シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ 国家の威信を賭けたサーキットバトル2 アウトウニオンとポルシェ博士
2022年4月16日
第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した!そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年~1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。
ドイツの両雄並び立たず
1934年
昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。
イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトだった。しかし、1932年10月にフランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が、1934年~1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入した。そして1934年のニュルブルクリンクのアイフェルレースでメルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生した。この新型メルセデス・ベンツW25は4バルブDOHC直列8気筒、当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮し、車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場した。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだった。
6月3日、ニュルブルクリンクのアイフェルレースが遂にやってきた。両ドイツの軽合金・コンストラクションカーが、去年ヨーロッパのレースを圧巻したアルファ・ロメオ(スクデリア・フェラーリが引き継ぐ)、マセラティ、そしてブガッティに対抗してお互い初めて参戦した。
雷雨のため、スタートが延期された。かなり遅れた為、コンプレッサーの断続的に吠える音がドキドキするテンポでフィールドに響きわたり、観客の好奇心は嫌が上にも盛り上がった。レースが始まった。始まるとすぐに、ブガッティがひっくり返り、そして墓場へと直行した。さらにレースは続いた。
新型メルセデス・ベンツW25のマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが、チームメイトのルイジ・ファジオリを追い抜きトップに立った。その後ろに、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックが続いた。トップグループの順位は、ピットの指示に怒り狂ったファジオリが最終直前にリタイアするまで、そのまま続いた。イタリア人のファジオリはドイツ人ドライバーを追い抜く事が許されなかった。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが新型メルセデス・ベンツW25でニューコースレコードを樹立し優勝した。続いて、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックが入った。ドイツ勢メルセデス・ベンツの「シルバー・アロー」とアウト・ウニオンの「シルバー・フィッシュ」による連戦連勝の時代が始まったのだ。
7月15日、ニュルブルクリンクのドイツGPは、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックとメルセデス・ベンツW25のルドルフ・カラッチオラとの激しい一騎打ちとなった。ルドルフ・カラッチオラは前年に、彼のプライベートなCCチーム(CC=カラッチオラ/シロン)のアルファ・ロメオでかなりの重傷を負っていたが、再びメルセデス・ベンツでスタートした。20万人以上のスポーツファンは彼等の「カラッシュ」が帰って来た事を祝う為、リンクに続々と押し掛けていた。スタートからアルファ・ロメオのルイ・シロンがトップに立った。しかし、1周目にアウト・ウニオンのハンス・シュトゥックとメルセデス・ベンツのルドルフ・カラッチオラが彼を追い抜いた。シュトゥックとカラッチオラは息詰まった一騎打ちを展開し、観客は「抜きつ、抜かれつ」のこのトップ争いに大いに熱狂し、手を振ったり拍手を送ったりした。しばらくして、トップのカラッチオラは14周でリタイアし、今や邪魔者のいないアウト・ウニオンタイプAのシュトゥックがトップに立ったが、ゴール4週目に水温計が100度を示した。シュトゥックはピット前でラジエーターを指差し、アウト・ウニオンではシュトゥックをピットインさせようとしたが、ポルシェ博士は18周もしたのに突然冷却水が過熱する事は有り得ず、温度計の故障であろうと判断し、ゴールまで完走させた。これが国際レースにおけるアウト・ウニオンの初勝利となった。このレースでの平均速度は122.93km/hであった。次いでメルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリが2位となった。
8月25日、スイスGPではアウト・ウニオンタイプAを駆るハンス・シュトゥックが1位、同じくアウト・ウニオンタイプAを駆るアウグスト・モンベルガーが2位とワンツーフニィシュを占めた。メルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリは6位に終わった。
9月9日、イタリアGPではメルセデス・ベンツW25に乗ったルドルフ・カラッチオラ/ルイジ・ファジオリ組が1位で優勝。ハンス・シュトゥック/ライニンゲン候組が2位となった。
9月23日、スペインGPでもメルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリ優勝し、ルドルフ・カラッチオラが2位となった。
1935年
この年から、ヨーロッパ・チャピオンの懸かったレースは全5レースとなった。
つまり、ベルギーGP、ドイツGP、スイスGP、イタリアGP、スペインGPの全5レースだ。
アウト・ウニオンが排気量を拡大したタイプBとなったこの1935年シーズンは、ヨーロッパ・チャピオンの懸かった5つのレースの内、9月8日イタリアGPでハンス・シュトゥックが優勝したが、メルセデス・ベンツW25のルドルフ・カラッチオラが3勝して初のヨーロッパ・チャピオンになった。ルドルフ・カラッチオラは7月14日のベルギーGP、8月25日のスイスGP、9月22日のスペインGPで優勝。7月28日のドイツGPはアルファ・ロメオタイプB/P3のタツィオ・ヌボラーリが優勝。
6月16日、再び10万人がニュルブルクリンクを取り囲んだ。この年のアイフェルレースは盛大に行われた。わずか数周の間に、アウト・ウニオンタイプBを駆る若くして無名のドライバーであるベルント・ローゼマイヤーがトップに立った。この新人はメルセデス・ベンツW25に乗るルドルフ・カラッチオラをものの見事に、自信たっぷりと追い抜き、「オールド・マイスター」のカラッチオラは彼を追いかけるはめになった。すぐに、カラッチオラはこの新人のドライビングスタイルに何か特有な天性のものがあると感じた。ベルント・ローゼマイヤーはカーブをなんと大胆に攻め込み、重いエンジンを搭載したアウト・ウニオンタイプBのリアを殆ど直角にグイッと回し、コースの境界をスライドさせながら、コーナリングするという見事なお手本を示した!しかも全く転倒しなかった。カラッチオラはこの新人から目を離すことなくじっと注視し、メルセデス・ベンツの監督アルフレッド・ノイバウアーの指示が書かれた黒板や小旗、「もっと速く、もっと速く」を全く気に留めなかった。カラッチオラは、遂にこの新人がコースマネジメントの弱点に気づいていたのだ。サーキットの最後の部分にあるツバメの尾の様な形のコーナーを抜ける時、ローゼマイヤーはいつも早めに5速に入れるのだった。最終ラップ、カラッチオラは4速をほんの僅か長く維持したまま、アクセルを踏んだ。コーナーを出たところで、ローゼマイヤーがカラッチオラをブロックしょうとした。が、無駄だった。拳を突き上げ、カラッチオラがトップでフィニッシュした。ちょうどその後に、目に涙を浮かべた新人ベルント・ローゼマイヤーが走り込んだ。つまり、ローゼマイヤ-は最終ラップでカラッチオラに逆転され、初優勝を逃した。
1936年
1935年は「メルセデス・ベンツの年」と言われたが、1936年は「アウト・ウニオン」の年となった。特に、アウト・ウニオンタイプCを駆ってベルント・ローゼマイヤーは7月26日のドイツGP、8月25日のスイスGP、9月13日のイタリアGPに連勝し、6月16日のアイフェルレース、8月15日のコッパ・アチェルボでも優勝した。また、アウト・ウニオンタイプCで5月10日のトリポリGPではアッキレ・ヴァルツィとハンス・シュトゥックが1、2位を独占した。一方、メルセデス・ベンツは新しいシーズンに向けて、W25の車輛の改良に取り掛かった。メルセデス・ベンツの新しいスタイルW25で参戦したルドルフ・カラッチオラは4月13日のモナコGP、5月17日のチェニスGP(カルタゴサーキット)の優勝に止まった。ベルント・ローゼマイヤーは1936年のヨーロッパ・チャピオンとなり、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権でもタイトルを獲得した。ローゼマイヤーのタイトル獲得はアウト・ウニオンにとって最初で最後のヨーロッパ選手権タイトルとなった。
特筆は6月16日のアイフェルレースだ。その天候は全く悪かった。雲は深く、更に深く垂れ下がり、美しい風景が台無しであった。ニュルブルクリンクを見渡す事が出来なかった。メルセデス・ベンツは新スタイルのW25で参戦、アルファ・ロメオでさえ全く新しい車輛で参戦した。ダイムラー・ベンツでは、自社の新しいドライバー、工場のメカニックであるヘルマン・ランクを見出した。そして彼とその他に、カラッチオラの有名な友人、ルイ・シロンをチームに採用した。アウト・ウニオンでは、カール・フォイエルアイゼン博士がヴィリー・ヴァルプに代わって、レース監督になった。スタート直後、まずローゼマイヤーのアウト・ウニオンタイプCのエンジンが掛からなかった。
新しいアルファ・ロメオ12C-36に乗ったヌボラーリはローゼマイヤーの横をすり抜け、前列へと出た。そして、その第3列にいたカラッチオラのメルセデス・ベンツを追い抜くと同時にトップに躍り出た。しかも第3周目に入って、スピーカーはすでにヌボラーリがかなり引き離しリードをしていると伝えた。次いで、カラッチオラ、ローゼマイヤー、フォン・ブラウヒッチュ、シュトゥックと続いた。ローゼマイヤーとカラッチオラの戦いが始まっていた。その後、このメリーゴーランドの結末は、ローゼマイヤーがメルセデス・ベンツを追い抜いた。彼はアクセルを力強く踏み込み、フル加速し、ヌボラーリに追い迫って行った。ヌボラーリとローゼマイヤーの差は、ホイールとホイールの間隔にまでなっていた。そして、それからがローゼマイヤーの芸術作品だ!直線コースで、ベルント・ローゼマイヤーはフル加速し、アルファ・ロメオを追い抜き、観客の大歓声を伴奏の供とした。深く垂れ下がった雲は、さらに強くニュルブルクリンクを包み込み始めた。100m先をも見る事が出来なく、スピードは落ちた。トップのアウト・ウニオンのリードはさらに大きくなっていった。アルファ・ロメオはさらに後退した。その後ろにはメルセデス・ベンツ、そして他の残りのアウト・ウニオンと続く・・・。
テール・エンドは1台のマセラティであった。レントゲンの目の様に、ベルント・ローゼマイヤーはよく熟知したこのリンクを走った。彼は全くミスを犯すことなく、加えてコースアウトもなく優勝した。レースジャーナリスト達は10年前にカラッチオラが雨のアフスで勝利した時の付けられた「雨のマイスター」にちなんで、ローゼマイヤーの事を「霧のマイスター」と呼んだ。この年のプライベートなビッグニュース。ドイツGPの2週間前に、レーシングドライバーのベルント・ローゼマイヤーは、有名な女性飛行士のエリー・バインホルンと結婚。まだベルントは、最適な結婚祝いを渡していなかった。彼の頭の中には、すでに真の選択肢がはっきりと描かれていた。「優勝トロフィー」だ。ただ、彼はそれをまず手に入れなければならなかった。
1936年のシーズンは、アウト・ウニオンがベルント・ローゼマイヤーと共に独占した。軽量化され、しかもオーバーステアのリアエンジンを搭載しているので、絶えずドライバーの問題を抱えていたが、クールで若いブロンドのローゼマイヤーは見事にコントロールし、一生涯この車輛と共に走った。
ドイツオリンピックのこの年、ニュルブルクリンクは観客新記録となった。35万人以上のスポーツファンが世界各国から集まり、ヨーロッパのビッグスポーツ・イベントの1つとして欠かせなくなった。このドイツGPはアイフェル高原で7月26日に開催された。今回、天気は良かった。グレーの雲の玉は風によって追い払われ、レースの始まる頃には空は青くなった。スタート直後は、安心のおける光景であった。1台のメルセデス・ベンツが飛び出し、続いて2番目のメルセデス・ベンツ、その後ろに2台のアウト・ウニオン、そしてさらにメルセデス・ベンツ。それからアルファ・ロメオ、マセラティ、ブガッティと続いた。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュがリードした。
しかし長くは続かなかった。2周目の終わり頃には、すでにアウト・ウニオンタイプCのベルント・ローゼマイヤーが激しく攻め立てトップを奪った。続いて、メルセデス・ベンツが新たに発掘したヘルマン・ランクが肉薄していた。周を重ねる毎、この両者はトップを維持した。その後、ローゼマイヤーが定期的なピットインすると、ヘルマン・ランクは生まれて初めてトップになった。しばらくして、すぐランクもピットインした。事実、彼は8周以上も骨折した指で走っていたのだ。彼が手当をしている間、ちょうどスタート&ゴール地点まで歩いて来て不意に現れたカラッチオラがランクの車輛を引き継ぎ、そしてそのポジションを維持した。その後、手に包帯を巻いたこの患者はノイバウアーの指示で、フォン・ブラウヒッチュの車輛に乗った。しかし、この2台のメルセデス・ベンツのチャンスは遠ざかっていった。
アウト・ウニオンのローゼマイヤーとアルファ・ロメオのヌボラーリが、レースの先頭に立った。そして、このイタリア人がその後、リタイアし、ベルント・ローゼマイヤーは優勝し計画通り、結婚祝いを家でゆっくりと味わう事が出来たのだった。この年の終わり頃には、メルセデス・ベンツのトップ・ドライバーであるルドルフ・カラッチオラと、ほぼ10歳若いアウト・ウニオンのローゼマイヤーとのライバル意識が絶えず顕著に現れ、新しい次元のレースシーズンへと発展させたのであった。それは緊迫のあまり、バチバチと火花が散っていた。
両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。
TEXT:妻谷裕二
PHOTO:メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ&アウディ&ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。
参考文献=EDITION AUTOMOBILE;Renn-Impressionen (ニュルブルクリンク)。
【筆者の紹介】
妻谷裕二(Hiroji Tsumatani)
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。
シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ 国家の威信を賭けたサーキットバトル3 メルセデス・ベンツの猛威に続く