【訪問記】ケルン西部にあるトヨタコレクションを訪ねる スープラ、2000GT、セリカ等、歴史的コレクションに加え多くのレースカーも!
2024年5月27日
トヨタコレクション:スープラ、2000GT、セリカ。ケルン西部、欧州ドイツ本社のすぐ隣で、トヨタはモータースポーツを忘れることなく、ブランドのハイライトを紹介している。
ブランドのフラッグシップをあえて中央に配置した:「2000GT」は、1965年から1970年の間に351台だけが生産された。「ドイツ トヨタ」はそのうちの2台を所有している。1967年、ジェームズ ボンドが『007は二度死ぬ』に登場し、それ以来、実際の道路交通で目にすることはほとんどないアイコンとなった。今日、天文学的な価格がついているのは、ブルームーン(青い月)に一度しか手に入らないからだ。直近の販売価格は7桁の大台をはるかに超えており、豊田章男会長は毎年、現在確認されている残りの1台がどこにあるかについての報告書を作成している。
というのも、我々はこの2リッタークーペの可愛らしさを視覚的に楽しむことしかできないからだ。身長2メートル弱の私が赤い2000GTに乗り込むのは残念ながら難しい。運転するなどもってのほかで、脛がダッシュボードにぶつかり、ダブルバブルのルーフ形状にもかかわらず頭がつかえてしまう。とにかく、今日は運転するつもりはない。150馬力の直列6気筒エンジンは静かなまま、コレクションを見て回る。「カローラ」や「スターレット」のほかにも、70年代、80年代、90年代のスポーティなクーペがいくつか目に留まる。
ここケルンでトヨタの歴史に触れることができるのは、ペター ピヒャートという人物のおかげである。2016年に亡くなったトヨタディーラーのパイオニアである彼は、1990年代半ばにバイエルン州ハルトキルヒェンアムインに初の「プライベートトヨタミュージアム」を設立した。彼の死後、欧州トヨタのケルン工場がそのコレクションを買い取り、以来、ブランドの遺産を守り続けている。
スープラ世代の出会い
映画『ワイルド・スピード』シリーズで知られる4代目「スープラ」の写真の前には、角張った先代「Mk3」と「MR2」、そして1973年製のワイドボディの「セリカGT」が並んでいる。「2000GT」の後、トヨタのスポーツクーペの伝統を引き継いだのはこの「セリカ」だった:「2000GT」が終了して間もない1971年秋、「セリカ」はドイツで発売を開始した。1.6リッターエンジンを搭載し、107馬力を発揮する「GT」が追加されたのは1972年のことだった。1975年のマイナーチェンジでホイールベースが拡大され、よりパワフルなエンジンが搭載可能となった。これは事実上、特にアメリカ市場では必須だった。また、トヨタはここで初めてリフトバックボディを導入したが、これは当初、現代の「フォード マスタング」を彷彿とさせる怪しげなものだった。今日、この国ではむしろ「ハッチバック」と呼ぶべきだろう。「セリカ2000GT」では、出力が120馬力に引き上げられたが、歴史的な名称はむしろ誤解を招くものであった。
次の世代では、1978年に「スープラ」という名前が初めて登場した。2代目は当初、やや地味な丸型2灯式ヘッドライトだったが、1980年のマイナーチェンジ以降、よりスポーティな角型2灯式ヘッドライトが導入された。この世代で特に目を引くのは、湾曲したCピラーと、オプションのつや消しアルミニウム製Bピラーである。
ボンネットの下には170馬力の2.8リッターエンジンが搭載され、リトラクタブルヘッドライトを備えた独立したフロントエンドがセリカとの違いを際立たせた。4代目では、「セリカ」はエンジンを横置きにした前輪駆動に変更され、「スープラ」は後輪駆動となり、日本では最高出力280馬力のパワーアップが図られ、よりスポーティな外観となった。
ラリーの歴史
しかし、「セリカ」は世界ラリー選手権でも活躍を続けた。1990年から1994年にかけて、トヨタは5年中4年でドライバーズ世界選手権を制覇。スペイン人のカルロス サインツがステアリングを握った年も2度あった。そして、まさに彼に敬意を表して、トヨタは四輪駆動セリカの特別仕様車「カルロス サインツ エディション」を製作した。世界で5,000台のみが生産され、そのうち680台がドイツに輸出された。ボンネットには208馬力の2リッターターボが搭載された。一方、「スープラ」は本格的なスポーツカーへと発展し、4代目では11万マルク(約770万円)という高額な価格となった。ポルシェ、フェラーリ、コルベット・・・。丸みを帯びたデザインと人目を引くスポイラー(「醜い」と言う人もいる)を備えた「スープラ」は、当時の人々が考えていた以上のパフォーマンスを発揮した。今にして思えば、「2JZ」直列6気筒エンジンを搭載したクーペをガレージに半ダースほど置いておいた方がよかったかもしれない。特に、今では希少となった無改造のオリジナルコンディションや、ツインターボを搭載した「GTE」バージョンは・・・。
というのも、映画が公開された2001年当時、「スープラ」の4代目はすでに生産を終了しており、トヨタ自身も映画へのファクトリーサポートを中止していたからだ。だから、プロモーションは基本的に無料だった。その後、「スープラ」の再販を何年も待ったという事実は、誇大広告のせいでさらに理解しがたい。「GRスープラ」が2019年にようやくかつての栄光の日々に戻ろうとするまでには、BMWとのコラボレーションが必要だった。
スポーツの歴史の教訓
すでに「セリカ」とサインツでモータースポーツの歴史に少し触れたが、会場の出入り口には、これから何が起こるかを予感させるものがすでにある。ここにはすでにラリー、ル・マン、F1の伝説があり、しばし言葉を失うが、数本先の通りで我々を待っているのは、まったく異なるレベルのものだ。
トヨタはモータースポーツミュージアムを、巨大な風洞の真下にある工業プラントの中に詰め込んだ。トヨタにはモータースポーツに生きる社長(現会長)がいるのだ。「ラリー セリカ」の全歴史が展示されているほか、「GRヤリス」をベースとした現世代のWRCカーの開発ミュールも展示されている。しかし、展示の中心はル・マンとF1に関するもので、この2つのレースクラスはトヨタにとってかなり不名誉な歴史を持っている・・・。
ル・マンでは、日本のメーカーが長年にわたって総合優勝を目指していた。1991年、小さなマツダチームが、地獄のような叫び声を上げるヴァンケルロータリーエンジン「787B」レーシングカーでル・マン24時間レースに優勝、成功したことは、当然ながらトヨタを大いに悩ませた。最初の本格的な挑戦として、トヨタはイギリスのエンジニアでレーシングカーのデザイナーでもあるトニー サウスゲートに美しい「TS010」の開発を依頼した。3.5リッターV10を搭載し、プジョー、ポルシェ、マツダとの強力な競争に打ち勝つはずだったが、「チーム トムス」経由のセミワークス参戦は、優勝した「プジョー905エボ1B」から6周遅れの総合2位に終わった。1993年は4位にとどまったため、トヨタは1994年にV8ターボエンジンを搭載した新LMP1レギュレーションでマシンをスタートに送り込んだ。当初はオーストリア人のローランド ラッツェンバーガーがトップマシンをドライブする予定だったが、4月末にイモラで開催されたF1レースのプラクティス中に事故死。アイルランド人のエディ アーバインが代役を務め、イタリア人のマウロ マルティーニ、アメリカ人のジェフ クロスノフとともに2位でレースを終えた。悲願の優勝は叶わなかった。不気味な出来事: ラッツェンバーガーに加え、チームメイトのクロスノフもわずか2年後にトロントのインディカーレースで亡くなった。
耐久レースの伝説
1990年代末、トヨタはライバルのBMWと共同でル・マン優勝に挑んだ。そしてバイエルン勢もまた、この時代、トヨタにとって優勝を争う最も手ごわい相手となった。日本勢が武器として選んだのは、「GT-ONE」の名で親しまれているクローズドの「TS020」プロトタイプだった。シャシーとドライブトレインはケルンのトヨタモータースポーツが開発し、エアロダイナミクスはイタリアのレーシングカーメーカー、ダラーラが担当した。ツインターボV8の排気量は3.6リッターで、開発期間は2年足らずと非常に短かった。しかし、「TS020」の走りは素晴らしく、レース終了1時間前までトップを快走していたが、ティエリー ブーツェン、ラルフ ケレナーズ、ジェフ リーズのギアボックスがギブアップ。
しかし、1999年はアップグレードされたマシンが有力視されており、3台のワークスカーを擁していたトヨタとしてはチャンスを逃すわけにはいかなかった。予選では優位に立ったが、「GT-ONE」の2台がクラッシュ。残されたのは片山右京、土屋圭市、鈴木利男の3台で、この3台はトリムされながらトップのBMWを追うことになった。特に片山はV12 LMRよりも1周あたり3秒速いタイムを刻み、その差を40秒まで縮めていた。しかし、ここでも悲願のル・マン優勝はならなかった。ここケルンのトヨタモータースポーツがトップカテゴリー初のプロトタイプをフランスに送り込んだのは2012年のことだった。トップを走っていた「TS050」ハイブリッドがドライブトレインの不具合でレース終了3分前にストップしたのだ。トヨタがこのレースで5連覇できたのは、ファクトリー勢が完全に撤退した2018年から2022年までだった。
ル・マンを制した2台のマシンは、拭き掃除をしても元の汚れが透明なニスで封印されているのだ。
2002年から2009年にかけての暫定F1プロジェクトも、どのチームよりも予算が多かったにもかかわらず、十分な成功を収めることはできなかった。2005年のF1世界選手権総合4位、13回の表彰台、3回のポールポジションがハイライトだった。ここでも優勝は実現しなかった。2009年末、2010年型マシンの開発はほぼ完了しており、ドライバーのティモ グロックは後に、空力特性は上位を争うのに十分なものだったと明かしている。しかし、ここで得られた洞察は卓越している。
結論:
ノスタルジックな雰囲気に包まれながら、トヨタの膨大なモータースポーツの歴史をたどる。ラリー、耐久レース、F1マシンなど、これほど幅広いジャンルを提供するメーカーは他にない。また、日本企業の民間財宝は、70年代、80年代、90年代のクールさを象徴している。ぜひお立ち寄りください!
Text: Alexander Bernt
Photo: Toyota Motor Corporation