自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その17 希少なクラシックカーの数々
2025年8月4日

7日目 2月23日(パート2)
前回は歴史的な名車の収集家フリードヘルム ロー氏が個人で運営する「ザ ロー コレクション」のレポート パート1をお届けした。パート2ではドイツとイタリア以外の諸国の展示車を見て歩くことにしよう。
まずは英国を代表して1937年製ベントレー 4½リッター フィックストヘッドクーペ (Bentley 4½ Litre Fixed Head Sport Coupe by Vesters & Neirinck)を紹介する。このワンオフに注目したのはズバリ、スタイルが素晴らしかったからだ。ベントレーらしいスポーティネスと、ベントレーでは珍しい純ヨーロッパ調のエレガンスとが絶妙に溶け合っている。
フロントはラジエターに対してやや大きめのヘッドライトを配し、その下に一対のドライビングライト、中央にホーンというベントレースタイルの定石を守っている。これに対して斜め前方から見たボディサイドは俄然、個性が際立つ。豊かな涙滴形状をしたフロントとリヤフェンダーのあいだにランニングボードがないので、とてもスッキリした側面観が出来上がった。
ホイールもこの1台のオリジナルで、ノックオフセンターハブの周囲を2個のクロームリングが囲み、その隙間を凝ったデザインのパターンが埋めている。これと比べると、フーパー ボディの4ドアサルーンが装着する真っ黒なワイアホイールがやけに野暮ったく見える。126インチ(3200mm)とたっぷりしたホイールベースを完全な2座席キャビンが占めるという贅沢な使い方。
テールは大きなラゲッジコンパートメントとスペアホイール/タイヤを背負う。長めのボンネット、相対的に小さなパッセンジャーコンパートメント、テールの大ぶりなラゲッジコンパートメント、この三者が完璧なプロポーションを形作って見事だ。

1931年、経営破綻に陥ったベントレーをロールス・ロイスが買収した。生産拠点がロールスのダービーに移ったので、それ以前のベントレーと区別するため、ロールス傘下で製造されたベントレーを“ダービー ベントレー”と呼ぶ。本稿の主人公も1937製なのでダービー ベントレーで、1936~1939年までに1234台が製造された4½リッターモデルの1台だ。
4½リッターはベントレーの名に恥じない駿足の持ち主だった。英国の専門誌『The Autocar』が、現役当時のパークウォード ボディ4ドアサルーンの動力性能を計測したところ、最高速90.9mph(約146.3km/h)、0-60mph (約97km/h)加速15.5秒を実測している。趣味のいい内装と充実した装備を備えるこの時代のスポーティ サルーンとしては非常に優秀な数値だ。
このフィックストヘッドクーペのボディを架装したのは、ベルギーのVesters & Neirinckというコーチビルダーだった。私には聞いたこともない名前なので、便宜的にカタカナ表記はヴェスタース&ナイアリンクと記す。同社の創業は1914年ころと言われ、1923年のベルギーオートサロンを皮切りにさまざまなショーに作品を出展。おもにミネルバ、ロールス・ロイス、ドゥラージュなどのシャシー上にワンオフボディを製作した。私がヨーロッパ調のエレガンスを感じたのは、ボディがベルギー製だったからかもしれない。
ちなみに注文主はクロード ラウール ブノワ ラン(Claude Raoul Benoit Lang)という人物。この黒塗りの伊達なクーペは、ムッシュ ランを乗せてヨーロッパを縦横無尽に駆け巡ったのだろう。まさにグランドツアラー ベントレーの面目躍如たるところである。
ビュッシアリTAV12
その展示車を見たとき、私には車名すらわからなかった。説明板を見ると「Bucciali」とある。ビュッシアリ――。それでもピンとこない。そんなわけで以下の解説は日本に帰ってから、ネット上で得た情報を元に書き起こした。
第一次世界大戦(1914~1918年)が終結して間もない1922年、アンジェロ(Angelo)とポール-アルベール(Paul-Albert)のビュッシアリ兄弟は、パリ近郊の街クールブヴォワにてビュッシアリ兄弟会社(Société Bucciali Frères)を興し、平凡なスポーツカーを少数生産した。1926年、兄弟は会社名をビュッシアリに改めて、業務を自動車エンジニアリングおよび設計へと転換、おもにFWDの開発に注力する。シトロエンのトラクシオン アヴァンが登場するのが1934年のことだから、兄弟はずいぶん早期から当時の先進技術に着目していたわけだ。その1926年以降、パリサロンに毎年、新技術を展示する。

1932年 ビュッシアリTAV12。全長: 6360mm。全幅:不明。全高: 1480 mm。ホイールベース: 4089 mm。V型12気筒 4886cc。最高出力: 120 hpないしは180 hp(2説あり)。
なかでも注目は独自設計のビュッシアリ・ドゥブル・ユイット(Bucciali Double Huit=ツイン8気筒)と名づけられた16気筒エンジンで、兄弟はこれをコンバーチブルボディに搭載、1930年のショーに展示した。兄弟の自信作だったが、この16気筒はほとんど顧みられることはなかった。しかしショーの会場でこれに強い関心を示した人物が一人だけいた。本稿の主人公ビュッシアリTAV12の初代オーナーとなる人である。
1930年のある日、クールブヴォワのビュッシアリ オフィスに一人のビジネスマン、ジョルジュ ルール(Georges Roure)が訪れる。
「今年のパリサロンに君たちが展示した16気筒エンジンのコンバーチブル、あれの同型車を作ってもらいたい」。ルールは前置きなしに用向きを伝えた。兄弟は予期せぬ注文にうろたえる。
「実はあのV16ブロックはコンセプトモデルで、内部の可動パーツは一切ないダミーなのです」。兄弟は率直に事実を伝えた。
ルールは驚いた風もなく、代わりにヴォワザンのV12で手を打つことになり、製作依頼はまとまった。作業は迅速に進み、1931年秋には2ドア コンバーチブルが完成、公道走行に耐える完成度に仕上がっていたという。