自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その16 フェラーリの名車たち
2025年7月30日

2000年のF1シーズンはフェラーリのミハエル シューマッハとマクラーレンのミカ ハッキネンとの間で火花を散らす首位争いに終始した。チャンピオンの決定は第16戦の鈴鹿に持ち越された。ここでウェットコンディションをうまくこなしたシューマッハがハッキネンを抑えて優勝、自身3度目、フェラーリ移籍後初のドライバーズチャンピオンを決め、フェラーリにもコンストラクターズタイトルをもたらした。

1952年に登場した250 Sはフェラーリにとって重要なモデルだ。気筒当たり250ccを示すモデル名はつまり3リッターのV12を意味する。これ以降、このエンジンを搭載した数多くの市販型およびレース用250 GTの系譜が続くわけだが、その出発点となるのがこの250 Sなのだ。
ベルリネッタボディをデザインしたのはジョヴァンニ ミケロッティ(Giovanni Michelotti)、実際の製作を担当したのはカロッツェリア ヴィニャーレ(Vignale)だ。250 Sが「ベルリネッタ ヴィニャーレ」のサブネーム付きで呼ばれるのはそのためである。
エンジンはジョアキーノ コロンボ(Gioachino Colombo)が設計し、アウレリオ ランプレディ(Aurelio Lampredi)が改良を加えて進化させたV12。73×58.8 mmのボアストロークから得る排気量は2953.21ccで、227hp/7500rpmの最高出力を生み出した。シャシーは小径の鋼管から成るスペースフレームをサイドメンバーで強化したフェラーリ独自の設計で、軽量にして高い剛性を誇った。
250 Sの初戦は1952年のミッレミリア。カール クリンク駆るメルセデス・ベンツ 300SLと熾烈なバトルを演じるが、ジョヴァンニ ブラッコ(Giovanni Bracco)とアルフォンゾ ロルフォ(Alfonso Rolfo)のドライビングクルーはフータとラティコーザの2つの峠で目も覚めるようなステアリングさばきを披露、見事デビュー戦を総合1位で飾った。さらにアルベルト アスカリ(Alberto Ascari)とルイジ ヴィロレージ(Luigi Villoresi)が組んで同じ年のルマンに出場、アスカリがスポーツ3.0カテゴリーの最速タイム4分40秒5(平均173.16 km/h)を記録した。本戦ではクラッチが壊れてリタイアに終わったが、250 Sは公道だけでなくサーキットでもその駿足をいかんなく発揮した。
250 Sはたった1台しか製作されなかった。その1台がロー コレクションに展示されている。フェンダーに開いた2つの通風口がデザイン上の特徴。ボンネットのエアインテークはミッレミリア以降に追加になっている。ウインドシールドには1対の対向式ワイパーに加えて、ルーフを支点とする3番目のワイパーが備わる。

世界でももっとも美しいレーシングスポーツカー、フェラーリ 330 P4。実物を目の当たりにして私はしばしその姿に見入ってしまった。しばらく経って我に返り、夢中でシャッターを切った。この1台を見られただけでロー コレクションを訪れた価値があると思った。
アルファベット「P」は1963年の250 Pに始まるフェラーリの一連のプロトタイプレーシングカーを示す。なかでも1967年の330 P4はシリーズ中、一つの頂点を極めた名マシンだった。
話は前年1966年のルマンに遡る。フェラーリにとっては苦々しい思い出しかないレースだった。フォードは物量作戦で臨み、最新スペックのマークIIを8台、バックアップのGT40を5台、計13台もの大部隊をサルトに送り込んだ。一方のフェラーリは新型330 P3が3台のみ。ほかにプライベートチームが356 P2 (前年1965年マシンの進化型)を4台エントリーしていたが、競争力で一歩劣るのは否めなかった。つまりこの年のルマンは始まるまえからフォードが優勢だった。果たしてレースはその通りに進んだ。日曜の朝までに3台のP3は全滅、後半はフォードの独壇場となった。結局3台のマークIIが上位3位を独占したままひたすらゴールを待つことになった。
レース最終盤、フォード上層部は3台をサイドバイサイドでフィニッシュさせ、圧倒的勝利に花を添えようとする。これが悲劇を引き起こした。1位を走っていたケン マイルズ/デニス ハルム組は2位のチームカーが1周遅れと勘違いし、あえてこれを先行させてチェッカーを迎えた。ところが2位のマシンは実際には同一周回にあり、我が意に反してマイルズ/ハルム組は2位になってしまったのだ。この辺りの経緯は2019年公開の映画『フォードvsフェラーリ』をご覧になった方はご存じのことと思う。一方のフェラーリはGTクラスの275 GTBが総合8位に入ったのが最上位だった。誇り高きマラネロの人々にとっては惨敗に等しい結果だった。
1967年にかけてのオフシーズン、新シーズンの主力マシンとなる330 P4の開発に取り組んだマウロ フォルギエーリは、P3の4リッターV12の信頼性向上に注力すると同時に、競争力の向上に有効と判断した新機軸は積極的に取り入れた。その代表例が気筒当たり3バルブ(吸気2、排気1)の シリンダーヘッドの採用だった。3バルブヘッド化は前年1966年の312 F1で試行して良好な結果を得ており、その実績を踏まえた変更だった。これに伴って気筒当たりツイン点火のプラグネジ径は12mmから10mmへと小径化された。
330 P4用V12エンジンは、77×71mmのボアストロークから3967ccの排気量を得て、450hp/8000 rpmの最高出力を生み出した。リッター当たり113hpの比出力は、フェラーリのレース用エンジンとしては充分なマージンを取った数値に思える。燃料供給システムはルーカスの直噴。

1967年 フェラーリ330 P4。バンク角60度のV型12気筒。ボアストローク:77×71mm。排気量:3967cc。最高出力:450hp/8000 rpm。
チームの陣容を盤石にするため、フェラーリはP3をベースにP4のスペックを取り入れたバックアップモデル412 Pを4台製作した。そのうち2台は前年型P3のシャシーを流用していたので、この2台に限ってはP3/4と呼ばれる。このP3/4も412 Pも、機構上、燃料供給がルーカス製燃料噴射装置ではなく、ウェバー製キャブレターなのがP4とのおもな相違点に挙げられる程度で、外観はP4と見分けがつかない。
こうして迎えた1967年シーズン、結論から先に言うとフェラーリにとっては「めでたさも中くらい」の結果だった。世界スポーツプロトタイプカー選手権の初戦に当たるデイトナ24時間レース。ライバルのフォードが繰り出したGTマークIIBがマシントラブルで次々と脱落していくなか、フェラーリは着実にレースを運んだ。その結果、フェラーリ勢が上位3位を独占、そのまま1、2、3フィニッシュを決めた。バンクがついたフィニッシュラインを3台が横に広がって越える写真を、エンツォはその後長らくオフィスに飾ったという。前年のルマンでの雪辱を果たしたわけで、マラネロの人々は大いに溜飲を下げた。
最終的な結果は、ロレンツォ バンディーニ/クリス エイモン組の330 P3/4、マイク パークス/ルドヴィコ スカルフィオッテイ組の330 P4、ペドロ ロドリゲス/ジャン ギユイシェ組の412 Pという順だった。ロー コレクションに展示されているマシンナンバー26はノースアメリカンレーシングチーム(NART)がエントリーした412 Pで、ホイールがカンパニョーロ製の星形でないことを除けばP3と識別できない。まずはその美しい姿をしばしご覧いただきたい。

そして1967年6月10日、天王山のルマンを迎える。フェラーリ陣営は330 P4を4台、412 Pを3台と背水の陣を構えた。対するフォードも新型マークIVの4台を筆頭に総勢10台と前年に劣らぬ物量作戦を採る。そのフォードは予選から力を発揮してポールポジションを獲得したのに対して、フェラーリ勢はP4の7位が最速に留まった。これは長丁場を考慮して、フェラーリが速い予選タイムを狙わなかったからだと言われる。
しかし本戦でもフォードの優位は変わらず、午前0時の段階でマークIVが上位を占めたままレースが進む。午前3時過ぎにアクシデントでフォード陣営は一挙に3台を失い、この機に乗じてルドヴィコ スカルフィオッテイ/マイク パークス組のP4が2位に浮上。それでもダン ガーニー/A.J.フォイト組駆るマークIVのトップは変わらない。レース終盤、首位のマークIVがややペースを落としたのに対して、P4がスパートをかける一幕もあったが、結局この順位でフィニッシュ、フォードはルマン2連勝を果たした。フェラーリは善戦するも2、3位に留まり、デイトナの再現はならなかった。
印象的なのはその後の両チームのレースに対する姿勢だ。ルマン勝利の野望を果たしたフォードはこの1967年を最後にスポーツカーレースからあっさりと撤退する。一方のフェラーリはその後もルマン挑戦を続けた。そして今年2025年のレースでは、フェラーリ499 Pが優勝、2023年から3年連続で伝統の24時間耐久レースを制するという偉業を達成している。まさに「継続は力なり」。レースに対する変わらぬ情熱を結果で示したのである。

リリアン バエルがベルギーのレオポルド3世王子と会ったのは、1933年のある日のこと。二人は会った瞬間に恋に墜ちた。それから8年後の1941年、二人は結婚する。リリアンの父アンリ バエルはベルギーの農業大臣を勤めるほどの人物だったが、一介の貴族に過ぎない。ベルギー国民は、未来の国王が王室と血縁のない女性と結婚することに冷たい目を向けた。しかも結婚したのは第二次世界大戦(1939~1945年)の真っ最中。夫婦は海外に亡命し、王位と王妃の継承権を奪われた。
それでも二人は幸せだった。彼らの生活を彩ったのはスポーツカー。とりわけレオポルド3世はフェラーリの大ファンで、数多くのGTを所有していた。スポーツならなんでもこなすリリアンもフェラーリを巧みに運転した。
エンツォ フェラーリと夫婦とは親しく手紙を交わす仲だった。1955年のある日、エンツォはリリアンに一通の手紙をしたためる。「シーズン途中だというのに、ピレリは明日にもタイヤサプライヤーの役目を終わらせるつもりです」。これを受けたリリアンはすぐさまベルギーのタイヤメーカー、アングルベール(Englebert 1979年以降はコンチネンタルグループの一員となる)に電話入れる。その日の夜までにマラネロのファクトリーにレーシングタイヤが納められたという。

リリアンの水際立った対応策に深い感謝の意を表して、エンツォは1台の250 GTを贈呈する。当時の250 GTはボアーノが製作したボディを架装するのが一般的だったが、シャシーナンバー0751GTのボディは、ピニン ファリーナ-が腕によりを掛けたオリジナルデザインだった。つまりリリアンに贈られた250 GTスペチアーレ クーペは掛け値なしのワンオフである。ボディカラーはグリジョ フーモ(Grigio Fumoスモーク グレイ)。内装はコノリーの“ヴォーモルVaumol”と呼ばれる本革で設えてある。
カロッツェリア ピニンファリーナはバッティスタ “ピニン” ファリーナ(Battista “Pinin” Farina)によって1930年に創設された。バッティスタが息子セルジョに経営を委ねた1961年、イタリア大統領はファリーナのファミリーネームをピニンとファリーナの間の「アキ」なしの「ピニンファリーナ(Pininfarina)」に改めることを認め、会社名もピニンファリーナになった。
ピニンファリーナは豊かな曲面を組み合わせたデザインを数多く世に出して名声を博したカロッツェリアの大御所だが、直線を使う手腕にも秀でたものがある。例えば1971年のフィアット130クーペや、1975年のロールス・ロイス カマルグでは、同カロッツェリアのパオロ マルティンが直線を巧く活かしたデザインで成功している。
話を250 GT スペチアーレ クーペに戻すと、実車はかなり大型のクーペだが、入念に計算されたプロポーションゆえ、バランスに一切の破綻がない。ただ一点、ノーズのエアインテーク両端に備わる縦型のバンパーに追加されたラバープロテクターは無粋に感じた。この250GTはリリアンの手から離れたのちアメリカに渡り、様々なオーナーのもとで何度も小規模改修を受けている。このラバープロテクターはアメリカにあった時代に取り付けられたと思われる。
レオポルド3世とリリアンにとってロイヤルファミリーの生活は必ずしも安泰な日々ばかりではなかっただろう。しかしエンツォからのプレゼントでドライブを楽しむとき、二人は自分たちだけの幸福な時間を過ごしたに違いない。
以上、本稿ではフェラーリに焦点を絞って、読者の皆さんとロー コレクションの展示品を眺めた。次回はドイツとイタリア以外の諸国が生んだ名車、希少車のブースを訪れることにしよう。
Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか
【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。