1. ホーム
  2. エッセイ
  3. 自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その1

自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅 その1

2025年4月10日

「キャビンクルー、プリペア・フォー・ランディング」

機長から機内アナウンスがあって間もなく、機は左に大きくバンクして着陸態勢の最終段階に入った。高度が急速に下がっているのが座席からもわかる。ごく軽いショックとともに車輪が着地。数秒後、ボーイング787は両翼に備えるターボファンエンジンを逆噴射したのだろうか、減速度が一段と増してJAL407便はフランクフルト国際空港に到着した。現地時間は日本出発時と同じ、2025年2月17日だ。

「ジャルパック ブランド誕生60周年特別企画――ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間」こう題されたJALのサイトをどうやって見つけたのか、今では定かでない。メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディの4メーカーが運営する博物館を、ツアーコンダクターとドイツ在住モーターナビゲーターが同行しながら巡るのだという。私にとっては不可能とあきらめていた夢を実現してくれるツアーだ。居ても立ってもいられない思いで参加を申し込んだ。

フランクフルトに到着した私たち一行を、随行ナビゲーターのアレキサンダー・オースタンさんが暖かく迎えてくれた。ドイツ語と日本語のバイリンガルで、しかも現役バリバリのモータージャーナリスト。その暖かい人柄ゆえに私たちはすぐに打ち解け、自然にアレックスと呼ぶようになった。

旅の全日程を通じてよき案内役となってくれたアレックス(左)。右の人物はカール・ベンツ自動車博物館のオーナー。お名前は聞きそびれた。

空港を出ると、私たち一行専用の大型観光バスに乗り込み、南へ約90km下った今夜の投宿地マンハイムに向かう。MANの大型バスは夕闇せまるアウトバーンを快調に進む。

「私たちはこれからローゼマイヤーが事故を起こした所を通過します」アレックスのひと言で、私は90年前、まさしく今から差し掛かる地点で起こった歴史的アクシデントを思い出した。

1934年に施行された750kgフォーミュラが契機となり、メルセデス・ベンツとアウトウニオンの2社は火花を散らすような激戦を繰り広げた。戦いの舞台はグランプリサーキットに限らず、ドイツのアウトバーンでも繰り広げられた。スピード記録に挑戦したのだ。メルセデスが世界記録を樹立したかと思うと、それを見越したようにアウトウニオンが記録を塗り替え、さらにメルセデスが更新するといった具合で、両社のせめぎ合いは熾烈を極めた。おもな舞台はフランクフルトから南下してダルムシュタットに至る直線区間。両社ともに当時のグランプリマシンをベースにした流線型ボディの速度記録車で覇を競った。メルセデスのエースドライバーはルドルフ・カラッチオラ、アウトウニオンはハンス・シュトゥックだ。しかしシュトゥックは1937年に自身の世界記録を更新したのを潮時に、スピード記録挑戦にピリオドを打った。

新たなヒーロー、ベルント・ローゼマイヤーがアリーナに登場する。

ベルント・ローゼマイヤー(1909年10月14日-1938年1月28日)。1935年~37年までアウトウニオン・チームからGPに出場。キャリアの頂点は1936年、ドイツ、スイス、イタリアの3連戦でハットトリックを演じ、この年のチャンピオンに輝いた。スピードの魅力に取り憑かれた、天才肌のドライバーだった。(この写真はアウディ・ミュージアムが配布している資料を撮影しました)。

今私たちが乗るバスが走っているのは上下線ともに4車線の立派なハイウェイだが、1930年代では片側2車線しかなかった。路肩から芝生を植えただけの中央分離帯までの道幅はせいぜい8mほど。そこをメルセデスとアウトウニオンのドライバーは360km/h超のスピードで走り抜けたのだ。直線路とはいえラインをキープするには超人的なテクニックを要したに違いない。

アウトウニオンを駆ったベルント・ローゼマイヤーはこの辺りの事情を次のように語っている。
「道路の真ん中にマシンを保つにはこの上ない集中力を要する。高架橋の下を通過する際、横からの突風には瞬間的な対応が必須だ。そんなわけでものの2分も走るとドライバーの神経系統は完全に疲弊する。だから連続10マイル記録走行は、1回のグランプリレースよりはるかに疲れる。たとえ時間にして2分40秒程度でもね」

1937年10月25日、彼はアウトバーンで才能を開花させる。フランクフルト/ダルムシュタット間の往復2方向の平均でフライングスタート(ほぼ最高速に達した状態でスタートを切る)1km区間406.30km/h、同1マイル区間で406.28km/hを計測、世界で初めて公道を400km/h超で走った人物となった。

メルセデスとアウトウニオンによる速度記録挑戦は1938年1月28日、一つの頂点を迎える。厳しく冷え込んだその日の午前8時、フランクフルト/ダルムシュタット間を往復するカラッチオラの走行が始まる。駆るのは従来型に大きく改良の手を加えた新型だ。フライングスタートによる往路で良好なタイムを計測した彼は復路でも好調を維持。往復の1km区間平均スピード432.69km/h、1マイル区間平均スピード432.42km/hを達成して、ローゼマイヤーによる既存の記録をいとも簡単に打ち破ってみせた。新記録に満足したカラッチオラは、妻を伴ってフランクフルトのホテルへ帰っていった。

同日午前11時、ローゼマイヤーがアウトウニオンの新型マシンに搭乗する。カラッチオラが走った時より風が強まっている。記録更新に挑戦するには危険な横風だ。チーム監督は明日に順延するよう説得するが、ローゼマイヤーの決意は固い。

「いや、ボクはこれから走る。森から風が吹き抜ける場所はわかっている。対処できるよ」

そう言って、走り始めた。数分後戻ってきて、エンジンが適正な温度に上がらないと訴える。大気が余りにも冷えているのだ。それでも429.9km/hを計測していた。ラジエターの一部を塞いで再出走。

しかしローゼマイヤーは往路から復路に方向転換するポイントに姿を現さなかった。ランゲンとメルフェルデンを結ぶ高架橋付近にボディの破片が散乱していた。

たまたまこの日、現場に居合わせたポルシェ博士の秘書ハンス・ガイガーが語る。
「私たちは破片などには目もくれず、ローゼマイヤーを探した。木々の間に横たわっていた。見たところ外傷はなく、眠っているようだった。心臓は鼓動を打っていたが、数分後止まった」

ベルント・ローゼマイヤーがグランプリの檜舞台で活躍したのは1935~37年の3シーズンのみ、その間、選手権にカウントされるGPに限れば勝利数は「3」に過ぎない。圧倒的な勝ち星を誇るドライバーではなかったが、波に乗ったときは目を見張る速さを示した。GPシーンに彗星のように現れ、去って行ったローゼマイヤー。ドイツの人々からこよなく愛されたドライバーだった。

後日、事故地点には記念碑が立てられ、今も献花が絶えないという。

1937年10月28日、フランクフルト。アウトウニオンの速度記録車を発進させようとしているローゼマイヤー。ホイールアーチにスパッツが付いていないことからスタンディングスタート(静止状態からスタートする)による速度記録を狙ったシーンだと思われる。一方、ダルムシュタット手前で折り返すフライングスタート用のマシンは、スパッツの付いた完全なエンクローズドボディを架装していた。(写真はChris Nixon著Racing the Silver Arrowsのページを撮影しました)。

Text:相原俊樹
Photo:相原俊樹ほか

【筆者の紹介】
相原俊樹:自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。