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自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その12

2025年6月26日

5日目 2月21日 パート1

ドイツ自動車博物館を巡る私たちの旅も5日目を迎えた。今、ミュンヘンを後にしてインゴルシュタットに向かっている。今回の旅でミュンヘンはもっとも南に位置する街で、次の目的地インゴルシュタットは北に上ること約80km先にある。約1時間30分の道のりだ。

インゴルシュタットは約13万人の人口を擁するバイエルン州で6番目に大きい都市。1989年に人口10万人の大台を突破したばかりの、成長著しい街でもある。そのインゴルシュタットに、アウディは本社と工場、ミュージアムを合わせて286万平方mの敷地を有する。従業員の総数は約4万人(2023年現在)というから、雇用の機会提供を含めて、アウディはインゴルシュタット成長の原動力となっている。

アウディ・ミュージアム(Audi museum mobile)は2000年12月にオープンした。設計したのはギュンター・ヘンという人物で、ガラスとスチールから成る建物の高さは22 m。4輪車は約50台を、2輪車は約30台を常設展示する。

内部は1階から4階まで吹き抜けになっており、写真に見るように空間的な開放感がある。その吹き抜けを貫通しているのが、このミュージアムの大きな特徴となっている回転式展示パレット。遊園地の観覧車のように1~4階のあいだを常時循環しており、どの階からもパレットに載った展示車両を見られる。

1階から4階まで吹き抜けになっており、空間的な開放感がある。

現代のアウディの前身がアウトウニオンであることは、私も知っていたつもりだった。しかしアウディ博物館の概要を紹介するに先立って、アウトウニオンの成立から現アウディに至るまでの歴史を調べてみると、これが私の大雑把な理解をはるかに越えた、複雑なストーリーなのだった。

回転式展示パレットには、2007年DTM(ドイツツーリングカー選手権)のタイトルホルダーであるA4 DTMや、2002年のルマン R8 LMPプロトタイプなど、14台のモータースポーツ関連車両が載っている。

今ではインターネット上の情報を含めて、高名な自動車史研究家たちによる詳細な研究の成果を閲覧できるが、本稿ではアウトウニオンが成立するまでのあらましを簡単にまとめてみようと思う。ストーリーの主人公はアウグスト・ホルヒ(August Horch 1868~1951年)だ。

アウグスト・ホルヒは1899年11月14日、自身が理想とするクルマを作るため「ホルヒ自動車製造会社(Horch & Cie. Motorwagenwerke )」をケルンにて設立する。事業は順調に伸びて1904年には生産拠点をザクセン州ツヴィッカウ(Zwickau)に移転する。当時、ツヴィッカウはザクセン州の産業の中心地だったのだ。

ホルヒ 4-5 PS ヴィ・ザ・ヴィ (1901年)。アウグスト ホルヒが1901年完成させた自身最初の自動車。彼が「無振動」と名付けた2気筒エンジンは、キャビン床下に水平に搭載されていた。ホルヒが最初に作った10台のうち1台は、ドライバーと乗員が向かい合うヴィ・ザ・ヴィ(Vis-à-Vis)モデルだった。最高出力 : 4~5 hp/1400 rpm、最高速度 : 30 km/h、価格 : 3500マルク(シャシーのみ)。
Photo:Audi AG

しかしその後、取締役会および監査役会との意見が合わず、自分が興した会社を去り、1909年、新たに2番目の会社「アウグスト・ホルヒ自動車製作有限会社(August Horch Automobil werke GmbH)」を、場所も同じツヴィッカウに興す。アウグストにすればこの新会社にも自分の名前を冠するのは自然なことだったが、ここで既存のホルヒ社から待ったが掛かる。「ホルヒ」の名称はすでに商標登録されているというのだ。

「ホルヒ」の使用権を巡り、アウグストは法廷闘争にまで持ち込んだが、裁判所はその使用権は既存のホルヒ社にあると認めた。しかたなく彼は新会社を「アウディ自動車製造会社(Audi Automobilwerke GmbH)」と名づけて創業した。1910年のことだ。ちなみにドイツ語の「horch」は「聴く」という意味で、彼は同じ意味のラテン語表記「アウディ」を社名にして新会社を発足させたのだった。

このエピソードを知った私は、翻訳家の習性から「アウディ」の綴りAudiによく似た英語「audio」を辞書で引いてみた。するとそこには「聴覚の」という訳語とともに、「ラテン語audire(聴く)の語幹に-o」をつけた言葉という解説が添えてあった。私たちが音楽を楽しむオーディオ器機の「audio」、その語源はラテン語にあり、どうやら「アウディ」とも無関係ではないようだ。

アウグスト・ホルヒ。1896年からカール・ベンツのもとで働き、1899年11月に自身の会社ホルヒを創業。1910年に新会社アウディを設立するも、1920年にはそこを辞する。以後、1951年にこの世を去るまで、アウトウニオンの名誉役員を務めた。
Photo::Audi AG


かくしてアウグスト・ホルヒはようやく名実ともに自分の会社で設計に打ち込むことができるかに見えたが、時代は彼の運命を翻弄する。ここで新たな主人公として登場するのがヨルゲン・スカフテ・ラスムッセンという人物。ラスムッセンは1917年に蒸気自動車の試作に成功、これを契機にドイツ語で蒸気自動車を意味するDampfkraftwagenの頭文字を採ってDKWを発足させる。その後、モーターサイクルの生産によりDKWの事業は順調に発展し、1928年には同社初の4輪車を発表した。

その1928年、ラスムッセンはアウディの大株主になり、両社は合併する。さらに1932年にはヴァンダラーとホルヒが傘下に入り、ここにアウトウニオンが生まれる。折りしも1929年、ウォール街に端を発する世界恐慌がドイツ経済にも暗い影を落としており、比較的小規模なこの4つのメーカーが生き残るには合併しかなかったのだ。一度は縁を切ったホルヒと同じ傘の下に収まり、またもや独立独歩の道を阻まれたアウグスト・ホルヒ。彼はこのときどのような心境だったのだろう。

アウトウニオンを構成する5つのブランドを象徴する写真。左上から反時計回りに。Horch 830 BL, 1938。 DKW3=6F91, 1953。NSU Prinz 30, 1959(赤)。Wanderer W25K, 1937。Audi Front 225, 1936。
Photo::Audi AG

アウトウニオンの運命も時代に翻弄された。第二次世界大戦の結果により生産設備を奪われた同社は、戦後西ドイツで態勢を一新、本社をインゴルシュタットに移し、再建への道を歩む。その後、1958年にダイムラー・ベンツに、さらに64年にはフォルクスワーゲン(VW)に吸収合併されるが、VW傘下に入ったことにより経営が安定する。1960年代後半には戦前の匂いがするアウトウニオンからのイメージチェンジを図り、モデル名にアウディを使うようになった。

1969年にはNSUがアウトウニオン傘下に入って社名がアウディNSUアウトウニオンになり、さらに1985年、企業名が今日、私たちが知るアウディへと変わった。

アウディAGの家系図。今日、私たちが知るアウディの姿が完成したのは1985年のことで、その間、計5つのメーカーが関与している。それぞれのエンブレムの変遷もこれを見るとわかる。
興味深い写真をご覧に入れよう。1971年、NSUのネッカーズルム(Neckarsulm)工場を捉えたショット。NSUがアウトウニオン傘下に入った1969年以降、同工場ではアウディ100 とNSU Ro 80 が同じラインで生産された。
Photo:Audi AG
自社ブランドの製品のみを扱うアウトウニオンの販売店。アウディ・ミュージアム館内で配布しているカードを撮影しました。

この稿を締めくくるまえに、アウトウニオンが採った独自の販売方法にも触れておこう。1920~30年代は、自動車の販売台数がその後と比べると少なかったため、販売店は複数のメーカーの製品を扱った。ホルヒの販売店でオペルやシトロエンを買うことができたのである。

しかしアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーと、それぞれターゲットカスタマーの異なる4社が集まってできたアウトウニオンでは、扱うモデルも多様で合計販売台数も多かった。そこでショールームに自社とライバルメーカーの製品を一緒に並べることを止め、アウトウニオン・モデルのみを扱う正規販売店から成るネットワークを構築したのである。上に掲げた写真に見るように、アウトウニオンのディーラーは立派な店舗を構え、自社ブランドの製品のみを扱っている。

5つのブランドが構成するアウディ・ミュージアムの展示品は多種多様だ。次回は、私がぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、ミュージアムで初めて見たクルマを紹介していこうと思う。

Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか

【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。