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自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その2

2025年4月17日

2日目 2月18日(パート1)

フランクフルト国際空港から南に約90km、パスで1時間15分ほどかけて到着したマンハイムは人口32万人の町だった。私たちは地元のホテルに泊まり、翌朝、旅の2日目を迎えた。マンハイムから東に15km行ったラーデンブルクが今日最初の目的地。カール・ベンツ自動車博物館(Dr. Carl Benz Car Museum)を目指す。その名前が示すようにカール・ベンツの製品を中心に展示した博物館だ。イルヴェスハイマー・シュトラーセの住所はベンツが初めて工場を構えた所そのもので、建物も往時のファクトリーを博物館用にリノベーションしたのだという。

展示品の白眉は1886年1月29日に特許を取得し、晴れて世界最初の自動車として認められた三輪車である。特許を取得したのを契機に、この三輪車はベンツ・パテント・モートル・ヴァーゲンと呼ばれるようになった。

左の写真はシュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ博物館に展示されている世界最初の三輪自動車のレプリカ。右の写真はマンハイムにあるカール・ベンツ記念碑と一緒に置かれたもの。両車のあいだには微妙な違いがあって興味深い。

なお、ベンツが本拠を置いたマンハイムと、ダイムラーとマイバッハが本拠を構えたカンシュタットとは100km足らずの距離にあったのだが、二人は互いの存在をまったく知らないままガソリンエンジンの開発に勤しんだという。

ほかの展示品に遮られて全部を撮影できなかったが、カール・ベンツが取得した第37435号の特許仕様書。詳細な側面図と平面図が描かれており、チェーンによる後輪駆動を示している。また手前の“クレイモデル”から、Vis-à-vis式(対面式)のシートレイアウトも構想にあったことがわかる。

自動車歴史研究家の高島鎮雄氏によると、操向する前輪を1輪、後ろを2輪の三輪車にしたのは、ベンツがステアリング機構をシンプルに仕上げたかったからだという。以下、手許の資料から得た情報をもとに、車両概要を紹介しよう。前車軸から後方に伸びる1本の鋼管フレームが床の部分で枝分かれし、エンジンを抱いている。そのエンジンは4ストロークの984cc、毎分400回転の高速型で0.75 hpを生み出した。シリンダーと大径フライホイールを水平に置いたのは縦方向の振動を極力抑え、良好な操舵性を確保するためだった。始動に際しては当然手動によるクランキングを要する。車重は263kgで、最高速は15km/hに達したという。

「オイゲン、起きなさい。リヒャルトも」

1888年8月ある日の早朝5時、カール・ベンツの妻ベルタは二人の息子に支度をするよう促した。彼女には大胆な目論見があった。これから夫が完成させた三輪自動車を駆って実家のあるフォルツハイムまでの大旅行に出発するのだ。距離にして約100km、現代のクルマでも2時間はかかる行程だ。反対されるのは目に見えていたので、夫のカールには内緒にしていた。その夫が熟睡しているあいだにベルタはパテント・モートル・ヴァーゲン3号車を通りに出し、マンハイムの私邸をあとにした。ティラー(前輪の向きを操作するレバー)を握るのは長男で15歳のオイゲン、隣にベルタが座り、次男で14歳のリヒャルトが対面シートに座った。

馬車が付けた轍に前輪が取られて苦労したが、三人はヴィースロッホの町に到着する。記録ではここでベルタが最初の給油を行ったとあるが、これを読んだ私は首をかしげた。内燃機関はようやく実用化の途に就いたばかり。その燃料であるガソリンを供給するインフラがすでに整っていたとは思えないからだ。実は彼女がヴィースロッホの薬局で買い求めたのはベンジンだった。

フォルツハイムを目指すベルタ・ベンツが最初の「給油」を行ったヴィースロッホの薬局。歴史的な建物は大事に保管されており、ご覧のように外観は綺麗に整備されていた。この写真を撮影したのは2025年2月18日、空は雲一つなく晴れ渡り空気は澄み切っているが大変寒く、石畳は靴底を通して体温を奪うようだった。

調べてみると、ベンジンは機械洗浄やしみ抜きなどに使われるがガソリンの一種で、現代では工業用ガソリン1号と位置づけられているという。ガソリンと同じ揮発性の高い可燃性液体だそうだ。ベンツの原初的なエンジンにはベンジンで充分用をなしたのだろう。そう言えば、私が昔所有していたアルファロメオの燃料計にも「Benzina」と記されていたな……。

話をベルタの大冒険に戻そう。ヴィースロッホでベンジンを給油した一行には、その後も苦労の連続が待っていた。エンジンが絶対的にアンダーパワーだし、前一輪は当時の悪路を走るには大きなハンディとなった。

しかし三人が乗る馬なし馬車は、道中大いに注目を集めた。ようやく辿り着いたフォルツハイムでは大きなセンセーションを巻き起こす。ベルタのロングツーリングは見事にその目的を果たした。彼女は夫が苦労のすえ完成させた自動車を、広く世間の人々に知って欲しかったのだ。良妻賢母のベルタ・ベンツは、世界最初の自動車のプロモーターであり、自動車がもたらす「個人による移動の自由」を世に知らしめた最初の人物でもあった。

ヴィースロッホを後にした私たち一行は130km離れたシュトゥットガルトに向かった。次なる目的地はメルセデス・ベンツ博物館だ。

ベルタ・ベンツの勇気と偉業を称えて、彼女が1888年に辿ったルートの一部は「ベルタ・ベルリン・シュトラーセ」と名づけられた。正方形の枠の中はちょうど日光が当たり写真に映っていないが、三輪自動車の絵が描かれている。なお余談だが、Berthaは「ベルタ」と表記するのが一般的で本稿でもそれに従ったが、ドイツ人が話すのを聞くと「ベアタ」に近い。アルファベットの「r」の発音は私たちにとって厄介だ。

Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか

【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。