シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ 国家の威信を賭けたサーキットバトル1 アウトウニオンの誕生

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第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した!そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年~1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。

1930年代初頭の時代背景

1929年10月29日、ニューヨークのウォール街で起こった株の大暴落を引き金とした世界大恐慌は大企業や銀行までも倒産に陥った。1926年にダイムラー社とベンツ社が合併しドイツ有数の企業となったダイムラー・ベンツ社にも影響し売り上げも激変し、レースを行う経済的余裕すら無くなった。1930年のレース予算は縮小され、GPレースの回数も減った。1926年にアルフレッド・ノイバウアーがレース監督に就任し規律正しく統率されたワークスチームは総勢300名でサーキットに乗り込み、最高のマシンとドライバー達を揃えてGPレースの常勝であったメルセデス・ベンツチームには大打撃となった。1931年のメルセデス・ベンツチームはプライベートチームの様な小人数で構成された。1931年4月11日、イタリアのミレ・ミリアに参戦したメルセデス・ベンツチームはルドルフ・カッチオラとコ・ドライバーのセバスチャン、それに3人のメカニックとレース監督のアルフレッド・ノイバウアーの計6名だった。ライバルのアルファ・ロメオはイタリア人の有名なドライバーを揃え90人のメカニックと17台のサポート・カーを各コースに配置し、万全のバックアップ体制を整えていた。ノイバウアー監督率いるメルセデス・ベンツチームは少数精鋭のチームワークを大いに発揮し、SSKL(7L 6気筒 27/170/300PS)を駆って超人的なドライブをしたルドルフ・カッチオラが優勝した。また、アイフェルレース、アフスレース、ニュルブルクリンクのドイツGPにも優勝した。

1931年のミレ・ミリア。ノイバウアー監督率いるメルセデス・ベンツチームは少人数での参加を余儀なくされたが、見事優勝を飾った。

しかし、1932年シーズン中、ダイムラー・ベンツ社は全てのレース活動を休止する事に決めていた。期しくも1932年10月12日、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が、1934年~1936年まで新しいGPフォーミュラを発表した。ボディの幅を85cm以内、燃料、オイル、冷却水、タイヤを含まない重量を750kg以下に制限するが、排気量は無制限とした。この新フォーミュラの狙いは、従来のフォーミュラリブレ(車両規定のないマシンでのレース)の時代に終止符を打ち、地元フランスのメーカーの利益を優先的にして、750kgの軽量なマシンなら限界は250PSで最高速度も250km/h程度に抑えられると考えていた。

ところが、経済恐慌も何とか収まり、ドイツのナチス第三帝国は助成金を交付する事になった。そこで、ダイムラー・ベンツ社は全く新しいマシンW25でこの1934年から新GPフォーミュラに復帰する事を取締役会で決定した。W25に搭載された4バルブDOHC直列8気筒エンジンは当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮した。

A.I.A.C.R.(現在のFIA)の想像をはるかに超えるスペックで復帰したメルセデス・ベンツW25。

一方、1932年ドイツ東部のザクセン州に在ったホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併してアウト・ウニオン社を発足させた。新生アウト・ウニオンをアピールするにはGPレースの参入を考えていた彼等は、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士が1934年からの750kg GPフォーミュラの為に描き上げた設計図に注目し、これを買い取ってレースに参戦する事に決定した。ここに、ドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した「メルセデス・ベンツ対アウト・ウニオン」の戦いが始まった!
尚、メルセデス・ベンツは周知の通りで多くを要さないが、「モーターレースを語らずにメルセデス・ベンツの歴史を語ることは不可能!(前後編)」を合わせてご覧頂きたい。筆者はまずこの新生アウト・ウニオン社の概要について記したいと思う。次いで、本題であるメルセデス・ベンツのシルバー・アローVSアウト・ウニオンのシルバー・フィッシュのデッドヒートを紹介する(1934年~1939年)。

1932年ドイツ東部のザクセン州に在ったホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併してアウト・ウニオン社を発足させた。

アウト・ウニオン社の概要;ホルヒ社からアウト・ウニオン社誕生まで

アウディの系譜を辿ることは本当に難しい。むしろ、難しいのではなく筆者としては、複雑に絡みあった系譜の糸口を辿ることが面倒であると正直に言った方が良いと言える。しかし、可能な限り解り易くしたつもりである。そうでないとアウト・ウニオンのレース活動が理解して頂けないからだと思う。

Horch社とAudi社(ホルヒとアウディ)
アウディ社の創設者であるアウグスト・ホルヒ博士。当時のベンツ社の工場長を務めるエンジニアであったが、1899年に独立し自らの名を冠したHorch社(ホルヒ)を創設した。ホルヒ博士は、当時は新素材であったアルミ合金製エンジンブロックの開発やエアロダイナミクスを重視したボディを設計する等、今日でも通用する自動車エンジニアリングの第一人者であった。特に、ホルヒ博士は自ら開発した先進技術の優秀性を証明する場としてモータースポーツの重要性に着目。1905年に当時全盛であった耐久レースに参戦し、翌1906年には優勝を成し遂げていた。ホルヒ博士は、技術と品質に対して全く妥協はしないというポリシーで、自動車の開発を続けた。その技術力や開発力はハイレベルであったが、コストを度外視してまで高性能と品質を追求する姿勢に、出資者である経営陣と対立が生じた。そして1909年、遂に自ら興したホルヒ社を追われる事になった。しかし、高い評価を集めていたホルヒ博士には、退社の3日後には出資者が集まったと言われている。同年、新しい会社を設立することになるが、同じ地域で同じ業種、そこにホルヒという名前を社名にするわけには行かなかった。そこで、ドイツ語で「聴く」という意味のHorchen(ホルヒェン)と同じ意味を持つラテン語のAudiを新会社の名前とした。こうしてアウディ社が誕生した。ホルヒ博士の言葉に「レースは走る実験室」とう思想は現在のアウディ社にもDNAとして強く残っている。

アウグスト・ホルヒ博士

Auto Union社へと発展(アウト・ウニオン)
1932年、現在のAudi社の前身であるAuto Union社が設立された。これは前述の通り、1929年10月29日に発生した世界大恐慌が発端だった。ニューヨークにあるウォール街の証券取引所で発生した株価の大暴落により、世界中の大都市は軒並み恐慌に陥った。ドイツも例外ではなく、大企業や銀行まで倒産の危機に瀕したが、ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKW(デーカーヴェー)の4社が互いに手を組むことで、この恐慌を乗り切ることにした。アウディ社は先述の通り、ホルヒ社を追われたアウグスト・ホルヒ博士が設立したミディアムサイズの高品質なスポーツモデルを得意とする自動車メーカーだった。ホルヒ社は最上級のプレステージカー、ヴァンダラー社は小型軽量の実用車を得意分野とし、アウディ社と合併後に世界初の量産FF車を市販化したDKW社は小型スポーツモデルをそれぞれ得意分野としていた。これら、小型乗用車から最上級プレステージカーまで、全く異なるキャラクターを持つ4ブランドがひとつになることで、アウト・ウニオンは時代の最先端を行く自動車メーカーに成長した。アウト・ウニオンの本社はケムニッツに置かれ、4つの輪がエンブレムと決められた。

次に、この合併前の4社と後の1969年にアウディ社と合併したNSUを簡単に整理してみよう。

Horch社;ホルヒ社
1899年、ドイツ・ザクセン州に設立。創設者はアウグスト・ホルヒ博士、アウト・ウニオン結成後は最上級のプレステージカーを生産するブランドとして活躍。

Audi社;アウディ社
1909年にホルヒ社を退いたアウグスト・ホルヒ博士が設立。アウト・ウニオン結成後は最先端エンジニアリングの牽引役を果たし、高品質でスポーツ性の強いブランドとして認知。

Wanderer社; ヴァンダラー社
1885年、リヒャルト・アドルフ・イエニケとヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファーの2人が旧東ドイツのケムニッツに自転車の販売・修理会社として設立。その後3輪車を経て小型車を中心とした4輪自動車分野に進出。アウト・ウニオン結成後も中型クラスの生産をする役割を担った。

DKW社;デーカーヴェー社(ドイツ語Dampf Kraft Wagenの略で蒸気自動車の意味)
1904年、デンマーク生まれの創始者イェルゲン・スカフテ・ラスムッセンは旧東ドイツのケムニッツにボイラー関連のラスムッセン&エルンスト社を友人と共に設立。1907年、社名をDKWに改称。1928年に世界初のFF車「DKW Front」を発表。アウト・ウニオン結成後は、小型スポーツモデルにそのノウハウを生かす。

Auto Union社;アウト・ウニオン社(ドイツ語のAuto Unionは自動車連合の意味)
上記のホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が1932年に結成した自動車連合体。本社はケムニッツに置かれた。アウト・ウニオン社は、総合的なラインアップを揃える自動車メーカーへと成長し、1938年の時点ではドイツ国内でのシェアは23.4%を誇っていた。1945年、第2次世界大戦が終了し、本拠地のあるケムニッツが旧東ドイツに位置していたのでソビエト連邦(現ロシア)に統治された。1948年、占領ソビエト軍によりアウト・ウニオン社は解散を命じられるが、翌1949年に現アウディ社の本拠地であるインゴルシュタットに移り、新生アウト・ウニオンを再結成した。

そして忘れてはならないのがNSU社;エヌエスウー社
1873年設立、社名は本拠地Neckarsulm(ネッカーズルム)の3文字を取って命名(ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州北部)。1950年代には世界最大の2輪車メーカーに君臨、自動車生産は1905年から行っている。1964年に世界初のローターリーエンジンを発表。1969年にアウト・ウニオン社と合併し、Audi NSU Auto Union AG(AGはドイツ語のAktiengesellschaft略で株式会社の意味)が設立された。そして、1985年に社名をAudi AG(アウディ株式会社)へと改め、現在に至る。

(左)モーター誌の1918年4月号に掲載されたホルヒのカラー広告。(右)1911年のアウディの広告。聴く動作をしているドライバーを描いて、社名を「アウディ=聴く」に注意を引こうとするデザインだ。
(左)ヴィァンダラーの創始者の2人;左がリヒャルト・アドルフ・イエニケ、右がヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファー。(右)1932年当時のDKWの広告。マイスタークラッセは2気筒エンジン、ゾンダァクラッセは4気筒エンジン。
上段左から時計回りに、Horch 670 Sport-Cabriolet 1932年。Audi Front Typ uw Limousine 1934年。Wanderer W 40 Cabriolet 2 Fenster 1936年。DKW F 5 Front-Luxus-Cabriolet 2シーター 1937年。

アウト・ウニオンのレース活動概要;ポルシェ博士の爪痕

アウト・ウニオンのGPカーは、その全てのモデルがツヴッカウにあるホルヒの製造工場に設置されたレース専用部署で開発・製造された。
こうして誕生したアウト・ウニオンであったが、当初その知名度はなかなか上がらなかった。そこで、以前からポルシェ博士と関係の深かった元ヴァンダラー社の重役であったクラウス・フォン・エルツェン男爵は1934年から開始される全く新しい規制のGPレース(現在のF1)に参加してアウト・ウニオンを大々的に知らしめるプランを重役会に持ち出した。アウト・ウニオンの重役会はこのプランに大いに乗り気でモータースポーツを通じて新技術を生み出し、それを熟成させて市販車に反映しようとするにはうってつけの内容だった。ここで、主任設計技師に起用されたのが当時、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士であった。しかし、アウト・ウニオンがGPレース参加に伴う莫大な資金が問題となり、政府に資金援助を求めた。1933年1月30日に政権を獲得したナチスのアドルフ・ヒットラーは国家の威信を内外に示す有効な手段としてGPレースの開催を考えていた。同年3月の初頭にはアウト・ウニオンの重役に伴われたポルシェ博士が、ヒットラーと会見を行っているが、この会見でヒットラーはアウト・ウニオンに資金援助を決定したのである。当時のGPレースはフランスやイタリア勢力にほぼ牛耳られており、そうした状況は国家の威信に賭けても取り戻さなければならないと、ヒットラーは考えアウト・ウニオンへの資金援助の申し出を受けた。

上段左、左からポルシェ博士、ナチス高官、クラウス・フォン・エルツェン男爵、そしてアウグスト・ホルヒ博士。フォン・エルツェン男爵はポルシェとアウト・ウニオンを結び付けたキーマン。ホルヒ博士はアウト・ウニオンのレーシングカー造りを支援した。 上段右、新生アウト・ウニオンの経営陣はGPレースの効果についてヒットラーに説明。
下段2枚、ポルシェ博士がヒットラーと会見する様子。

アウト・ウニオンのGPカー、Pヴァーゲン(Porscheの頭文字、ポルシェの設計番号ではタイプ22)は1933年半ばに3台のタイプAがホルヒ工場で製作開始となった。同年末にはテスト走行まで漕ぎ着け、翌1934年初頭にはモンツァのサーキットで試運転が行われた。シーズン直前の3月6日には、ベルリン郊外の2ヘアピンカーブを持つアフス・サーキットでアウト・ウニオンのエースドライバー、ハンス・シュトゥックはコーナーを97km/hで回り、ストレートでは266km/hを出し、平均217km/hで1時間連続走行を達成した。遂に、アウト・ウニオン初のGPレーシングカーが誕生した。

アウト・ウニオンのPヴァーゲンは軽い750kgの車体に各シリンダーにカムシャフトを1本ずつ持ったバンク角45度V型16気筒4.35Lエンジン(ポルシエ博士の設計)をミッドシップに置き、コンプレッサー付で295PSを発揮、チューブラー・フレーム、フリクション・ショックアブソーバー付きトーションバーサスペンション等、革新技術の固まりだった。特筆はエンジンをコックピット後方に置くミッドシップを採用したことにあり、当時のライバルがまだフロントエンジンだったことは当然だったとしても、その後のF1でミッドシップが主流になるまで30年近くを要した。

フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が1934年の新GPフオーミュラ(重量750kg以下)を発表から開始したレース活動は、アウト・ウニオンの重要な仕事であるとして引き続き行われた。アルミ地肌でテールが長く「シルバー・フィッシュ」の愛称で親しまれたタイプAは数多くの栄冠を勝ち取った。エースドライバーのハンス・シュトゥックがヨーロッパ・チャピオンに輝いたのに続き、その改良型であるタイプBを投入した1935年、タイプCで戦った1936~37年にもアウト・ウニオンは勝ち続けた。この間、車重は同じ750kgのままでエンジン4.3Lから6Lまで拡大、最高出力は520PSに達していた。最後のモデルとなったタイプDは1938年導入の新GPフォーミュラ(コンプレッサー無しで最大4.5L、コンプレッサー付きで3Lに制限され、最低重量は850kg)に適合する2.9L バンク角60度V型12気筒、コンプレッサー付きエンジンで485PSを発揮し、1938年から1939年にかけて使用された。特に、160km/hの速度域で発生するホイールスピンと、開発が進化しても解決されることが無かった著しいオーバーステアにより操縦が非常に困難なマシンであったにも拘わらず、アウト・ウニオンのドライバーは絶妙にコントロールした。戦前の国際的なレースには、アウト・ウニオンの他、常勝メルセデス・ベンツ、アルファ・ロメオ等が参戦していた。けれども、1936年と1937年のGPシーズンでアウト・ウニオンは大きな成功を収めた。一方、1936年~1938年の速度記録挑戦はアウト・ウニオンとメルセデス・ベンツによる一騎打ちの最高潮に達した。このアウト・ウニオンのレース活躍は次項目のVSメルセデス・ベンツのシルバー・アローと共に詳しく紹介する。
順調に推移していたアウト・ウニオンではあったが、ドイツを取り巻く国際状況は第2次世界大戦へと底知れぬ泥沼へと転がり出していた。アウト・ウニオンの工場で造り出される製品は、次第に軍需的な色合いを濃くしていった。同様にメルセデス・ベンツにも言える事であった。

シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ(1934~1939年)

メルセデス・ベンツのGPカーはアルミ地肌で矢の如く速いので「シルバー・アロー」と呼ばれたのに対し、アウト・ウニオンのレーシングカーもアルミ地肌で速く、しかもテールが長く魚が尾を振ってスイスイと泳ぐ姿に似ており「シルバー・フィッシュ」と呼ばれた。この両車に共通する人物が2人いる。1人はフェルディナンド・ポルシェ博士で、メルセデス・ベンツに1923年~1928年まで在籍し有名なSシリーズを設計し輝かしいメルセデス・ベンツレーシングカーの優勝の礎を造った。1930年12月1日に独立したポルシェ博士は「名誉工学博士F・ポルシェ有限会社」を設立しアウト・ウニオンのレーシングカーを設計した。もう1人は1933年1月30日に政権を獲得したナチスのアドルフ・ヒットラーである。数日後の2月11日にベルリンで開幕した自動車ショーで開会宣言を行った。演説の主な内容はドイツのモータリーゼーションに関するものだった。国民車構想、アウトバーンの建設、モータースポーツの推奨を唱えた。特に、ヒットラーが自動車レースに熱を入れたのは、モーターレースこそドイツの工業力を世界に示し、併せて国家意識を高揚する最適の道具と考え、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとしたからだ。

(左)はフェルディナンド・ポルシェ博士。新生アウト・ウニオン社の重役会は同社をアピ-ルするにはGPレースの参入を考え、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士が1934年からの750kg GPフォーミュラの為に描き上げた設計図に注目し、これを買い取ってレースに参戦する事に決定。(右)自らメルセデス・ベンツの770Kに乗り国民にパレードするアドルフ・ヒットラー。

前述の通り、1932年10月12日、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が、1934年~1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定した。そこで、1934年のこの新フォーミュラに向けた車両製造にナチスの第三帝国は助成金を供する事にした。ダイムラー・ベンツはGPレーシングに関わってきたドイツ自動車産業の唯一の代表会社として、これまでこの助成金を受け取ってきた。アウト・ウニオンではポルシェ博士と親交があり熱心なモータースポーツ愛好家のクラウス・フォン・エルツェン男爵が早速、助成金を申し出る準備を万全に整え、3月1日にヒットラーとの会合を取りつけた。フォン・エルツェン男爵はポルシェ博士とドライバーのハンス・シュトゥックを連れて3人で首相官邸に行った。ヒットラーはポルシェ博士から超先進的なレーシングカーの説明を熱心に聞いた(ミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションを備える)。それから3日後にヒットラーから支援を得る事が出来た。それまでヒットラーはこの助成金はただ1社、即ちダイムラー・ベンツに与えるつもりだった。つまり、国際的なモータースポーツで成功を収めており、すでに既成事実を作っていたからだ。だが、そうした意味では、ポルシェ博士はダイムラー・ベンツの取締役技術部長時代に、8気筒スーパーチャジャーエンジンを搭載の新型レーシングカー開発に携わっていた。この事実が1934年に大いに役立った。結果、ヒットラーはメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンの両社に資金援助をした。100万ライヒスマルクの資金を提供したが、その資金は2社間で分配する事になった。さらに、ナチスのアドルフ・ヒューンラインがドイツモータースポーツ軍団の司令官となった。

ポルシェ博士が設計しヒットラーが目にしたミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションという革新的な設計図。
アルフレッド・ノイバウアー;偉大なメルセデス・ベンツのレ-ス監督、総計160のレ-スに参戦し監督を務め、その半数以上(84)の勝利を獲得!(1891年生まれ1980年没89歳)
メルセデス・ベンツチーム;左からマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ、監督のアルフレッド・ノイバウアー、リチァード・シーマン、ヘルマン・ランク、ルドルフ・カラッチオラ(写真は1938年7月24日、ニュルブルクリンクのドイツGP)。
アウト・ウニオンチーム;左からタツィオ・ヌボラーリ、ハンス・ミュラー、ハンス・シュトゥック、ウルリッヒ・ピカルケ、クリチアン・カウツ。

当時のメルセデス・ベンツチームのレース監督はアルフレッド・ノイバウアー、主なドライバーにはルドルフ・カラッチオラ、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ、リチャード・シーマン、ヘルマン・ランク等・・・。一方、アウト・ウニオンチームのレース監督はカール・フォイエルアイゼン博士(1936年にヴィリー・ヴァルプに代わって)、主なドライバーにはハンス・シュトゥック、ベルント・ローゼマイヤー、ルドルフ・ハッセ、エルンスト・フォン・デリウス、ヘルマン・パウル・ミューラー等・・・。

シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ 国家の威信を賭けたサーキットバトル2に続く

両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。

TEXT:妻谷裕二
PHOTO:メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ&アウディ&ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。
参考文献=EDITION AUTOMOBILE;Renn-Impressionen (ニュルブルクリンク)。

【筆者の紹介】
妻谷裕二(Hiroji Tsumatani)
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。