【80年代のイタリア車とフランス車】パート2 不朽のデザイン アバンギャルドなシックさ 夢のスーパースポーツカー 夢の80年代

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80年代のクルマたち:イタリア人とフランス人。チャーミングなものから熱血漢まで。戦前からの不朽のデザイン、アバンギャルドなシックさ、ハイテクなスーパースポーツカーなど、フランスとイタリアという自動車の小宇宙は、1980年代もあらゆるジャンルの車を提供していた。

1988年8月14日、エンツォ フェラーリが、モデナで90歳の生涯を閉じる。イタリアは家長を悼み、フェラーリ クラシックの価格は突如として高騰した。エンツォ フェラーリは、最後の記念碑を作ることを忘れなかった。1987年、フェラーリは、当時、世界最速の市販スポーツカーを発表した。最高速度は324km/hに達し、478馬力のV8ツインターボエンジンを搭載していた。そしてフェラーリは、世界中のフェラーリファンからの大要望に応じて、当初予定していた限定生産を取りやめる。スポーツカーメーカーは、1,031台の「F40」を、444,000ドイツマルク(約3,360万円)の価格で、ロイヤルカスタマー(大得意様)に配布。1989年、バブル崩壊直前、モナコで「F40」が270万マルク(2億円超)で取引された(フェラーリバブルと呼ばれた)。

プジョー205。80年代の小さなライオン。

フランスの80年代の車は「プジョー205」だ。小さなライオンは、新鮮な香りのバゲットのように売れ、海外にもたくさん輸出された。ドイツ人も大好きだった。「VWポロ」と「ゴルフ」の中間に位置するこの車は、クラスレスの勝者となった。しかし、その10年のちには、世界で2番目に古い自動車メーカーは、悪い方向に向かっていた。小型車として期待された、「プジョー104」は大失敗し、仏ソショーにある本社は大赤字だった。しかし、「205」は、すぐにその失敗を忘れさせてくれる。

フィアット パンダ
イタリア勢も、かつての得意分野であった、「個性の強い小型車」の実力を発揮していた。1980年、フィアットは「パンダ」を発表した。この賢い箱は、ナポリ、ミラノ、ローマといった、いまやクルマで溢れんばかりの都心にふさわしい車であった。かわいい、ぽっちゃりしたタケノコとは対照的に、小さなフィアットは、自動車の最小限のサイズにスリム化されていた。とはいえ、禁欲的な人でなくても、気に入るはずだ。18馬力のリアエンジンの祖先である、「500ヌオーヴァ」に比べれば、「パンダ」の30馬力や45馬力は、ほとんどスポーティモータリングだ。

ルノーR4:
フランスでは、「シトロエン2CV」や「ルノーR4」が国民的な神社になって久しい。イタリアでは、「フィアット500ヌオーヴァ」の精神が「126」に息づいている。この3台は、手頃な価格で、丈夫で、修理が簡単なため、今でも売れている。ドイツでは、キャンパスの駐車場を埋め尽くし、古ぼけたドイツ車に乗りたくない人たちを喜ばせている。しかし、しかし「パンダ」のような現代的な「ミジェット」は、もはやその役割を終えている。

ランチア テーマ8.32: フェラーリの心臓を持つランチア
そして1980年代にはいつも、「デルタ インテグラーレ」と「テーマ8.32」のように、古いランチア愛好家の憧れのため息を誘った。しかし、それは、フェラーリV8を搭載しているに過ぎない。バチカンがマラネロに引っ越してきたような気分だ。目をつぶって80年代を夢見たほうがいい。テクノロジーを愛する2つの国の多様なクルマの世界を、以下、フォトギャラリーとともにお楽しみあれ!

フランスとイタリアの80年代のクルマたち パート2

シートカバーの柄に合わせたテールゲート: ランチアはY10で、デザイン志向の人々のためのスモールカーをあえて提案した。フィアット パンダをベースに、1985年に発売されたライフスタイルの小人。
大林晃平: 出た時は、なんだか、寸足らずで、マンボウみたいな車だと思ったものの、今見るとちゃんとイタリアンデザインしているY10。アルカンターラという名称と存在を知ったのは、この車からだった。日本ではアウトビアンキ名称だったが、もちろん本国ではランチア。高級で優雅なブランドの小さな高級車である。
Photo: AUTO BILD / Holger Schaper
185馬力と全輪駆動を備えたデルタのトップモデルHFインテグラーレは、ランチスタの心の中に漂っている。1979年に登場したデルタは、フィアット リトモをベースに、ゴルフクラスに挑戦した無難なクルマであった。一方、デルタHFインテグラーレでは、ギャレットターボが2.0リッター4気筒にプレッシャーをかけている。今でも、ファンの間では尊敬の念を集めている。そして、デルタは世界ラリー選手権(グループB)で栄冠を手にした。その頂点に立ったのが、最高出力500馬力を誇るデルタS1だった。
大林晃平: デルタHFから進化したインテグラーレ。自動車ジャーナリストの加藤哲也さんに言わせると、右側で落ち葉を踏むと、ステアリングの右側半分にその感覚を伝える、と言っていたがその真偽は定かではない。とにかく乗って楽しく、維持して大変な一台。ドアハンドルが折れたりするのも日常だし、今は亡き、世界最高の自動車ジャーナリストのポール フレールさんが運転するインテグラーレに乗った人が、アシストグリップにつかまったら根元からぽっきり折れたそうだ。
今や1000万円に届こうとするコレクターズアイテムになりつつあるインテグラーレ。こういうランチアの復活を夢見ているのは、もうおじさんかおじいさんの年齢である。
Photo: Angelika Emmerling
4ドアのフェラーリ: ランチアは、フェラーリ308GTBクアトロバルヴォーレのV8を中型セダンのテーマに移植した。ランチア テーマの初代シリーズで話題の8.32は1986年からランチアディーラーで発売された。8.32は、古典的なフェラーリの赤い「ロッソ コルサ」でミラノ製セダンを提供した。テーマ8.32の際立った特徴は、トランクリッドの電動格納式リアスポイラーだった。
大林晃平: 世界で一番美しい4ドアは、ランチア テーマだと信じて疑わない。その世界一美しく高貴な4ドアに、フェラーリエンジンを強引に乗せたのが8.32。ポルトローナフラウの美しいシートとウオールナットのメーターパネル、ギミックとはいえ格好いい電動スポイラーとゴールドのストライプ。そのどれもが憧れだったが、日本では(主に熱の問題から)、6月から10月は乗っちゃいけない車と言われた(でもそれ以外の季節でも、オーバーヒートをはじめとするトラブルは枚挙にいとまがなかったそうだ)。田中康夫氏も所有していたが、もちろん夏の東京ではオーバーヒートしたそうである。
Photo: Goetz von Sternenfels
マセラティ ビトゥルボ、その名前が示すように、2基のターボチャージャーがコンパクトな2ドア車の2リッターV6を喚起する。激動の時代に生まれ、フィアットによる買収が行われた。壊滅的な造りと低い安定性にもかかわらず、ビトゥルボ(Biturbo)はよく売れた。
大林晃平: 個人的に世界でもっともエロチックでエッチな自動車と言って連想するのは、これ。430のミッソーニの内装も超絶素敵だったが、ビトゥルボの皮内装は卑猥な形の時計と相まってなんとも艶めかしかった。当時の価格は700万円台で、今となってはお買い得感のある設定もあり、日本でも結構見かけた。ただし、世界で最も壊れる車は、おそらくこれ、ということを忘れちゃいけません。
Photo: Werk
1979年、マセラティはクアトロポルテIIを発売した。ジウジアーロデザインの高級サルーンに、排気量4.1リッターと4.9リッターの2種類のV8エンジンが用意された。
大林晃平: 実に堂々として、しかし怪しさ満載、でも格好のいい4ドアはこのクアトロポルテ。内装も怪しくもイタリアンな雰囲気満載。映画ロッキーで一躍成功者となったシルベスター スターローンが乗っていたのもコレだったし、ゴットファザーで故郷に凱旋するコーザノストラが使用するのもこのクアトロポルテ。そういう意味では一般人はアンタッチャブルな一台。そもそも所有するとなったら、おかかえ整備工場とメカニックが常駐しないといけません(ガレージ伊太利亜のメカニックが発した「今回の一台は、なんとなく調子がよさそうだね」というセリフが忘れられない)。
Photo: Werk
モンテヴェルディ サファリって、聞いたことない!? 1970年代末、スイスの自動車メーカー、モンテヴェルディは、手造りの罪深いほど高価なスポーツカーの需要が激減し、苦しんでいた。そこでピーター モンテヴェルディが思いついたのが、初の高級SUVを作ることだった。
大林晃平: ジュネーブショーの常連だったスイスのメーカー、モンテヴェルディ。ロールス・ロイスと同程度の価格で販売されていたがこの写真を見てわかる通り、一般人にはどこがいいのかよくわからない。ベースはおそらく(リアゲートとかウインドーのつくり、ホイールベースなどから推測すると)レンジローバーだが、これなら最初からレンジローバー買えばいいじゃん、と思ってしまうのは庶民なのだろう。超高級車も、ブランド超高級品の世界も、奥が深くて語りつくせないものなのである。
Photo: Werk
1980年代の初め、プジョーは不遇だった。世界で2番目に古い自動車メーカーは赤字で、小型車の希望であった104は敗者となってしまった。そんな中、205が救世主となった。それは、適切な時期に、適切な場所に、適切なクルマであったからである。プジョーは1983年から1996年の間に578万台を販売し、この間、小さなライオンはプジョーのポートフォリオの主役だった。モデル戦略上、205はポロとゴルフの中間的な位置づけにある。つまり、クラスレスなのだ。
大林晃平: プジョーが変わったのは、この205から、と言ってよい。日本ではGTIばかりが珍重されたが、本質的にはこの写真のような、普通のモデルが実によかった。個人的に今でもこの4ドアのディーゼルエンジンモデルは欲しい。今見ると小さくて頼りないほどだが、当時ヨーロッパの街中で見かけると実に新鮮だった。デザインはもちろんピニンファリーナ。今でもちっとも古臭くない。
Photo: Werk
スポーツゴルフに対抗するアステリックス: 成功したモデルのデビューから1年後、プジョーはこれまでで最もホットな205の派生モデルを発表した。105馬力の205GTI 1.6が人気を博し、その後には120馬力のGTI 1.9が登場した。
大林晃平: 日本ではプジョー205といえばやはりこのGTI。大ヒットと言っていいと思うし、プジョーが日本で認知され一般的になったのはこのGTIのおかげである。追加された1.9よりも切れ味鋭く、より楽しいのは初期の1.6ほう、と、CG TVのキャスターとして有名な田辺さんがCG誌の長期テスト車の担当をしていた時に断言していた。赤いストライプの内装も洒落ていたが、メーターパネルなどはプラスチッキーでそこもまたプジョーらしかった。
Photo: Werk
ガリアのいちごバスケット: 80年代、世界はオープントップコンパクトを渇望していた。プジョーは迷うことなく、ピニンファリーナ製の205カブリオレをラインナップに加えた。
大林晃平: このころに流行したロールバー付きのカブリオレ。ゴルフもオペルもホンダ シティもみんなこういう感じのロールバーを持っていた。この205カブリオレも地中海沿いの街では大人気。幌もしめないまま、路上に脱ぎ捨てたサンダルのようにそっけなく駐車している姿が、なんともお洒落で素敵だった。基本的には、夏専用の贅沢な革サンダル、みたいな自動車なのである。
Photo: Hans-Joachim Mau
プジョーはラリーモンスターの登録用にロードゴーイング205ターボ16を200台生産した。このサラブレッドレーサーはミッドエンジン、全輪駆動、トレリスフレームを持つ。バージョンによって異なるが、レーシング205は350~500馬力を発揮した。1985年と1986年の世界ラリー選手権では、プジョーが205ターボ16でマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。アリ バタネンとユハ カンクネンが205ターボ16を駆り、1987年と1988年にダカールで勝利を収めた。パイクスピークでのヒルクライムでもターボは活躍した。そして205ターボ16が引退したのは、1992年のことだった。
大林晃平: プジョーがラリーの世界を席巻していたのは、1990年の前と後ろの3年間くらいと覚えると覚えやすい。とにかくターボ16は暴力的なほどの性能で世界をあっと言わせた。もっと具体的で詳細な解説は高平先生にお任せしたいが、プジョーといえばラリーという時代が確かに存在し、それは今までのプジョーのイメージを塗り替えることに大きく貢献したといえる。
Photo: Werk
1979年、ベストセラーだった504の後を継いで登場した505は、1992年まで販売され、その時点で130万台が販売された。
大林晃平: 個人的に中古車で買いそこなったことのある505。どこに魅了されたかというと、とにかくシートだった。フロント・リアともに今まで座った車の中で絶妙な素晴らしさ。インスツルメンツパネルのデザインがいかに無国籍でそっけなくとも、このシートだけで欲しくなって買いに行ったら…売り切れていた。日本には4気筒と6気筒が存在したが、おすすめは落ち着いた感の強い6気筒。こういう上品でさりげないプジョー、どこに行ってしまったのだろう・・・。
Photo: Werk
特に実用的なのは、505ブレーク。ファミリアとして、サードベンチシートを備えている。
大林晃平: 日本には導入されなかった505ブレーク。リアのオーバーハングの長さや全体的なデザインなどなど、4ドアセダンのほうが完成されたデザインであることは間違えない。この当時のワゴンらしくサードシートを備えているが、(座ってみたことがあるが)ヘッドクリアランスは小柄な人間にもギチギチ。子ども用と割り切った方がよいが、後ろ向きでは酔いやすいので常用は無理。
Photo: Werk
プジョー305は80年代の初めによく売れた。90年代までこの中型サルーンは街角の風景の一部であり、パトロールカーとしても使われていた。
大林晃平: ちょっと前のフランス映画でフランスの警察がパトカーとして使用し、たいていは追跡中に2~3台、ぺちゃんこにクラッシュしているシーンの常套だったのがこの305。残念ながら日本には正規輸入されず、日本で目撃したことは皆無。バランス的にも落ち着いて美しいが、正規輸入して売れたかと問われると、ちょっと難しかったかも。でもプジョーらしさ満載で、今でもちょっとほしい一台。
Photo: AUTO BILD / Werk
タルボでは、ホライゾンに代わる「C28」プロジェクトが進められていた。プジョーとの合併後、タルボ社最後の自社開発車はプジョー309として製造された。
大林晃平: プジョー205のちょっと大き目なお姉さんが309。写真の5ドアもちゃんと(?)日本医正規輸入されたが、人気だったのは3ドアのGTIの方。パルサー3ドアのようにフロントから開閉できるワイヤー式のリアウインドーオープナーなど、205にはない小道具もついていた。当時ランチア デルタと悩んで309を愛用していたのが松任谷正隆さんで、幾多のトラブルにもめげず、結構な長期間愛用していた。
Photo: Werk
モダンなデザイン、確かな技術: 405は、1987年からプジョーを代表するミドルクラス向けのモデルとして活躍した。
大林晃平: 205とともに日本でプジョーの名前を普及させたのがこの405。高性能で格好いいMI16とかMI16×4(バイフォーと読む)が人気ではあるが、本当の実力者は写真のようなSRIとかSRDのような普通のモデルである。もちろんピニンファリーナデザインのデザインはランチアテーマと並んで4ドアデザインの黄金比。今でも古くさくならない普遍的なものといえる。大幅に内装デザインが向上した後期モデルがお薦めではあるが。たまにMI16かブレークを見かける程度で、普通のベーシックな4ドアセダンはすっかり姿を消した。
Photo: Werk
フランスの高級車クラス: 大型の604は1985年まで、排気量2.3~2.8リットルの4気筒と6気筒のエンジンが用意されていた。特別な、しかし成功しなかったモデルだ。80馬力のアッパークラスのターボディーゼル604 GTDターボもあった。
大林晃平: 日本にも正規輸入されていた604。プジョー・ボルボ・ルノーで共同開発したPVRの6気筒エンジンを搭載していが、この当時のフランス車の信頼性は低く、ヘッドライトのガラスが落っこちるトラブルなども発生し、夜に走れなくなった個体も多かったらしい。かなりの高価格車なので、地方のお医者さんなどが購入した例もあったというが、あえてこの604を選ぶような粋人はあまりいなかったことは想像がつく。
Photo: Werk

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