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「プラモデルはやっぱり面白い」Vol. 15 スバル360 Part 2

2023年3月26日

日本初のマイカーは奇跡のクルマだった

こんな素晴らしいクルマは他に無い

いきなり私事で恐縮であるが、「スバル360」(1969年式 ヤングS)を4年ほど前に入手して現在も愛用中である。スバル360が欲しかった理由は幾つかある。これまでのクルマ所有歴、約40年のうち、直近の28年間はアルファロメオばかりを乗り継いできた。今後の残された人生(時間)を考えると、他のクルマにも乗らなければならないとの考えが浮かんだ。そして同時に頭にひらめいたのは「スバル360に乗ろう」という想いだった。

私は群馬県人であり、地元の富士重工業(株)が開発した名車、スバル360は幼少の頃から馴染み深い(実際に50年以上前に父親がスバル360を所有し、乗せてもらった思い出は忘れられない)。また、運営をお手伝いさせて頂いているクラシックカーイベントに、亡き小林彰太郎氏(自動車雑誌カーグラフィックの創始者)が特別ゲストとして来場されたことがあるが、その際、会場には国産車、外国車合わせて300台程が参加していた中から、気に入られた車種を尋ねると「スバル360です」とのご回答だったのがとても強く印象として残った。私には多少意外な感がしたが、「スバル360のコンセプトは現在でも通じるものです。今こそ乗用車は大幅にダウンサイジングすべきと思います」と続けられた。そして小林彰太郎さんがそうおっしゃるのであれば、何としてでも乗りたくなった。

その後、購入し、現在でも楽しんで乗っているが、素晴らしいクルマである。50年以上前のクルマであるが、問題なく日常的に乗用が出来る。また運転が楽しくて、しかも可愛らしい。なんと、走行していると、小さな子供たちが手を振ってくれる。こんな素晴らしいクルマは私にとっては他に無いのである。

Part 1に続いてPart 2ではスバル360のバリエーションと呼ぶべき種々のプラモデルとスバル360の誕生に関わる取材を採り上げる。

「スバル360“コンバーチブル”」 ハセガワ製 1/24  パーツ総数78

スバル360コンバーチブル(実車)は1959年に発売された。スバル360がデビューしたのが1958年であるから、驚くべきことにその翌年にコンバーチブルが発売されたのである。ようやく一般庶民になんとか手の届きそうなクルマ(それでもサラリーマンの月給約3年分の価格である)の誕生直後にコンバーチブルの需要があったのか疑問に思える。どうもヨーロッパ車(例えばシトロエン2CV)のようにレジャーを目的としたコンバーチブル化ではなかったようである。実態は日本の真夏に車内にこもる暑さ対策であった。またルーフ部分はFRP製で別部品であったので、ルーフを取り付けていないだけ。と言えばそうとも取れるコンバーチブル化である。

実車には無いボディーカラーだが、プラモデルは自由なのである。インテリアも良く再現されているので、塗装も手を抜けない。

このキットも実車と同様に別パーツとなっているルーフ部分を使用せずにコンバーチブルとなっている。ただしレジン製のキャンパストップとサンバイザーが付属している。レジン製パーツはプラスチック製パーツよりも比較的もろいので、割れてしまう危険性があり、注意を怠らず、丁寧に取り扱う必要がある。

この時代にコンバーチブルが存在したとは・・・。
キャンパストップを背負っているかのようだ。

完成させると実車のコンバーチブル化が車内の暑さ対策だけで無く、オープンエアーでのドライブを楽しめたことも大きな理由のひとつとして考えたくなる。

「 SUBARU360 1964第2回日本GP T-1クラスウィナー」 ハセガワ製 1/24 パーツ総数70

モータリゼーションの高まりもあり、1963年に鈴鹿サーキットにおいて初の本格的自動車レースである第1回日本グランプリが開催された。ツーリングカーC-1クラス(排気量400cc以下)では、スバル360をはじめとしてスズライト・フロンテ、マツダ・クーペなど13台が出走した。このレースでは各自動車メーカーは“積極的には関与しない”との紳士協定を結んだ。スバルはそれに従ったが、紳士協定を無視した他メーカーもあり、スバル360は最上位でもクラス第3位に甘んじたのだった。

ライトカバーは右側のみブラック塗装されている。惜しくもリアエンジンフードパーツが小さすぎる。

翌年1964年に開催された第2回日本グランプリでは各自動車メーカーがワークス体制で臨み、本格的なレース参戦となった。その結果、T-1クラス(排気量400cc以下)では、スバル360がワンツーフィニッシュして雪辱を果たしたのだった。ゼッケンナンバー9が優勝車であり、それを再現したのが本キットである。このキットもヤングSSのキットをベースとしており、レジン製のボンネット、リアエンジンフード、ホワイトメタル製のエアインテーク、ワイパー、フェンダーミラー、また真鍮挽き物製の燃料キャップが付属している。

エアインテークはメタルパーツとなっているので、あえて塗装しなかった。
インテリアも良好に再現されている。実車にはタコメーターが設置されていたようだ。

キットの箱を開け、それらのスペシャルパーツを見るとテンションが上がってくる。「これは楽しそうだ。」と思わずにはいられない。しかし、がっかりしたのは、せっかくのスペシャルパーツであるボンネットとリアエンジンフードが小さすぎるのだ。結局、ノーマル仕様のボンネットを加工して使用したが、リアエンジンフードは止む無くそのまま使用した。なんとも残念である。だが完成させるとスバル360の可愛らしいフォルムが感じられながらも、精一杯レース仕様として頑張った姿が愛おしく思える。

おまけ 「’58 スバル360(パトカータイプ)」  マイクロエース製 1/32 1985年頃発売 パーツ総数38

楽しそうなキットなので思わず製作してしまった。ノーマル仕様について本稿「プラモデルはやっぱり面白い」vol.14 Part2で採り上げているので、参考にしていただけると幸いである。

別売りメタルシートを貼った後、綿棒でなじませる。余分なメタルシートをデザインナイフなどでカットする。
こんなパトカーだったら乗ってみたい?

スバル360の誕生を探る

スバル360は群馬県伊勢崎市にあった「伊勢崎製作所第二工場」で誕生した。その建物は2003年に解体されてしまったが、跡地(現在はショッピングモール敷地の一角)には、“名車「スバル360」の生まれ故郷。富士重工業㈱旧伊勢崎製作所第二工場のレンガ壁”のモニュメントとして残されている。

モニュメントの説明文。

先日、ここを訪れてみた。ショッピングモールの駐車場を入り、奥に向かって行くとすぐに見えてきた。30メートル近くの工場のレンガ壁だけが残されているが、壁の前には綺麗に芝が植えられベンチまで用意されている。小さな公園の様相である。訪問した際には年配のカップルがベンチで休憩していらっしゃった。まるで現役での役目を終えた工場と雰囲気がマッチして和やかな雰囲気であった。

工場の歴史が感じられる。

次にクルマを走らせ30分ほどで富士重工業㈱の前身であった、中島飛行機(株)(第二次大戦中に数々の戦闘機を開発・製造を行った)の創業者の中島知久平氏が築いた「旧中島家住宅」にたどり着いた。

まるで寺院のような門構え。
正面から見る住宅。

現在は一部を公開しており、昭和5年に完成した近代和風の大規模邸宅が無料で見学できる。せっかくなので愛車のスバル360で訪れた。まずは素晴らしく立派な門構えに驚かされる。まるで寺院のようで住宅とは思えないほどだ。門をくぐるとその大きな手入れの行き届いた敷地にも感嘆してしまった。

第一応接室。
第二応接室。

玄関広間、第一、第二応接室に入場できたが、建築後100年近いにも拘らず質の高さが感じられる作りである(建築に全く素人の私にも部材がきっちりと未だに狂い無く組んであるのは分かる)。

ドアノブにも家紋がある。

調度品も大半が注文して作らせたそうで、室内のサイズに合わせてあるのだそうだ。ドアノブにも家紋が彫刻されているなど当時の建築に携わった職人達の技術力の高さが窺える(ただし写真の応接室内の椅子は最近のもの)。建物内部には説明をして下さる係員の方がいらっしゃったので、大変参考になった。その方に「今日はスバル360で来ました。」と伝えると、「私は以前、富士重工業㈱に勤務してスバル360も担当しました」との回答だったので不思議な縁を感じた。やはり群馬県はスバル360の地元であることが再認識でき、感慨深かった。

Text & photo: 桐生 呂目男