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自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その6

2025年5月9日

3日目 2月19日(パート2)

ポルシェ356の第1号車を目の当たりにして、興奮冷めやらぬまま次に目に入ったのが1971年のルマン24時間レースに優勝したポルシェ917K。白の基調にマルティニ・ストライプが入った鮮やかなカラーリングに目を奪われ、思わずシャッターを切った。そして1971年のルマンに想いを馳せる。

「もう大丈夫だ」レースが始まって18時間目、ポルシェ陣営は初めて安堵の胸をなで下ろした。ヘルムート・マルコとフィース・ファン・レネップのドライビングクルーに残された仕事は、ポルシェ917Kカーナンバー22を1971年ルマン24時間レースの優勝へと導くことだけだった。

前年の1970年、悲願のルマン初優勝を遂げたポルシェは、翌71年のサルトサーキットに背水の陣で臨んだ。目指すのはただ一つ、ルマン2連勝だ。ポルシェは2つの有力チーム、JW(ジョン・ワイア)オートモーティブ・エンジニアリング(以下、JWチームと記す)とマルティニ・レーシング(以下、マルティニと記す)にマシンを委ねた。マシンとドライバーの陣容は以下の通り。

JWチーム:ロドリゲス/オリヴァー組とシフェール/ベル組が917LH。アトウッド/ミュラー組が917K。
マルティニ:エルフォード/ラルース組が917LH。マルコ/ファン・レネップ組とカウーゼン/ヨースト組が917K。ちなみに917LHはLangheckの頭文字で、ロングテールの意、917KはKurzheckで、ショートテール版だ。

ここでレーシングチームのマルティニについて触れておこう。皆さんもドラッグストアでこのブランドのスパークリングワインを見たことがあるかもしれない。マルティニ&ロッシはイタリアの有名な酒造会社だ。1970年、ポルシェに念願のルマン初優勝をもたらしたポルシェ・ザルツブルク・チームがシーズン終了をもって解散した。これを受けてマルティニ&ロッシが、マシンとエクイプメント一式を買い取って立ち上げたのがマルティニ・レーシング。ルマンの勝ち方を知り抜いた筋金入りのレース集団だ。

マルティニから出走した917LH。カメラ位置の引きが足りずに前後が欠けてしまったが、テールが長く裾を引いているのがお分かりと思う。エルフォードとラルースの名手が組んだが、13日未明、エンジンが壊れてレースから脱落した。

次に917の概略について。エンジンはバンク角180°のV12。4494ccの排気量から580hpを生み出した。71年のルマンにはシリコンライナーを用いた4999ccユニット(630hp)も完成していたが、信頼性を重視して4.5リッター版を使った。組み合わされるトランスミッションは5速。1速は発進専用で、サルテテーキットの場合、もっともスピードを落とす低速コーナーも2速の守備範囲に入る。シャシーはアルミ製中空パイプを組んだスペースフレーム。71年にマルティニから出場した917Kのみマグネシウム製だったとする文献もある。

最大のライバルと目されたフェラーリは翌72年にレギュレーションが変わるため、新型マシンの開発に注力するとの理由からワークスの出場を取りやめていた。唯一、ポルシェ917勢に対抗しうると思われたのは、ロジャー・ペンスキー・チームから出場する512M(ダナヒュー/ホッブス組)だけ。あとはもう1台の512Mにシチリアの英雄ニーノ・ヴァッカレラがフンカデッラというドライバーと組んで乗るのが話題になった程度。だから開始前、今年のルマンはポルシェ楽勝との見方があった。しかしレースに楽観は禁物。ひとたび幕が上がるや、予想とまったく異なる展開を見せることになる。

917Kの透視図。ホイールベースは6 気筒や8気筒時代のポルシェ・レーシングカーの伝統を守る2300mm。そこに12気筒を搭載したので、コクピットはかなり前方に押し出されている。71年のルマンに出場した917Kでは、この図とは異なり左右1枚ずつのテールフィンが垂直に立っていた。(写真はHaynes社刊Porsche 917 Owners’ Workshop Manualのページを撮影しました)

予選のトップは3分13秒9を出したロドリゲス。2位にエルフォードが続き、917HLの駿足振りを早くも示した。

6月12日午後4時。ルマン史上初めてローリングスタートでレースは始まった。ペースカーが先導する周回が終了、49台のマシンが轟音とともに全力走行モードに突入する。先頭ロドリゲス、次いでラルース、シフェールと917勢が上位3位を占める。この3人に次いでヴァッカレラ駆るフェラーリ512Mが健闘よく4位に、ダナヒューが5位でオープニングラップを終えた。

夕刻8時15分。ダナヒュー/ホッブス組の512Mがピストンのトラブルで早々にリタイア。ポルシェ勢に唯一伍して走れると期待されたフェラーリの切り札が脱落して、予想通りレースはポルシェ優勢のまま進むかと思われた。

12日午後10時の順位は、1位ロドリゲス/オリヴァー組、2位シフェール/ベル組、3位アトウッド/ミュラー組で、JWチームの917勢が上位を占めた。しかし彼らもトラブルフリーとはいかず、シフェールがブレーキ不調を訴えてピットイン。修理に70分を要してトップグループから脱落する。翌日未明、午前1時、74周を終えたところでエルフォード/ラルース組の917LHがエンジンを壊して脱落。午前3時。今度はトップのオリヴァーがダンパートラブルでピットに入る。18分後、ロドリゲスに交代してコースに戻るが4位に落ちていた。さらにアトウッド/ミュラー組の917Kがトランスミッションを壊してリタイア、ポルシェ勢は戦力を削がれる。

ファクトリーサポートの6台にプライベートエントリーの1台を加えて計7台が出走したポルシェ917。そのなかで唯一、トラブルで足を引っ張られることなく24時間を走り切ったのがマルコ/ファン・レネップ組の917Kだった。(写真はCar Graphic誌1971年8月号のページを撮影しました)

この結果、レースの中間点でヴァッカレラ/フンカデッラ組の512Mが先頭に立ち、イタリア中が湧き上がる。この時点でヨースト/カウーゼン組の917Kはアルナージュでコースアウトしていた。今や無傷の917はマルコ/ファン・レネップ組の1台だけだ。しかしメカニカルトラブルに泣いたのはポルシェだけではなかった。13日午前4時、イタリアの期待を一身に担って先頭を走っていた512Mのクラッチが破損、マラネロの夢は潰えた。

13日午前、JWチームのマシンにさらなる不運が襲う。ミュルザンヌを疾走中、ロドリゲスのマシンのオイルパイプが破損、なんとかピットに戻るもそのままリタイア。シフェールのマシンもクランクケースにクラックが入り、レースから離脱した。

18時間目、首位に浮上していたのはマルコ/ファン・レネップ組が駆る917Kだった。マルティニカラーを纏ったカーナンバー22である。2位にJWチームのアトウッド/ミュラー組の917Kが続く。ポルシェが狙うのは1-2フィニッシュ。先頭2台にスローダウンして、ポジションを守れとの指示が飛んだ。長かったレースも残りわずかになったとき、2位のミュラーがチームオーダーを無視してペースを上げる一幕もあったが、結局このままの順位でフィニッシュを迎えた。

写真上左:スクーデリア・フィリピネッティからエントリーしたフェラーリ512M。上右:マルティニ・レーシングからエントリーしたカーナンバー21の917LH。74周をこなしたところでエンジントラブルによりリタイア。下:ウイニングランを走る優勝車ポルシェ917K。
(写真はCar Graphic誌1971年8月号のページを撮影しました)

ポルシェ917はルマン2連勝を遂げた。しかもマルコ/ファン・レネップ組が打ち立てた総走行距離5335.313km、平均速度222.304km/hは、1967年のフォードによる記録を破る新記録だった。1971年シーズンの終了をもってポルシェ917はヨーロッパからアメリカへと活躍の舞台を移す。この年のルマンは917にとってまさに有終の美を飾るレースであり、その主人公が本稿で取り上げたカーナンバー22なのである。

Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか

【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。