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シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ 国家の威信を賭けたサーキットバトル3 メルセデス・ベンツの猛威

2022年4月18日

1939年

ドイツメーカーのアドバンテージ
5月21日、ニュルブルクリンクの国際アイフェルレースでは、フォーミュラの変更をものともせず、両ドイツレーシングチーム間でのみ優勝が決まる事は明白になった。即ち、その技術や組織能力が優れていると、はっきりしたからだ。イタリアやフランスからこのリンクに送り込まれてきたコンペティター;マセラティやタルボは、ただ脇役に過ぎなかった。

1939年5月21日、アイフェルレースでまだメルセデス・ベンツのフオン・ブラウヒッチュはアウト・ウニオンのヌボラーリをリードしている。優勝はメルセデス・ベンツW154のランク、2位にアウト・ウニオンタイプDのヌボラーリ、3位にメルセデス・ベンツW154のカラッチオラ、4位にフォン・ブラウヒッチュ。

太陽は霧を追い払い、コースはドライであった。しかし、寒さは残っていた。メルセデス・ベンツのトリオ;ランク、フォン・ブラウヒッチュ、カラッチオラ達は、エレガントな今年のモデル・W154に乗り、トップグループを形成した。特に両ドイツレーシングカーは、同じくその前年にはテスト済みで完成された車輛となっていた。ものすごく息詰まるレースが展開された。カラッチオラはチームメイトのマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュを追い抜き、そしてランクに迫った。ランクは必死に抵抗した。アウト・ウニオンタイプDを駆る「マイスター・ドライバー」であるタツィオ・ヌボラーリもブラウヒッチュを追い抜き、トップの2人との差も詰めた。メルセデス・ベンツのピット前に、タイヤが置かれた。これはストップを意味した。ランクが最初に止まった。メカニック達は各自の仕事を請け持った。ランクは、カラッチオラとヌボラーリの後を追ってレースに復帰した。続いて、フォン・ブラウヒッチュがピットインしてきた。彼は新しいリアタイヤをかばいながら、エンジンを回転させ、ほとんど飛ばしすぎる事はなかった。そこへカラッチオラもピットインしてきた。そうこうしている間に、ヘルマン・ランクがニューコースレコードを出し、トップに躍り出た。そしてヌボラーリとカラッチオラが追い上げて行ったが、ランクはレースの最後までトップを譲らなく優勝した。

4週間後の7月23日に、ドイツGPがニュルブルクリンクで行われ、センセーションを巻き起こした。
レースはアイフェル特有の天気でスタートした。城跡の塔はモヤに包まれ、にわか雨が高原に急に追い立て、アップ・ダウンや鋭いカーブのコースは滑り易く、危険であった。20万人以上のスポーツ愛好家達は風雨にもかかわらず、リンクに集まって来た。

2周目に入った。その時、センセーションが起こった。トップを走っているヘルマン・ランクのメルセデス・ベンツW154の後ろに、パウル・ピーチュの赤いマセラティがぴったりと続いた。このマセラティはイタリアのメーカーが、彼の為に用意した優れたレーシングカーであった。この新しいマセラティが、こんなに速く走るとは誰しも思ってもみなかったからだ。ピーチュの数m後には、タイプDを駆るアウト・ウニオン・マンのタツィオ・ヌボラーリがいた。その時、ランクはピットに入ってきた。そしてピーチュがトップになった。ヌボラーリは攻め立てた。猛烈な2人の戦いが炎の如く繰り拡げられた。そうこうしている内に、彼等の後ろを走っていたマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュのメルセデス・ベンツもピットインしてきた。ルドルフ・カラッチオラはその後、第3位になっていたアウト・ウニオンタイプDに乗ったドライバーのH.P.ミューラー(ヘルマン・パウル・ミューラー)を追い抜いた。その間、ヌボラーリはマセラティを抜きトップとなった。ピーチュはその後少し後退し、カラッチオラは今や第2位に上がってきた。ウェットな路面で、車輛はスリップした。湿った天気はプラグに負担をかけ、一人また一人とリタイアしていった。ピットインによって、トップのポジションは絶えず入れ替わっていた。ようやくヌボラーリがトップに、それからミューラー、カラッチオラ、ハッセの順と落ち着いた。ピーチュはこのトップグループの後ろをしっかりとキープしていた。他のドライバーは3周遅れであった。そしてハーフタイムとなった!このハーフタイムの時、今までと全く異なった方法でイベントが催された。スピーカーからスタートが告げられた時、ツェッペリンの飛行船がちょうどニュルブルクリンクの上空に到着した。飛行船からレポーターは盛んに放送し、全国の人々が聞き入る事が出来た。当時の参加者にとっては、忘れられない出来事であった。レースはファイナルに近づいてきた。ランクはプラグのオイル上がりによってリタイアしなければならなく、フォン・ブラウヒッチュは燃料タンクに穴が空いてしまった。シュトゥックはマシントラブルでコース上に止まった。ハッセはカーブでコースから飛び出した。ヌボラーリのエンジンは故障してしまった。

両ドイツメーカーのドライバーは、各1名ずつしかレース上に残っていなかった。メルセデス・ベンツW154のカラッチオラが、アウト・ウニオンタイプDのミューラーに45秒の差をつけてトップを走っていた。イタリアのワークス・マセラーティに乗ったピーチュは2周遅れではあるが、特筆すべき第3位の位置に付けていた。大雨となった。その時、メルセデス・ベンツのレース監督ノイバウアーの旗が振られた!それは、カラッチオラに向けてであった。用心の為、もう1回燃料補給の指示。メルセデス・ベンツW154は正確にマークの位置に停まった。ピットの中は、緊張のあまり静まり返っていた。迅速にしかも最も精確に、入念なチェックが行われた。17秒後に、カラッチオラは観客の声援を受けて再びレースに戻った。そして最速ラップレコードを出し、巧みなドライビングテクニックによって、「雨のマイスター」と謳われたルドルフ・カラッチオラは、アウト・ウニオンタイプDのヘルマン・パウル・ミューラーをリードし第1位でゴールインした。参加者や観客達は、これがニュルブルクリンクでのシルバー・アローのファイナル勝利になるとは誰しも思っていなかった!

暗雲がアイフェル上空以外にも現れた。
それは悪天候よりも最悪な戦争をもたらした。全ヨーロッパ、全世界に。スポーツホテルは野戦病院に、スタート&ゴールの駐車場は農地や牧草地になった。加えて、メルセデス・ベンツの塔は豚・鶏・牛小屋となった。戦車はアスファルトに深い溝を掘り、コースは荒廃し、土豪や土堤があちこちに造られた。プレスハウスは焼失し、貴重な資料は無くなるか盗まれてしまった。レーシングスポーツについて、もはや考えられなくなってしまった。ニュルブルクリンクは死んだのも同然になった。

しかし、この1939年の特筆はメルセデス・ベンツW154とW165の圧倒的な強さを発揮した事だ。6月25日のベルギーGP、8月20日のスイスGP、特に3Lフォーミュラの2年目、1939年は初めからメルセデス・ベンツW154とアウト・ウニオンタイプDのドイツ勢が独占。そこで、イタリアは5月7日に開催する自国のトリポリGP(イタリアの植民地リビア)を何としても勝ちとるために必死の策を練り、遂にイタリアのスポーツ・コミッションは「最後の切札」を打った。つまり、トリポリGPの制限を急に1.5Lに変更すると発表。このクラスを得意とするのはマセラティやアルファ・ロメオのイタリア勢。しかし、メルセデス・ベンツ技術陣はスペシャルプロジェクトチームを結成し、わずか8ヶ月で全く新しいマシンW165の製作に成功。このトリポリGPで1位がヘルマン・ランク、2位はルドルフ・カラッチオラ。メルセデス・ベンツのエンジニアの意地と実力はフルに発揮され、人々に驚きと感動を与えた。一方、アウト・ウニオンはタイプDで7月9日のフランスGPでヘルマン・ミュラーとゲオルグ・マイエルが1、2位の勝利を飾った。また9月3日にタツィオ・ヌボラーリがユーゴスラビアGP(ベオグラード)で優勝した。その他にはハッセが6月25日のベルギーGPで2位を獲得した。

1939年、メルセデス・ベンツW165をわずか8か月で開発し、5月7日のトリポリGPでヘルマン・ランク、ルドルフ・カラッチオラが1・2位を独占!
1.5LGPマシンW165

メルセデス・ベンツのGPマシン・ヒストリー

1934年 W25
昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトだった。しかし、1932年10月にフランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が、1934年~1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入した。そして1934年のメルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生。この新型W25は4バルブDOHC直列8気筒、当初3.36Lのスーパ-チャジャー付きで354PSを発揮し、車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場した。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだ。この年、イタリア及びスペインGP等でも優勝し、翌1935年には7つのGPを制覇した。
1937年 W125
750kgフォーミュラは1936年までとされていたので、メルセデス・ベンツ技術陣は1937年から採用される予定の新3Lフォーミュラの設計試作を1936年より開始。しかし、新3Lフォーミュラの最終決定が遅れた為、1937年は750kgフォーミュラが継続された。そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は急いで、新フォーミュラ用として最高傑作車といわれるW125を完成させた。エンジンはW25の直列8気筒、DOHC、ルーツ・コンプレッサー付きをさらに5.66Lにボアアップ。出力は37年の初期モデルで600PS弱、後半には646PSにも達しそのスピードは433.7km/hを記録した怪物。
シャーシはレーサ-よりも速いエンジニアと言われたルドルフ・ウーレンハウトが担当。当時すでに生産モデル500K及び540Kに使用して好評のフロントにダブルウィシッボーン、コイルの組み合わせを初めてレーシングマシンに採用。リアは巨大なトルクに耐えさせるため、ド・ディオンとトレーリングアームとそして縦置きトーションバーの組み合わせで、ダンパーはハイドロリック式を使用した。

彼はW25を自分でテストしてシャーシの欠点を十分に理解していた。つまり、W25は全くハードだったので大規模な設計の転換を実施した。結果、ソフトな乗り心地と優れたロードホールディングを持ったこの新型W125はトリポリやドイツGPを初め、同年13レース中、7回も優勝し、名手ルドルフ・カラッチオラが1937年・1938年に、そして1939年にはヘルマン・ランクがそれぞれヨーロッパチャンピオンに輝いた。
1938年 アウトバーンで時速432.69kmの世界最高記録を樹立
ヒットラーが特に自動車レースに力を入れたのは、これまでの全記録を打ち破って、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとした為だった。メルセデス・ベンツとアウト・ウニオンに資金援助をし、このドイツ両車はレースで圧倒的な勝利を獲得した。1936年に入るとメルセデス・ベンツはV-12気筒、4.8L 540PSエンジンを搭載した流線型のレコード・レーサーを造った(W25ベース)。1936年10月と11月にフランクフルト~ダルムシュタット間のアウトバーンで名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L~8L)で計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録。しかし、当時のレースでドイツ勢のライバルであるアウト・ウニオンの流線型レコード・レーサーを駆ってベルント・ローゼマイヤーが1937年に406.3km/hの記録を達成した(タイプCストリームライン)。そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は面目に賭けてもこの記録を打ち破るべく1936年のレコード・レーサーのV-12エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し(W125ベース)、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライング・キロメーター432.69km/h、フライング・マイル432.36km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立した(公道上で出した最高速度で現在も破られていない)。
(上)レコード・レーサー(W25ベース)、(下)レコード・レーサー(W125ベース)
1938年 W154
大改革の年であった。重量と排気量の両方制限されたこの新しいGPフォーミュラは、むしろ平等にチャンスがあると思われた。つまり、1938年~1940年まで適用されたこの3Lレーシングフォーミュラは、コンプレッサー無しで最大シリンダー容積が4.5Lに、そしてコンプレッサー付で3Lに制限され、レーシングカーの最低重量は850kgとなった。メルセデス・ベンツの技術陣はマックス・ヴァグナー、ルドルフ・ウーレンハウトをリーダーとして開発した完成したのが、このW154である。3Lで瞬間的に476PSを発揮するV12気筒、DOHC 2連スーパーチャージャーを備え、しかもコンパクトな60度V12気筒エンジンの採用の結果、ボディはW125より遥かに低くなり、重心位置を低め安定性を増した。シャーシはW125とほぼ共通である。
1939年 W165
3Lフォーミュラの2年目、1939年は初めからメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンのドイツ勢が独占。そこで、イタリアは自国のトリポリGP(イタリアの植民地リビア)を何としても勝ちとるために必死の策を練り、遂にイタリアのスポーツ・コミッションは「最後の切札」を打った。つまり、トリポリGPの制限を急に1.5Lに変更すると発表。このクラスを得意とするのはマセラティやアルファ・ロメオのイタリア勢。しかし、メルセデス・ベンツ技術陣はスペシャルプロジェクトチームを結成し、わずか8ヶ月で全く新しいマシンW165の製作に成功。エンジンはV-8、90度、1.5L、254PS、5速ギアで274km/hをマーク。このトリポリGPで1位がヘルマン・ランク、2位はルドルフ・カラッチオラ。メルセデス・ベンツのエンジニアの意地と実力はフルに発揮され、人々に驚きと感動を与えた。

アウト・ウニオンGPマシンの主なスペック

1934年 タイプA
エンジンは4.3L V16気筒 バンク角45度 1×ルーツ式コンプレッサー付295PSを発揮するミッドシップ5速。フロントサスペンションはトレーリングアーム/トーションバー、フリクションダンパー。リアサスペンションはスイングアクスル/トランスバースリーフスプリング、フリクションダンパー。
1935年 タイプB
エンジンは4.9L V16気筒 バンク角45度 1×ルーツ式コンプレッサー付375PSを発揮するミッドシップ5速。フロントサスペンションはトレーリングアーム/トーションバー、フリクションダンパー。リアサスペンションはスイングアクスル/トーションバー、フリクションダンパー。
1936-37年 タイプC
エンジンは6.0L V16気筒 バンク角45度 1or2×ルーツ式コンプレッサー付520PSを発揮するミッドシップ5速。フロントサスペンションはダブルトレーリングアーム式トーションバーサスペンション。リアサスペンションはスイングアクスル式トーションバーサスペンション。
1938-1939年 タイプD
エンジンは2.9L V12気筒 バンク角60度 2×ルーツ式コンプレッサー付485PSを発揮するミッドシップ5速。フロントサスペンションはダブルトレーリングアーム式トーションバーサスペンション。リアサスペンションはド・ディオン式トーションバーサスペンション。

両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。

TEXT:妻谷裕二
PHOTO:メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ&アウディ&ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。
参考文献=EDITION AUTOMOBILE;Renn-Impressionen (ニュルブルクリンク)。

【筆者の紹介】
妻谷裕二(Hiroji Tsumatani)
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。

シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ 国家の威信を賭けたサーキットバトル1 アウトウニオンの誕生