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自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その17 希少なクラシックカーの数々

2025年8月4日

話はこれで終わらない。1932年始め、ルールは再び兄弟の許を訪れて、ボディを大型の4ドアリムジーヌに換装するよう依頼する。この時も作業はスムーズに進行し、同年4月、注文主のガレージに納まった。ルールはこれにラ フレッシュ ドール (La flèche d’or=黄金の矢)と名づけて愛用した。

私がロー コレクションで見たのは、まさにこのラ フレッシュ ドールだった。正式名称をビュッシアリTAV12という。「TAV」はトラクシオン アヴァン(Traction Avant = FWD)を、「12」はシリンダーの数を示す。

ボディはポール-アルベール・ビュッシアリの手によるオリジナルデザイン。ご覧のように例外的に長い全長(6360mm)に対して、異様に低い(1480mm)。ボンネットも極めて低く、24インチもの大径ホイールとほとんど同じ高さにある。結果として独特のプロポーションが実現した。

エンジンは前述のようにヴォワザンから購入した12気筒(型式名称H18)。4速トランスミッションはビュッシアリのインハウス設計で、フロントブレーキはデフ側に備わるインボードタイプを採用していた。TAV12は極めて野心的な設計だった。製作されたのはこの1台に留まる。

ジョルジュ ルールが愛用したあと、TAV12は様々なオーナーの手を転々とするが、今はロー コレクションに安息の地を得ている。

「意あって力足りず」。高い志を抱きながらも、それを実現する力が足りない。ビュッシアリのストーリーを知るほどに、私はこの言葉を思い出す。FWDや独自設計の16気筒エンジンなど、先進的で独創性に富んだ設計を目指した兄弟の志は高い。

しかし利益を最優先する自動車メーカーにとって、実用化の目処が立っていないアイデアは「絵に描いた餅」に過ぎない。ゆえに兄弟の技術を買おうという自動車メーカーはなく、ビュッシアリは1931年あえなく倒産、翌32年のラ フレッシュ ドールをもってささやかな歴史の幕を降ろした。

タルボ ラーゴT26グランスポール クーペ

伊丹十三、と聞いても今の若い読者にはピンとこないかもしれない。もう30年近くも前にこの世を去った人だ。伊丹の名は映画監督として紹介されることが多いが、自身俳優でもあり、脚本も手掛けるマルチタレントだった。エッセイストとしても才能を発揮し、多くの傑作を残している。そのなかに『男と女』と題した小編があり、こんな風に始まる。

「フランス人という人種は、非常に実用的なものをシィク(これはぜひ「シィク」と発音してもらいたい。シックというと病気ということになってしまう)に着こなすことの上手な人たちだと思う」

このあと彼はフランス人のファッションセンスについて独自の理論を展開するわけだが、私はこの2ドアクーペを見た瞬間、なんとシック(chic。伊丹流に言えばシィク)なクルマだろうと感嘆した。メインの青みがかったグレーに明るいブルーの組み合わせ。どちらもごく日常的、いわば実用的な色なのに、全体として極めてシックな風合いを実現している。完璧なプロポーションもこの塗り分けなしには半減しただろうというほど伊達なカラーリング。フランス流シックの極致を見た思いだ。

このセクシーなクーペ ドゥポルト(coupé deux portes)、名前をタルボ ラーゴT26グランスポール クーペという。

タルボ ラーゴT26グランスポール クーペ。1948年製。ソーチークボディ。直6 4483cc。最高出力:195hp。最高速:約200km/h

タルボ ラーゴは、フランスはオー ド セーヌ県のシュレーヌ(Suresnes, Hauts de Seine)にあった自動車メーカー。その歴史は複雑極まるので、本稿ではごく簡単に触れるに留める。1932年、オトモビル タルボ(Automobiles Talbot)は世界大恐慌の余波を受けて瀕死の状態に陥っていた。同社のビジネスを甦らせる使命を担って、イタリア系英国人のアントニオ ラーゴ(Antonio Lago)が業務取締役に任命される。

ラーゴは早速事態の打開に打って出るが、一方、おもにオトモビル タルボの社主の力不足で、同社は1934年末をもって管財人の管理下に入ることを余儀なくされた。管財人はすぐに同社を閉鎖することはせず、アントニオ ラーゴとのあいだに交渉の余地を残した。難しい交渉のすえ、ラーゴは今日の言葉で言うバイアウトにこぎ着け、1936年、晴れて同社の経営権を取得、かくしてタルボ ラーゴが誕生する。

T26グランスポールは1947年10月発表になった。翌1948年にはフル生産に入ったが、それでも生産台数は12台に過ぎない。T26グランスポールは成功を収めたタルボ ラーゴT26Cグランプリマシンの特徴を多く引き継いでいたため、当時極めて進歩的な設計のスポーツクーペだった。アルミ製シリンダーヘッドの4.5リッター直列6気筒エンジン、中空クランクシャフト、マルチポートの排気系、トリプルキャブレターなどはその一例、まさにグランプリエンジンを市販車に搭載した、高度な内容を誇った。駿足振りも一流で、4.5リッター直6から195hpを絞り出し、最高速約200km/hを謳った。

レースでも活躍した。ルイ ロジエと息子のジャン-ルイのフランス人クルーは、T26グランスポールを耐久レース用にモディファイしたタルボ ラーゴで1950年のルマンに出場、見事フランスに戦後初のルマン勝利をもたらしている。ルマン史上初めて1周平均100mphを超す新記録165.490km/hを打ち立て、走行距離も戦前の39年の最長距離を上回る3465.120kmを走り切った。ロジェ親子がタルボ ラーゴで果たしたルマン勝利は、第二次世界大戦が終結してまもないフランス社会に勇気をもたらす星だった。

T26グランスポールはベアシャシーの状態で顧客に売り渡され、これを受けた顧客は好みのキャロシエにビスポークのボディを注文した。当時はまだ、ソーチーク(Saoutchik)、フラネ(Franay)、オブラン(Oblin,)、フィゴニ エ ファラスキ(Figoni et Falaschi)などが辛くも残っているよき時代だった。

ロー コレクションに展示されていたのは、1948年にソーチークが2台のみ製作したロールーフボディのうちの1台。希少車中の希少車である。

ブガッティ タイプ57

ブガッティ抜きにはフランスのクラシックカーは語れない。写真はタイプ57のシャシーにガングロフ(Gangloff)というキャロシエがボディを製作した2座席カブリオレ。アラヴィス(Aravis)はフランスの山岳地帯の地名だ。ガングロフは5台のアラヴィスを製作しており、その内の1台がロー コレクションに展示されている。なお、ガングロフ以外にルトゥールヌ エ マルション(Letourneur & Marchand)が5台の、ベルギーのアルベール ディエテラン(Albert D’Ieteren)が1台のアラヴィスを架装しており、製作台数の総計は11台となる。

タイプ57のエンジンはタイプ49用をベースに、エットーレ ブガッティの子息ジャンが大幅な改良を施して造り上げた。搭載するDOHCストレート8は72 x 100mmのボアストロークから3245ccの排気量を得て、135hp/4500 rpmの最高出力を発揮。ツインカムエンジンの偉力でレッドラインは5000 rpmの高みにあり、リッター当たり41.6hpの比出力を実現している。

1938年製 ブガッティ タイプ57 アラヴィス。製造期間: 1933 ~ 1939年。乾燥重量:1630 kg。外寸:不明。ホイールベース: 3300 mm。最高速:約152km/h。

このようにジャンはエンジンには先進設計を積極的に取り入れたが、シャシーは父エットーレの保守的な意思が働き、ジャンの意に反して旧式な設計とならざるを得なかった。フロントサスペンションが半楕円リーフスプリングにハートフォード製フリクションダンパーを組み合わせたリジッドアクスルなのはその好例だ。ブレーキも当初は機械式だったが、父親との激論の末、ジャンが自分の意思を通して1938年に油圧式へ進化している。ただし私が調べた限りでは、ロー コレクションの1台はケーブル作動のままだ。

なお、足回りは前後とも18インチのラッジ ウィットワース製ワイアホイールと15インチ(380mm)径ドラムブレーキの組み合わせ。

ボディを架装したガングロフはフランス アルザス地方の町コルマール(Colmar)に本拠を置くキャロシエ。ブガッティのアトリエがあるモールスハイムとはほんの55km先という地理的条件と、優れたボディ製作技術ゆえ、両者は良好な関係を築いていった。特に歴代ブガッティ中最多となる710台が製造されたタイプ57が登場して以降、ガングロフへの注文も急上昇し、最盛期には毎月5台のペースでブガッティのボディを製作した。

ここで話題を変えて、エットーレ ブガッティの名前表記にスポットライトを当てたい。彼は1881年にミラノで生まれたイタリア人で、1946年にフランスの市民権を得た人物。私は本稿では彼の名前を一般的な「エットーレ ブガッティ」と綴ったが、出生国を重視するなら、「エットレ ブガッティ」がイタリア語の発音に近いと思う。一方、フランスの市民権を得たことを重視するなら「エットル ビュガティ」がフランス語の発音に近い表記になりそうだ(あくまで「より近い」のであって、原音そのものを再現できるわけではない)。

いずれにしても翻訳者という仕事柄、私はEttore Bugattiを「エットーレ ブガッティ」と表記するのが正しいのか、確信が持てないでいる。大抵の人にとって、私は取るに足りない事柄を論じているのだろう。しかし翻訳が外国文化を紹介する窓口だとすれば、固有名詞のカタカナ表記は重要だ。従来の表記を見直し、当該の国の発音にできるだけ近い表記に改める努力はつづけたいとの思いがある。

Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか

【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。