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	<title>ローゼンマイヤー - AUTO BILD JAPAN Web（アウトビルトジャパンウェブ） 世界最大級のクルマ情報サイト</title>
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	<description>世界最大級のクルマ情報サイトAUTO BILDの日本版。いち早い新車情報。高品質なオリジナル動画ビデオ満載。チューニングカー、ネオクラシックなど世界のクルマ情報は「アウトビルトジャパン」でゲット！</description>
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	<title>ローゼンマイヤー - AUTO BILD JAPAN Web（アウトビルトジャパンウェブ） 世界最大級のクルマ情報サイト</title>
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	<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その1　ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間</title>
		<link>https://autobild.jp/50085/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 09 Apr 2025 22:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[JAL]]></category>
		<category><![CDATA[アウトウニオン]]></category>
		<category><![CDATA[カラッチオラ]]></category>
		<category><![CDATA[ジャルパック]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ旅行]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
		<category><![CDATA[ニュルブルクリンク]]></category>
		<category><![CDATA[メルセデス・ベンツ]]></category>
		<category><![CDATA[ローゼンマイヤー]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="660" height="460" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" fetchpriority="high" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg 660w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル-300x209.jpg 300w" sizes="(max-width: 660px) 100vw, 660px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">「キャビンクルー、プリペア フォー ランディング」</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>機長から機内アナウンスがあって間もなく、機は左に大きくバンクして着陸態勢の最終段階に入った。高度が急速に下がっているのが座席からもわかる。ごく軽いショックとともに車輪が着地。数秒後、ボーイング787は両翼に備えるターボファンエンジンを逆噴射したのだろうか、減速度が一段と増してJAL407便はフランクフルト国際空港に到着した。現地時間は日本出発時と同じ、2025年2月17日だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ジャルパック ブランド誕生60周年特別企画――ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間」こう題されたJALのサイトをどうやって見つけたのか、今では定かでない。メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディの4メーカーが運営する博物館を、ツアーコンダクターとドイツ在住モーターナビゲーターが同行しながら巡るのだという。私にとっては不可能とあきらめていた夢を実現してくれるツアーだ。居ても立ってもいられない思いで参加を申し込んだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フランクフルトに到着した私たち一行を、随行ナビゲーターのアレキサンダー オースタンさんが暖かく迎えてくれた。ドイツ語と日本語のバイリンガルで、しかも現役バリバリのモータージャーナリスト。その暖かい人柄ゆえに私たちはすぐに打ち解け、自然にアレックスと呼ぶようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":50105,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-2.jpg" alt="" class="wp-image-50105 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>旅の全日程を通じてよき案内役となってくれたアレックス（左）。右の人物はカール ベンツ自動車博物館のオーナー。お名前は聞きそびれた。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>空港を出ると、私たち一行専用の大型観光バスに乗り込み、南へ約90km下った今夜の投宿地マンハイムに向かう。MANの大型バスは夕闇せまるアウトバーンを快調に進む。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「私たちはこれからローゼマイヤーが事故を起こした所を通過します」アレックスのひと言で、私は90年前、まさしく今から差し掛かる地点で起こった歴史的アクシデントを思い出した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1934年に施行された750kgフォーミュラが契機となり、メルセデス・ベンツとアウトウニオンの2社は火花を散らすような激戦を繰り広げた。戦いの舞台はグランプリサーキットに限らず、ドイツのアウトバーンでも繰り広げられた。スピード記録に挑戦したのだ。メルセデスが世界記録を樹立したかと思うと、それを見越したようにアウトウニオンが記録を塗り替え、さらにメルセデスが更新するといった具合で、両社のせめぎ合いは熾烈を極めた。おもな舞台はフランクフルトから南下してダルムシュタットに至る直線区間。両社ともに当時のグランプリマシンをベースにした流線型ボディの速度記録車で覇を競った。メルセデスのエースドライバーはルドルフ カラッチオラ、アウトウニオンはハンス シュトゥックだ。しかしシュトゥックは1937年に自身の世界記録を更新したのを潮時に、スピード記録挑戦にピリオドを打った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>新たなヒーロー、ベルント ローゼマイヤーがアリーナに登場する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaPosition":"right","mediaId":50106,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text has-media-on-the-right is-stacked-on-mobile"><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>ベルント ローゼマイヤー（1909年10月14日-1938年1月28日）。1935年～37年までアウトウニオン・チームからGPに出場。キャリアの頂点は1936年、ドイツ、スイス、イタリアの3連戦でハットトリックを演じ、この年のチャンピオンに輝いた。スピードの魅力に取り憑かれた、天才肌のドライバーだった。（この写真はアウディミュージアムが配布している資料を撮影しました）。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-3.jpg" alt="" class="wp-image-50106 size-full"/></figure></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今私たちが乗るバスが走っているのは上下線ともに4車線の立派なハイウェイだが、1930年代では片側2車線しかなかった。路肩から芝生を植えただけの中央分離帯までの道幅はせいぜい8mほど。そこをメルセデスとアウトウニオンのドライバーは360km/h超のスピードで走り抜けたのだ。直線路とはいえラインをキープするには超人的なテクニックを要したに違いない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトウニオンを駆ったベルント ローゼマイヤーはこの辺りの事情を次のように語っている。<br>「道路の真ん中にマシンを保つにはこの上ない集中力を要する。高架橋の下を通過する際、横からの突風には瞬間的な対応が必須だ。そんなわけでものの2分も走るとドライバーの神経系統は完全に疲弊する。だから連続10マイル記録走行は、1回のグランプリレースよりはるかに疲れる。たとえ時間にして2分40秒程度でもね」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1937年10月25日、彼はアウトバーンで才能を開花させる。フランクフルト/ダルムシュタット間の往復2方向の平均でフライングスタート（ほぼ最高速に達した状態でスタートを切る）1km区間406.30km/h、同1マイル区間で406.28km/hを計測、世界で初めて公道を400km/h超で走った人物となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデスとアウトウニオンによる速度記録挑戦は1938年1月28日、一つの頂点を迎える。厳しく冷え込んだその日の午前8時、フランクフルト/ダルムシュタット間を往復するカラッチオラの走行が始まる。駆るのは従来型に大きく改良の手を加えた新型だ。フライングスタートによる往路で良好なタイムを計測した彼は復路でも好調を維持。往復の1km区間平均スピード432.69km/h、1マイル区間平均スピード432.42km/hを達成して、ローゼマイヤーによる既存の記録をいとも簡単に打ち破ってみせた。新記録に満足したカラッチオラは、妻を伴ってフランクフルトのホテルへ帰っていった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>同日午前11時、ローゼマイヤーがアウトウニオンの新型マシンに搭乗する。カラッチオラが走った時より風が強まっている。記録更新に挑戦するには危険な横風だ。チーム監督は明日に順延するよう説得するが、ローゼマイヤーの決意は固い。<br><br>「いや、ボクはこれから走る。森から風が吹き抜ける場所はわかっている。対処できるよ」<br><br>そう言って、走り始めた。数分後戻ってきて、エンジンが適正な温度に上がらないと訴える。大気が余りにも冷えているのだ。それでも429.9km/hを計測していた。ラジエターの一部を塞いで再出走。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしローゼマイヤーは往路から復路に方向転換するポイントに姿を現さなかった。ランゲンとメルフェルデンを結ぶ高架橋付近にボディの破片が散乱していた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>たまたまこの日、現場に居合わせたポルシェ博士の秘書ハンス ガイガーが語る。<br>「私たちは破片などには目もくれず、ローゼマイヤーを探した。木々の間に横たわっていた。見たところ外傷はなく、眠っているようだった。心臓は鼓動を打っていたが、数分後止まった」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ベルント ローゼマイヤーがグランプリの檜舞台で活躍したのは1935～37年の3シーズンのみ、その間、選手権にカウントされるGPに限れば勝利数は「3」に過ぎない。圧倒的な勝ち星を誇るドライバーではなかったが、波に乗ったときは目を見張る速さを示した。GPシーンに彗星のように現れ、去って行ったローゼマイヤー。ドイツの人々からこよなく愛されたドライバーだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>後日、事故地点には記念碑が立てられ、今も献花が絶えないという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":50107,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-4.jpg" alt="" class="wp-image-50107 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1937年10月28日、フランクフルト。アウトウニオンの速度記録車を発進させようとしているローゼマイヤー。ホイールアーチにスパッツが付いていないことからスタンディングスタート（静止状態からスタートする）による速度記録を狙ったシーンだと思われる。一方、ダルムシュタット手前で折り返すフライングスタート用のマシンは、スパッツの付いた完全なエンクローズドボディを架装していた。（写真はChris Nixon著Racing the Silver Arrowsのページを撮影しました）。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="660" height="460" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg 660w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル-300x209.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 660px) 100vw, 660px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">「キャビンクルー、プリペア フォー ランディング」</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>機長から機内アナウンスがあって間もなく、機は左に大きくバンクして着陸態勢の最終段階に入った。高度が急速に下がっているのが座席からもわかる。ごく軽いショックとともに車輪が着地。数秒後、ボーイング787は両翼に備えるターボファンエンジンを逆噴射したのだろうか、減速度が一段と増してJAL407便はフランクフルト国際空港に到着した。現地時間は日本出発時と同じ、2025年2月17日だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ジャルパック ブランド誕生60周年特別企画――ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間」こう題されたJALのサイトをどうやって見つけたのか、今では定かでない。メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディの4メーカーが運営する博物館を、ツアーコンダクターとドイツ在住モーターナビゲーターが同行しながら巡るのだという。私にとっては不可能とあきらめていた夢を実現してくれるツアーだ。居ても立ってもいられない思いで参加を申し込んだ。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>フランクフルトに到着した私たち一行を、随行ナビゲーターのアレキサンダー オースタンさんが暖かく迎えてくれた。ドイツ語と日本語のバイリンガルで、しかも現役バリバリのモータージャーナリスト。その暖かい人柄ゆえに私たちはすぐに打ち解け、自然にアレックスと呼ぶようになった。</p>
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<p>旅の全日程を通じてよき案内役となってくれたアレックス（左）。右の人物はカール ベンツ自動車博物館のオーナー。お名前は聞きそびれた。</p>
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<p>空港を出ると、私たち一行専用の大型観光バスに乗り込み、南へ約90km下った今夜の投宿地マンハイムに向かう。MANの大型バスは夕闇せまるアウトバーンを快調に進む。</p>
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<p>「私たちはこれからローゼマイヤーが事故を起こした所を通過します」アレックスのひと言で、私は90年前、まさしく今から差し掛かる地点で起こった歴史的アクシデントを思い出した。</p>
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<p>1934年に施行された750kgフォーミュラが契機となり、メルセデス・ベンツとアウトウニオンの2社は火花を散らすような激戦を繰り広げた。戦いの舞台はグランプリサーキットに限らず、ドイツのアウトバーンでも繰り広げられた。スピード記録に挑戦したのだ。メルセデスが世界記録を樹立したかと思うと、それを見越したようにアウトウニオンが記録を塗り替え、さらにメルセデスが更新するといった具合で、両社のせめぎ合いは熾烈を極めた。おもな舞台はフランクフルトから南下してダルムシュタットに至る直線区間。両社ともに当時のグランプリマシンをベースにした流線型ボディの速度記録車で覇を競った。メルセデスのエースドライバーはルドルフ カラッチオラ、アウトウニオンはハンス シュトゥックだ。しかしシュトゥックは1937年に自身の世界記録を更新したのを潮時に、スピード記録挑戦にピリオドを打った。</p>
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<p>新たなヒーロー、ベルント ローゼマイヤーがアリーナに登場する。</p>
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<p>ベルント ローゼマイヤー（1909年10月14日-1938年1月28日）。1935年～37年までアウトウニオン・チームからGPに出場。キャリアの頂点は1936年、ドイツ、スイス、イタリアの3連戦でハットトリックを演じ、この年のチャンピオンに輝いた。スピードの魅力に取り憑かれた、天才肌のドライバーだった。（この写真はアウディミュージアムが配布している資料を撮影しました）。</p>
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<p>今私たちが乗るバスが走っているのは上下線ともに4車線の立派なハイウェイだが、1930年代では片側2車線しかなかった。路肩から芝生を植えただけの中央分離帯までの道幅はせいぜい8mほど。そこをメルセデスとアウトウニオンのドライバーは360km/h超のスピードで走り抜けたのだ。直線路とはいえラインをキープするには超人的なテクニックを要したに違いない。</p>
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<p>アウトウニオンを駆ったベルント ローゼマイヤーはこの辺りの事情を次のように語っている。<br>「道路の真ん中にマシンを保つにはこの上ない集中力を要する。高架橋の下を通過する際、横からの突風には瞬間的な対応が必須だ。そんなわけでものの2分も走るとドライバーの神経系統は完全に疲弊する。だから連続10マイル記録走行は、1回のグランプリレースよりはるかに疲れる。たとえ時間にして2分40秒程度でもね」</p>
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<p>1937年10月25日、彼はアウトバーンで才能を開花させる。フランクフルト/ダルムシュタット間の往復2方向の平均でフライングスタート（ほぼ最高速に達した状態でスタートを切る）1km区間406.30km/h、同1マイル区間で406.28km/hを計測、世界で初めて公道を400km/h超で走った人物となった。</p>
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<p>メルセデスとアウトウニオンによる速度記録挑戦は1938年1月28日、一つの頂点を迎える。厳しく冷え込んだその日の午前8時、フランクフルト/ダルムシュタット間を往復するカラッチオラの走行が始まる。駆るのは従来型に大きく改良の手を加えた新型だ。フライングスタートによる往路で良好なタイムを計測した彼は復路でも好調を維持。往復の1km区間平均スピード432.69km/h、1マイル区間平均スピード432.42km/hを達成して、ローゼマイヤーによる既存の記録をいとも簡単に打ち破ってみせた。新記録に満足したカラッチオラは、妻を伴ってフランクフルトのホテルへ帰っていった。</p>
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<p>同日午前11時、ローゼマイヤーがアウトウニオンの新型マシンに搭乗する。カラッチオラが走った時より風が強まっている。記録更新に挑戦するには危険な横風だ。チーム監督は明日に順延するよう説得するが、ローゼマイヤーの決意は固い。<br><br>「いや、ボクはこれから走る。森から風が吹き抜ける場所はわかっている。対処できるよ」<br><br>そう言って、走り始めた。数分後戻ってきて、エンジンが適正な温度に上がらないと訴える。大気が余りにも冷えているのだ。それでも429.9km/hを計測していた。ラジエターの一部を塞いで再出走。</p>
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<p>しかしローゼマイヤーは往路から復路に方向転換するポイントに姿を現さなかった。ランゲンとメルフェルデンを結ぶ高架橋付近にボディの破片が散乱していた。</p>
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<p>たまたまこの日、現場に居合わせたポルシェ博士の秘書ハンス ガイガーが語る。<br>「私たちは破片などには目もくれず、ローゼマイヤーを探した。木々の間に横たわっていた。見たところ外傷はなく、眠っているようだった。心臓は鼓動を打っていたが、数分後止まった」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ベルント ローゼマイヤーがグランプリの檜舞台で活躍したのは1935～37年の3シーズンのみ、その間、選手権にカウントされるGPに限れば勝利数は「3」に過ぎない。圧倒的な勝ち星を誇るドライバーではなかったが、波に乗ったときは目を見張る速さを示した。GPシーンに彗星のように現れ、去って行ったローゼマイヤー。ドイツの人々からこよなく愛されたドライバーだった。</p>
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<p>後日、事故地点には記念碑が立てられ、今も献花が絶えないという。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-4.jpg" alt="" class="wp-image-50107 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1937年10月28日、フランクフルト。アウトウニオンの速度記録車を発進させようとしているローゼマイヤー。ホイールアーチにスパッツが付いていないことからスタンディングスタート（静止状態からスタートする）による速度記録を狙ったシーンだと思われる。一方、ダルムシュタット手前で折り返すフライングスタート用のマシンは、スパッツの付いた完全なエンクローズドボディを架装していた。（写真はChris Nixon著Racing the Silver Arrowsのページを撮影しました）。</p>
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<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
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<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
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			</item>
		<item>
		<title>一世を風靡したレーサーに見る名人と天才の違いとは？</title>
		<link>https://autobild.jp/32112/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 10 May 2024 06:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[旧車＆ネオクラシック]]></category>
		<category><![CDATA[面白ネタ＆ストーリー]]></category>
		<category><![CDATA[アイルトン セナ]]></category>
		<category><![CDATA[アラン プロスト]]></category>
		<category><![CDATA[カラッチオラ]]></category>
		<category><![CDATA[スターリング モス]]></category>
		<category><![CDATA[ファンジオ]]></category>
		<category><![CDATA[ローゼンマイヤー]]></category>
		<category><![CDATA[天才レーサーと名人レーサー]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="1000" height="667" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01.jpg 1000w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>一世を風靡したトップレーサーには名人と天才の2派がある。不思議と名人といわれたレーサーには天寿を全うした人が多く、天才レーサーにはレースの華と散った者が多い。そこで、その相違にスポットを当て紹介したい。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">一世を風靡した名人か天才と呼ばれるレーサーの相違とは</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>歴史を振り返れば、この両者が併存して戦っている時、レースの人気は頂点に達している。戦前に活躍したメルセデス・ベンツのエースドライバーであるルドルフ・カラッチオラとアウト・ウニオンのエースドライバーであるベルント・ローゼマイヤーだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/プレゼンテーション1-1.jpg" alt="" class="wp-image-36992"/><figcaption class="wp-element-caption">メルセデス・ベンツのドライバーとして活躍した名人達。戦前に活躍したエースドライバーであるルドルフ・カラッチオラ（左）と戦後1954～1955年に活躍したファン・マヌエル・ファンジオ。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>戦後1954～1955年、同じくメルセデス・ベンツで活躍したファン・マヌエル・ファンジオとスーターリング・モス。近年では記憶に新しいアラン・プロストとアイルトン・セナ。いずれも前者が名人、後者が天才と言われたドライバーだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":36993,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/プレゼンテーション2-1024x670.jpg" alt="" class="wp-image-36993"/><figcaption class="wp-element-caption">天才と呼ばれたドライバー。戦前に活躍したアウト・ウニオンのベルント・ローゼマイヤーと戦後1954～1955年、メルセデス・ベンツで活躍したスーターリング・モス。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>失礼の無い様に断っておくが、スーターリング・モスは天才と言われたが、2020年4月12日、療養中の自宅で死去し90歳と長生きした。彼がこれほど長生きしたのが不思議なくらいであり、1962年グッドウッドで行われた非選手権レースでコースアウトし芝の斜面に激突して頭部に重傷を負い昏睡委状態なる大事故で1963年全盛期の32歳で現役引退を決意した。世界チャンピオンにならなかった最も偉大なドライバーで「無冠の帝王」と称された。以後もヒストリックカーレースに定期的に出場した。1990年に国際モータースポーツ殿堂入りを果たした。2000年にはモータースポーツの発展に貢献したとして「ナイト」の称号が与えられた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">名人と天才の違い</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>パーセンテージ・ドライブがあるのは周知の通りである。つまり、自分の運転能力を100％駆使して走っていると、余力がないから不測の事態に対処できず事故を起こす。余力を残し80％ドライブで走れば安全だぞというような意味を含めて使われている言葉である。 </p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これを原点として、名人と天才の相違を考えてみたい。名人と呼ばれるドライバーは、その80％程度のレベルで淡々と、とにかく勘に頼らず幾らかの余力を残して戦う。だから、観衆が見ても安定感があり、そのレース運びからクールなドライバーと言われる。決して無理はしない、危険は冒さない。それで何度も優勝し、何回もワールドチャンピオンになる。運転技術と状況判断は他を圧倒しているのだから、余裕を持って走るためこういう結となる。これが名人たる所以だ。ファン・マヌエル・ファンジオはこの名人の典型だった。５回もF1ワールドチャピオンに輝いた。そして47歳でF1レースから引退した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":36998,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/12-1.jpg" alt="" class="wp-image-36998"/><figcaption class="wp-element-caption">名人ルドルフ・カラッチオラはコーナ－のクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを廻っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これは、戦前の1930年代のシルバーアロー時代のメルセデス・ベンツを代表する名人ルドルフ・カラッチオラにも言えることだが、常にメルセデス・ベンツの偉大なアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナ－のクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを廻っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強かったから雨天の名手とも呼ばれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>カラッチオラは、1930年代にヨーロッパ・ドライバーズチャピオンを3回（1935年・1937年・1938年）、ヨーロッパヒルクライムチャピオンを3回（1930年・1931年・1932年）獲得した。さらに1938年1月28日レコード・レーサー（V12気筒エンジンを5.57L、736PSにまで拡大したW125ベース）を駆って、フランクフルト～ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンで432.69km/hというクラスB（５L～8L）の公道における最高速度記録を樹立した(これは2017年に破られるまで、80年近くに渡り公道上の最高速度記録であった)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/14-3.jpg" alt="" class="wp-image-36996"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年1月28日レコード・レーサー（V12気筒エンジンを5.57L、736PSにまで拡大したW125ベース）を駆って、フランクフルト～ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンで432.69km/hというクラスB（５L～8L）の公道における最高速度記録を樹立した(これは2017年に破られるまで、80年近くに渡り公道上の最高速度記録であった)。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それを見たアウト・ウニオンは、ストリームライン・レーサー（タイプCストリームライン）でベルント・ローゼマイヤーとメルセデス・ベンツの世界記録に挑戦した。しかし、天才のベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてコントロールを失い、マシンは大破。ローゼマイヤーは帰らぬ人となり、アウト・ウニオンの再挑戦は泡と化したのであった。その名人ルドルフ・カラッチオラは1952年のベルンGPの事故のリハビリに時間がかかり、翌1953年にはレースから引退した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/15-1.jpg" alt="" class="wp-image-36997"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオンのストリームライン・レーサー（タイプCストリームライン）で天才ベルント・ローゼマイヤーが、メルセデス・ベンツの世界記録に挑戦したが、天才のベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてマシンは大破し帰らぬ人となり、アウト・ウニオンの再挑戦には至らなかった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一方、天才の能力は名人を遥かに凌いでいる。ただし、先述したパーセテージ・ドライブで言えば、100％の時があれば20％になることもある。つまり、安定感に欠けるのだ。そのレース運びはダイナミックでスリル満点である。一発当たれば優勝、一歩間違えば大事故になり、さもなければ車両をつぶしてしまう。観衆には淡々とクールに走って勝つ名人よりも剣の刃渡りのようなこういうドライバーの方に人気がある。何と言ってもショウ効果満点だ！たとえ勝つ回数が少なくても無冠でも、人は「天才」の称号でこのドライバーを称える。しかし、レースを数多くこなせば、一瞬の大事故はどんなに確率が低くとも、何時かは起こり得る。天才ドライバーはレースの華と散る確率が多く、平均短命であると言われる所以である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":37000,"width":"840px","height":"auto","sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full is-resized"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/08.jpg" alt="" class="wp-image-37000" style="width:840px;height:auto"/><figcaption class="wp-element-caption">近年では記憶に新しい名人アラン・プロストと天才アイルトン・セナ。写真はアラン・プロストの優勝を称えるアイルトン・セナ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それに引き換えレースで死ぬ名人は少ない。理由は先述の通りである。名人ルドルフ・カラッチオラは引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。1959年当初から原因不明の体調不良を起こしたが販売活動は止めなかった。しかし、6月から容体が急変し1959年9月28日に肝硬変により58歳で死去した。一方、ファン・マヌエル・ファンジオはレース引退後、母国アルゼンチンでメルセデス・ベンツグループの要職に就き、84歳の長寿で永眠した。「一芸は万道に通ず」と言うが、名人はやはり運転バカではなれない。社会に出ても成功した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">97歳でこの世を去った「全く運の無い奴」</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>レース界で長寿な人生を送ったという観点では、1930年代「全く運の無い奴」と呼ばれたメルセデス・ベンツのレーサー、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュを忘れてはならない。メルセデス・ベンツチームの問題児であったが、多才でひらめきがあり、メルセデス・ベンツシルバー・アロー誕生のきっかけをつくった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":36995,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/21-1-1024x680.jpg" alt="" class="wp-image-36995"/><figcaption class="wp-element-caption">マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは、5度のＦ1ワールドチャンピオンとなったファン・マヌエル・ファンジオとディジォンで出会う。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデス・ベンツは1934年6月3日ドイツのニュルブルクリンクサーキットで行われたアイフェルレースに出場。しかし、メルセデス・ベンツＷ25のデビューレースの前夜の車検で、このW25レーシングカーは規定の750kgを1kgだけオーバー。頭を抱えたアルフレッド・ノイバウアー監督に「ヤスリをかけてボディのアルミ外板でも削るか」とマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは何気なくつぶやいた。彼の言葉がきっかけで、アルフレッド・ノイバウアー監督の指示の元、メルセデス・ベンツのエンジニア達はドイツのナショナルカラーであるホワイトのペイントを徹夜で全てはがし、750kgで出場許可を得たのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アルミ地肌の「シルバーアロー」のW25を誕生させたのは、彼の「ひらめき」であり、またこのレースで優勝したのも彼であった。戦前のレースで活躍し、エースである名手ルドルフ・カラッチオラの輝かしい成績には及ばなかったが、常にレギュラードライバーの主力として活躍し1930年代のメルセデス・ベンツレーシング黄金時代を築いた功績は大きいと言える。1939年レース引退後は東ドイツへ亡命しオートバイレースの監督をしたが長続きせず西ドイツ当局に厳しく警戒され波乱の人生を送ったが97歳という最も長寿な人生を送った唯一の存在であった（1905年8月生-2003年2月没）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":37069,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/19-2-1024x797-のコピー.jpg" alt="" class="wp-image-37069"/><figcaption class="wp-element-caption">マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュはメルセデス・ベンツシルバー・アローのデビュー戦であるニュルブルクリンクサーキットで優勝した。写真はスタートシーン。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ファン・マヌエル・ファンジオと常に比較される戦前の名人ルドルフ・カラッチオラもやはりレースでは死なず天寿を全うした。世間ではいずれの腕が上かよく論じられるが、時代が違い、乗った車両が違うため一概に比較はできない。両者共にレース史上1位にランクされる名ドライバーであり、共にメルセデス・ベンツレーシングチームのメンバーであったことを筆者は誇りに思っている。合掌。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>TEXT：妻谷裕二<br> PHOTO：メルセデス・ベンツAG＆ミージアム、妻谷コレクション。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>【筆者の紹介】<br>
妻谷裕二（Hiroji Tsumatani）<br>
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="1000" height="667" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01.jpg 1000w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/01-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>一世を風靡したトップレーサーには名人と天才の2派がある。不思議と名人といわれたレーサーには天寿を全うした人が多く、天才レーサーにはレースの華と散った者が多い。そこで、その相違にスポットを当て紹介したい。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">一世を風靡した名人か天才と呼ばれるレーサーの相違とは</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>歴史を振り返れば、この両者が併存して戦っている時、レースの人気は頂点に達している。戦前に活躍したメルセデス・ベンツのエースドライバーであるルドルフ・カラッチオラとアウト・ウニオンのエースドライバーであるベルント・ローゼマイヤーだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":36992,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/プレゼンテーション1-1.jpg" alt="" class="wp-image-36992"/><figcaption class="wp-element-caption">メルセデス・ベンツのドライバーとして活躍した名人達。戦前に活躍したエースドライバーであるルドルフ・カラッチオラ（左）と戦後1954～1955年に活躍したファン・マヌエル・ファンジオ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>戦後1954～1955年、同じくメルセデス・ベンツで活躍したファン・マヌエル・ファンジオとスーターリング・モス。近年では記憶に新しいアラン・プロストとアイルトン・セナ。いずれも前者が名人、後者が天才と言われたドライバーだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":36993,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/プレゼンテーション2-1024x670.jpg" alt="" class="wp-image-36993"/><figcaption class="wp-element-caption">天才と呼ばれたドライバー。戦前に活躍したアウト・ウニオンのベルント・ローゼマイヤーと戦後1954～1955年、メルセデス・ベンツで活躍したスーターリング・モス。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>失礼の無い様に断っておくが、スーターリング・モスは天才と言われたが、2020年4月12日、療養中の自宅で死去し90歳と長生きした。彼がこれほど長生きしたのが不思議なくらいであり、1962年グッドウッドで行われた非選手権レースでコースアウトし芝の斜面に激突して頭部に重傷を負い昏睡委状態なる大事故で1963年全盛期の32歳で現役引退を決意した。世界チャンピオンにならなかった最も偉大なドライバーで「無冠の帝王」と称された。以後もヒストリックカーレースに定期的に出場した。1990年に国際モータースポーツ殿堂入りを果たした。2000年にはモータースポーツの発展に貢献したとして「ナイト」の称号が与えられた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">名人と天才の違い</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>パーセンテージ・ドライブがあるのは周知の通りである。つまり、自分の運転能力を100％駆使して走っていると、余力がないから不測の事態に対処できず事故を起こす。余力を残し80％ドライブで走れば安全だぞというような意味を含めて使われている言葉である。 </p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これを原点として、名人と天才の相違を考えてみたい。名人と呼ばれるドライバーは、その80％程度のレベルで淡々と、とにかく勘に頼らず幾らかの余力を残して戦う。だから、観衆が見ても安定感があり、そのレース運びからクールなドライバーと言われる。決して無理はしない、危険は冒さない。それで何度も優勝し、何回もワールドチャンピオンになる。運転技術と状況判断は他を圧倒しているのだから、余裕を持って走るためこういう結となる。これが名人たる所以だ。ファン・マヌエル・ファンジオはこの名人の典型だった。５回もF1ワールドチャピオンに輝いた。そして47歳でF1レースから引退した。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/12-1.jpg" alt="" class="wp-image-36998"/><figcaption class="wp-element-caption">名人ルドルフ・カラッチオラはコーナ－のクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを廻っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。</figcaption></figure>
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<p>これは、戦前の1930年代のシルバーアロー時代のメルセデス・ベンツを代表する名人ルドルフ・カラッチオラにも言えることだが、常にメルセデス・ベンツの偉大なアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナ－のクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを廻っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強かったから雨天の名手とも呼ばれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>カラッチオラは、1930年代にヨーロッパ・ドライバーズチャピオンを3回（1935年・1937年・1938年）、ヨーロッパヒルクライムチャピオンを3回（1930年・1931年・1932年）獲得した。さらに1938年1月28日レコード・レーサー（V12気筒エンジンを5.57L、736PSにまで拡大したW125ベース）を駆って、フランクフルト～ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンで432.69km/hというクラスB（５L～8L）の公道における最高速度記録を樹立した(これは2017年に破られるまで、80年近くに渡り公道上の最高速度記録であった)。</p>
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<p>それを見たアウト・ウニオンは、ストリームライン・レーサー（タイプCストリームライン）でベルント・ローゼマイヤーとメルセデス・ベンツの世界記録に挑戦した。しかし、天才のベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてコントロールを失い、マシンは大破。ローゼマイヤーは帰らぬ人となり、アウト・ウニオンの再挑戦は泡と化したのであった。その名人ルドルフ・カラッチオラは1952年のベルンGPの事故のリハビリに時間がかかり、翌1953年にはレースから引退した。</p>
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<p>一方、天才の能力は名人を遥かに凌いでいる。ただし、先述したパーセテージ・ドライブで言えば、100％の時があれば20％になることもある。つまり、安定感に欠けるのだ。そのレース運びはダイナミックでスリル満点である。一発当たれば優勝、一歩間違えば大事故になり、さもなければ車両をつぶしてしまう。観衆には淡々とクールに走って勝つ名人よりも剣の刃渡りのようなこういうドライバーの方に人気がある。何と言ってもショウ効果満点だ！たとえ勝つ回数が少なくても無冠でも、人は「天才」の称号でこのドライバーを称える。しかし、レースを数多くこなせば、一瞬の大事故はどんなに確率が低くとも、何時かは起こり得る。天才ドライバーはレースの華と散る確率が多く、平均短命であると言われる所以である。</p>
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<p>それに引き換えレースで死ぬ名人は少ない。理由は先述の通りである。名人ルドルフ・カラッチオラは引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。1959年当初から原因不明の体調不良を起こしたが販売活動は止めなかった。しかし、6月から容体が急変し1959年9月28日に肝硬変により58歳で死去した。一方、ファン・マヌエル・ファンジオはレース引退後、母国アルゼンチンでメルセデス・ベンツグループの要職に就き、84歳の長寿で永眠した。「一芸は万道に通ず」と言うが、名人はやはり運転バカではなれない。社会に出ても成功した。</p>
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<h3 class="wp-block-heading">97歳でこの世を去った「全く運の無い奴」</h3>
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<p>レース界で長寿な人生を送ったという観点では、1930年代「全く運の無い奴」と呼ばれたメルセデス・ベンツのレーサー、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュを忘れてはならない。メルセデス・ベンツチームの問題児であったが、多才でひらめきがあり、メルセデス・ベンツシルバー・アロー誕生のきっかけをつくった。</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/21-1-1024x680.jpg" alt="" class="wp-image-36995"/><figcaption class="wp-element-caption">マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは、5度のＦ1ワールドチャンピオンとなったファン・マヌエル・ファンジオとディジォンで出会う。</figcaption></figure>
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<p>メルセデス・ベンツは1934年6月3日ドイツのニュルブルクリンクサーキットで行われたアイフェルレースに出場。しかし、メルセデス・ベンツＷ25のデビューレースの前夜の車検で、このW25レーシングカーは規定の750kgを1kgだけオーバー。頭を抱えたアルフレッド・ノイバウアー監督に「ヤスリをかけてボディのアルミ外板でも削るか」とマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは何気なくつぶやいた。彼の言葉がきっかけで、アルフレッド・ノイバウアー監督の指示の元、メルセデス・ベンツのエンジニア達はドイツのナショナルカラーであるホワイトのペイントを徹夜で全てはがし、750kgで出場許可を得たのだ。</p>
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<p>アルミ地肌の「シルバーアロー」のW25を誕生させたのは、彼の「ひらめき」であり、またこのレースで優勝したのも彼であった。戦前のレースで活躍し、エースである名手ルドルフ・カラッチオラの輝かしい成績には及ばなかったが、常にレギュラードライバーの主力として活躍し1930年代のメルセデス・ベンツレーシング黄金時代を築いた功績は大きいと言える。1939年レース引退後は東ドイツへ亡命しオートバイレースの監督をしたが長続きせず西ドイツ当局に厳しく警戒され波乱の人生を送ったが97歳という最も長寿な人生を送った唯一の存在であった（1905年8月生-2003年2月没）。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2024/05/19-2-1024x797-のコピー.jpg" alt="" class="wp-image-37069"/><figcaption class="wp-element-caption">マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュはメルセデス・ベンツシルバー・アローのデビュー戦であるニュルブルクリンクサーキットで優勝した。写真はスタートシーン。</figcaption></figure>
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<p>ファン・マヌエル・ファンジオと常に比較される戦前の名人ルドルフ・カラッチオラもやはりレースでは死なず天寿を全うした。世間ではいずれの腕が上かよく論じられるが、時代が違い、乗った車両が違うため一概に比較はできない。両者共にレース史上1位にランクされる名ドライバーであり、共にメルセデス・ベンツレーシングチームのメンバーであったことを筆者は誇りに思っている。合掌。</p>
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<p>TEXT：妻谷裕二<br> PHOTO：メルセデス・ベンツAG＆ミージアム、妻谷コレクション。</p>
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<p>【筆者の紹介】<br>
妻谷裕二（Hiroji Tsumatani）<br>
1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。</p>
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