一世を風靡したレーサーに見る名人と天才の違いとは?
2024年5月10日
一世を風靡したトップレーサーには名人と天才の2派がある。不思議と名人といわれたレーサーには天寿を全うした人が多く、天才レーサーにはレースの華と散った者が多い。そこで、その相違にスポットを当て紹介したい。
一世を風靡した名人か天才と呼ばれるレーサーの相違とは
歴史を振り返れば、この両者が併存して戦っている時、レースの人気は頂点に達している。戦前に活躍したメルセデス・ベンツのエースドライバーであるルドルフ・カラッチオラとアウト・ウニオンのエースドライバーであるベルント・ローゼマイヤーだ。
戦後1954~1955年、同じくメルセデス・ベンツで活躍したファン・マヌエル・ファンジオとスーターリング・モス。近年では記憶に新しいアラン・プロストとアイルトン・セナ。いずれも前者が名人、後者が天才と言われたドライバーだ。
失礼の無い様に断っておくが、スーターリング・モスは天才と言われたが、2020年4月12日、療養中の自宅で死去し90歳と長生きした。彼がこれほど長生きしたのが不思議なくらいであり、1962年グッドウッドで行われた非選手権レースでコースアウトし芝の斜面に激突して頭部に重傷を負い昏睡委状態なる大事故で1963年全盛期の32歳で現役引退を決意した。世界チャンピオンにならなかった最も偉大なドライバーで「無冠の帝王」と称された。以後もヒストリックカーレースに定期的に出場した。1990年に国際モータースポーツ殿堂入りを果たした。2000年にはモータースポーツの発展に貢献したとして「ナイト」の称号が与えられた。
名人と天才の違い
パーセンテージ・ドライブがあるのは周知の通りである。つまり、自分の運転能力を100%駆使して走っていると、余力がないから不測の事態に対処できず事故を起こす。余力を残し80%ドライブで走れば安全だぞというような意味を含めて使われている言葉である。
これを原点として、名人と天才の相違を考えてみたい。名人と呼ばれるドライバーは、その80%程度のレベルで淡々と、とにかく勘に頼らず幾らかの余力を残して戦う。だから、観衆が見ても安定感があり、そのレース運びからクールなドライバーと言われる。決して無理はしない、危険は冒さない。それで何度も優勝し、何回もワールドチャンピオンになる。運転技術と状況判断は他を圧倒しているのだから、余裕を持って走るためこういう結となる。これが名人たる所以だ。ファン・マヌエル・ファンジオはこの名人の典型だった。5回もF1ワールドチャピオンに輝いた。そして47歳でF1レースから引退した。
これは、戦前の1930年代のシルバーアロー時代のメルセデス・ベンツを代表する名人ルドルフ・カラッチオラにも言えることだが、常にメルセデス・ベンツの偉大なアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナ-のクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを廻っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強かったから雨天の名手とも呼ばれた。
カラッチオラは、1930年代にヨーロッパ・ドライバーズチャピオンを3回(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパヒルクライムチャピオンを3回(1930年・1931年・1932年)獲得した。さらに1938年1月28日レコード・レーサー(V12気筒エンジンを5.57L、736PSにまで拡大したW125ベース)を駆って、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンで432.69km/hというクラスB(5L~8L)の公道における最高速度記録を樹立した(これは2017年に破られるまで、80年近くに渡り公道上の最高速度記録であった)。
それを見たアウト・ウニオンは、ストリームライン・レーサー(タイプCストリームライン)でベルント・ローゼマイヤーとメルセデス・ベンツの世界記録に挑戦した。しかし、天才のベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてコントロールを失い、マシンは大破。ローゼマイヤーは帰らぬ人となり、アウト・ウニオンの再挑戦は泡と化したのであった。その名人ルドルフ・カラッチオラは1952年のベルンGPの事故のリハビリに時間がかかり、翌1953年にはレースから引退した。
一方、天才の能力は名人を遥かに凌いでいる。ただし、先述したパーセテージ・ドライブで言えば、100%の時があれば20%になることもある。つまり、安定感に欠けるのだ。そのレース運びはダイナミックでスリル満点である。一発当たれば優勝、一歩間違えば大事故になり、さもなければ車両をつぶしてしまう。観衆には淡々とクールに走って勝つ名人よりも剣の刃渡りのようなこういうドライバーの方に人気がある。何と言ってもショウ効果満点だ!たとえ勝つ回数が少なくても無冠でも、人は「天才」の称号でこのドライバーを称える。しかし、レースを数多くこなせば、一瞬の大事故はどんなに確率が低くとも、何時かは起こり得る。天才ドライバーはレースの華と散る確率が多く、平均短命であると言われる所以である。
それに引き換えレースで死ぬ名人は少ない。理由は先述の通りである。名人ルドルフ・カラッチオラは引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。1959年当初から原因不明の体調不良を起こしたが販売活動は止めなかった。しかし、6月から容体が急変し1959年9月28日に肝硬変により58歳で死去した。一方、ファン・マヌエル・ファンジオはレース引退後、母国アルゼンチンでメルセデス・ベンツグループの要職に就き、84歳の長寿で永眠した。「一芸は万道に通ず」と言うが、名人はやはり運転バカではなれない。社会に出ても成功した。
97歳でこの世を去った「全く運の無い奴」
レース界で長寿な人生を送ったという観点では、1930年代「全く運の無い奴」と呼ばれたメルセデス・ベンツのレーサー、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュを忘れてはならない。メルセデス・ベンツチームの問題児であったが、多才でひらめきがあり、メルセデス・ベンツシルバー・アロー誕生のきっかけをつくった。
メルセデス・ベンツは1934年6月3日ドイツのニュルブルクリンクサーキットで行われたアイフェルレースに出場。しかし、メルセデス・ベンツW25のデビューレースの前夜の車検で、このW25レーシングカーは規定の750kgを1kgだけオーバー。頭を抱えたアルフレッド・ノイバウアー監督に「ヤスリをかけてボディのアルミ外板でも削るか」とマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは何気なくつぶやいた。彼の言葉がきっかけで、アルフレッド・ノイバウアー監督の指示の元、メルセデス・ベンツのエンジニア達はドイツのナショナルカラーであるホワイトのペイントを徹夜で全てはがし、750kgで出場許可を得たのだ。
アルミ地肌の「シルバーアロー」のW25を誕生させたのは、彼の「ひらめき」であり、またこのレースで優勝したのも彼であった。戦前のレースで活躍し、エースである名手ルドルフ・カラッチオラの輝かしい成績には及ばなかったが、常にレギュラードライバーの主力として活躍し1930年代のメルセデス・ベンツレーシング黄金時代を築いた功績は大きいと言える。1939年レース引退後は東ドイツへ亡命しオートバイレースの監督をしたが長続きせず西ドイツ当局に厳しく警戒され波乱の人生を送ったが97歳という最も長寿な人生を送った唯一の存在であった(1905年8月生-2003年2月没)。
ファン・マヌエル・ファンジオと常に比較される戦前の名人ルドルフ・カラッチオラもやはりレースでは死なず天寿を全うした。世間ではいずれの腕が上かよく論じられるが、時代が違い、乗った車両が違うため一概に比較はできない。両者共にレース史上1位にランクされる名ドライバーであり、共にメルセデス・ベンツレーシングチームのメンバーであったことを筆者は誇りに思っている。合掌。
TEXT:妻谷裕二
PHOTO:メルセデス・ベンツAG&ミージアム、妻谷コレクション。
【筆者の紹介】
妻谷裕二(Hiroji Tsumatani)
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。