【ひねもすのたりワゴン生活】9日間、2000㎞のぐうたらワゴン旅 その5
2021年11月13日
和邇の湖水浴場。そのたおやかな空間
海津を出て大津に向かうには、西岸をひた走ることになる。すぐに現れるのが大浦で、ここも昔の街並みを残し、静かで落ち着いた佳い風情が漂う。民宿など宿泊施設もあるので、1度滞在してみたいが長年叶わずにいる。
左に琵琶湖、右に比叡山を眺め、のんびり相棒を走らせていると、徐々に日が陰ってきた。日暮れもそう遠くない。…と、和邇で湖水浴場を営む宿を思い出した。この10年ほど、9月にそこで開催されるイベントの運営に関わっていて、東北から九州まで多くの参加者が湖畔のひと時を楽しむ。その宿のオーナー夫妻の優しい笑顔が頭を過ったのである。
こうなると、もういけない。日没前にホテルにチェックインするつもりだったけれど、それを押してでも、会いたくなった。会うと言っても、何か目的があるわけではないし、急いで伝えることがあるわけでもないから、先方にすればいい迷惑だろう。でも、慌てて電話を入れると聞きなれた明るい声が響き、快諾してくれた。まったくもって人を振り回し放題だが、縁に恵まれている。
さて、海水浴は知っていても、湖水浴というとピンとこない方が多いかもしれない。琵琶湖では人気レジャーで、関西の友人には子どもの頃の思い出として刻みこまれている者が少なくない。かつては関東でも、霞ヶ浦などでは楽しまれていたが、水質悪化で昔話になってしまった。
その宿は目の前に美しい砂浜が広がる。部屋からそのまま波打ち際へ出られ、松の木陰で呑むビールは絶品だった。夜は、食事を終えてひとっ風呂浴びたら、庭の桟敷に出て、月夜に照らされる黒々とした湖面を眺めながら、浜風でほてりを冷ます。そして日付が変わる頃、部屋に戻ってごろりと横になるのだけれど、これがたまらなくいい。
打ち返す波音で眠りにつき、波音で目を覚ます。琵琶湖の波は海と違って、耳に柔らかく優しい。そのリズムに身を委ねる一夜はここだけの贅沢…3日もいれば、東京に戻るのが辛くなる。ちなみにこの宿の名物は、湖に面した桟敷でいただく軍鶏鍋。それを目当てに訪ねる客も少なくないという。
朝食には、茄子のぬか漬けが添えられるのだが、これが絶品で、長男が育てた茄子を大女将がていねいに仕上げる。ほどよい塩加減と酸味、香り、そしてほんのりとした茄子の甘みに箸が止まらなくなる。
ここでは、母屋の脇を通りかかると、ぬか床を収めた大きな樽が並んでいて、あの芳香が鼻をくすぐるのだが、そう…このぬか床は、軒下で湖を疾ってくる季節季節の風を受け、冬の厳しい寒さに晒されるのだ。樽に潜む乳酸菌や酵母は、波音を聞きながら琵琶湖の四季に鍛え抜かれ、山宗の食卓を支えているのである。
日頃の不摂生で不健康そのものの私でさえ、ほんの3日もここで寝起きする生活を送ると、体調がよくなっちゃうわけだから、ぬか床の微生物たちは何をか言わんや…。あまりの美味さに、この漬物を送ってもらえませんか…と半分本気で尋ねたこともあった(笑)。
小皿に盛られたイサザなど湖魚の佃煮も舌を悦ばせ、普段朝食を摂らない私も、飯を何杯もおかわりして仲間に笑われる。最近は朝から10種類以上もおかずが並び、刺身だの、鍋だの、フルーツ盛りだのとテーブルがいっぱいになる宿も珍しくないが、私はこんなシンプルで土地の香りがする朝食が食べたい。
さて、オーナー夫妻は、突然の珍客をいつもの人懐っこい笑顔で迎えてくれた。春浅い和邇の浜はひと気もなく、爽やかな冷風が疾っていたけれど、夏、水遊びをする人々の賑やかな声が聞こえてくるような気がする。
東京出身の女将はフラダンスの講師でもあり、宿の一角、湖を見下ろす二階のフロアでダンス教室を開いている。雄大な湖面を眺めながらのレッスンはさぞかし心地よいだろうなぁ…と、これまた贅沢なひと時に想いを馳せたが、おっさんには無縁の世界だ(笑)。
さて、和邇から大津へは、道沿いがどんどん賑やかになっていく。見慣れたチェーンの飲食店があったり、ショッピングモールが迫ったり、全国展開の巨大な紳士服店が現れたり…。琵琶湖大橋の近く、堅田のあたりまで来ると、菅浦や海津と同じ湖であることが信じられないほどで、だんだん現実に引き戻されていく。でも、懐かしい感覚が少しずつ身体を支配していくような心地で、それはそれで悪くない。日が暮れようとする頃、大津の街に入った。今夜のホテルはもう目と鼻の先だ……。
それにしても、仕事で眺めてきた琵琶湖と、今日の琵琶湖…こんなに印象が違うとは思わなかった。まったく別の湖に見える…なんて大げさなことを言うつもりはないけれど、空も、湖もとにかく広い。いや、そう見えた。かつては、撮影のためにボートで南湖から奥琵琶湖まで、まさに縦断することも珍しくはなかったから、そのスケール感は身体が覚えているはずだったが、この日の琵琶湖はずっと広く、大きく見えた。そして、時もゆっくりと流れていた。腕時計が遅れているのではないかと思ったほどで、運転しながら見直すのも1度や2度ではなかった。
予定やスケジュールに追われることのないドライブ、何かに囚われることのない旅の楽しさの片鱗を初日にして目の当たりにしたのだった。
【筆者の紹介】
三浦 修
BXやXMのワゴンを乗り継いで、現在はEクラスのワゴンをパートナーに、晴耕雨読なぐうたら生活。月刊誌編集長を経て、編集執筆や企画で糊口をしのぐ典型的活字中毒者。
【ひねもすのたりワゴン生活】
旅、キャンプ、釣り、果樹園…相棒のステーションワゴンとのんびり暮らすあれやこれやを綴ったエッセイ。