自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その18(最終回) デューセンバーグは超高級車
2025年8月12日

7日目 2月23日(パート3)
「ザ ロー コレクション」の展示車の解説が2回続いていささか食傷気味の読者諸氏もいるかと思うが、あと3台紹介したいクルマがあるのでお付き合いください。
ここで一度、大西洋を渡ってアメリカに目を向けてみよう。ロー コレクションにはアメリカ車の逸品も展示されており、そのなかで注目はやはりデューセンバーグ、アメリカの富と成功の象徴だ。
フレッド(Fred)とオーガスト(August)のデューセンバーグ(Duesenberg)兄弟が、ミネソタ州セントポールにてデューセンバーグ モーターを設立したのは1913年のこと。兄弟は1922年に意欲作モデルAを発売するが、あまりに高価ゆえ期待通りには売れず、これが躓き(つまずき)の元になって経営に行き詰まる。救いの手を差し伸べたのは実業家のイリット ロッバン コード(Errett Lobban Cord)という人物だった。
イリット コードは20世紀中盤までアメリカの輸送産業を牽引したビジネスマン。1924年、その卓越したビジネス手腕を駆使して、当時財政苦境に陥っていたオーバーン オートモビル カンパニー(ACC)の経営方針決定権を手に入れる。彼は同社をたちまち利益の上がる企業へと復活させ、翌1925年2月、正式に同社の社長に就任すると同時に経営権を掌握した。そうしてACCが上げる利益を使って様々な企業の買収を始める。
ちなみに高級車メーカーの「コード」は彼自身が興したブランドで、皆さんも特異なスタイルをしたコード810/812の写真を見たことがあるだろう。
イリットが買収したブランドにはデューセンバーグもあった。1926年10月26日以降、同社はコードの支配下に入り、その際、社名もデューセンバーグInc.に改まった。
新体制下で放った第一作がモデルJで、1928年のニューヨークショーでデビューするや、威風堂々たるスタイルと先進的な設計でたちまち人々の注目を集めた。自然吸気ストレート8は、同社のレーシングエンジンの技術を取り入れたユニットで、気筒当たり4バルブのDOHCという今日に通じる先進的な設計が特徴だった。
この直列8気筒は、3.74in (95mm) x 4.76in (121mm)のボアストロークから420cu in (6900cc)の排気量を得て265hp/4250rpmの最高出力を発揮、重量級オープンボディを2速でも89mph (143km/h)まで引っ張り、最高速は116mph (187km/h)に達したという。モデルJは当時お金で買えた最速にしてもっとも高価なアメリカ車だった。

モデルJは総数300台前後が製作された。その半数に同社チーフエクステリアデザイナーのゴードン ビューリグ(Gordon Buehrig)のペンが描いたボディが架装された。残りの半数はアメリカ国内の様々なコーチビルターがオーナーの好みに合わせたボディを製作、ロー コレクションが展示する1台はマーフィー(Murphy)の作品である。
ウォルター M マーフィー(Walter M Murphy Company)はカリフォルニア州パサディナにワークショップを構えるコーチビルダーで、1922年に創業し1932年までボディ製作をつづけた。
イリット コードのリーダーシップのもと、モデルJを世に放って順調な再出発を遂げたデューセンバーグだったが、まもなく時代の波に翻弄されることになる。モデルJを発表したわずか翌年の1929年10月、ウォール街の株価暴落に端を発する世界大恐慌が勃発、この高級ブランドに壊滅的な打撃を及ぼした。
デューセンバーグはすこぶる高価なクルマだった。1928年当時、モデルJはシャシー単体で8500ドル、完成車は1万9000ドルもした。専門職である内科医の年間収入が3000ドルに満たなかった時代の話である。なんとか生産をつづけて契約済みの顧客に納車したが、最後は力尽き、世界中の富裕層から惜しまれつつ1937年にファクトリーのドアを閉じた。
その希少性とプレスティッジ性ゆえ、デューセンバーグは今日、天井知らずの高値で取引されている。オークションハウス サザビーズによると、1930年製のマーフィー ボディを架装したモデルJ ディスアピアリング トップ(Disappearing Top)コンバーチブル クーペは、 2024年のオークションにて 385万5000ドルで落札されたという。2025年7月、本稿執筆時のドル換算レート(144.38 円/ドル)でおよそ5億5660万円(!)である。
なお、トヨタ博物館にもルバロン ボディのモデルJフェートンが展示されている。興味のある方は足を運ばれるといいだろう。
VWタイプ1(ビートル)はタトラ V570のコピー?
漆黒に塗色された大柄なサルーンを目にして、私はギョッとした。緩やかな下降線を描くファストバックの真ん中から、大きな背びれが生えている。これは一体なんだ?しばらくしてメーカーの見当だけはついた。東欧チェコのタトラ(Tatra)だ。それ以上の細目がわかったのはようやく日本に戻ってからで、私を驚かせたタトラは1936年に発表されたT77Aというアッパーミドルクラスサルーンだった。

タトラT77A。生産期間:1936年~1938年。生産台数:154台。前期型のT77を含めた総生産台数:255台。空冷V8 3.4リッターエンジン。最高出力:70hp。
1930年代当時、さらなるスピードを可能にする方策はただ一つ、大きなエンジンを搭載することだと一般的に考えられていた。しかしエンジンを大型化すれば重量も増え、その重量増を相殺するためにさらに排気量を増やすという「負の連鎖」から免れなかった。
タトラT77とその正常進化版T77Aは、高速走行を可能にするもう一つの手段として空気抵抗の低減に着目した先駆者の一人であり、その後の自動車のデザインに大きな影響を及ぼしたゲームチェンジャーだった。
T77を完成させた功労者は二人いる。一人はエンジニアのハンス レドヴィンカ(Hans Ledwinka)、もう一人は空気力学のスペシャリスト、パウル ヤーライ(Paul Jaray)である。ヤーライはウィーン生まれのハンガリー人で、飛行船ツェッペリンのデザイナーでもある。LZ 127 グラーフ ツェッペリン(Graf Zeppelin)や、LZ 129ヒンデンブルク(Hindenburg)は彼の作品だ。余談だがハンガリーでは、姓名は日本と同じく「姓・名」の順に並ぶ。発音を含めて「ヤーライ パル」がもっとも原語に近いと思われる。
話は1931年、タトラR&D部門の一隅から始まる。この年、レドヴィンカはT77の原点となるV570を製作、バックボーンフレームのリヤに2気筒エンジンを搭載した試作車だった。次いで1933年のV570 2号車では、原始的ではあるが空力の理論を取り入れた涙滴形状のボディを試行、ヤーライが提唱する空力理論を取り入れた。
二人の作業が進むそんなとき、タトラを訪れたある重要人物がV570の2号車に試乗して、いたく感激する。その人物とはアドルフ ヒトラーその人。あれは「国民車」の構想に合っているとフェルディナント ポルシェ博士に伝えた。1938年に登場したVWタイプ1「ビートル」は成り立ちといい恰好といい、不気味なまでにV570に似ていた。以降、タトラとVWとは微妙な関係になるが、1965年にVWが100万マルクを支払ってコトは落着したといわれる。
話を戻そう。V570で得た教訓は、タトラがかねてから計画していたニューモデルT77で実を結んだ。T77の機構には設計者レドヴィンカの理念が色濃く表れている。シャシーの骨格は箱形断面のスチール製バックボーンで、その後部が二股に分かれてエンジンとトランスミッションを抱える。サスペンションは前が2枚の横向きリーフスプリング。後ろはやはり横置きリーフスプリングによるスイングアクスルだ。
空冷エンジンの熱心な信奉者であるレドヴィンカは、T77用にバンク角90度の空冷V8をゼロから設計した。2970ccの排気量から60hp/3500rpmの最高出力を生み出す。特殊なバルブ開閉機能を取り入れて半球形燃焼室を実現していた辺りに、レドヴィンカの独創性を見ることができる。
一方、外観のデザインにはパウル ヤーライが思う存分腕を振るった。風洞実験で得たノウハウを元に、従来のデザインをはるかに上回る空力特性を目標に据えてT77のボディ形状を完成させた。全体形はV570で試行した涙滴形状を踏襲している。フロントフェンダーこそ依然としてボディから独立したパーツだったが、リヤはメインボディと完全に一体のフラッシュサイドとなり、前後フェンダーを繋ぐランニングボードもない。
この時代、曲面ガラスはまだ製造できなかった。しかしヤーライはウインドスクリーンが起こす空気抵抗の軽減に意を尽くし、平ガラスを使いながら極力、曲面ガラスに近い形状を目指した。つまり中央に大きな1枚ガラスを据え、その左右にAピラーに向けて角度をつけた縦型ガラスを配したのだ。留めは冒頭に記したエンジンカバー上の「背びれ」である。
このテールフィンについては、高速走行時の直進安定性の向上に寄与するとの説明が一般的で、私も素人なりにその通りだろうと思う。しかしこれがあるため横風の影響も受けやすくなりそうで、その効用は限定的だったのでは、と首をかしげてしまう。読者諸氏はどうお考えだろうか?
ともあれ、こうした細部にわたる工夫を凝らした結果、1/5スケールのモデルでは、空気抵抗係数(Cd値)0.245を実測したという。平均値が0.5を超える1930年代の実用車としては傑出した数値だった。
ただし現実には大型の空冷V8に充分な冷却気を取り込むインテークを設ける必要があった。ヤーライは熟慮のすえ、ルーフ後端部とエンジンカバー前端に段差を設けた。こうしてできた開口部から冷却風をエンジンベイに流し、エンジンカバー上の2列のルーバーから排出するのだ。これなら空気抵抗を最小限に抑えられる。彼の努力は実を結び、わずか60hpでも140km/hの最高速に達した。
かくして完成したタトラ T77は1934年のプラハショーにて発表される。理想を求めるレドヴィンカはこれに満足することなくT77の改良に取り組んだ。ボアを5mm拡げて排気量を3.4リッターに拡大、最高出力を70hpに高めると同時に、ホイールベースを伸ばして、大人6名が快適に座れるキャビンを実現した。改良版はT77Aと名づけられ、1936年発表の運びとなった。
リヤエンジンレイアウトと優れた空力特性に特化したボディはタトラのトレードマークとなり、後継車のT87やT97に引き継がれていく。そして今日、電気自動車の航続距離を伸ばす有効な手段として空気力学に新たなスポットライトが当たっている。遠く1930年代にハンス レドヴィンカとパウル ヤーライの二人の技術者が切り拓いたテクノロジーの分野が、今日の乗用車のデザインに従来とは別の意義を持ったのは興味深いことだと思う。