同乗させてくれたのだ。どうも親御さんに買ってもらったようだったが、同乗してその速さには驚いた。夜中であったが、背後にパトカーが走っていたのは気が付かなかった。パトカーの中で友人は切符を切られたが、私にとって、パトカーに乗せられたのは貴重な初体験であった。
その後、その友人とは音信不通となった(スピード違反が原因ではないはず)。退学したとの噂を聞いたが、謎の友人であった。

Text & photo: 桐生 呂目男