自動車界の奇才、亡くなる フェルディナント ピエヒの功績を振り返る
2020年5月26日
VWのボス – フェルディナントピエヒの手掛けたクルマ
長年にわたってVWグループの総帥として君臨したフェルディナント ピエヒが2019年8月25日に亡くなった。享年82歳。
(Photo: dpa)
フェルディナント ポルシェ博士の孫にして、稀代の天才。
自動車の作り手、そして経営者として、困難を乗り越えてポルシェ917を成功に導いたように、フェルディナント ピエヒはユニークかつ大胆な発想と強烈なリーダーシップで多くの問題を解決し、多くのスラらしいクルマを生み出した。
今日までに我々が出会ったクルマの多くは、フェルディナント ピエヒによって発明されたものか、初めて量産化されたものだ。VWグループの現在の形は、ピエヒによって形成されたといっても過言ではない。
彼が開発にかかわった主なモデルを紹介しよう。
(Photo: Auto Bild Montage)
ポルシェ917は、520〜1100馬力という怪力で空力的に優れたマシンで、レース史上もっとも成功を収めた1台だ。
伝説的な1971年と1972年のルマン24時間耐久レースを始め、数多くの勝利を獲得した。また、アメリカのCan-AmならびにInterシリーズでも、917は圧倒的強さでタイトルを独占した。
(Photo: Götz von Sternenfels)
ポルシェ914の姉妹モデルで高速バージョンの914/6はかなり控えめな外観だが、路上でのパフォーマンスはドライバーたちを納得させるには十分だった。914/6はVWとポルシェのコラボで生まれ、カルマンギアの後継モデルだった。開発の過程において、 フェルディナント ピエヒは重要な役割を担った。
(Photo: Christian Bittmann)
ターボチャージャー以前の時代、メルセデスはディーゼルエンジンを求めていた。
当時フリーのエンジニアであったピエヒは5気筒ディーセルエンジンを開発した。そのW115型ベンツ用パワーユニットは150km/hを発揮した。
(Photo: Roman Raetzke)
BMWとメルセデスはアウディ100タイプ43に対抗するため、シリンダー数を増やした。当時6気筒は想定外だったため、1976年、インゴルシュタットは5気筒ガソリンエンジンを搭載したアウディ100 5Eを作った。このプロジェクトでイニシアチブを発揮したのはまたしてもフェルディナント ピエヒだった。
(Photo: Sven Krieger)
そして1980年、満を持してアウディUr-クワトロが登場した。四輪駆動システムを備えた最初の1台だった。当時アウディの開発委員会メンバーであった フェルディナント ピエヒは、Ur-クワトロの将来性を当初から確信しており、プロジェクトを強力に推進したのである。
(Photo: Werk)
四輪駆動クアトロは革命的なプロジェクトだった。クアトロは四輪駆動クアトロがラリーの世界を一変させ、アウディのイメージを地味なものからスポーティーなものへと劇的に変えたのだった。
(Photo: Werk)
306馬力のアウディ スポーツ クワトロとその派生モデルのS1は、今日に至るまでアウディの愛好家たちから崇拝されている。
(Photo: Toni Bader / AUTO BILD)
カービジネスの話題に戻るとピエヒが陣頭指揮を執ったアウディ100タイプ44は、完全に亜鉛メッキされたボディを備えた最初のモデルで、インタークーラー付きのターボチャージャーも備えており空力特性はメルセデスに取って代わるものとなった。加えて、100 2.5 TDIで、アウディはメーカー初となる直噴式ディディーゼルエンジン(120馬力 )もデビューさせた。
(Photo: Aleksander Perkovic)
ラグジュリークラスへステップアップしたのは1988年のアウディV8である。元アウディの経営会議メンバーであったピエヒも愛用していた。
(Photo: Christian Bittmann)
ゴルフVR6はアウディV8とほぼ同じクルマだ。ピエヒは6気筒エンジンを搭載したVWゴルフ生み出すため、174馬力のスポーツエンジンが開発された。
(Photo: Klaus Kuhnigk)
1991年のアウディ クワトロ スパイダー スタディに関心を持つ関係者は多くいた。
しかし、1989年に発表されたホンダNSXに触発された可能性が高いアルミ製のライトウェイトスポーツカーの生産コストは高すぎ、プロトタイプだけで終わった。
(Photo: Werk)
同じ1991年に東京モーターショーで初公開された509馬力 を発揮するW12エンジンを搭載したアウディ アヴス クワトロ プトロタイプはわずか1,250キロという車重だった。その後アウディR8が2006年にデビューする。
(Photo: Werk)
1997年、VWゴルフ4は、大衆車市場で新しい品質基準を打ち立てた。ゴルフ4は、その開発期間中、VWグループのボスだった フェルディナント ピエヒの厚い庇護と監視の下で生まれたモデルだ。
(Photo: dpa)
自動車業界のレトロウェーブは、ゴルフ4をベースに生み出されたVWニュービートルから始まった。それは、ピエヒのVWグループボス時代に生まれたピエヒベイビーの1台でもある。
(Photo: Sven Krieger)
3リッターVWルポの開発はブランドに頼ることはなかった。しかし、その3リッターモデルの高いハードルは100km間の好燃費を以下に達成するかということだった。
(Photo: Roman Raetzke)
1001馬力のストリートリーガル(公道走行合法車)のプロダクションモデル。2005年、ブガッティ ヴェイロンは現実のものとなった。愛好家たちはピエヒを、不可能を可能にならしめる男として絶賛した。
(Photo: Lena Barthelmess)
しかし、ピエヒでさえも限界はあった。たとえば、VWを高級車のメーカーとして世間に認めさせようとデビューさせたVWフェートンは、メディアの評価こそ高かったものの、ビジネスとしては見事に失敗した。
(Photo: Thomas Ruddies)
わずかな顧客のみが275馬力パサートW8を受け入れる努力をした。
(Photo: Toni Bader / AUTO BILD)
VWトゥアレグのみが商業的成功を収めた。
(Photo: Ralf Timm)
ベントレー コンチネンタルに似ている。フェートンのプラットフォームをベースに作られたもので、ターボチャージャー付きW12エンジンを備えている。
(Photo: Werk)
フェルディナント ピエヒが最後に開発に携わったのがVW L1だった。プロトタイプは、わずか1リットルの燃料で100km!の距離を走行できた。
(Photo: Frank Stange)
そして2002年、L1を自ら運転して、VWグループのCEOとしてヴォルフスブルクからハンブルグまで、最後の年次総会に向かった。
(Photo: Frank Stange)
少量生産シリーズとして、2014年にようやくこの車が市場に登場。VW XL1という名前が付けられた。
(Photo: Volkswagen AG)
このポルシェ博士の孫は、車における伝記だけが印象的ではない。フェルディナント ピエヒの公式の場での発言での、唐突で、超過激で、恐ろしい引用のいくつかは、後世まで伝えられることだろう。
(Photo: Werk)
Text: autobild.de