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	<title>アウトウニオン - AUTO BILD JAPAN Web（アウトビルトジャパンウェブ） 世界最大級のクルマ情報サイト</title>
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	<description>世界最大級のクルマ情報サイトAUTO BILDの日本版。いち早い新車情報。高品質なオリジナル動画ビデオ満載。チューニングカー、ネオクラシックなど世界のクルマ情報は「アウトビルトジャパン」でゲット！</description>
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	<title>アウトウニオン - AUTO BILD JAPAN Web（アウトビルトジャパンウェブ） 世界最大級のクルマ情報サイト</title>
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		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その12　アウディミュージアム</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 26 Jun 2025 06:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[Audi]]></category>
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		<category><![CDATA[ヨルゲン・スカフテ・ラスムッセン]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="997" height="656" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" fetchpriority="high" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg 997w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-300x197.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-768x505.jpg 768w" sizes="(max-width: 997px) 100vw, 997px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート1</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツ自動車博物館を巡る私たちの旅も5日目を迎えた。今、ミュンヘンを後にしてインゴルシュタットに向かっている。今回の旅でミュンヘンはもっとも南に位置する街で、次の目的地インゴルシュタットは北に上ること約80km先にある。約1時間30分の道のりだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>インゴルシュタットは約13万人の人口を擁するバイエルン州で6番目に大きい都市。1989年に人口10万人の大台を突破したばかりの、成長著しい街でもある。そのインゴルシュタットに、アウディは本社と工場、ミュージアムを合わせて286万平方ｍの敷地を有する。従業員の総数は約4万人（2023年現在）というから、雇用の機会提供を含めて、アウディはインゴルシュタット成長の原動力となっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウディミュージアム（Audi museum mobile）は2000年12月にオープンした。設計したのはギュンター・ヘンという人物で、ガラスとスチールから成る建物の高さは22 m。4輪車は約50台を、2輪車は約30台を常設展示する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>内部は1階から4階まで吹き抜けになっており、写真に見るように空間的な開放感がある。その吹き抜けを貫通しているのが、このミュージアムの大きな特徴となっている回転式展示パレット。遊園地の観覧車のように1～4階のあいだを常時循環しており、どの階からもパレットに載った展示車両を見られる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-3.jpg" alt="" class="wp-image-53143 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1階から4階まで吹き抜けになっており、空間的な開放感がある。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>現代のアウディの前身がアウトウニオンであることは、私も知っていたつもりだった。しかしアウディ博物館の概要を紹介するに先立って、アウトウニオンの成立から現アウディに至るまでの歴史を調べてみると、これが私の大雑把な理解をはるかに越えた、複雑なストーリーなのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-4.jpg" alt="" class="wp-image-53144 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>回転式展示パレットには、2007年DTM（ドイツツーリングカー選手権）のタイトルホルダーであるA4 DTMや、2002年のルマン R8 LMPプロトタイプなど、14台のモータースポーツ関連車両が載っている。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今ではインターネット上の情報を含めて、高名な自動車史研究家たちによる詳細な研究の成果を閲覧できるが、本稿ではアウトウニオンが成立するまでのあらましを簡単にまとめてみようと思う。ストーリーの主人公はアウグスト ホルヒ（August Horch 1868～1951年）だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウグスト ホルヒは1899年11月14日、自身が理想とするクルマを作るため「ホルヒ自動車製造会社（Horch &amp; Cie. Motorwagenwerke ）」をケルンにて設立する。事業は順調に伸びて1904年には生産拠点をザクセン州ツヴィッカウ（Zwickau）に移転する。当時、ツヴィッカウはザクセン州の産業の中心地だったのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53145,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-4.jpg" alt="" class="wp-image-53145"/><figcaption class="wp-element-caption">ホルヒ 4-5 PS ヴィ ザ ヴィ (1901年)。アウグスト ホルヒが1901年完成させた自身最初の自動車。彼が「無振動」と名付けた2気筒エンジンは、キャビン床下に水平に搭載されていた。ホルヒが最初に作った10台のうち1台は、ドライバーと乗員が向かい合うヴィ ザ ヴィ（Vis-à-Vis）モデルだった。最高出力 : 4～5 hp/1400 rpm、最高速度 : 30 km/h、価格 : 3500マルク（シャシーのみ）。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしその後、取締役会および監査役会との意見が合わず、自分が興した会社を去り、1909年、新たに2番目の会社「アウグスト ホルヒ自動車製作有限会社（August Horch Automobil werke GmbH）」を、場所も同じツヴィッカウに興す。アウグストにすればこの新会社にも自分の名前を冠するのは自然なことだったが、ここで既存のホルヒ社から待ったが掛かる。「ホルヒ」の名称はすでに商標登録されているというのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ホルヒ」の使用権を巡り、アウグストは法廷闘争にまで持ち込んだが、裁判所はその使用権は既存のホルヒ社にあると認めた。しかたなく彼は新会社を「アウディ自動車製造会社(Audi Automobilwerke GmbH）」と名づけて創業した。1910年のことだ。ちなみにドイツ語の「horch」は「聴く」という意味で、彼は同じ意味のラテン語表記「アウディ」を社名にして新会社を発足させたのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このエピソードを知った私は、翻訳家の習性から「アウディ」の綴りAudiによく似た英語「audio」を辞書で引いてみた。するとそこには「聴覚の」という訳語とともに、「ラテン語audire（聴く）の語幹に-o」をつけた言葉という解説が添えてあった。私たちが音楽を楽しむオーディオ器機の「audio」、その語源はラテン語にあり、どうやら「アウディ」とも無関係ではないようだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-5-725x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53151 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>アウグスト ホルヒ。1896年からカール ベンツのもとで働き、1899年11月に自身の会社ホルヒを創業。1910年に新会社アウディを設立するも、1920年にはそこを辞する。以後、1951年にこの世を去るまで、アウトウニオンの名誉役員を務めた。<br>Photo:：Audi AG</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><br></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>かくしてアウグスト ホルヒはようやく名実ともに自分の会社で設計に打ち込むことができるかに見えたが、時代は彼の運命を翻弄する。ここで新たな主人公として登場するのがヨルゲン スカフテ ラスムッセンという人物。ラスムッセンは1917年に蒸気自動車の試作に成功、これを契機にドイツ語で蒸気自動車を意味するDampfkraftwagenの頭文字を採ってDKWを発足させる。その後、モーターサイクルの生産によりDKWの事業は順調に発展し、1928年には同社初の4輪車を発表した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その1928年、ラスムッセンはアウディの大株主になり、両社は合併する。さらに1932年にはヴァンダラーとホルヒが傘下に入り、ここにアウトウニオンが生まれる。折りしも1929年、ウォール街に端を発する世界恐慌がドイツ経済にも暗い影を落としており、比較的小規模なこの4つのメーカーが生き残るには合併しかなかったのだ。一度は縁を切ったホルヒと同じ傘の下に収まり、またもや独立独歩の道を阻まれたアウグスト・ホルヒ。彼はこのときどのような心境だったのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53147,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6-3-1024x725.jpg" alt="" class="wp-image-53147"/><figcaption class="wp-element-caption">アウトウニオンを構成する5つのブランドを象徴する写真。左上から反時計回りに。Horch 830 BL, 1938。 DKW3=6F91, 1953。NSU Prinz 30, 1959（赤）。Wanderer W25K, 1937。Audi Front 225, 1936。<br>Photo:：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトウニオンの運命も時代に翻弄された。第二次世界大戦の結果により生産設備を奪われた同社は、戦後西ドイツで態勢を一新、本社をインゴルシュタットに移し、再建への道を歩む。その後、1958年にダイムラー・ベンツに、さらに64年にはフォルクスワーゲン（VW）に吸収合併されるが、VW傘下に入ったことにより経営が安定する。1960年代後半には戦前の匂いがするアウトウニオンからのイメージチェンジを図り、モデル名にアウディを使うようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1969年にはNSUがアウトウニオン傘下に入って社名がアウディNSUアウトウニオンになり、さらに1985年、企業名が今日、私たちが知るアウディへと変わった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53148,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/7-2.jpg" alt="" class="wp-image-53148"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディAGの家系図。今日、私たちが知るアウディの姿が完成したのは1985年のことで、その間、計5つのメーカーが関与している。それぞれのエンブレムの変遷もこれを見るとわかる。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/8-2.jpg" alt="" class="wp-image-53149"/><figcaption class="wp-element-caption">興味深い写真をご覧に入れよう。1971年、NSUのネッカーズルム（Neckarsulm）工場を捉えたショット。NSUがアウトウニオン傘下に入った1969年以降、同工場ではアウディ100 とNSU Ro 80 が同じラインで生産された。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
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<!-- wp:image {"id":53150,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/9-2.jpg" alt="" class="wp-image-53150"/><figcaption class="wp-element-caption">自社ブランドの製品のみを扱うアウトウニオンの販売店。アウディ・ミュージアム館内で配布しているカードを撮影しました。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この稿を締めくくるまえに、アウトウニオンが採った独自の販売方法にも触れておこう。1920～30年代は、自動車の販売台数がその後と比べると少なかったため、販売店は複数のメーカーの製品を扱った。ホルヒの販売店でオペルやシトロエンを買うことができたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーと、それぞれターゲットカスタマーの異なる4社が集まってできたアウトウニオンでは、扱うモデルも多様で合計販売台数も多かった。そこでショールームに自社とライバルメーカーの製品を一緒に並べることを止め、アウトウニオン・モデルのみを扱う正規販売店から成るネットワークを構築したのである。上に掲げた写真に見るように、アウトウニオンのディーラーは立派な店舗を構え、自社ブランドの製品のみを扱っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>5つのブランドが構成するアウディ ミュージアムの展示品は多種多様だ。次回は、私がぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、ミュージアムで初めて見たクルマを紹介していこうと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="997" height="656" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg 997w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-300x197.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-768x505.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 997px) 100vw, 997px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート1</h3>
<!-- /wp:heading -->

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<p>ドイツ自動車博物館を巡る私たちの旅も5日目を迎えた。今、ミュンヘンを後にしてインゴルシュタットに向かっている。今回の旅でミュンヘンはもっとも南に位置する街で、次の目的地インゴルシュタットは北に上ること約80km先にある。約1時間30分の道のりだ。</p>
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<p>インゴルシュタットは約13万人の人口を擁するバイエルン州で6番目に大きい都市。1989年に人口10万人の大台を突破したばかりの、成長著しい街でもある。そのインゴルシュタットに、アウディは本社と工場、ミュージアムを合わせて286万平方ｍの敷地を有する。従業員の総数は約4万人（2023年現在）というから、雇用の機会提供を含めて、アウディはインゴルシュタット成長の原動力となっている。</p>
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<p>アウディミュージアム（Audi museum mobile）は2000年12月にオープンした。設計したのはギュンター・ヘンという人物で、ガラスとスチールから成る建物の高さは22 m。4輪車は約50台を、2輪車は約30台を常設展示する。</p>
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<p>内部は1階から4階まで吹き抜けになっており、写真に見るように空間的な開放感がある。その吹き抜けを貫通しているのが、このミュージアムの大きな特徴となっている回転式展示パレット。遊園地の観覧車のように1～4階のあいだを常時循環しており、どの階からもパレットに載った展示車両を見られる。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-3.jpg" alt="" class="wp-image-53143 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1階から4階まで吹き抜けになっており、空間的な開放感がある。</p>
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<p>現代のアウディの前身がアウトウニオンであることは、私も知っていたつもりだった。しかしアウディ博物館の概要を紹介するに先立って、アウトウニオンの成立から現アウディに至るまでの歴史を調べてみると、これが私の大雑把な理解をはるかに越えた、複雑なストーリーなのだった。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-4.jpg" alt="" class="wp-image-53144 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>回転式展示パレットには、2007年DTM（ドイツツーリングカー選手権）のタイトルホルダーであるA4 DTMや、2002年のルマン R8 LMPプロトタイプなど、14台のモータースポーツ関連車両が載っている。</p>
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<p>今ではインターネット上の情報を含めて、高名な自動車史研究家たちによる詳細な研究の成果を閲覧できるが、本稿ではアウトウニオンが成立するまでのあらましを簡単にまとめてみようと思う。ストーリーの主人公はアウグスト ホルヒ（August Horch 1868～1951年）だ。</p>
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<p>アウグスト ホルヒは1899年11月14日、自身が理想とするクルマを作るため「ホルヒ自動車製造会社（Horch &amp; Cie. Motorwagenwerke ）」をケルンにて設立する。事業は順調に伸びて1904年には生産拠点をザクセン州ツヴィッカウ（Zwickau）に移転する。当時、ツヴィッカウはザクセン州の産業の中心地だったのだ。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-4.jpg" alt="" class="wp-image-53145"/><figcaption class="wp-element-caption">ホルヒ 4-5 PS ヴィ ザ ヴィ (1901年)。アウグスト ホルヒが1901年完成させた自身最初の自動車。彼が「無振動」と名付けた2気筒エンジンは、キャビン床下に水平に搭載されていた。ホルヒが最初に作った10台のうち1台は、ドライバーと乗員が向かい合うヴィ ザ ヴィ（Vis-à-Vis）モデルだった。最高出力 : 4～5 hp/1400 rpm、最高速度 : 30 km/h、価格 : 3500マルク（シャシーのみ）。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
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<p>しかしその後、取締役会および監査役会との意見が合わず、自分が興した会社を去り、1909年、新たに2番目の会社「アウグスト ホルヒ自動車製作有限会社（August Horch Automobil werke GmbH）」を、場所も同じツヴィッカウに興す。アウグストにすればこの新会社にも自分の名前を冠するのは自然なことだったが、ここで既存のホルヒ社から待ったが掛かる。「ホルヒ」の名称はすでに商標登録されているというのだ。</p>
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<p>「ホルヒ」の使用権を巡り、アウグストは法廷闘争にまで持ち込んだが、裁判所はその使用権は既存のホルヒ社にあると認めた。しかたなく彼は新会社を「アウディ自動車製造会社(Audi Automobilwerke GmbH）」と名づけて創業した。1910年のことだ。ちなみにドイツ語の「horch」は「聴く」という意味で、彼は同じ意味のラテン語表記「アウディ」を社名にして新会社を発足させたのだった。</p>
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<p>このエピソードを知った私は、翻訳家の習性から「アウディ」の綴りAudiによく似た英語「audio」を辞書で引いてみた。するとそこには「聴覚の」という訳語とともに、「ラテン語audire（聴く）の語幹に-o」をつけた言葉という解説が添えてあった。私たちが音楽を楽しむオーディオ器機の「audio」、その語源はラテン語にあり、どうやら「アウディ」とも無関係ではないようだ。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-5-725x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53151 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>アウグスト ホルヒ。1896年からカール ベンツのもとで働き、1899年11月に自身の会社ホルヒを創業。1910年に新会社アウディを設立するも、1920年にはそこを辞する。以後、1951年にこの世を去るまで、アウトウニオンの名誉役員を務めた。<br>Photo:：Audi AG</p>
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<p><br></p>
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<p>かくしてアウグスト ホルヒはようやく名実ともに自分の会社で設計に打ち込むことができるかに見えたが、時代は彼の運命を翻弄する。ここで新たな主人公として登場するのがヨルゲン スカフテ ラスムッセンという人物。ラスムッセンは1917年に蒸気自動車の試作に成功、これを契機にドイツ語で蒸気自動車を意味するDampfkraftwagenの頭文字を採ってDKWを発足させる。その後、モーターサイクルの生産によりDKWの事業は順調に発展し、1928年には同社初の4輪車を発表した。</p>
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<p>その1928年、ラスムッセンはアウディの大株主になり、両社は合併する。さらに1932年にはヴァンダラーとホルヒが傘下に入り、ここにアウトウニオンが生まれる。折りしも1929年、ウォール街に端を発する世界恐慌がドイツ経済にも暗い影を落としており、比較的小規模なこの4つのメーカーが生き残るには合併しかなかったのだ。一度は縁を切ったホルヒと同じ傘の下に収まり、またもや独立独歩の道を阻まれたアウグスト・ホルヒ。彼はこのときどのような心境だったのだろう。</p>
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<p>アウトウニオンの運命も時代に翻弄された。第二次世界大戦の結果により生産設備を奪われた同社は、戦後西ドイツで態勢を一新、本社をインゴルシュタットに移し、再建への道を歩む。その後、1958年にダイムラー・ベンツに、さらに64年にはフォルクスワーゲン（VW）に吸収合併されるが、VW傘下に入ったことにより経営が安定する。1960年代後半には戦前の匂いがするアウトウニオンからのイメージチェンジを図り、モデル名にアウディを使うようになった。</p>
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<p>1969年にはNSUがアウトウニオン傘下に入って社名がアウディNSUアウトウニオンになり、さらに1985年、企業名が今日、私たちが知るアウディへと変わった。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/7-2.jpg" alt="" class="wp-image-53148"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディAGの家系図。今日、私たちが知るアウディの姿が完成したのは1985年のことで、その間、計5つのメーカーが関与している。それぞれのエンブレムの変遷もこれを見るとわかる。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/8-2.jpg" alt="" class="wp-image-53149"/><figcaption class="wp-element-caption">興味深い写真をご覧に入れよう。1971年、NSUのネッカーズルム（Neckarsulm）工場を捉えたショット。NSUがアウトウニオン傘下に入った1969年以降、同工場ではアウディ100 とNSU Ro 80 が同じラインで生産された。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/9-2.jpg" alt="" class="wp-image-53150"/><figcaption class="wp-element-caption">自社ブランドの製品のみを扱うアウトウニオンの販売店。アウディ・ミュージアム館内で配布しているカードを撮影しました。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この稿を締めくくるまえに、アウトウニオンが採った独自の販売方法にも触れておこう。1920～30年代は、自動車の販売台数がその後と比べると少なかったため、販売店は複数のメーカーの製品を扱った。ホルヒの販売店でオペルやシトロエンを買うことができたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーと、それぞれターゲットカスタマーの異なる4社が集まってできたアウトウニオンでは、扱うモデルも多様で合計販売台数も多かった。そこでショールームに自社とライバルメーカーの製品を一緒に並べることを止め、アウトウニオン・モデルのみを扱う正規販売店から成るネットワークを構築したのである。上に掲げた写真に見るように、アウトウニオンのディーラーは立派な店舗を構え、自社ブランドの製品のみを扱っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>5つのブランドが構成するアウディ ミュージアムの展示品は多種多様だ。次回は、私がぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、ミュージアムで初めて見たクルマを紹介していこうと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その1　ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間</title>
		<link>https://autobild.jp/50085/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 09 Apr 2025 22:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[JAL]]></category>
		<category><![CDATA[アウトウニオン]]></category>
		<category><![CDATA[カラッチオラ]]></category>
		<category><![CDATA[ジャルパック]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ旅行]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
		<category><![CDATA[ニュルブルクリンク]]></category>
		<category><![CDATA[メルセデス・ベンツ]]></category>
		<category><![CDATA[ローゼンマイヤー]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="660" height="460" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg 660w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル-300x209.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 660px) 100vw, 660px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">「キャビンクルー、プリペア フォー ランディング」</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>機長から機内アナウンスがあって間もなく、機は左に大きくバンクして着陸態勢の最終段階に入った。高度が急速に下がっているのが座席からもわかる。ごく軽いショックとともに車輪が着地。数秒後、ボーイング787は両翼に備えるターボファンエンジンを逆噴射したのだろうか、減速度が一段と増してJAL407便はフランクフルト国際空港に到着した。現地時間は日本出発時と同じ、2025年2月17日だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ジャルパック ブランド誕生60周年特別企画――ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間」こう題されたJALのサイトをどうやって見つけたのか、今では定かでない。メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディの4メーカーが運営する博物館を、ツアーコンダクターとドイツ在住モーターナビゲーターが同行しながら巡るのだという。私にとっては不可能とあきらめていた夢を実現してくれるツアーだ。居ても立ってもいられない思いで参加を申し込んだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フランクフルトに到着した私たち一行を、随行ナビゲーターのアレキサンダー オースタンさんが暖かく迎えてくれた。ドイツ語と日本語のバイリンガルで、しかも現役バリバリのモータージャーナリスト。その暖かい人柄ゆえに私たちはすぐに打ち解け、自然にアレックスと呼ぶようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":50105,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-2.jpg" alt="" class="wp-image-50105 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>旅の全日程を通じてよき案内役となってくれたアレックス（左）。右の人物はカール ベンツ自動車博物館のオーナー。お名前は聞きそびれた。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>空港を出ると、私たち一行専用の大型観光バスに乗り込み、南へ約90km下った今夜の投宿地マンハイムに向かう。MANの大型バスは夕闇せまるアウトバーンを快調に進む。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「私たちはこれからローゼマイヤーが事故を起こした所を通過します」アレックスのひと言で、私は90年前、まさしく今から差し掛かる地点で起こった歴史的アクシデントを思い出した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1934年に施行された750kgフォーミュラが契機となり、メルセデス・ベンツとアウトウニオンの2社は火花を散らすような激戦を繰り広げた。戦いの舞台はグランプリサーキットに限らず、ドイツのアウトバーンでも繰り広げられた。スピード記録に挑戦したのだ。メルセデスが世界記録を樹立したかと思うと、それを見越したようにアウトウニオンが記録を塗り替え、さらにメルセデスが更新するといった具合で、両社のせめぎ合いは熾烈を極めた。おもな舞台はフランクフルトから南下してダルムシュタットに至る直線区間。両社ともに当時のグランプリマシンをベースにした流線型ボディの速度記録車で覇を競った。メルセデスのエースドライバーはルドルフ カラッチオラ、アウトウニオンはハンス シュトゥックだ。しかしシュトゥックは1937年に自身の世界記録を更新したのを潮時に、スピード記録挑戦にピリオドを打った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>新たなヒーロー、ベルント ローゼマイヤーがアリーナに登場する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaPosition":"right","mediaId":50106,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text has-media-on-the-right is-stacked-on-mobile"><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>ベルント ローゼマイヤー（1909年10月14日-1938年1月28日）。1935年～37年までアウトウニオン・チームからGPに出場。キャリアの頂点は1936年、ドイツ、スイス、イタリアの3連戦でハットトリックを演じ、この年のチャンピオンに輝いた。スピードの魅力に取り憑かれた、天才肌のドライバーだった。（この写真はアウディミュージアムが配布している資料を撮影しました）。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-3.jpg" alt="" class="wp-image-50106 size-full"/></figure></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今私たちが乗るバスが走っているのは上下線ともに4車線の立派なハイウェイだが、1930年代では片側2車線しかなかった。路肩から芝生を植えただけの中央分離帯までの道幅はせいぜい8mほど。そこをメルセデスとアウトウニオンのドライバーは360km/h超のスピードで走り抜けたのだ。直線路とはいえラインをキープするには超人的なテクニックを要したに違いない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトウニオンを駆ったベルント ローゼマイヤーはこの辺りの事情を次のように語っている。<br>「道路の真ん中にマシンを保つにはこの上ない集中力を要する。高架橋の下を通過する際、横からの突風には瞬間的な対応が必須だ。そんなわけでものの2分も走るとドライバーの神経系統は完全に疲弊する。だから連続10マイル記録走行は、1回のグランプリレースよりはるかに疲れる。たとえ時間にして2分40秒程度でもね」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1937年10月25日、彼はアウトバーンで才能を開花させる。フランクフルト/ダルムシュタット間の往復2方向の平均でフライングスタート（ほぼ最高速に達した状態でスタートを切る）1km区間406.30km/h、同1マイル区間で406.28km/hを計測、世界で初めて公道を400km/h超で走った人物となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデスとアウトウニオンによる速度記録挑戦は1938年1月28日、一つの頂点を迎える。厳しく冷え込んだその日の午前8時、フランクフルト/ダルムシュタット間を往復するカラッチオラの走行が始まる。駆るのは従来型に大きく改良の手を加えた新型だ。フライングスタートによる往路で良好なタイムを計測した彼は復路でも好調を維持。往復の1km区間平均スピード432.69km/h、1マイル区間平均スピード432.42km/hを達成して、ローゼマイヤーによる既存の記録をいとも簡単に打ち破ってみせた。新記録に満足したカラッチオラは、妻を伴ってフランクフルトのホテルへ帰っていった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>同日午前11時、ローゼマイヤーがアウトウニオンの新型マシンに搭乗する。カラッチオラが走った時より風が強まっている。記録更新に挑戦するには危険な横風だ。チーム監督は明日に順延するよう説得するが、ローゼマイヤーの決意は固い。<br><br>「いや、ボクはこれから走る。森から風が吹き抜ける場所はわかっている。対処できるよ」<br><br>そう言って、走り始めた。数分後戻ってきて、エンジンが適正な温度に上がらないと訴える。大気が余りにも冷えているのだ。それでも429.9km/hを計測していた。ラジエターの一部を塞いで再出走。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしローゼマイヤーは往路から復路に方向転換するポイントに姿を現さなかった。ランゲンとメルフェルデンを結ぶ高架橋付近にボディの破片が散乱していた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>たまたまこの日、現場に居合わせたポルシェ博士の秘書ハンス ガイガーが語る。<br>「私たちは破片などには目もくれず、ローゼマイヤーを探した。木々の間に横たわっていた。見たところ外傷はなく、眠っているようだった。心臓は鼓動を打っていたが、数分後止まった」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ベルント ローゼマイヤーがグランプリの檜舞台で活躍したのは1935～37年の3シーズンのみ、その間、選手権にカウントされるGPに限れば勝利数は「3」に過ぎない。圧倒的な勝ち星を誇るドライバーではなかったが、波に乗ったときは目を見張る速さを示した。GPシーンに彗星のように現れ、去って行ったローゼマイヤー。ドイツの人々からこよなく愛されたドライバーだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>後日、事故地点には記念碑が立てられ、今も献花が絶えないという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":50107,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/1-4.jpg" alt="" class="wp-image-50107 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1937年10月28日、フランクフルト。アウトウニオンの速度記録車を発進させようとしているローゼマイヤー。ホイールアーチにスパッツが付いていないことからスタンディングスタート（静止状態からスタートする）による速度記録を狙ったシーンだと思われる。一方、ダルムシュタット手前で折り返すフライングスタート用のマシンは、スパッツの付いた完全なエンクローズドボディを架装していた。（写真はChris Nixon著Racing the Silver Arrowsのページを撮影しました）。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="660" height="460" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル.jpg 660w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/04/サムネイル-300x209.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 660px) 100vw, 660px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">「キャビンクルー、プリペア フォー ランディング」</h3>
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<p>機長から機内アナウンスがあって間もなく、機は左に大きくバンクして着陸態勢の最終段階に入った。高度が急速に下がっているのが座席からもわかる。ごく軽いショックとともに車輪が着地。数秒後、ボーイング787は両翼に備えるターボファンエンジンを逆噴射したのだろうか、減速度が一段と増してJAL407便はフランクフルト国際空港に到着した。現地時間は日本出発時と同じ、2025年2月17日だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ジャルパック ブランド誕生60周年特別企画――ドイツ車4大ミュージアムとニュルブルクリンクを訪ねる8日間」こう題されたJALのサイトをどうやって見つけたのか、今では定かでない。メルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディの4メーカーが運営する博物館を、ツアーコンダクターとドイツ在住モーターナビゲーターが同行しながら巡るのだという。私にとっては不可能とあきらめていた夢を実現してくれるツアーだ。居ても立ってもいられない思いで参加を申し込んだ。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>フランクフルトに到着した私たち一行を、随行ナビゲーターのアレキサンダー オースタンさんが暖かく迎えてくれた。ドイツ語と日本語のバイリンガルで、しかも現役バリバリのモータージャーナリスト。その暖かい人柄ゆえに私たちはすぐに打ち解け、自然にアレックスと呼ぶようになった。</p>
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<p>旅の全日程を通じてよき案内役となってくれたアレックス（左）。右の人物はカール ベンツ自動車博物館のオーナー。お名前は聞きそびれた。</p>
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<p>空港を出ると、私たち一行専用の大型観光バスに乗り込み、南へ約90km下った今夜の投宿地マンハイムに向かう。MANの大型バスは夕闇せまるアウトバーンを快調に進む。</p>
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<p>「私たちはこれからローゼマイヤーが事故を起こした所を通過します」アレックスのひと言で、私は90年前、まさしく今から差し掛かる地点で起こった歴史的アクシデントを思い出した。</p>
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<p>1934年に施行された750kgフォーミュラが契機となり、メルセデス・ベンツとアウトウニオンの2社は火花を散らすような激戦を繰り広げた。戦いの舞台はグランプリサーキットに限らず、ドイツのアウトバーンでも繰り広げられた。スピード記録に挑戦したのだ。メルセデスが世界記録を樹立したかと思うと、それを見越したようにアウトウニオンが記録を塗り替え、さらにメルセデスが更新するといった具合で、両社のせめぎ合いは熾烈を極めた。おもな舞台はフランクフルトから南下してダルムシュタットに至る直線区間。両社ともに当時のグランプリマシンをベースにした流線型ボディの速度記録車で覇を競った。メルセデスのエースドライバーはルドルフ カラッチオラ、アウトウニオンはハンス シュトゥックだ。しかしシュトゥックは1937年に自身の世界記録を更新したのを潮時に、スピード記録挑戦にピリオドを打った。</p>
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<p>新たなヒーロー、ベルント ローゼマイヤーがアリーナに登場する。</p>
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<p>ベルント ローゼマイヤー（1909年10月14日-1938年1月28日）。1935年～37年までアウトウニオン・チームからGPに出場。キャリアの頂点は1936年、ドイツ、スイス、イタリアの3連戦でハットトリックを演じ、この年のチャンピオンに輝いた。スピードの魅力に取り憑かれた、天才肌のドライバーだった。（この写真はアウディミュージアムが配布している資料を撮影しました）。</p>
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<p>今私たちが乗るバスが走っているのは上下線ともに4車線の立派なハイウェイだが、1930年代では片側2車線しかなかった。路肩から芝生を植えただけの中央分離帯までの道幅はせいぜい8mほど。そこをメルセデスとアウトウニオンのドライバーは360km/h超のスピードで走り抜けたのだ。直線路とはいえラインをキープするには超人的なテクニックを要したに違いない。</p>
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<p>アウトウニオンを駆ったベルント ローゼマイヤーはこの辺りの事情を次のように語っている。<br>「道路の真ん中にマシンを保つにはこの上ない集中力を要する。高架橋の下を通過する際、横からの突風には瞬間的な対応が必須だ。そんなわけでものの2分も走るとドライバーの神経系統は完全に疲弊する。だから連続10マイル記録走行は、1回のグランプリレースよりはるかに疲れる。たとえ時間にして2分40秒程度でもね」</p>
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<p>1937年10月25日、彼はアウトバーンで才能を開花させる。フランクフルト/ダルムシュタット間の往復2方向の平均でフライングスタート（ほぼ最高速に達した状態でスタートを切る）1km区間406.30km/h、同1マイル区間で406.28km/hを計測、世界で初めて公道を400km/h超で走った人物となった。</p>
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<p>メルセデスとアウトウニオンによる速度記録挑戦は1938年1月28日、一つの頂点を迎える。厳しく冷え込んだその日の午前8時、フランクフルト/ダルムシュタット間を往復するカラッチオラの走行が始まる。駆るのは従来型に大きく改良の手を加えた新型だ。フライングスタートによる往路で良好なタイムを計測した彼は復路でも好調を維持。往復の1km区間平均スピード432.69km/h、1マイル区間平均スピード432.42km/hを達成して、ローゼマイヤーによる既存の記録をいとも簡単に打ち破ってみせた。新記録に満足したカラッチオラは、妻を伴ってフランクフルトのホテルへ帰っていった。</p>
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<p>同日午前11時、ローゼマイヤーがアウトウニオンの新型マシンに搭乗する。カラッチオラが走った時より風が強まっている。記録更新に挑戦するには危険な横風だ。チーム監督は明日に順延するよう説得するが、ローゼマイヤーの決意は固い。<br><br>「いや、ボクはこれから走る。森から風が吹き抜ける場所はわかっている。対処できるよ」<br><br>そう言って、走り始めた。数分後戻ってきて、エンジンが適正な温度に上がらないと訴える。大気が余りにも冷えているのだ。それでも429.9km/hを計測していた。ラジエターの一部を塞いで再出走。</p>
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<p>しかしローゼマイヤーは往路から復路に方向転換するポイントに姿を現さなかった。ランゲンとメルフェルデンを結ぶ高架橋付近にボディの破片が散乱していた。</p>
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<p>たまたまこの日、現場に居合わせたポルシェ博士の秘書ハンス ガイガーが語る。<br>「私たちは破片などには目もくれず、ローゼマイヤーを探した。木々の間に横たわっていた。見たところ外傷はなく、眠っているようだった。心臓は鼓動を打っていたが、数分後止まった」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<p>ベルント ローゼマイヤーがグランプリの檜舞台で活躍したのは1935～37年の3シーズンのみ、その間、選手権にカウントされるGPに限れば勝利数は「3」に過ぎない。圧倒的な勝ち星を誇るドライバーではなかったが、波に乗ったときは目を見張る速さを示した。GPシーンに彗星のように現れ、去って行ったローゼマイヤー。ドイツの人々からこよなく愛されたドライバーだった。</p>
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<p>後日、事故地点には記念碑が立てられ、今も献花が絶えないという。</p>
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<p>1937年10月28日、フランクフルト。アウトウニオンの速度記録車を発進させようとしているローゼマイヤー。ホイールアーチにスパッツが付いていないことからスタンディングスタート（静止状態からスタートする）による速度記録を狙ったシーンだと思われる。一方、ダルムシュタット手前で折り返すフライングスタート用のマシンは、スパッツの付いた完全なエンクローズドボディを架装していた。（写真はChris Nixon著Racing the Silver Arrowsのページを撮影しました）。</p>
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<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
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<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
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			</item>
		<item>
		<title>シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル３　メルセデス・ベンツの猛威</title>
		<link>https://autobild.jp/14643/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 17 Apr 2022 22:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[フォトギャラリー]]></category>
		<category><![CDATA[旧車＆ネオクラシック]]></category>
		<category><![CDATA[面白ネタ＆ストーリー]]></category>
		<category><![CDATA[1937年]]></category>
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		<category><![CDATA[メルセデスベンツW165]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="872" height="336" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg 872w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-300x116.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-768x296.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-696x268.jpg 696w" sizes="auto, (max-width: 872px) 100vw, 872px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した！そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年～1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">メルセデス・ベンツが再び立ちはだかる。</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1937年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>750Kgの重量制限は当初、3年間適用されるはずであったが、1937年の終わりまで延長された。</strong><br>それはただ車輛の重量を制限するだけであったが、モータースポーツの歴史の中で最も興味深いレーシング規定であった。レーシングコースのスピードを押さえるという目的は達成されることなく、むしろレーシングカーやエンジン製造において技術的な革新が生まれ、この点、ドイツのコンストラクターはリーダーシップをとった。アウト・ウニオンは1937年と変わらずタイプCで参戦したが、メルセデス・ベンツは新設計の最強のW125で参戦した。メルセデス・ベンツがシーズン7勝を挙げたのに対し、アウト・ウニオンは5勝を挙げた。ヨーロッパ・チャピオンが懸かったレースは5レース（ベルギーGP、ドイツGP、モナコGP、スイスGP、イタリアGP）。アウト・ウニオンタイプCは7月11日のベルギーGPでルドルフ・ハッセが1勝したものの、メルセデス・ベンツW125でフォン・ブラウヒッチュがモナコGPで優勝。さらにカラッチオラはドイツGP、スイスGP、イタリアGPで優勝しヨーロッパ・チャピオンとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40.jpg" alt="" class="wp-image-14508"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年５月26日アフスレースでNo.35のW125に乗るカラチオラがローゼマイヤー（No.31タイプC)をリードしている。優勝はメルセデス・ベンツW125のヘルマン・ランク、２位から4位はアウト・ウニオンタイプC、5位にW125のリチァード・シーマン。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40-2.jpg" alt="" class="wp-image-14509"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年5月30日、ベルリンのアフスレースでバンクを走るルイジ・ファジオリのNo.33のアウト・ウニオンタイプC・ストリームライン（リタイア）。このレースはフォーミュラリブレで行われ車種も排気量も規制が無かった。1位はメルセデス・ベンツW125のヘルマン・ランク。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>6月13日</strong>、ニュルブルクリンクの伝統的なアイフェルレースは時間の経過と共に、観客席は超満員に、スタート＆ゴール前は人々でぎっしり込み、旗はそよ風になびいていた。ドイツの「シルバー・アロー」や「シルバー・フィッシュ」、そのドイツ車に挟まれたイタリアの赤いアルファ・ロメオやマセラティ等は見渡すことが出来ない程であった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40（3）-1024x746.jpg" alt="" class="wp-image-14510"/><figcaption class="wp-element-caption">ポルシェ博士はアウト・ウニオンのマシンとドライバ－をサポ－トする為、度々レース現場に現れた。写真は1935年アフスレース。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>スタートポジションは、もはやクジ引きではなく、プラクティスタイムによって決められた。この事は非常に意味があり、信頼が厚かった。即ち、より速いドライバーは同じ様にポールポジションを占める事ができるのであった。<br><br>第1列には、アウト・ウニオンのベルント・ローゼマイヤー、そして両メルセデス・ベンツのヘルマン・ランクとマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが並んだ。前年に、度重なる勝利を飾ったアウト・ウニオンはタイプCと何ら変化がなかったが、一方のダイムラー・ベンツは昨シーズン振るわなかった為、若いレーシングエンジニアのルドルフ・ウーレンハウトの協力の元に、メルセデス・ベンツGPカーを全面改良し、新しいモデルＷ125をデビューさせた。しかもこのＷ125は750kg・フォーミュラの最も成功したモデルである事を実証したのであった。第2列には、メルセデス・ベンツのルドルフ・カラッチオラ、アルファ・ロメオのタツィオ・ヌボラーリが占めた。このアイフェルレースでアウト・ウニオンタイプCのローゼマイヤーが優勝、2位はメルセデス・ベンツＷ125のカラッチオラ、3位にメルセデス・ベンツＷ125のフォン・ブラウヒッチュ、4位はアウト・ウニオンタイプCのルドルフ・ハッセであった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>7月25日</strong>、ドイツGPのニュルブルクリンクサーキットには30万人以上のスポーツファンが詰めかけていた。大きなフィールドの第1列と第2列目には、ドイツとイタリアのトップ・ドライバー達；ローゼマイヤー、ランク、フォン・ブラウヒッチュ、カラッチオラ、ヌボラーリが占め、そして第３列目には新進ドライバーのハッセ、ミューラー、シーマンが並んだ。エンジンは吠えたて、クルーはスタートマシンからサッと脇へ飛び散り、ドイツGPレースがスタートした。スタート直後、メルセデス・ベンツW125のヘルマン・ランクがリードを奪い、続いてチームメイトのルドルフ・カラッチオラ、アウト・ウニオンType Cのベルント・ローゼマイヤーがぴったりと付いた。直ぐに、ローゼマイヤーはカラッチオラに攻撃を仕掛け、第1周目の終わりにはカラッチオラを追い抜いた。彼はランクを捕えた。そして遂に、ローゼマイヤーはトップに立った。彼はスピードを上げ、どんどんリードを拡げていった。4周目に入った。その時、アウト・ウニオンはスピンし、そしてコースアウトした。リアホイールにダメージを受け、ローゼマイヤーはピットインしなければならなかった。ハブキャップが食い込んだ為、彼は3分以上もロスし、ポジションを落とした。勝ち目のない10位で、彼は再びレースに戻った。<br><br>そのうちに、カラッチオラもランクを追い抜き、そしてこのW125メルセデス・トリオグループ；ルドルフ・カラッチオラ、ヘルマン・ランク、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ達は、レース距離の3分の2以上もリードし独走体制に入った。観客の興味はフィールド中央に移った。そこではポジション争いが行われていた。この熱い決闘はメルセデス・ベンツW125とアウト・ウニオンの間で繰り拡げられており、両新進ドライバー；リチャード・シーマンとエルンスト・フォン・デリウスであった。遂に、両者が犠牲者となった。シーマンは鼻骨を折っただけで助かったが、フォン・デリウスはその翌日、怪我が元で亡くなった。スピーカーは次々とリタイアしている事を伝えた。26台でスタートした車輛が、僅か11台になっていた。タツィオ・ヌボラーリは、劣勢のアルファ・ロメオで巧みなレース運びをした。ラストに近づいた頃、ヘルマン・ランクはパンクの為、後退し、タツィオ・ヌボラーリはフォン・ブラウヒッチュの後ろ、第3位になった。けれども、すでにローゼマイヤーは、ヌボラーリの背後にぴったりと付いていた。観客の声援を背に、このブロンドのアイドルは劇的な追撃を行い、一人、また一人と次々と追い抜いていった。今や、彼はヌボラーリを捕えた。頑丈で小柄なこのイタリア人は必死に抵抗した。観客は大いに熱狂し、この2人のポジション争いの決闘を存分に味わうことができた。<br><br>遂にゴール3周前、アウト・ウニオンタイプCのローゼマイヤーは赤いアルファ・ロメオを追い抜き、そして両トップ・ドライバーを追い上げていった。しかし、彼等はローゼマイヤーを全く寄せ付けなかった。ルドルフ・カラッチオラが第１位、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが第2位となり、メルセデス・ベンツW125のワン・ツー勝利でこのレースの幕は閉じられた。<br><br> シーズンが終了し、750Kg・フォーミュラは終わりを告げることとなる。なぜなら、この規定が出来てからのGPレースは、もっぱら両ドイツレーシングチームの一騎打ちであったからで、パリの国際スポーツ委員会は既定の変更を計画するのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40（4）.jpg" alt="" class="wp-image-14511"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年８月8日のモナコGPでW125のトリオであるルドルフ・カラッチオラが優勝、2位にフオン・ブラウヒッチュ、3位にカウツ。アウト・ウニオンタイプCのシュトゥック/ローゼマイヤーは4位。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40-5.jpg" alt="" class="wp-image-14512"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年８月22日のスイスグランプリにて、白熱したレースを繰り広げるメルセデス・ベンツW125とアウト・ウニオンタイプC。メルセデス・ベンツW125トリオのカラッチオラが優勝、ランクは2位、フォン・ブラウヒッチュは3位。アウト・ウニオンのシュトゥックは4位、ヌボラーリ/ローゼマイヤーは5位。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong> 1930年代のモータースポーツは、最もポピュラーなスポーツ種目に挙げられた。</strong><br>モータースポーツは本来、上流階級の楽しみや販売促進のための道具であったが、増々、国家権力の争いとなった。技術的に優れている者が権力を持つ様になった。そして、レーシングドライバーは各個人の技術、勇気と意欲の勝利によって国民の英雄になった。ドイツ車の優秀性は圧倒的であった。メルセデス・ベンツW125やアウト・ウニオンタイプCのレーシングカーの技術が事実、総合的に優れていた為に、他のヨーロッパのメーカーはGPのレーシングコースから消えていった。唯一、イタリアだけが国家の威信にもかかわる問題であった為、参戦してきた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40-6_1.jpg" alt="" class="wp-image-14518"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年10月2日イギリスのドニントンサーキットで行われたドニントンGPのスタートシーン；750kgフォーミュラリ最後のレースとなり、モンスターマシンのメルセデス・ベンツW125とアウト・ウニオンタイプCが争った。ローゼマイヤーが1位、メルセデス・ベンツのフォン・ブラウヒチュが2位。</figcaption></figure>
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<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1938年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>世界最高記録への挑戦。</strong><br>何といっても1938年にメルセデス・ベンツ「シルバー・アロー」VSアウト・ウニオン「シルバー・フィッシュ」の死闘の最高潮に達したのが、世界最高記録の挑戦だ！<br> 1936年に入るとメルセデス・ベンツはV12気筒、4.8L 540PSエンジンを搭載したほぼ完璧に近い流線型のレコード・レーサーを造った（W25ベース）。1936年10月と11月にフランクフルト～ダルムシュタット間のアウトバーンで、名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L～8L)でフライング・キロメーター364.4km/h、同マイル・366.9km/h、同5km・ 340.5km/h、同５マイル・336.8km/h、同10km・331.9km/h、同10マイル・335.5km/hの計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/41_1メルセデス-ストームラインレーサー-1-1024x615.jpg" alt="" class="wp-image-14520"/><figcaption class="wp-element-caption"> <em>（左上）1936年に入るとメルセデス・ベンツはV12気筒、4.80L 540PSエンジンを搭載したほぼ完璧に近いストリームライン・レーサーを造った(W25をベース)。</em> （左下、右）1936年10月と11月にアウトバーンのフランクフルト～ダルムシュタット間（1935年開通）で、名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5ℓ～8ℓ)でフライング・キロメーター364.4km/h、同マイル・366.9km/hを含め計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録した。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、当時のレースでドイツ勢としてメルセデス・ベンツのライバルであるアウト・ウニオンは、何よりも主任設計技師であったフェルディナンド・ポルシェ博士はアウト・ウニオンの設計をまかされると、当時のGPマシンの常識をすべて無視してエンジンはミッドシップに配置した。翌1937年にベルント・ローゼマイヤーの乗るアウト・ウニオンの流線型レコード・マシンは406.3km/hの記録を達成した（タイプCストリームライン）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/42.jpg" alt="" class="wp-image-14522"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/42-2.jpg" alt="" class="wp-image-14523"/><figcaption class="wp-element-caption">ライバルのベルント・ローゼマイヤーが乗るアウト・ウニオンのストリームライン・レーサーは、1937年に406.3km/hの記録をマークした（タイプCストリームライン）。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデス・ベンツ技術陣とカラッチオラはその面目に賭けてもこれを打ち破らなければならない破目になった。そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は1936年レコード・レーサーのV12気筒エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し（W125ベース）、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト～ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライング・キロメーター432.69km/h、フライング・マイル432.36km/hというクラスB（５L～8L）の大記録を樹立したのであった(これは現在に至るまでの公道上で出された最高の速度で破られていない)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/43_1新記録樹立-1024x634.jpg" alt="" class="wp-image-14521"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このメルセデス・ベンツが世界記録を樹立した情報はすぐにアウト・ウニオンチームにも届き、彼等は驚くほど素早い反応をみせ、アウト・ウニオンのレーシングマシンとベルント・ローゼマイヤーが間もなくアウトバーンに到着し、メルセデス・ベンツの世界記録を破ろうと挑戦したのであった。メルセデス・ベンツのカラッチオラが世界記録を樹立した直後、アウト・ウニオンのベルント・ローゼマイヤーが世界記録に挑戦した。一回目の練習走行後で、彼はちょっと気の弱い笑い方をした。『モンフェルドの森の切り通しを通った時、すごい風があってね、踏み込んでハンドルにしがみついたさ、そうしたら通りぬけたよ!』。アウト・ウニオンのレース監督であるヴィルヘルム・セバスチャンは本能的に飛行場あたりを見回した。ツェッペリン飛行船の屋根の上の吹流しはピンと張って、空中に上がっていた。『おい、ベルント、この風はよくないぞ、向こうの飛行船を見てみろ!』と彼は言った。しかし、ベルント・ローゼマイヤーは『やらせろ、時間がなくなるじゃないか!』と苛立っていた。そして出発準備の出来ている車両に乗り込んだ時にフォイアライセン博士が急いでやってきて、『時速50km/hの風があるそうだ、見合わせたらどうか!』と言ったが、『風で危険なのは1箇所だけですよ、そこも僕はちゃんと知っています。そこで、すべきことといったら、ハンドルをちょっと切ればいいだけです。全然心配はないですよ!』と言って世界記録挑戦にスタートした。「9.2km時点で衝突!」との電話が入った、そして2度と帰らぬベルント・ローゼマイヤーとなったのだ！</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large is-resized"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/44.jpg" alt="" class="wp-image-14524" style="width:638px;height:426px"/><figcaption class="wp-element-caption">即刻アウト・ウニオンのストリームライン・レーサーとベルント・ローゼマイヤーが、メルセデス・ベンツの世界記録に挑戦した。しかし、ベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてマシンは大破し帰らぬ人となり、アウト・ウニオンの再挑戦には至らなかった。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/45.jpg" alt="" class="wp-image-14525"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディが2000年に新たに造り直したレプリカ（アウディミュージアム展示）。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>この1938年は大改革の年でもあった。重量と排気量の両方制限されたこの新しいＧＰフォーミュラは、むしろ平等にチャンスがあると思われた。つまり、1938年～1940年まで適用されたこの3Lレーシングフォーミュラは、コンプレッサー無しで最大シリンダー容積が4.5Lに、そしてコンプレッサー付で3Lに制限され、レーシングカーの最低重量は850kgとなった。こうして、すべてのエンジン容量の車輛に対して、同じスタート条件が保証された。しかしフォーミュラを決定し制限したところで、すぐに技術が進歩する為、絶対に到達できるはずがない限界にまで可能となった。即ち、増々、ハイスピードになった。国外では、この新しいフォーミュラは簡単に取り入れられ、そしてレーシングカー造りにかなりの活気が生まれた。その後、自動車メーカーはすでに短期間のうちに、半分のエンジン性能でスタート可能にしたドイツのシルバー・アローW154とシルバー・フィッシュタイプＤに対して何等、成すすべが無いと解った。危機がやってきた。ヌボラーリは立腹しアルファ・ロメオを去った。そして、今まで世界のレースを最も多く提供してきたアイフェルレースが中止となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/46（3）_1.jpg" alt="" class="wp-image-14530"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオン1938年のスイスグランプリでのピットシーン；アウト・ウニオンタイプD</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>７月24日</strong>、ドイツGPは再びニュルブルクリンクでスタートした。メルセデス・ベンツW154、アウト・ウニオンタイプＤ、アルファ・ロメオタイプ312等のコンプレッサー付新３Lコンストラクション、加えてドライエの騒々しいコンプレッサー無しの４.5Lレーシングカーが参戦した。この車で、フランスはレーシング界にカムバックしてきたのであった。タツィオ・ヌボラーリは、アウト・ウニオンタイプＤでデビューした。彼はベルント・ローゼマイヤーの代役を務めた。ローゼマイヤーはこの年の初め、スピード記録挑戦の事故で帰らぬ人となっていたからだ。プラクティスタイムによるスタートポジションには、ニュルブルクリンクの30万人以上の観客はすでに慣れていた。４台の新しいメルセデスＷ154に乗ったフォン・ブラウヒッチュ、シーマン、カラッチオラ、ランクがリードした。次いで、新しいアウト・ウニオンタイプＤに乗ったハッセ、ミューラー、そしてシュトゥックがぴったりと追討した。このタイプＤは、工学博士のエーベラン・フォン・エーベルホルストの設計によって開発された。すでに、フェルディナンド・ポルシェ博士はフォルクスワーゲンのプロジェクトを委託され、顧問として自由になる事ができなかった。ヌボラーリは、リアエンジンを搭載した不慣れなアウト・ウニオンを操縦しながら、ウインドウに付着した数か所のオイルの跳ねを拭き取ろうとした時、溝にはまり込みリタイアしてしまった。トップグループを占める7台の3Lコンプレッサーをパウル・ピーチュが追いかけた。彼はドイツ・プライベートドライバーで、シルバーグレーの１.5Lのマセラティに乗り、最終的にはドライエのルネ・ドレフュスに次いで第6位でゴールしている。レースはハードであった。1台また1台とリタイアしていった。人気者のルドルフ・カラッチオラは胃痛で苦しみ、プラグがオイル上がりしてすでにリタイアしていたヘルマン・ランクに自分のメルセデスを引き渡した。アウト・ウニオンでは、タツィオ・ヌボラーリがＨ.Ｐ.ミューラー（ヘルマン・パウル・ミューラー）の車輛に乗った。そのすぐ後、気迫の入ったドライビングスタイルで熱狂していたルドルフ・ハッセもリタイアしてしまった。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは、稀にみるクリーンで激しいレース展開をしていた。彼は非常にイライラし、チームメイトのリチャード・シーマンを追い抜き、すでに勝利を手中に納めたかの様に思えた。両者はお互い、燃料補給やタイヤ交換の為、ピットインした。メカニックの不注意によって、ブラウヒッチュのタンクから燃料がパシャと零れた。ちょうどその時、彼はイグニションスイッチを入れ、エンジンを掛けた。あっという間に、彼の車のリアは高く燃え上がった炎に包まれた。10万人以上の喉元から途方もない恐怖の悲鳴が起こった。一瞬にしてメルセデス・ベンツのピットは棒立ちになった。消火器が吹き付けられた。炎はすぐに消し止められ、大惨事には至らなかった。そしてフォン・ブラウヒッチュは再びレースに戻った。しかし、リチャード・シーマンはすでにピット・アウトしており、トップに立っていた。ハードなレースで焼け跡だらけになったこのイギリス人は25歳の若者で、メルセデス・ベンツW154に勝利をもたらしたのであった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/46_1.jpg" alt="" class="wp-image-14527"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年7月24日のドイツGPでピットインしたフオン・ブラウヒチュのW154がメカニックの不注意でタンクから燃料が漏れ燃え上がったがすぐに消火器で炎は消し止められた。メルセデス・ベンツW154のリチャード・シーマンが優勝、2位はカラッチオラ/ランクと1.2を独占。3位にアウト・ウニオンタイプCのハンス・シュトゥック。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデス・ベンツのW154は圧倒的な強さを示し、5月15日のトリポリGPでは１、2、3位を独占、7月3日のフランスGPでも1、2、3位を独占し8月21日のスイスGPも1、2、3位を独占した。一方、アウト・ウニオンのTypeＤに乗ったタツィオ・ヌボラーリがイタリアGPとドニントンGPで優勝したものの1938年のアウト・ウニオンチームは不振に終わった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/47_1.jpg" alt="" class="wp-image-14531"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年5月15日トリポリGPでメルセデス・ベンツW154を駆ってヘルマン・ランク、フオン・ブラウヒチュ、ルドルフ・カラッチオラが1～3位を独占。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/46-2_1.jpg" alt="" class="wp-image-14528"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年の最終戦となった10月2日のドニントンGP。No.1のハンス・ミュラーのアウト・ウニオンタイプDが2台のW154をリードしている。優勝はアウト・ウニオンタイプCを駆るベルント・ローゼマイヤー、2位にメルセデス・ベンツW125のフォン・ブラウヒッチュ、3位はメルセデス・ベンツW125のルドルフ・カラッチオラ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong><a href="http://autobild.jp/14643/2/">次ページ：1939年のグランプリ</a></strong></p>
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]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="872" height="336" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg 872w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-300x116.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-768x296.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-696x268.jpg 696w" sizes="auto, (max-width: 872px) 100vw, 872px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した！そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年～1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">メルセデス・ベンツが再び立ちはだかる。</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1937年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>750Kgの重量制限は当初、3年間適用されるはずであったが、1937年の終わりまで延長された。</strong><br>それはただ車輛の重量を制限するだけであったが、モータースポーツの歴史の中で最も興味深いレーシング規定であった。レーシングコースのスピードを押さえるという目的は達成されることなく、むしろレーシングカーやエンジン製造において技術的な革新が生まれ、この点、ドイツのコンストラクターはリーダーシップをとった。アウト・ウニオンは1937年と変わらずタイプCで参戦したが、メルセデス・ベンツは新設計の最強のW125で参戦した。メルセデス・ベンツがシーズン7勝を挙げたのに対し、アウト・ウニオンは5勝を挙げた。ヨーロッパ・チャピオンが懸かったレースは5レース（ベルギーGP、ドイツGP、モナコGP、スイスGP、イタリアGP）。アウト・ウニオンタイプCは7月11日のベルギーGPでルドルフ・ハッセが1勝したものの、メルセデス・ベンツW125でフォン・ブラウヒッチュがモナコGPで優勝。さらにカラッチオラはドイツGP、スイスGP、イタリアGPで優勝しヨーロッパ・チャピオンとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40.jpg" alt="" class="wp-image-14508"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年５月26日アフスレースでNo.35のW125に乗るカラチオラがローゼマイヤー（No.31タイプC)をリードしている。優勝はメルセデス・ベンツW125のヘルマン・ランク、２位から4位はアウト・ウニオンタイプC、5位にW125のリチァード・シーマン。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":14509,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40-2.jpg" alt="" class="wp-image-14509"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年5月30日、ベルリンのアフスレースでバンクを走るルイジ・ファジオリのNo.33のアウト・ウニオンタイプC・ストリームライン（リタイア）。このレースはフォーミュラリブレで行われ車種も排気量も規制が無かった。1位はメルセデス・ベンツW125のヘルマン・ランク。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>6月13日</strong>、ニュルブルクリンクの伝統的なアイフェルレースは時間の経過と共に、観客席は超満員に、スタート＆ゴール前は人々でぎっしり込み、旗はそよ風になびいていた。ドイツの「シルバー・アロー」や「シルバー・フィッシュ」、そのドイツ車に挟まれたイタリアの赤いアルファ・ロメオやマセラティ等は見渡すことが出来ない程であった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40（3）-1024x746.jpg" alt="" class="wp-image-14510"/><figcaption class="wp-element-caption">ポルシェ博士はアウト・ウニオンのマシンとドライバ－をサポ－トする為、度々レース現場に現れた。写真は1935年アフスレース。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタートポジションは、もはやクジ引きではなく、プラクティスタイムによって決められた。この事は非常に意味があり、信頼が厚かった。即ち、より速いドライバーは同じ様にポールポジションを占める事ができるのであった。<br><br>第1列には、アウト・ウニオンのベルント・ローゼマイヤー、そして両メルセデス・ベンツのヘルマン・ランクとマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが並んだ。前年に、度重なる勝利を飾ったアウト・ウニオンはタイプCと何ら変化がなかったが、一方のダイムラー・ベンツは昨シーズン振るわなかった為、若いレーシングエンジニアのルドルフ・ウーレンハウトの協力の元に、メルセデス・ベンツGPカーを全面改良し、新しいモデルＷ125をデビューさせた。しかもこのＷ125は750kg・フォーミュラの最も成功したモデルである事を実証したのであった。第2列には、メルセデス・ベンツのルドルフ・カラッチオラ、アルファ・ロメオのタツィオ・ヌボラーリが占めた。このアイフェルレースでアウト・ウニオンタイプCのローゼマイヤーが優勝、2位はメルセデス・ベンツＷ125のカラッチオラ、3位にメルセデス・ベンツＷ125のフォン・ブラウヒッチュ、4位はアウト・ウニオンタイプCのルドルフ・ハッセであった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>7月25日</strong>、ドイツGPのニュルブルクリンクサーキットには30万人以上のスポーツファンが詰めかけていた。大きなフィールドの第1列と第2列目には、ドイツとイタリアのトップ・ドライバー達；ローゼマイヤー、ランク、フォン・ブラウヒッチュ、カラッチオラ、ヌボラーリが占め、そして第３列目には新進ドライバーのハッセ、ミューラー、シーマンが並んだ。エンジンは吠えたて、クルーはスタートマシンからサッと脇へ飛び散り、ドイツGPレースがスタートした。スタート直後、メルセデス・ベンツW125のヘルマン・ランクがリードを奪い、続いてチームメイトのルドルフ・カラッチオラ、アウト・ウニオンType Cのベルント・ローゼマイヤーがぴったりと付いた。直ぐに、ローゼマイヤーはカラッチオラに攻撃を仕掛け、第1周目の終わりにはカラッチオラを追い抜いた。彼はランクを捕えた。そして遂に、ローゼマイヤーはトップに立った。彼はスピードを上げ、どんどんリードを拡げていった。4周目に入った。その時、アウト・ウニオンはスピンし、そしてコースアウトした。リアホイールにダメージを受け、ローゼマイヤーはピットインしなければならなかった。ハブキャップが食い込んだ為、彼は3分以上もロスし、ポジションを落とした。勝ち目のない10位で、彼は再びレースに戻った。<br><br>そのうちに、カラッチオラもランクを追い抜き、そしてこのW125メルセデス・トリオグループ；ルドルフ・カラッチオラ、ヘルマン・ランク、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ達は、レース距離の3分の2以上もリードし独走体制に入った。観客の興味はフィールド中央に移った。そこではポジション争いが行われていた。この熱い決闘はメルセデス・ベンツW125とアウト・ウニオンの間で繰り拡げられており、両新進ドライバー；リチャード・シーマンとエルンスト・フォン・デリウスであった。遂に、両者が犠牲者となった。シーマンは鼻骨を折っただけで助かったが、フォン・デリウスはその翌日、怪我が元で亡くなった。スピーカーは次々とリタイアしている事を伝えた。26台でスタートした車輛が、僅か11台になっていた。タツィオ・ヌボラーリは、劣勢のアルファ・ロメオで巧みなレース運びをした。ラストに近づいた頃、ヘルマン・ランクはパンクの為、後退し、タツィオ・ヌボラーリはフォン・ブラウヒッチュの後ろ、第3位になった。けれども、すでにローゼマイヤーは、ヌボラーリの背後にぴったりと付いていた。観客の声援を背に、このブロンドのアイドルは劇的な追撃を行い、一人、また一人と次々と追い抜いていった。今や、彼はヌボラーリを捕えた。頑丈で小柄なこのイタリア人は必死に抵抗した。観客は大いに熱狂し、この2人のポジション争いの決闘を存分に味わうことができた。<br><br>遂にゴール3周前、アウト・ウニオンタイプCのローゼマイヤーは赤いアルファ・ロメオを追い抜き、そして両トップ・ドライバーを追い上げていった。しかし、彼等はローゼマイヤーを全く寄せ付けなかった。ルドルフ・カラッチオラが第１位、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが第2位となり、メルセデス・ベンツW125のワン・ツー勝利でこのレースの幕は閉じられた。<br><br> シーズンが終了し、750Kg・フォーミュラは終わりを告げることとなる。なぜなら、この規定が出来てからのGPレースは、もっぱら両ドイツレーシングチームの一騎打ちであったからで、パリの国際スポーツ委員会は既定の変更を計画するのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40（4）.jpg" alt="" class="wp-image-14511"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年８月8日のモナコGPでW125のトリオであるルドルフ・カラッチオラが優勝、2位にフオン・ブラウヒッチュ、3位にカウツ。アウト・ウニオンタイプCのシュトゥック/ローゼマイヤーは4位。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40-5.jpg" alt="" class="wp-image-14512"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年８月22日のスイスグランプリにて、白熱したレースを繰り広げるメルセデス・ベンツW125とアウト・ウニオンタイプC。メルセデス・ベンツW125トリオのカラッチオラが優勝、ランクは2位、フォン・ブラウヒッチュは3位。アウト・ウニオンのシュトゥックは4位、ヌボラーリ/ローゼマイヤーは5位。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong> 1930年代のモータースポーツは、最もポピュラーなスポーツ種目に挙げられた。</strong><br>モータースポーツは本来、上流階級の楽しみや販売促進のための道具であったが、増々、国家権力の争いとなった。技術的に優れている者が権力を持つ様になった。そして、レーシングドライバーは各個人の技術、勇気と意欲の勝利によって国民の英雄になった。ドイツ車の優秀性は圧倒的であった。メルセデス・ベンツW125やアウト・ウニオンタイプCのレーシングカーの技術が事実、総合的に優れていた為に、他のヨーロッパのメーカーはGPのレーシングコースから消えていった。唯一、イタリアだけが国家の威信にもかかわる問題であった為、参戦してきた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/40-6_1.jpg" alt="" class="wp-image-14518"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年10月2日イギリスのドニントンサーキットで行われたドニントンGPのスタートシーン；750kgフォーミュラリ最後のレースとなり、モンスターマシンのメルセデス・ベンツW125とアウト・ウニオンタイプCが争った。ローゼマイヤーが1位、メルセデス・ベンツのフォン・ブラウヒチュが2位。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1938年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>世界最高記録への挑戦。</strong><br>何といっても1938年にメルセデス・ベンツ「シルバー・アロー」VSアウト・ウニオン「シルバー・フィッシュ」の死闘の最高潮に達したのが、世界最高記録の挑戦だ！<br> 1936年に入るとメルセデス・ベンツはV12気筒、4.8L 540PSエンジンを搭載したほぼ完璧に近い流線型のレコード・レーサーを造った（W25ベース）。1936年10月と11月にフランクフルト～ダルムシュタット間のアウトバーンで、名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L～8L)でフライング・キロメーター364.4km/h、同マイル・366.9km/h、同5km・ 340.5km/h、同５マイル・336.8km/h、同10km・331.9km/h、同10マイル・335.5km/hの計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":14520,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/41_1メルセデス-ストームラインレーサー-1-1024x615.jpg" alt="" class="wp-image-14520"/><figcaption class="wp-element-caption"> <em>（左上）1936年に入るとメルセデス・ベンツはV12気筒、4.80L 540PSエンジンを搭載したほぼ完璧に近いストリームライン・レーサーを造った(W25をベース)。</em> （左下、右）1936年10月と11月にアウトバーンのフランクフルト～ダルムシュタット間（1935年開通）で、名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5ℓ～8ℓ)でフライング・キロメーター364.4km/h、同マイル・366.9km/hを含め計6つの世界記録を樹立、最高スピードは371.9km/hを記録した。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、当時のレースでドイツ勢としてメルセデス・ベンツのライバルであるアウト・ウニオンは、何よりも主任設計技師であったフェルディナンド・ポルシェ博士はアウト・ウニオンの設計をまかされると、当時のGPマシンの常識をすべて無視してエンジンはミッドシップに配置した。翌1937年にベルント・ローゼマイヤーの乗るアウト・ウニオンの流線型レコード・マシンは406.3km/hの記録を達成した（タイプCストリームライン）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":14522,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/42.jpg" alt="" class="wp-image-14522"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":14523,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/42-2.jpg" alt="" class="wp-image-14523"/><figcaption class="wp-element-caption">ライバルのベルント・ローゼマイヤーが乗るアウト・ウニオンのストリームライン・レーサーは、1937年に406.3km/hの記録をマークした（タイプCストリームライン）。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデス・ベンツ技術陣とカラッチオラはその面目に賭けてもこれを打ち破らなければならない破目になった。そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は1936年レコード・レーサーのV12気筒エンジンを5.57L、736PSにまで拡大し（W125ベース）、この車でカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト～ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライング・キロメーター432.69km/h、フライング・マイル432.36km/hというクラスB（５L～8L）の大記録を樹立したのであった(これは現在に至るまでの公道上で出された最高の速度で破られていない)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/43_1新記録樹立-1024x634.jpg" alt="" class="wp-image-14521"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このメルセデス・ベンツが世界記録を樹立した情報はすぐにアウト・ウニオンチームにも届き、彼等は驚くほど素早い反応をみせ、アウト・ウニオンのレーシングマシンとベルント・ローゼマイヤーが間もなくアウトバーンに到着し、メルセデス・ベンツの世界記録を破ろうと挑戦したのであった。メルセデス・ベンツのカラッチオラが世界記録を樹立した直後、アウト・ウニオンのベルント・ローゼマイヤーが世界記録に挑戦した。一回目の練習走行後で、彼はちょっと気の弱い笑い方をした。『モンフェルドの森の切り通しを通った時、すごい風があってね、踏み込んでハンドルにしがみついたさ、そうしたら通りぬけたよ!』。アウト・ウニオンのレース監督であるヴィルヘルム・セバスチャンは本能的に飛行場あたりを見回した。ツェッペリン飛行船の屋根の上の吹流しはピンと張って、空中に上がっていた。『おい、ベルント、この風はよくないぞ、向こうの飛行船を見てみろ!』と彼は言った。しかし、ベルント・ローゼマイヤーは『やらせろ、時間がなくなるじゃないか!』と苛立っていた。そして出発準備の出来ている車両に乗り込んだ時にフォイアライセン博士が急いでやってきて、『時速50km/hの風があるそうだ、見合わせたらどうか!』と言ったが、『風で危険なのは1箇所だけですよ、そこも僕はちゃんと知っています。そこで、すべきことといったら、ハンドルをちょっと切ればいいだけです。全然心配はないですよ!』と言って世界記録挑戦にスタートした。「9.2km時点で衝突!」との電話が入った、そして2度と帰らぬベルント・ローゼマイヤーとなったのだ！</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large is-resized"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/44.jpg" alt="" class="wp-image-14524" style="width:638px;height:426px"/><figcaption class="wp-element-caption">即刻アウト・ウニオンのストリームライン・レーサーとベルント・ローゼマイヤーが、メルセデス・ベンツの世界記録に挑戦した。しかし、ベルント・ローゼマイヤーは横風にあおられてマシンは大破し帰らぬ人となり、アウト・ウニオンの再挑戦には至らなかった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/45.jpg" alt="" class="wp-image-14525"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディが2000年に新たに造り直したレプリカ（アウディミュージアム展示）。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この1938年は大改革の年でもあった。重量と排気量の両方制限されたこの新しいＧＰフォーミュラは、むしろ平等にチャンスがあると思われた。つまり、1938年～1940年まで適用されたこの3Lレーシングフォーミュラは、コンプレッサー無しで最大シリンダー容積が4.5Lに、そしてコンプレッサー付で3Lに制限され、レーシングカーの最低重量は850kgとなった。こうして、すべてのエンジン容量の車輛に対して、同じスタート条件が保証された。しかしフォーミュラを決定し制限したところで、すぐに技術が進歩する為、絶対に到達できるはずがない限界にまで可能となった。即ち、増々、ハイスピードになった。国外では、この新しいフォーミュラは簡単に取り入れられ、そしてレーシングカー造りにかなりの活気が生まれた。その後、自動車メーカーはすでに短期間のうちに、半分のエンジン性能でスタート可能にしたドイツのシルバー・アローW154とシルバー・フィッシュタイプＤに対して何等、成すすべが無いと解った。危機がやってきた。ヌボラーリは立腹しアルファ・ロメオを去った。そして、今まで世界のレースを最も多く提供してきたアイフェルレースが中止となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/46（3）_1.jpg" alt="" class="wp-image-14530"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオン1938年のスイスグランプリでのピットシーン；アウト・ウニオンタイプD</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>７月24日</strong>、ドイツGPは再びニュルブルクリンクでスタートした。メルセデス・ベンツW154、アウト・ウニオンタイプＤ、アルファ・ロメオタイプ312等のコンプレッサー付新３Lコンストラクション、加えてドライエの騒々しいコンプレッサー無しの４.5Lレーシングカーが参戦した。この車で、フランスはレーシング界にカムバックしてきたのであった。タツィオ・ヌボラーリは、アウト・ウニオンタイプＤでデビューした。彼はベルント・ローゼマイヤーの代役を務めた。ローゼマイヤーはこの年の初め、スピード記録挑戦の事故で帰らぬ人となっていたからだ。プラクティスタイムによるスタートポジションには、ニュルブルクリンクの30万人以上の観客はすでに慣れていた。４台の新しいメルセデスＷ154に乗ったフォン・ブラウヒッチュ、シーマン、カラッチオラ、ランクがリードした。次いで、新しいアウト・ウニオンタイプＤに乗ったハッセ、ミューラー、そしてシュトゥックがぴったりと追討した。このタイプＤは、工学博士のエーベラン・フォン・エーベルホルストの設計によって開発された。すでに、フェルディナンド・ポルシェ博士はフォルクスワーゲンのプロジェクトを委託され、顧問として自由になる事ができなかった。ヌボラーリは、リアエンジンを搭載した不慣れなアウト・ウニオンを操縦しながら、ウインドウに付着した数か所のオイルの跳ねを拭き取ろうとした時、溝にはまり込みリタイアしてしまった。トップグループを占める7台の3Lコンプレッサーをパウル・ピーチュが追いかけた。彼はドイツ・プライベートドライバーで、シルバーグレーの１.5Lのマセラティに乗り、最終的にはドライエのルネ・ドレフュスに次いで第6位でゴールしている。レースはハードであった。1台また1台とリタイアしていった。人気者のルドルフ・カラッチオラは胃痛で苦しみ、プラグがオイル上がりしてすでにリタイアしていたヘルマン・ランクに自分のメルセデスを引き渡した。アウト・ウニオンでは、タツィオ・ヌボラーリがＨ.Ｐ.ミューラー（ヘルマン・パウル・ミューラー）の車輛に乗った。そのすぐ後、気迫の入ったドライビングスタイルで熱狂していたルドルフ・ハッセもリタイアしてしまった。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは、稀にみるクリーンで激しいレース展開をしていた。彼は非常にイライラし、チームメイトのリチャード・シーマンを追い抜き、すでに勝利を手中に納めたかの様に思えた。両者はお互い、燃料補給やタイヤ交換の為、ピットインした。メカニックの不注意によって、ブラウヒッチュのタンクから燃料がパシャと零れた。ちょうどその時、彼はイグニションスイッチを入れ、エンジンを掛けた。あっという間に、彼の車のリアは高く燃え上がった炎に包まれた。10万人以上の喉元から途方もない恐怖の悲鳴が起こった。一瞬にしてメルセデス・ベンツのピットは棒立ちになった。消火器が吹き付けられた。炎はすぐに消し止められ、大惨事には至らなかった。そしてフォン・ブラウヒッチュは再びレースに戻った。しかし、リチャード・シーマンはすでにピット・アウトしており、トップに立っていた。ハードなレースで焼け跡だらけになったこのイギリス人は25歳の若者で、メルセデス・ベンツW154に勝利をもたらしたのであった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":14527,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/46_1.jpg" alt="" class="wp-image-14527"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年7月24日のドイツGPでピットインしたフオン・ブラウヒチュのW154がメカニックの不注意でタンクから燃料が漏れ燃え上がったがすぐに消火器で炎は消し止められた。メルセデス・ベンツW154のリチャード・シーマンが優勝、2位はカラッチオラ/ランクと1.2を独占。3位にアウト・ウニオンタイプCのハンス・シュトゥック。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデス・ベンツのW154は圧倒的な強さを示し、5月15日のトリポリGPでは１、2、3位を独占、7月3日のフランスGPでも1、2、3位を独占し8月21日のスイスGPも1、2、3位を独占した。一方、アウト・ウニオンのTypeＤに乗ったタツィオ・ヌボラーリがイタリアGPとドニントンGPで優勝したものの1938年のアウト・ウニオンチームは不振に終わった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":14531,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/47_1.jpg" alt="" class="wp-image-14531"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年5月15日トリポリGPでメルセデス・ベンツW154を駆ってヘルマン・ランク、フオン・ブラウヒチュ、ルドルフ・カラッチオラが1～3位を独占。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":14528,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/04/46-2_1.jpg" alt="" class="wp-image-14528"/><figcaption class="wp-element-caption">1938年の最終戦となった10月2日のドニントンGP。No.1のハンス・ミュラーのアウト・ウニオンタイプDが2台のW154をリードしている。優勝はアウト・ウニオンタイプCを駆るベルント・ローゼマイヤー、2位にメルセデス・ベンツW125のフォン・ブラウヒッチュ、3位はメルセデス・ベンツW125のルドルフ・カラッチオラ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong><a href="http://autobild.jp/14643/2/">次ページ：1939年のグランプリ</a></strong></p>
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		<title>シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル２　アウトウニオンとポルシェ博士</title>
		<link>https://autobild.jp/14644/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 15 Apr 2022 22:50:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="872" height="336" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg 872w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-300x116.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-768x296.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-696x268.jpg 696w" sizes="auto, (max-width: 872px) 100vw, 872px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した！そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年～1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">ドイツの両雄並び立たず</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1934年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。</strong><br>イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトだった。しかし、1932年10月にフランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が、1934年～1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入した。そして1934年のニュルブルクリンクのアイフェルレースでメルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生した。この新型メルセデス・ベンツＷ25は4バルブDOHC直列8気筒、当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮し、車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場した。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13860,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/19_シルバーアローの誕生.jpg" alt="" class="wp-image-13860"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13862,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/35（3）_1.jpg" alt="" class="wp-image-13862"/><figcaption class="wp-element-caption">1934年のGPマシンW25；4バルブDOHC直列8気筒、当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮し、車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13867,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/35_1_1.jpg" alt="" class="wp-image-13867"/><figcaption class="wp-element-caption">1934年に新しいGPフォーミュラが発表され、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入すると、ドイツ勢のメルセデス・ベンツのシルバー・アローとアウト・ウニオンのシルバー・フィッシュの死闘が開始；（左）メルセデス・ベンツはW25、（右）アウト・ウニオンはタイプA。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>6月3日</strong>、ニュルブルクリンクのアイフェルレースが遂にやってきた。両ドイツの軽合金・コンストラクションカーが、去年ヨーロッパのレースを圧巻したアルファ・ロメオ（スクデリア・フェラーリが引き継ぐ）、マセラティ、そしてブガッティに対抗してお互い初めて参戦した。<br> 雷雨のため、スタートが延期された。かなり遅れた為、コンプレッサーの断続的に吠える音がドキドキするテンポでフィールドに響きわたり、観客の好奇心は嫌が上にも盛り上がった。レースが始まった。始まるとすぐに、ブガッティがひっくり返り、そして墓場へと直行した。さらにレースは続いた。<br> 新型メルセデス・ベンツW25のマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが、チームメイトのルイジ・ファジオリを追い抜きトップに立った。その後ろに、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックが続いた。トップグループの順位は、ピットの指示に怒り狂ったファジオリが最終直前にリタイアするまで、そのまま続いた。イタリア人のファジオリはドイツ人ドライバーを追い抜く事が許されなかった。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが新型メルセデス・ベンツＷ25でニューコースレコードを樹立し優勝した。続いて、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックが入った。ドイツ勢メルセデス・ベンツの「シルバー・アロー」とアウト・ウニオンの「シルバー・フィッシュ」による連戦連勝の時代が始まったのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13868,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/35（4）.jpg" alt="" class="wp-image-13868"/><figcaption class="wp-element-caption">W25のデビューレースとなった1934年6月3日のアイフェルレースを走るルイジ・ファジオリ。予選20番手からスタートしたが、リタイア。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>7月15日</strong>、ニュルブルクリンクのドイツGPは、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックとメルセデス・ベンツW25のルドルフ・カラッチオラとの激しい一騎打ちとなった。ルドルフ・カラッチオラは前年に、彼のプライベートなＣＣチーム（ＣＣ＝カラッチオラ/シロン）のアルファ・ロメオでかなりの重傷を負っていたが、再びメルセデス・ベンツでスタートした。20万人以上のスポーツファンは彼等の「カラッシュ」が帰って来た事を祝う為、リンクに続々と押し掛けていた。スタートからアルファ・ロメオのルイ・シロンがトップに立った。しかし、１周目にアウト・ウニオンのハンス・シュトゥックとメルセデス・ベンツのルドルフ・カラッチオラが彼を追い抜いた。シュトゥックとカラッチオラは息詰まった一騎打ちを展開し、観客は「抜きつ、抜かれつ」のこのトップ争いに大いに熱狂し、手を振ったり拍手を送ったりした。しばらくして、トップのカラッチオラは14周でリタイアし、今や邪魔者のいないアウト・ウニオンタイプAのシュトゥックがトップに立ったが、ゴール4週目に水温計が100度を示した。シュトゥックはピット前でラジエーターを指差し、アウト・ウニオンではシュトゥックをピットインさせようとしたが、ポルシェ博士は18周もしたのに突然冷却水が過熱する事は有り得ず、温度計の故障であろうと判断し、ゴールまで完走させた。これが国際レースにおけるアウト・ウニオンの初勝利となった。このレースでの平均速度は122.93km/hであった。次いでメルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリが2位となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13873,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/カラッツイオラとローゼンマイヤー.jpg" alt="" class="wp-image-13873"/><figcaption class="wp-element-caption"> <em>（左）</em>メルセデス・ベンツチームのエース；ルドルフ・カラッチオラと（<em>右）</em>アウト・ウニオンチームのエース；ベルント・ローゼマイヤー</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>8月25日</strong>、スイスGPではアウト・ウニオンタイプAを駆るハンス・シュトゥックが1位、同じくアウト・ウニオンタイプAを駆るアウグスト・モンベルガーが2位とワンツーフニィシュを占めた。メルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリは6位に終わった。<br><br> <strong>9月9日</strong>、イタリアGPではメルセデス・ベンツW25に乗ったルドルフ・カラッチオラ/ルイジ・ファジオリ組が1位で優勝。ハンス・シュトゥック/ライニンゲン候組が2位となった。<br><br> <strong>9月23日</strong>、スペインGPでもメルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリ優勝し、ルドルフ・カラッチオラが2位となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1935年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>この年から、ヨーロッパ・チャピオンの懸かったレースは全5レースとなった。</strong><br>つまり、ベルギーGP、ドイツGP、スイスGP、イタリアGP、スペインGPの全5レースだ。<br> アウト・ウニオンが排気量を拡大したタイプBとなったこの1935年シーズンは、ヨーロッパ・チャピオンの懸かった5つのレースの内、9月8日イタリアGPでハンス・シュトゥックが優勝したが、メルセデス・ベンツW25のルドルフ・カラッチオラが3勝して初のヨーロッパ・チャピオンになった。ルドルフ・カラッチオラは7月14日のベルギーGP、8月25日のスイスGP、9月22日のスペインGPで優勝。7月28日のドイツGPはアルファ・ロメオタイプB/P3のタツィオ・ヌボラーリが優勝。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13874,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/38_1.jpg" alt="" class="wp-image-13874"/><figcaption class="wp-element-caption">1935年6月16日、ニュルブルクリンクで行われた国際アイフェルレースのスタート；メルセデス・ベンツ（No.7）を駆るフォン・ブラウヒチュがポールポジションにいる。続いてアウト・ウニオンを駆るシュトゥック（左）、ルドルフ・カラッチオラはNo.5のハンドルを握る。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>6月16日</strong>、再び10万人がニュルブルクリンクを取り囲んだ。この年のアイフェルレースは盛大に行われた。わずか数周の間に、アウト・ウニオンタイプBを駆る若くして無名のドライバーであるベルント・ローゼマイヤーがトップに立った。この新人はメルセデス・ベンツW25に乗るルドルフ・カラッチオラをものの見事に、自信たっぷりと追い抜き、「オールド・マイスター」のカラッチオラは彼を追いかけるはめになった。すぐに、カラッチオラはこの新人のドライビングスタイルに何か特有な天性のものがあると感じた。ベルント・ローゼマイヤーはカーブをなんと大胆に攻め込み、重いエンジンを搭載したアウト・ウニオンタイプBのリアを殆ど直角にグイッと回し、コースの境界をスライドさせながら、コーナリングするという見事なお手本を示した！しかも全く転倒しなかった。カラッチオラはこの新人から目を離すことなくじっと注視し、メルセデス・ベンツの監督アルフレッド・ノイバウアーの指示が書かれた黒板や小旗、「もっと速く、もっと速く」を全く気に留めなかった。カラッチオラは、遂にこの新人がコースマネジメントの弱点に気づいていたのだ。サーキットの最後の部分にあるツバメの尾の様な形のコーナーを抜ける時、ローゼマイヤーはいつも早めに5速に入れるのだった。最終ラップ、カラッチオラは4速をほんの僅か長く維持したまま、アクセルを踏んだ。コーナーを出たところで、ローゼマイヤーがカラッチオラをブロックしょうとした。が、無駄だった。拳を突き上げ、カラッチオラがトップでフィニッシュした。ちょうどその後に、目に涙を浮かべた新人ベルント・ローゼマイヤーが走り込んだ。つまり、ローゼマイヤ－は最終ラップでカラッチオラに逆転され、初優勝を逃した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1936年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1935年は「メルセデス・ベンツの年」と言われたが、1936年は「アウト・ウニオン」の年となった。特に、アウト・ウニオンタイプCを駆ってベルント・ローゼマイヤーは7月26日のドイツGP、8月25日のスイスGP、9月13日のイタリアGPに連勝し、6月16日のアイフェルレース、8月15日のコッパ・アチェルボでも優勝した。また、アウト・ウニオンタイプCで5月10日のトリポリGPではアッキレ・ヴァルツィとハンス・シュトゥックが1、2位を独占した。一方、メルセデス・ベンツは新しいシーズンに向けて、W25の車輛の改良に取り掛かった。メルセデス・ベンツの新しいスタイルW25で参戦したルドルフ・カラッチオラは4月13日のモナコGP、5月17日のチェニスGP（カルタゴサーキット）の優勝に止まった。ベルント・ローゼマイヤーは1936年のヨーロッパ・チャピオンとなり、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権でもタイトルを獲得した。ローゼマイヤーのタイトル獲得はアウト・ウニオンにとって最初で最後のヨーロッパ選手権タイトルとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13875,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/39_1.jpg" alt="" class="wp-image-13875"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオンタイプCを駆ってベルント・ローゼマイヤーは7月26日のドイツGP、8月25日のスイスGP、9月13日のイタリアGPに連勝し、6月16日のアイフェルレース、8月15日のコッパ・アチェルボでも優勝。ベルント・ローゼマイヤーは1936年のヨーロッパ・チャピオンとなり、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権でもタイトルを獲得。ローゼマイヤーのタイトル獲得はアウト・ウニオンにとって最初で最後のヨーロッパ選手権タイトルとなった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>特筆は6月16日のアイフェルレースだ。その天候は全く悪かった。雲は深く、更に深く垂れ下がり、美しい風景が台無しであった。ニュルブルクリンクを見渡す事が出来なかった。メルセデス・ベンツは新スタイルのW25で参戦、アルファ・ロメオでさえ全く新しい車輛で参戦した。ダイムラー・ベンツでは、自社の新しいドライバー、工場のメカニックであるヘルマン・ランクを見出した。そして彼とその他に、カラッチオラの有名な友人、ルイ・シロンをチームに採用した。アウト・ウニオンでは、カール・フォイエルアイゼン博士がヴィリー・ヴァルプに代わって、レース監督になった。スタート直後、まずローゼマイヤーのアウト・ウニオンタイプCのエンジンが掛からなかった。<br><br>新しいアルファ・ロメオ12C-36に乗ったヌボラーリはローゼマイヤーの横をすり抜け、前列へと出た。そして、その第3列にいたカラッチオラのメルセデス・ベンツを追い抜くと同時にトップに躍り出た。しかも第3周目に入って、スピーカーはすでにヌボラーリがかなり引き離しリードをしていると伝えた。次いで、カラッチオラ、ローゼマイヤー、フォン・ブラウヒッチュ、シュトゥックと続いた。ローゼマイヤーとカラッチオラの戦いが始まっていた。その後、このメリーゴーランドの結末は、ローゼマイヤーがメルセデス・ベンツを追い抜いた。彼はアクセルを力強く踏み込み、フル加速し、ヌボラーリに追い迫って行った。ヌボラーリとローゼマイヤーの差は、ホイールとホイールの間隔にまでなっていた。そして、それからがローゼマイヤーの芸術作品だ！直線コースで、ベルント・ローゼマイヤーはフル加速し、アルファ・ロメオを追い抜き、観客の大歓声を伴奏の供とした。深く垂れ下がった雲は、さらに強くニュルブルクリンクを包み込み始めた。100ｍ先をも見る事が出来なく、スピードは落ちた。トップのアウト・ウニオンのリードはさらに大きくなっていった。アルファ・ロメオはさらに後退した。その後ろにはメルセデス・ベンツ、そして他の残りのアウト・ウニオンと続く・・・。<br><br>テール・エンドは１台のマセラティであった。レントゲンの目の様に、ベルント・ローゼマイヤーはよく熟知したこのリンクを走った。彼は全くミスを犯すことなく、加えてコースアウトもなく優勝した。レースジャーナリスト達は10年前にカラッチオラが雨のアフスで勝利した時の付けられた「雨のマイスター」にちなんで、ローゼマイヤーの事を「霧のマイスター」と呼んだ。この年のプライベートなビッグニュース。ドイツＧＰの2週間前に、レーシングドライバーのベルント・ローゼマイヤーは、有名な女性飛行士のエリー・バインホルンと結婚。まだベルントは、最適な結婚祝いを渡していなかった。彼の頭の中には、すでに真の選択肢がはっきりと描かれていた。「優勝トロフィー」だ。ただ、彼はそれをまず手に入れなければならなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13876,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/39-2.jpg" alt="" class="wp-image-13876"/><figcaption class="wp-element-caption">ドイツＧＰの2週間前に、レーシングドライバーのベルント・ローゼマイヤーは、有名な女性飛行士のエリー・バインホルンと結婚。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1936年のシーズンは、アウト・ウニオンがベルント・ローゼマイヤーと共に独占した。軽量化され、しかもオーバーステアのリアエンジンを搭載しているので、絶えずドライバーの問題を抱えていたが、クールで若いブロンドのローゼマイヤーは見事にコントロールし、一生涯この車輛と共に走った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13877,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/39-3_1.jpg" alt="" class="wp-image-13877"/><figcaption class="wp-element-caption">カメラマン達は1936年のアフス・サーキットのローゼマイヤーのアウト・ウニオンの完璧なショットを求める。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツオリンピックのこの年、ニュルブルクリンクは観客新記録となった。35万人以上のスポーツファンが世界各国から集まり、ヨーロッパのビッグスポーツ・イベントの1つとして欠かせなくなった。このドイツGPはアイフェル高原で７月26日に開催された。今回、天気は良かった。グレーの雲の玉は風によって追い払われ、レースの始まる頃には空は青くなった。スタート直後は、安心のおける光景であった。1台のメルセデス・ベンツが飛び出し、続いて2番目のメルセデス・ベンツ、その後ろに2台のアウト・ウニオン、そしてさらにメルセデス・ベンツ。それからアルファ・ロメオ、マセラティ、ブガッティと続いた。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュがリードした。<br><br>しかし長くは続かなかった。2周目の終わり頃には、すでにアウト・ウニオンタイプCのベルント・ローゼマイヤーが激しく攻め立てトップを奪った。続いて、メルセデス・ベンツが新たに発掘したヘルマン・ランクが肉薄していた。周を重ねる毎、この両者はトップを維持した。その後、ローゼマイヤーが定期的なピットインすると、ヘルマン・ランクは生まれて初めてトップになった。しばらくして、すぐランクもピットインした。事実、彼は8周以上も骨折した指で走っていたのだ。彼が手当をしている間、ちょうどスタート＆ゴール地点まで歩いて来て不意に現れたカラッチオラがランクの車輛を引き継ぎ、そしてそのポジションを維持した。その後、手に包帯を巻いたこの患者はノイバウアーの指示で、フォン・ブラウヒッチュの車輛に乗った。しかし、この2台のメルセデス・ベンツのチャンスは遠ざかっていった。<br><br>アウト・ウニオンのローゼマイヤーとアルファ・ロメオのヌボラーリが、レースの先頭に立った。そして、このイタリア人がその後、リタイアし、ベルント・ローゼマイヤーは優勝し計画通り、結婚祝いを家でゆっくりと味わう事が出来たのだった。この年の終わり頃には、メルセデス・ベンツのトップ・ドライバーであるルドルフ・カラッチオラと、ほぼ10歳若いアウト・ウニオンのローゼマイヤーとのライバル意識が絶えず顕著に現れ、新しい次元のレースシーズンへと発展させたのであった。それは緊迫のあまり、バチバチと火花が散っていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"backgroundColor":"very-light-gray"} -->
<p class="has-very-light-gray-background-color has-background">両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>  TEXT：妻谷裕二 <br>PHOTO：メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ＆アウディ＆ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。<br> 参考文献＝EDITION AUTOMOBILE；Renn-Impressionen （ニュルブルクリンク)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>【筆者の紹介】<br>妻谷裕二（Hiroji Tsumatani）<br>1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。</strong> </p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong><a href="http://autobild.jp/14643/">シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル３　メルセデス・ベンツの猛威に続く</a></strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

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										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="872" height="336" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg 872w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-300x116.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-768x296.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-696x268.jpg 696w" sizes="auto, (max-width: 872px) 100vw, 872px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した！そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年～1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">ドイツの両雄並び立たず</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1934年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。</strong><br>イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトだった。しかし、1932年10月にフランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が、1934年～1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入した。そして1934年のニュルブルクリンクのアイフェルレースでメルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生した。この新型メルセデス・ベンツＷ25は4バルブDOHC直列8気筒、当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮し、車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場した。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13860,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/19_シルバーアローの誕生.jpg" alt="" class="wp-image-13860"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13862,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/35（3）_1.jpg" alt="" class="wp-image-13862"/><figcaption class="wp-element-caption">1934年のGPマシンW25；4バルブDOHC直列8気筒、当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮し、車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバーしドイツ・ナショナルカラーの白い塗装をはがしアルミ地肌でレース車検をパスし初出場。そのアルミ地肌の銀色に輝くボディは「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンだった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13867,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/35_1_1.jpg" alt="" class="wp-image-13867"/><figcaption class="wp-element-caption">1934年に新しいGPフォーミュラが発表され、重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入すると、ドイツ勢のメルセデス・ベンツのシルバー・アローとアウト・ウニオンのシルバー・フィッシュの死闘が開始；（左）メルセデス・ベンツはW25、（右）アウト・ウニオンはタイプA。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>6月3日</strong>、ニュルブルクリンクのアイフェルレースが遂にやってきた。両ドイツの軽合金・コンストラクションカーが、去年ヨーロッパのレースを圧巻したアルファ・ロメオ（スクデリア・フェラーリが引き継ぐ）、マセラティ、そしてブガッティに対抗してお互い初めて参戦した。<br> 雷雨のため、スタートが延期された。かなり遅れた為、コンプレッサーの断続的に吠える音がドキドキするテンポでフィールドに響きわたり、観客の好奇心は嫌が上にも盛り上がった。レースが始まった。始まるとすぐに、ブガッティがひっくり返り、そして墓場へと直行した。さらにレースは続いた。<br> 新型メルセデス・ベンツW25のマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが、チームメイトのルイジ・ファジオリを追い抜きトップに立った。その後ろに、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックが続いた。トップグループの順位は、ピットの指示に怒り狂ったファジオリが最終直前にリタイアするまで、そのまま続いた。イタリア人のファジオリはドイツ人ドライバーを追い抜く事が許されなかった。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが新型メルセデス・ベンツＷ25でニューコースレコードを樹立し優勝した。続いて、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックが入った。ドイツ勢メルセデス・ベンツの「シルバー・アロー」とアウト・ウニオンの「シルバー・フィッシュ」による連戦連勝の時代が始まったのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13868,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/35（4）.jpg" alt="" class="wp-image-13868"/><figcaption class="wp-element-caption">W25のデビューレースとなった1934年6月3日のアイフェルレースを走るルイジ・ファジオリ。予選20番手からスタートしたが、リタイア。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>7月15日</strong>、ニュルブルクリンクのドイツGPは、アウト・ウニオンタイプAのハンス・シュトゥックとメルセデス・ベンツW25のルドルフ・カラッチオラとの激しい一騎打ちとなった。ルドルフ・カラッチオラは前年に、彼のプライベートなＣＣチーム（ＣＣ＝カラッチオラ/シロン）のアルファ・ロメオでかなりの重傷を負っていたが、再びメルセデス・ベンツでスタートした。20万人以上のスポーツファンは彼等の「カラッシュ」が帰って来た事を祝う為、リンクに続々と押し掛けていた。スタートからアルファ・ロメオのルイ・シロンがトップに立った。しかし、１周目にアウト・ウニオンのハンス・シュトゥックとメルセデス・ベンツのルドルフ・カラッチオラが彼を追い抜いた。シュトゥックとカラッチオラは息詰まった一騎打ちを展開し、観客は「抜きつ、抜かれつ」のこのトップ争いに大いに熱狂し、手を振ったり拍手を送ったりした。しばらくして、トップのカラッチオラは14周でリタイアし、今や邪魔者のいないアウト・ウニオンタイプAのシュトゥックがトップに立ったが、ゴール4週目に水温計が100度を示した。シュトゥックはピット前でラジエーターを指差し、アウト・ウニオンではシュトゥックをピットインさせようとしたが、ポルシェ博士は18周もしたのに突然冷却水が過熱する事は有り得ず、温度計の故障であろうと判断し、ゴールまで完走させた。これが国際レースにおけるアウト・ウニオンの初勝利となった。このレースでの平均速度は122.93km/hであった。次いでメルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリが2位となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13873,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/カラッツイオラとローゼンマイヤー.jpg" alt="" class="wp-image-13873"/><figcaption class="wp-element-caption"> <em>（左）</em>メルセデス・ベンツチームのエース；ルドルフ・カラッチオラと（<em>右）</em>アウト・ウニオンチームのエース；ベルント・ローゼマイヤー</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>8月25日</strong>、スイスGPではアウト・ウニオンタイプAを駆るハンス・シュトゥックが1位、同じくアウト・ウニオンタイプAを駆るアウグスト・モンベルガーが2位とワンツーフニィシュを占めた。メルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリは6位に終わった。<br><br> <strong>9月9日</strong>、イタリアGPではメルセデス・ベンツW25に乗ったルドルフ・カラッチオラ/ルイジ・ファジオリ組が1位で優勝。ハンス・シュトゥック/ライニンゲン候組が2位となった。<br><br> <strong>9月23日</strong>、スペインGPでもメルセデス・ベンツW25のルイジ・ファジオリ優勝し、ルドルフ・カラッチオラが2位となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1935年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>この年から、ヨーロッパ・チャピオンの懸かったレースは全5レースとなった。</strong><br>つまり、ベルギーGP、ドイツGP、スイスGP、イタリアGP、スペインGPの全5レースだ。<br> アウト・ウニオンが排気量を拡大したタイプBとなったこの1935年シーズンは、ヨーロッパ・チャピオンの懸かった5つのレースの内、9月8日イタリアGPでハンス・シュトゥックが優勝したが、メルセデス・ベンツW25のルドルフ・カラッチオラが3勝して初のヨーロッパ・チャピオンになった。ルドルフ・カラッチオラは7月14日のベルギーGP、8月25日のスイスGP、9月22日のスペインGPで優勝。7月28日のドイツGPはアルファ・ロメオタイプB/P3のタツィオ・ヌボラーリが優勝。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13874,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/38_1.jpg" alt="" class="wp-image-13874"/><figcaption class="wp-element-caption">1935年6月16日、ニュルブルクリンクで行われた国際アイフェルレースのスタート；メルセデス・ベンツ（No.7）を駆るフォン・ブラウヒチュがポールポジションにいる。続いてアウト・ウニオンを駆るシュトゥック（左）、ルドルフ・カラッチオラはNo.5のハンドルを握る。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>6月16日</strong>、再び10万人がニュルブルクリンクを取り囲んだ。この年のアイフェルレースは盛大に行われた。わずか数周の間に、アウト・ウニオンタイプBを駆る若くして無名のドライバーであるベルント・ローゼマイヤーがトップに立った。この新人はメルセデス・ベンツW25に乗るルドルフ・カラッチオラをものの見事に、自信たっぷりと追い抜き、「オールド・マイスター」のカラッチオラは彼を追いかけるはめになった。すぐに、カラッチオラはこの新人のドライビングスタイルに何か特有な天性のものがあると感じた。ベルント・ローゼマイヤーはカーブをなんと大胆に攻め込み、重いエンジンを搭載したアウト・ウニオンタイプBのリアを殆ど直角にグイッと回し、コースの境界をスライドさせながら、コーナリングするという見事なお手本を示した！しかも全く転倒しなかった。カラッチオラはこの新人から目を離すことなくじっと注視し、メルセデス・ベンツの監督アルフレッド・ノイバウアーの指示が書かれた黒板や小旗、「もっと速く、もっと速く」を全く気に留めなかった。カラッチオラは、遂にこの新人がコースマネジメントの弱点に気づいていたのだ。サーキットの最後の部分にあるツバメの尾の様な形のコーナーを抜ける時、ローゼマイヤーはいつも早めに5速に入れるのだった。最終ラップ、カラッチオラは4速をほんの僅か長く維持したまま、アクセルを踏んだ。コーナーを出たところで、ローゼマイヤーがカラッチオラをブロックしょうとした。が、無駄だった。拳を突き上げ、カラッチオラがトップでフィニッシュした。ちょうどその後に、目に涙を浮かべた新人ベルント・ローゼマイヤーが走り込んだ。つまり、ローゼマイヤ－は最終ラップでカラッチオラに逆転され、初優勝を逃した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":4} -->
<h4 class="wp-block-heading"><strong>1936年</strong></h4>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1935年は「メルセデス・ベンツの年」と言われたが、1936年は「アウト・ウニオン」の年となった。特に、アウト・ウニオンタイプCを駆ってベルント・ローゼマイヤーは7月26日のドイツGP、8月25日のスイスGP、9月13日のイタリアGPに連勝し、6月16日のアイフェルレース、8月15日のコッパ・アチェルボでも優勝した。また、アウト・ウニオンタイプCで5月10日のトリポリGPではアッキレ・ヴァルツィとハンス・シュトゥックが1、2位を独占した。一方、メルセデス・ベンツは新しいシーズンに向けて、W25の車輛の改良に取り掛かった。メルセデス・ベンツの新しいスタイルW25で参戦したルドルフ・カラッチオラは4月13日のモナコGP、5月17日のチェニスGP（カルタゴサーキット）の優勝に止まった。ベルント・ローゼマイヤーは1936年のヨーロッパ・チャピオンとなり、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権でもタイトルを獲得した。ローゼマイヤーのタイトル獲得はアウト・ウニオンにとって最初で最後のヨーロッパ選手権タイトルとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13875,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/39_1.jpg" alt="" class="wp-image-13875"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオンタイプCを駆ってベルント・ローゼマイヤーは7月26日のドイツGP、8月25日のスイスGP、9月13日のイタリアGPに連勝し、6月16日のアイフェルレース、8月15日のコッパ・アチェルボでも優勝。ベルント・ローゼマイヤーは1936年のヨーロッパ・チャピオンとなり、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権でもタイトルを獲得。ローゼマイヤーのタイトル獲得はアウト・ウニオンにとって最初で最後のヨーロッパ選手権タイトルとなった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>特筆は6月16日のアイフェルレースだ。その天候は全く悪かった。雲は深く、更に深く垂れ下がり、美しい風景が台無しであった。ニュルブルクリンクを見渡す事が出来なかった。メルセデス・ベンツは新スタイルのW25で参戦、アルファ・ロメオでさえ全く新しい車輛で参戦した。ダイムラー・ベンツでは、自社の新しいドライバー、工場のメカニックであるヘルマン・ランクを見出した。そして彼とその他に、カラッチオラの有名な友人、ルイ・シロンをチームに採用した。アウト・ウニオンでは、カール・フォイエルアイゼン博士がヴィリー・ヴァルプに代わって、レース監督になった。スタート直後、まずローゼマイヤーのアウト・ウニオンタイプCのエンジンが掛からなかった。<br><br>新しいアルファ・ロメオ12C-36に乗ったヌボラーリはローゼマイヤーの横をすり抜け、前列へと出た。そして、その第3列にいたカラッチオラのメルセデス・ベンツを追い抜くと同時にトップに躍り出た。しかも第3周目に入って、スピーカーはすでにヌボラーリがかなり引き離しリードをしていると伝えた。次いで、カラッチオラ、ローゼマイヤー、フォン・ブラウヒッチュ、シュトゥックと続いた。ローゼマイヤーとカラッチオラの戦いが始まっていた。その後、このメリーゴーランドの結末は、ローゼマイヤーがメルセデス・ベンツを追い抜いた。彼はアクセルを力強く踏み込み、フル加速し、ヌボラーリに追い迫って行った。ヌボラーリとローゼマイヤーの差は、ホイールとホイールの間隔にまでなっていた。そして、それからがローゼマイヤーの芸術作品だ！直線コースで、ベルント・ローゼマイヤーはフル加速し、アルファ・ロメオを追い抜き、観客の大歓声を伴奏の供とした。深く垂れ下がった雲は、さらに強くニュルブルクリンクを包み込み始めた。100ｍ先をも見る事が出来なく、スピードは落ちた。トップのアウト・ウニオンのリードはさらに大きくなっていった。アルファ・ロメオはさらに後退した。その後ろにはメルセデス・ベンツ、そして他の残りのアウト・ウニオンと続く・・・。<br><br>テール・エンドは１台のマセラティであった。レントゲンの目の様に、ベルント・ローゼマイヤーはよく熟知したこのリンクを走った。彼は全くミスを犯すことなく、加えてコースアウトもなく優勝した。レースジャーナリスト達は10年前にカラッチオラが雨のアフスで勝利した時の付けられた「雨のマイスター」にちなんで、ローゼマイヤーの事を「霧のマイスター」と呼んだ。この年のプライベートなビッグニュース。ドイツＧＰの2週間前に、レーシングドライバーのベルント・ローゼマイヤーは、有名な女性飛行士のエリー・バインホルンと結婚。まだベルントは、最適な結婚祝いを渡していなかった。彼の頭の中には、すでに真の選択肢がはっきりと描かれていた。「優勝トロフィー」だ。ただ、彼はそれをまず手に入れなければならなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13876,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/39-2.jpg" alt="" class="wp-image-13876"/><figcaption class="wp-element-caption">ドイツＧＰの2週間前に、レーシングドライバーのベルント・ローゼマイヤーは、有名な女性飛行士のエリー・バインホルンと結婚。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1936年のシーズンは、アウト・ウニオンがベルント・ローゼマイヤーと共に独占した。軽量化され、しかもオーバーステアのリアエンジンを搭載しているので、絶えずドライバーの問題を抱えていたが、クールで若いブロンドのローゼマイヤーは見事にコントロールし、一生涯この車輛と共に走った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13877,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/39-3_1.jpg" alt="" class="wp-image-13877"/><figcaption class="wp-element-caption">カメラマン達は1936年のアフス・サーキットのローゼマイヤーのアウト・ウニオンの完璧なショットを求める。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツオリンピックのこの年、ニュルブルクリンクは観客新記録となった。35万人以上のスポーツファンが世界各国から集まり、ヨーロッパのビッグスポーツ・イベントの1つとして欠かせなくなった。このドイツGPはアイフェル高原で７月26日に開催された。今回、天気は良かった。グレーの雲の玉は風によって追い払われ、レースの始まる頃には空は青くなった。スタート直後は、安心のおける光景であった。1台のメルセデス・ベンツが飛び出し、続いて2番目のメルセデス・ベンツ、その後ろに2台のアウト・ウニオン、そしてさらにメルセデス・ベンツ。それからアルファ・ロメオ、マセラティ、ブガッティと続いた。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュがリードした。<br><br>しかし長くは続かなかった。2周目の終わり頃には、すでにアウト・ウニオンタイプCのベルント・ローゼマイヤーが激しく攻め立てトップを奪った。続いて、メルセデス・ベンツが新たに発掘したヘルマン・ランクが肉薄していた。周を重ねる毎、この両者はトップを維持した。その後、ローゼマイヤーが定期的なピットインすると、ヘルマン・ランクは生まれて初めてトップになった。しばらくして、すぐランクもピットインした。事実、彼は8周以上も骨折した指で走っていたのだ。彼が手当をしている間、ちょうどスタート＆ゴール地点まで歩いて来て不意に現れたカラッチオラがランクの車輛を引き継ぎ、そしてそのポジションを維持した。その後、手に包帯を巻いたこの患者はノイバウアーの指示で、フォン・ブラウヒッチュの車輛に乗った。しかし、この2台のメルセデス・ベンツのチャンスは遠ざかっていった。<br><br>アウト・ウニオンのローゼマイヤーとアルファ・ロメオのヌボラーリが、レースの先頭に立った。そして、このイタリア人がその後、リタイアし、ベルント・ローゼマイヤーは優勝し計画通り、結婚祝いを家でゆっくりと味わう事が出来たのだった。この年の終わり頃には、メルセデス・ベンツのトップ・ドライバーであるルドルフ・カラッチオラと、ほぼ10歳若いアウト・ウニオンのローゼマイヤーとのライバル意識が絶えず顕著に現れ、新しい次元のレースシーズンへと発展させたのであった。それは緊迫のあまり、バチバチと火花が散っていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"backgroundColor":"very-light-gray"} -->
<p class="has-very-light-gray-background-color has-background">両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>  TEXT：妻谷裕二 <br>PHOTO：メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ＆アウディ＆ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。<br> 参考文献＝EDITION AUTOMOBILE；Renn-Impressionen （ニュルブルクリンク)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>【筆者の紹介】<br>妻谷裕二（Hiroji Tsumatani）<br>1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。</strong> </p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong><a href="http://autobild.jp/14643/">シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル３　メルセデス・ベンツの猛威に続く</a></strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

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			</item>
		<item>
		<title>シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル１　アウトウニオンの誕生</title>
		<link>https://autobild.jp/14645/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 14 Apr 2022 06:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[フォトギャラリー]]></category>
		<category><![CDATA[旧車＆ネオクラシック]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="872" height="336" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg 872w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-300x116.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-768x296.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-696x268.jpg 696w" sizes="auto, (max-width: 872px) 100vw, 872px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した！そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年～1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">1930年代初頭の時代背景</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1929年10月29日、ニューヨークのウォール街で起こった株の大暴落を引き金とした世界大恐慌は大企業や銀行までも倒産に陥った。1926年にダイムラー社とベンツ社が合併しドイツ有数の企業となったダイムラー・ベンツ社にも影響し売り上げも激変し、レースを行う経済的余裕すら無くなった。1930年のレース予算は縮小され、GPレースの回数も減った。1926年にアルフレッド・ノイバウアーがレース監督に就任し規律正しく統率されたワークスチームは総勢300名でサーキットに乗り込み、最高のマシンとドライバー達を揃えてGPレースの常勝であったメルセデス・ベンツチームには大打撃となった。1931年のメルセデス・ベンツチームはプライベートチームの様な小人数で構成された。1931年４月11日、イタリアのミレ・ミリアに参戦したメルセデス・ベンツチームはルドルフ・カッチオラとコ・ドライバーのセバスチャン、それに3人のメカニックとレース監督のアルフレッド・ノイバウアーの計6名だった。ライバルのアルファ・ロメオはイタリア人の有名なドライバーを揃え90人のメカニックと17台のサポート・カーを各コースに配置し、万全のバックアップ体制を整えていた。ノイバウアー監督率いるメルセデス・ベンツチームは少数精鋭のチームワークを大いに発揮し、SSKL（7L 6気筒 27/170/300PS）を駆って超人的なドライブをしたルドルフ・カッチオラが優勝した。また、アイフェルレース、アフスレース、ニュルブルクリンクのドイツGPにも優勝した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/03.jpg" alt="" class="wp-image-13581"/><figcaption class="wp-element-caption">1931年のミレ・ミリア。ノイバウアー監督率いるメルセデス・ベンツチームは少人数での参加を余儀なくされたが、見事優勝を飾った。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、1932年シーズン中、ダイムラー・ベンツ社は全てのレース活動を休止する事に決めていた。期しくも1932年10月12日、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が、1934年～1936年まで新しいGPフォーミュラを発表した。ボディの幅を85cm以内、燃料、オイル、冷却水、タイヤを含まない重量を750kg以下に制限するが、排気量は無制限とした。この新フォーミュラの狙いは、従来のフォーミュラリブレ（車両規定のないマシンでのレース）の時代に終止符を打ち、地元フランスのメーカーの利益を優先的にして、750kgの軽量なマシンなら限界は250PSで最高速度も250km/h程度に抑えられると考えていた。<br><br>ところが、経済恐慌も何とか収まり、ドイツのナチス第三帝国は助成金を交付する事になった。そこで、ダイムラー・ベンツ社は全く新しいマシンW25でこの1934年から新GPフォーミュラに復帰する事を取締役会で決定した。W25に搭載された4バルブDOHC直列8気筒エンジンは当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/05.jpg" alt="" class="wp-image-13584"/><figcaption class="wp-element-caption">A.I.A.C.R.（現在のFIA）の想像をはるかに超えるスペックで復帰したメルセデス・ベンツW25。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 一方、1932年ドイツ東部のザクセン州に在ったホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併してアウト・ウニオン社を発足させた。新生アウト・ウニオンをアピールするにはGPレースの参入を考えていた彼等は、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士が1934年からの750kg GPフォーミュラの為に描き上げた設計図に注目し、これを買い取ってレースに参戦する事に決定した。ここに、ドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した「メルセデス・ベンツ対アウト・ウニオン」の戦いが始まった！<br> 尚、メルセデス・ベンツは周知の通りで多くを要さないが、<a href="http://autobild.jp/10646/">「モーターレースを語らずにメルセデス・ベンツの歴史を語ることは不可能！（前後編）」</a>を合わせてご覧頂きたい。筆者はまずこの新生アウト・ウニオン社の概要について記したいと思う。次いで、本題であるメルセデス・ベンツのシルバー・アローVSアウト・ウニオンのシルバー・フィッシュのデッドヒートを紹介する（1934年～1939年）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/06.jpg" alt="" class="wp-image-13585"/><figcaption class="wp-element-caption">1932年ドイツ東部のザクセン州に在ったホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併してアウト・ウニオン社を発足させた。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">アウト・ウニオン社の概要；ホルヒ社からアウト・ウニオン社誕生まで</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウディの系譜を辿ることは本当に難しい。むしろ、難しいのではなく筆者としては、複雑に絡みあった系譜の糸口を辿ることが面倒であると正直に言った方が良いと言える。しかし、可能な限り解り易くしたつもりである。そうでないとアウト・ウニオンのレース活動が理解して頂けないからだと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"backgroundColor":"very-light-gray"} -->
<p class="has-very-light-gray-background-color has-background"><strong>Horch社とAudi社（ホルヒとアウディ）</strong><br> アウディ社の創設者であるアウグスト・ホルヒ博士。当時のベンツ社の工場長を務めるエンジニアであったが、1899年に独立し自らの名を冠したHorch社（ホルヒ）を創設した。ホルヒ博士は、当時は新素材であったアルミ合金製エンジンブロックの開発やエアロダイナミクスを重視したボディを設計する等、今日でも通用する自動車エンジニアリングの第一人者であった。特に、ホルヒ博士は自ら開発した先進技術の優秀性を証明する場としてモータースポーツの重要性に着目。1905年に当時全盛であった耐久レースに参戦し、翌1906年には優勝を成し遂げていた。ホルヒ博士は、技術と品質に対して全く妥協はしないというポリシーで、自動車の開発を続けた。その技術力や開発力はハイレベルであったが、コストを度外視してまで高性能と品質を追求する姿勢に、出資者である経営陣と対立が生じた。そして1909年、遂に自ら興したホルヒ社を追われる事になった。しかし、高い評価を集めていたホルヒ博士には、退社の3日後には出資者が集まったと言われている。同年、新しい会社を設立することになるが、同じ地域で同じ業種、そこにホルヒという名前を社名にするわけには行かなかった。そこで、ドイツ語で「聴く」という意味のHorchen(ホルヒェン)と同じ意味を持つラテン語のAudiを新会社の名前とした。こうしてアウディ社が誕生した。ホルヒ博士の言葉に「レースは走る実験室」とう思想は現在のアウディ社にもDNAとして強く残っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/08-1024x501.jpg" alt="" class="wp-image-13586"/><figcaption class="wp-element-caption">アウグスト・ホルヒ博士</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"color":{"background":"#dbddde"}}} -->
<p class="has-background" style="background-color:#dbddde"><strong>Auto Union社へと発展（アウト・ウニオン）</strong><br> 1932年、現在のAudi社の前身であるAuto Union社が設立された。これは前述の通り、1929年10月29日に発生した世界大恐慌が発端だった。ニューヨークにあるウォール街の証券取引所で発生した株価の大暴落により、世界中の大都市は軒並み恐慌に陥った。ドイツも例外ではなく、大企業や銀行まで倒産の危機に瀕したが、ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKW（デーカーヴェー）の4社が互いに手を組むことで、この恐慌を乗り切ることにした。アウディ社は先述の通り、ホルヒ社を追われたアウグスト・ホルヒ博士が設立したミディアムサイズの高品質なスポーツモデルを得意とする自動車メーカーだった。ホルヒ社は最上級のプレステージカー、ヴァンダラー社は小型軽量の実用車を得意分野とし、アウディ社と合併後に世界初の量産FF車を市販化したDKW社は小型スポーツモデルをそれぞれ得意分野としていた。これら、小型乗用車から最上級プレステージカーまで、全く異なるキャラクターを持つ4ブランドがひとつになることで、アウト・ウニオンは時代の最先端を行く自動車メーカーに成長した。アウト・ウニオンの本社はケムニッツに置かれ、4つの輪がエンブレムと決められた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large is-resized"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/09_1-2.jpg" alt="" class="wp-image-13596" style="width:447px;height:587px"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"color":{"background":"#f3f5f5"}}} -->
<p class="has-background" style="background-color:#f3f5f5"><strong>次に、この合併前の4社と後の1969年にアウディ社と合併したNSUを簡単に整理してみよう。</strong><br><br> <strong>Horch社；ホルヒ社</strong><br> 1899年、ドイツ・ザクセン州に設立。創設者はアウグスト・ホルヒ博士、アウト・ウニオン結成後は最上級のプレステージカーを生産するブランドとして活躍。<br><br> <strong>Audi社；アウディ社</strong><br> 1909年にホルヒ社を退いたアウグスト・ホルヒ博士が設立。アウト・ウニオン結成後は最先端エンジニアリングの牽引役を果たし、高品質でスポーツ性の強いブランドとして認知。<br><br><strong> Wanderer社; ヴァンダラー社</strong><br> 1885年、リヒャルト・アドルフ・イエニケとヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファーの2人が旧東ドイツのケムニッツに自転車の販売・修理会社として設立。その後3輪車を経て小型車を中心とした4輪自動車分野に進出。アウト・ウニオン結成後も中型クラスの生産をする役割を担った。<br><br> <strong>DKW社；デーカーヴェー社（ドイツ語Dampf Kraft Wagenの略で蒸気自動車の意味）</strong><br> 1904年、デンマーク生まれの創始者イェルゲン・スカフテ・ラスムッセンは旧東ドイツのケムニッツにボイラー関連のラスムッセン＆エルンスト社を友人と共に設立。1907年、社名をDKWに改称。1928年に世界初のFF車「DKW Front」を発表。アウト・ウニオン結成後は、小型スポーツモデルにそのノウハウを生かす。<br><br> <strong>Auto Union社；アウト・ウニオン社（ドイツ語のAuto Unionは自動車連合の意味）</strong><br> 上記のホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が1932年に結成した自動車連合体。本社はケムニッツに置かれた。アウト・ウニオン社は、総合的なラインアップを揃える自動車メーカーへと成長し、1938年の時点ではドイツ国内でのシェアは23.4%を誇っていた。1945年、第2次世界大戦が終了し、本拠地のあるケムニッツが旧東ドイツに位置していたのでソビエト連邦（現ロシア）に統治された。1948年、占領ソビエト軍によりアウト・ウニオン社は解散を命じられるが、翌1949年に現アウディ社の本拠地であるインゴルシュタットに移り、新生アウト・ウニオンを再結成した。<br><br><strong> そして忘れてはならないのがNSU社；エヌエスウー社</strong><br> 1873年設立、社名は本拠地Neckarsulm(ネッカーズルム)の3文字を取って命名(ドイツ南西部のバーデン＝ヴュルテンベルク州北部)。1950年代には世界最大の2輪車メーカーに君臨、自動車生産は1905年から行っている。1964年に世界初のローターリーエンジンを発表。1969年にアウト・ウニオン社と合併し、Audi NSU Auto Union AG（AGはドイツ語のAktiengesellschaft略で株式会社の意味）が設立された。そして、1985年に社名をAudi AG(アウディ株式会社)へと改め、現在に至る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13589,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ホルヒ_アウディ_ポスター.jpg" alt="" class="wp-image-13589"/><figcaption class="wp-element-caption"><em>（左）</em>モーター誌の1918年4月号に掲載されたホルヒのカラー広告。<em>（右）</em>1911年のアウディの広告。聴く動作をしているドライバーを描いて、社名を「アウディ＝聴く」に注意を引こうとするデザインだ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13591,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ヴァンダラー_DKW.jpg" alt="" class="wp-image-13591"/><figcaption class="wp-element-caption">（左）ヴィァンダラーの創始者の2人；左がリヒャルト・アドルフ・イエニケ、右がヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファー。（右）1932年当時のDKWの広告。マイスタークラッセは2気筒エンジン、ゾンダァクラッセは4気筒エンジン。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13853,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/4社のクルマ.jpg" alt="" class="wp-image-13853"/><figcaption class="wp-element-caption">上段左から時計回りに、Horch 670 Sport-Cabriolet 1932年。Audi Front Typ uw Limousine 1934年。Wanderer W 40 Cabriolet 2 Fenster 1936年。DKW F 5 Front-Luxus-Cabriolet 2シーター 1937年。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">アウト・ウニオンのレース活動概要；ポルシェ博士の爪痕</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウト・ウニオンのGPカーは、その全てのモデルがツヴッカウにあるホルヒの製造工場に設置されたレース専用部署で開発・製造された。<br> こうして誕生したアウト・ウニオンであったが、当初その知名度はなかなか上がらなかった。そこで、以前からポルシェ博士と関係の深かった元ヴァンダラー社の重役であったクラウス・フォン・エルツェン男爵は1934年から開始される全く新しい規制のGPレース（現在のF1）に参加してアウト・ウニオンを大々的に知らしめるプランを重役会に持ち出した。アウト・ウニオンの重役会はこのプランに大いに乗り気でモータースポーツを通じて新技術を生み出し、それを熟成させて市販車に反映しようとするにはうってつけの内容だった。ここで、主任設計技師に起用されたのが当時、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士であった。しかし、アウト・ウニオンがGPレース参加に伴う莫大な資金が問題となり、政府に資金援助を求めた。1933年1月30日に政権を獲得したナチスのアドルフ・ヒットラーは国家の威信を内外に示す有効な手段としてGPレースの開催を考えていた。同年3月の初頭にはアウト・ウニオンの重役に伴われたポルシェ博士が、ヒットラーと会見を行っているが、この会見でヒットラーはアウト・ウニオンに資金援助を決定したのである。当時のGPレースはフランスやイタリア勢力にほぼ牛耳られており、そうした状況は国家の威信に賭けても取り戻さなければならないと、ヒットラーは考えアウト・ウニオンへの資金援助の申し出を受けた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13887,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ポルシェ博士ヒトラーと会見.jpg" alt="" class="wp-image-13887"/><figcaption class="wp-element-caption">上段左、左からポルシェ博士、ナチス高官、クラウス・フォン・エルツェン男爵、そしてアウグスト・ホルヒ博士。フォン・エルツェン男爵はポルシェとアウト・ウニオンを結び付けたキーマン。ホルヒ博士はアウト・ウニオンのレーシングカー造りを支援した。 <em>上段</em>右、新生アウト・ウニオンの経営陣はGPレースの効果についてヒットラーに説明。<br>下段2枚、ポルシェ博士がヒットラーと会見する様子。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウト・ウニオンのGPカー、Pヴァーゲン（Porscheの頭文字、ポルシェの設計番号ではタイプ22）は1933年半ばに3台のタイプAがホルヒ工場で製作開始となった。同年末にはテスト走行まで漕ぎ着け、翌1934年初頭にはモンツァのサーキットで試運転が行われた。シーズン直前の3月6日には、ベルリン郊外の2ヘアピンカーブを持つアフス・サーキットでアウト・ウニオンのエースドライバー、ハンス・シュトゥックはコーナーを97km/hで回り、ストレートでは266km/hを出し、平均217km/hで1時間連続走行を達成した。遂に、アウト・ウニオン初のGPレーシングカーが誕生した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウト・ウニオンのPヴァーゲンは軽い750kgの車体に各シリンダーにカムシャフトを1本ずつ持ったバンク角45度V型16気筒4.35Lエンジン（ポルシエ博士の設計）をミッドシップに置き、コンプレッサー付で295PSを発揮、チューブラー・フレーム、フリクション・ショックアブソーバー付きトーションバーサスペンション等、革新技術の固まりだった。特筆はエンジンをコックピット後方に置くミッドシップを採用したことにあり、当時のライバルがまだフロントエンジンだったことは当然だったとしても、その後のF1でミッドシップが主流になるまで30年近くを要した。<br><br> フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が1934年の新GPフオーミュラ（重量750kg以下）を発表から開始したレース活動は、アウト・ウニオンの重要な仕事であるとして引き続き行われた。アルミ地肌でテールが長く「シルバー・フィッシュ」の愛称で親しまれたタイプAは数多くの栄冠を勝ち取った。エースドライバーのハンス・シュトゥックがヨーロッパ・チャピオンに輝いたのに続き、その改良型であるタイプBを投入した1935年、タイプCで戦った1936～37年にもアウト・ウニオンは勝ち続けた。この間、車重は同じ750kgのままでエンジン4.3Lから6Lまで拡大、最高出力は520PSに達していた。最後のモデルとなったタイプDは1938年導入の新GPフォーミュラ（コンプレッサー無しで最大4.5L、コンプレッサー付きで3Lに制限され、最低重量は850kg）に適合する2.9L バンク角60度V型12気筒、コンプレッサー付きエンジンで485PSを発揮し、1938年から1939年にかけて使用された。特に、160km/hの速度域で発生するホイールスピンと、開発が進化しても解決されることが無かった著しいオーバーステアにより操縦が非常に困難なマシンであったにも拘わらず、アウト・ウニオンのドライバーは絶妙にコントロールした。戦前の国際的なレースには、アウト・ウニオンの他、常勝メルセデス・ベンツ、アルファ・ロメオ等が参戦していた。けれども、1936年と1937年のGPシーズンでアウト・ウニオンは大きな成功を収めた。一方、1936年～1938年の速度記録挑戦はアウト・ウニオンとメルセデス・ベンツによる一騎打ちの最高潮に達した。このアウト・ウニオンのレース活躍は次項目のVSメルセデス・ベンツのシルバー・アローと共に詳しく紹介する。<br> 順調に推移していたアウト・ウニオンではあったが、ドイツを取り巻く国際状況は第2次世界大戦へと底知れぬ泥沼へと転がり出していた。アウト・ウニオンの工場で造り出される製品は、次第に軍需的な色合いを濃くしていった。同様にメルセデス・ベンツにも言える事であった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ（1934～1939年）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> メルセデス・ベンツのGPカーはアルミ地肌で矢の如く速いので「シルバー・アロー」と呼ばれたのに対し、アウト・ウニオンのレーシングカーもアルミ地肌で速く、しかもテールが長く魚が尾を振ってスイスイと泳ぐ姿に似ており「シルバー・フィッシュ」と呼ばれた。この両車に共通する人物が2人いる。1人はフェルディナンド・ポルシェ博士で、メルセデス・ベンツに1923年～1928年まで在籍し有名なSシリーズを設計し輝かしいメルセデス・ベンツレーシングカーの優勝の礎を造った。1930年12月1日に独立したポルシェ博士は「名誉工学博士F・ポルシェ有限会社」を設立しアウト・ウニオンのレーシングカーを設計した。もう1人は1933年1月30日に政権を獲得したナチスのアドルフ・ヒットラーである。数日後の2月11日にベルリンで開幕した自動車ショーで開会宣言を行った。演説の主な内容はドイツのモータリーゼーションに関するものだった。国民車構想、アウトバーンの建設、モータースポーツの推奨を唱えた。特に、ヒットラーが自動車レースに熱を入れたのは、モーターレースこそドイツの工業力を世界に示し、併せて国家意識を高揚する最適の道具と考え、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとしたからだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13854,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ポルシェ博士_ヒトラー.jpg" alt="" class="wp-image-13854"/><figcaption class="wp-element-caption">（左）はフェルディナンド・ポルシェ博士。新生アウト・ウニオン社の重役会は同社をアピ－ルするにはGPレースの参入を考え、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士が1934年からの750kg GPフォーミュラの為に描き上げた設計図に注目し、これを買い取ってレースに参戦する事に決定。（右）自らメルセデス・ベンツの770Kに乗り国民にパレードするアドルフ・ヒットラー。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 前述の通り、1932年10月12日、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が、1934年～1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定した。そこで、1934年のこの新フォーミュラに向けた車両製造にナチスの第三帝国は助成金を供する事にした。ダイムラー・ベンツはGPレーシングに関わってきたドイツ自動車産業の唯一の代表会社として、これまでこの助成金を受け取ってきた。アウト・ウニオンではポルシェ博士と親交があり熱心なモータースポーツ愛好家のクラウス・フォン・エルツェン男爵が早速、助成金を申し出る準備を万全に整え、３月1日にヒットラーとの会合を取りつけた。フォン・エルツェン男爵はポルシェ博士とドライバーのハンス・シュトゥックを連れて3人で首相官邸に行った。ヒットラーはポルシェ博士から超先進的なレーシングカーの説明を熱心に聞いた（ミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションを備える）。それから3日後にヒットラーから支援を得る事が出来た。それまでヒットラーはこの助成金はただ1社、即ちダイムラー・ベンツに与えるつもりだった。つまり、国際的なモータースポーツで成功を収めており、すでに既成事実を作っていたからだ。だが、そうした意味では、ポルシェ博士はダイムラー・ベンツの取締役技術部長時代に、8気筒スーパーチャジャーエンジンを搭載の新型レーシングカー開発に携わっていた。この事実が1934年に大いに役立った。結果、ヒットラーはメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンの両社に資金援助をした。100万ライヒスマルクの資金を提供したが、その資金は2社間で分配する事になった。さらに、ナチスのアドルフ・ヒューンラインがドイツモータースポーツ軍団の司令官となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13857,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ポルシェ博士が設計しヒットラ－が目にしたミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションという先進的な設計図_1-1024x316.jpg" alt="" class="wp-image-13857"/><figcaption class="wp-element-caption">ポルシェ博士が設計しヒットラーが目にしたミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションという革新的な設計図。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13858,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/写真偉大なメルセデス・ベンツのレ－ス監督；総計160のレ－スに参戦し監督を務め、その半数以上（84）の勝利を獲得！（1891年生まれ1980年没89歳）_1.jpg" alt="" class="wp-image-13858"/><figcaption class="wp-element-caption">アルフレッド・ノイバウアー；偉大なメルセデス・ベンツのレ－ス監督、総計160のレ－スに参戦し監督を務め、その半数以上（84）の勝利を獲得！（1891年生まれ1980年没89歳）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13871,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/36_1.jpg" alt="" class="wp-image-13871"/><figcaption class="wp-element-caption">メルセデス・ベンツチーム；左からマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ、監督のアルフレッド・ノイバウアー、リチァード・シーマン、ヘルマン・ランク、ルドルフ・カラッチオラ（写真は1938年7月24日、ニュルブルクリンクのドイツGP）。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13872,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/37_1.jpg" alt="" class="wp-image-13872"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオンチーム；左からタツィオ・ヌボラーリ、ハンス・ミュラー、ハンス・シュトゥック、ウルリッヒ・ピカルケ、クリチアン・カウツ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 当時のメルセデス・ベンツチームのレース監督はアルフレッド・ノイバウアー、主なドライバーにはルドルフ・カラッチオラ、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ、リチャード・シーマン、ヘルマン・ランク等・・・。一方、アウト・ウニオンチームのレース監督はカール・フォイエルアイゼン博士（1936年にヴィリー・ヴァルプに代わって）、主なドライバーにはハンス・シュトゥック、ベルント・ローゼマイヤー、ルドルフ・ハッセ、エルンスト・フォン・デリウス、ヘルマン・パウル・ミューラー等・・・。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"backgroundColor":"very-light-gray"} -->
<p class="has-very-light-gray-background-color has-background">両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> TEXT：妻谷裕二 <br>PHOTO：メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ＆アウディ＆ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。<br> 参考文献＝EDITION AUTOMOBILE；Renn-Impressionen （ニュルブルクリンク)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>【筆者の紹介】<br>妻谷裕二（Hiroji Tsumatani）<br>1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。</strong> </p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong><a href="http://autobild.jp/14644/">シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル2に続く</a></strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
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<!-- wp:html -->
<a href="https://t.felmat.net/fmcl?ak=M1358E.1.H408881.X765038" target="_blank" rel="nofollow noopener noreferrer"><img src="https://t.felmat.net/fmimg/M1358E.H408881.X765038" width="320" height="100" alt="" border="0"></a>
<!-- /wp:html -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="872" height="336" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1.jpg 872w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-300x116.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-768x296.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/アウトウニオン表紙2_1-696x268.jpg 696w" sizes="auto, (max-width: 872px) 100vw, 872px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>第2次大戦前のダイムラー・ベンツ社のレーシングカーである「シルバー・アロー」とアウト・ウニオン社のレーシングカーである「シルバー・フィッシュ」は、レーシングドライバーと共にドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した！そこで、「シルバー・アローVSシルバー・フィッシュ」と題して、特に1934年～1939年迄のレースのデッドヒートをメインに紹介する。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">1930年代初頭の時代背景</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1929年10月29日、ニューヨークのウォール街で起こった株の大暴落を引き金とした世界大恐慌は大企業や銀行までも倒産に陥った。1926年にダイムラー社とベンツ社が合併しドイツ有数の企業となったダイムラー・ベンツ社にも影響し売り上げも激変し、レースを行う経済的余裕すら無くなった。1930年のレース予算は縮小され、GPレースの回数も減った。1926年にアルフレッド・ノイバウアーがレース監督に就任し規律正しく統率されたワークスチームは総勢300名でサーキットに乗り込み、最高のマシンとドライバー達を揃えてGPレースの常勝であったメルセデス・ベンツチームには大打撃となった。1931年のメルセデス・ベンツチームはプライベートチームの様な小人数で構成された。1931年４月11日、イタリアのミレ・ミリアに参戦したメルセデス・ベンツチームはルドルフ・カッチオラとコ・ドライバーのセバスチャン、それに3人のメカニックとレース監督のアルフレッド・ノイバウアーの計6名だった。ライバルのアルファ・ロメオはイタリア人の有名なドライバーを揃え90人のメカニックと17台のサポート・カーを各コースに配置し、万全のバックアップ体制を整えていた。ノイバウアー監督率いるメルセデス・ベンツチームは少数精鋭のチームワークを大いに発揮し、SSKL（7L 6気筒 27/170/300PS）を駆って超人的なドライブをしたルドルフ・カッチオラが優勝した。また、アイフェルレース、アフスレース、ニュルブルクリンクのドイツGPにも優勝した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13581,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/03.jpg" alt="" class="wp-image-13581"/><figcaption class="wp-element-caption">1931年のミレ・ミリア。ノイバウアー監督率いるメルセデス・ベンツチームは少人数での参加を余儀なくされたが、見事優勝を飾った。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、1932年シーズン中、ダイムラー・ベンツ社は全てのレース活動を休止する事に決めていた。期しくも1932年10月12日、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が、1934年～1936年まで新しいGPフォーミュラを発表した。ボディの幅を85cm以内、燃料、オイル、冷却水、タイヤを含まない重量を750kg以下に制限するが、排気量は無制限とした。この新フォーミュラの狙いは、従来のフォーミュラリブレ（車両規定のないマシンでのレース）の時代に終止符を打ち、地元フランスのメーカーの利益を優先的にして、750kgの軽量なマシンなら限界は250PSで最高速度も250km/h程度に抑えられると考えていた。<br><br>ところが、経済恐慌も何とか収まり、ドイツのナチス第三帝国は助成金を交付する事になった。そこで、ダイムラー・ベンツ社は全く新しいマシンW25でこの1934年から新GPフォーミュラに復帰する事を取締役会で決定した。W25に搭載された4バルブDOHC直列8気筒エンジンは当初3.36Lのコンプレッサー付きで354PSを発揮した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13584,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/05.jpg" alt="" class="wp-image-13584"/><figcaption class="wp-element-caption">A.I.A.C.R.（現在のFIA）の想像をはるかに超えるスペックで復帰したメルセデス・ベンツW25。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 一方、1932年ドイツ東部のザクセン州に在ったホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併してアウト・ウニオン社を発足させた。新生アウト・ウニオンをアピールするにはGPレースの参入を考えていた彼等は、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士が1934年からの750kg GPフォーミュラの為に描き上げた設計図に注目し、これを買い取ってレースに参戦する事に決定した。ここに、ドイツ国家の威信に賭けてサーキットで死闘を繰り返した「メルセデス・ベンツ対アウト・ウニオン」の戦いが始まった！<br> 尚、メルセデス・ベンツは周知の通りで多くを要さないが、<a href="http://autobild.jp/10646/">「モーターレースを語らずにメルセデス・ベンツの歴史を語ることは不可能！（前後編）」</a>を合わせてご覧頂きたい。筆者はまずこの新生アウト・ウニオン社の概要について記したいと思う。次いで、本題であるメルセデス・ベンツのシルバー・アローVSアウト・ウニオンのシルバー・フィッシュのデッドヒートを紹介する（1934年～1939年）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13585,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/06.jpg" alt="" class="wp-image-13585"/><figcaption class="wp-element-caption">1932年ドイツ東部のザクセン州に在ったホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併してアウト・ウニオン社を発足させた。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">アウト・ウニオン社の概要；ホルヒ社からアウト・ウニオン社誕生まで</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウディの系譜を辿ることは本当に難しい。むしろ、難しいのではなく筆者としては、複雑に絡みあった系譜の糸口を辿ることが面倒であると正直に言った方が良いと言える。しかし、可能な限り解り易くしたつもりである。そうでないとアウト・ウニオンのレース活動が理解して頂けないからだと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"backgroundColor":"very-light-gray"} -->
<p class="has-very-light-gray-background-color has-background"><strong>Horch社とAudi社（ホルヒとアウディ）</strong><br> アウディ社の創設者であるアウグスト・ホルヒ博士。当時のベンツ社の工場長を務めるエンジニアであったが、1899年に独立し自らの名を冠したHorch社（ホルヒ）を創設した。ホルヒ博士は、当時は新素材であったアルミ合金製エンジンブロックの開発やエアロダイナミクスを重視したボディを設計する等、今日でも通用する自動車エンジニアリングの第一人者であった。特に、ホルヒ博士は自ら開発した先進技術の優秀性を証明する場としてモータースポーツの重要性に着目。1905年に当時全盛であった耐久レースに参戦し、翌1906年には優勝を成し遂げていた。ホルヒ博士は、技術と品質に対して全く妥協はしないというポリシーで、自動車の開発を続けた。その技術力や開発力はハイレベルであったが、コストを度外視してまで高性能と品質を追求する姿勢に、出資者である経営陣と対立が生じた。そして1909年、遂に自ら興したホルヒ社を追われる事になった。しかし、高い評価を集めていたホルヒ博士には、退社の3日後には出資者が集まったと言われている。同年、新しい会社を設立することになるが、同じ地域で同じ業種、そこにホルヒという名前を社名にするわけには行かなかった。そこで、ドイツ語で「聴く」という意味のHorchen(ホルヒェン)と同じ意味を持つラテン語のAudiを新会社の名前とした。こうしてアウディ社が誕生した。ホルヒ博士の言葉に「レースは走る実験室」とう思想は現在のアウディ社にもDNAとして強く残っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13586,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/08-1024x501.jpg" alt="" class="wp-image-13586"/><figcaption class="wp-element-caption">アウグスト・ホルヒ博士</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"color":{"background":"#dbddde"}}} -->
<p class="has-background" style="background-color:#dbddde"><strong>Auto Union社へと発展（アウト・ウニオン）</strong><br> 1932年、現在のAudi社の前身であるAuto Union社が設立された。これは前述の通り、1929年10月29日に発生した世界大恐慌が発端だった。ニューヨークにあるウォール街の証券取引所で発生した株価の大暴落により、世界中の大都市は軒並み恐慌に陥った。ドイツも例外ではなく、大企業や銀行まで倒産の危機に瀕したが、ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKW（デーカーヴェー）の4社が互いに手を組むことで、この恐慌を乗り切ることにした。アウディ社は先述の通り、ホルヒ社を追われたアウグスト・ホルヒ博士が設立したミディアムサイズの高品質なスポーツモデルを得意とする自動車メーカーだった。ホルヒ社は最上級のプレステージカー、ヴァンダラー社は小型軽量の実用車を得意分野とし、アウディ社と合併後に世界初の量産FF車を市販化したDKW社は小型スポーツモデルをそれぞれ得意分野としていた。これら、小型乗用車から最上級プレステージカーまで、全く異なるキャラクターを持つ4ブランドがひとつになることで、アウト・ウニオンは時代の最先端を行く自動車メーカーに成長した。アウト・ウニオンの本社はケムニッツに置かれ、4つの輪がエンブレムと決められた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13596,"width":"447px","height":"587px","sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large is-resized"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/09_1-2.jpg" alt="" class="wp-image-13596" style="width:447px;height:587px"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"color":{"background":"#f3f5f5"}}} -->
<p class="has-background" style="background-color:#f3f5f5"><strong>次に、この合併前の4社と後の1969年にアウディ社と合併したNSUを簡単に整理してみよう。</strong><br><br> <strong>Horch社；ホルヒ社</strong><br> 1899年、ドイツ・ザクセン州に設立。創設者はアウグスト・ホルヒ博士、アウト・ウニオン結成後は最上級のプレステージカーを生産するブランドとして活躍。<br><br> <strong>Audi社；アウディ社</strong><br> 1909年にホルヒ社を退いたアウグスト・ホルヒ博士が設立。アウト・ウニオン結成後は最先端エンジニアリングの牽引役を果たし、高品質でスポーツ性の強いブランドとして認知。<br><br><strong> Wanderer社; ヴァンダラー社</strong><br> 1885年、リヒャルト・アドルフ・イエニケとヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファーの2人が旧東ドイツのケムニッツに自転車の販売・修理会社として設立。その後3輪車を経て小型車を中心とした4輪自動車分野に進出。アウト・ウニオン結成後も中型クラスの生産をする役割を担った。<br><br> <strong>DKW社；デーカーヴェー社（ドイツ語Dampf Kraft Wagenの略で蒸気自動車の意味）</strong><br> 1904年、デンマーク生まれの創始者イェルゲン・スカフテ・ラスムッセンは旧東ドイツのケムニッツにボイラー関連のラスムッセン＆エルンスト社を友人と共に設立。1907年、社名をDKWに改称。1928年に世界初のFF車「DKW Front」を発表。アウト・ウニオン結成後は、小型スポーツモデルにそのノウハウを生かす。<br><br> <strong>Auto Union社；アウト・ウニオン社（ドイツ語のAuto Unionは自動車連合の意味）</strong><br> 上記のホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が1932年に結成した自動車連合体。本社はケムニッツに置かれた。アウト・ウニオン社は、総合的なラインアップを揃える自動車メーカーへと成長し、1938年の時点ではドイツ国内でのシェアは23.4%を誇っていた。1945年、第2次世界大戦が終了し、本拠地のあるケムニッツが旧東ドイツに位置していたのでソビエト連邦（現ロシア）に統治された。1948年、占領ソビエト軍によりアウト・ウニオン社は解散を命じられるが、翌1949年に現アウディ社の本拠地であるインゴルシュタットに移り、新生アウト・ウニオンを再結成した。<br><br><strong> そして忘れてはならないのがNSU社；エヌエスウー社</strong><br> 1873年設立、社名は本拠地Neckarsulm(ネッカーズルム)の3文字を取って命名(ドイツ南西部のバーデン＝ヴュルテンベルク州北部)。1950年代には世界最大の2輪車メーカーに君臨、自動車生産は1905年から行っている。1964年に世界初のローターリーエンジンを発表。1969年にアウト・ウニオン社と合併し、Audi NSU Auto Union AG（AGはドイツ語のAktiengesellschaft略で株式会社の意味）が設立された。そして、1985年に社名をAudi AG(アウディ株式会社)へと改め、現在に至る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13589,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ホルヒ_アウディ_ポスター.jpg" alt="" class="wp-image-13589"/><figcaption class="wp-element-caption"><em>（左）</em>モーター誌の1918年4月号に掲載されたホルヒのカラー広告。<em>（右）</em>1911年のアウディの広告。聴く動作をしているドライバーを描いて、社名を「アウディ＝聴く」に注意を引こうとするデザインだ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13591,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ヴァンダラー_DKW.jpg" alt="" class="wp-image-13591"/><figcaption class="wp-element-caption">（左）ヴィァンダラーの創始者の2人；左がリヒャルト・アドルフ・イエニケ、右がヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファー。（右）1932年当時のDKWの広告。マイスタークラッセは2気筒エンジン、ゾンダァクラッセは4気筒エンジン。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":13853,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/4社のクルマ.jpg" alt="" class="wp-image-13853"/><figcaption class="wp-element-caption">上段左から時計回りに、Horch 670 Sport-Cabriolet 1932年。Audi Front Typ uw Limousine 1934年。Wanderer W 40 Cabriolet 2 Fenster 1936年。DKW F 5 Front-Luxus-Cabriolet 2シーター 1937年。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">アウト・ウニオンのレース活動概要；ポルシェ博士の爪痕</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウト・ウニオンのGPカーは、その全てのモデルがツヴッカウにあるホルヒの製造工場に設置されたレース専用部署で開発・製造された。<br> こうして誕生したアウト・ウニオンであったが、当初その知名度はなかなか上がらなかった。そこで、以前からポルシェ博士と関係の深かった元ヴァンダラー社の重役であったクラウス・フォン・エルツェン男爵は1934年から開始される全く新しい規制のGPレース（現在のF1）に参加してアウト・ウニオンを大々的に知らしめるプランを重役会に持ち出した。アウト・ウニオンの重役会はこのプランに大いに乗り気でモータースポーツを通じて新技術を生み出し、それを熟成させて市販車に反映しようとするにはうってつけの内容だった。ここで、主任設計技師に起用されたのが当時、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士であった。しかし、アウト・ウニオンがGPレース参加に伴う莫大な資金が問題となり、政府に資金援助を求めた。1933年1月30日に政権を獲得したナチスのアドルフ・ヒットラーは国家の威信を内外に示す有効な手段としてGPレースの開催を考えていた。同年3月の初頭にはアウト・ウニオンの重役に伴われたポルシェ博士が、ヒットラーと会見を行っているが、この会見でヒットラーはアウト・ウニオンに資金援助を決定したのである。当時のGPレースはフランスやイタリア勢力にほぼ牛耳られており、そうした状況は国家の威信に賭けても取り戻さなければならないと、ヒットラーは考えアウト・ウニオンへの資金援助の申し出を受けた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13887,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ポルシェ博士ヒトラーと会見.jpg" alt="" class="wp-image-13887"/><figcaption class="wp-element-caption">上段左、左からポルシェ博士、ナチス高官、クラウス・フォン・エルツェン男爵、そしてアウグスト・ホルヒ博士。フォン・エルツェン男爵はポルシェとアウト・ウニオンを結び付けたキーマン。ホルヒ博士はアウト・ウニオンのレーシングカー造りを支援した。 <em>上段</em>右、新生アウト・ウニオンの経営陣はGPレースの効果についてヒットラーに説明。<br>下段2枚、ポルシェ博士がヒットラーと会見する様子。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウト・ウニオンのGPカー、Pヴァーゲン（Porscheの頭文字、ポルシェの設計番号ではタイプ22）は1933年半ばに3台のタイプAがホルヒ工場で製作開始となった。同年末にはテスト走行まで漕ぎ着け、翌1934年初頭にはモンツァのサーキットで試運転が行われた。シーズン直前の3月6日には、ベルリン郊外の2ヘアピンカーブを持つアフス・サーキットでアウト・ウニオンのエースドライバー、ハンス・シュトゥックはコーナーを97km/hで回り、ストレートでは266km/hを出し、平均217km/hで1時間連続走行を達成した。遂に、アウト・ウニオン初のGPレーシングカーが誕生した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウト・ウニオンのPヴァーゲンは軽い750kgの車体に各シリンダーにカムシャフトを1本ずつ持ったバンク角45度V型16気筒4.35Lエンジン（ポルシエ博士の設計）をミッドシップに置き、コンプレッサー付で295PSを発揮、チューブラー・フレーム、フリクション・ショックアブソーバー付きトーションバーサスペンション等、革新技術の固まりだった。特筆はエンジンをコックピット後方に置くミッドシップを採用したことにあり、当時のライバルがまだフロントエンジンだったことは当然だったとしても、その後のF1でミッドシップが主流になるまで30年近くを要した。<br><br> フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が1934年の新GPフオーミュラ（重量750kg以下）を発表から開始したレース活動は、アウト・ウニオンの重要な仕事であるとして引き続き行われた。アルミ地肌でテールが長く「シルバー・フィッシュ」の愛称で親しまれたタイプAは数多くの栄冠を勝ち取った。エースドライバーのハンス・シュトゥックがヨーロッパ・チャピオンに輝いたのに続き、その改良型であるタイプBを投入した1935年、タイプCで戦った1936～37年にもアウト・ウニオンは勝ち続けた。この間、車重は同じ750kgのままでエンジン4.3Lから6Lまで拡大、最高出力は520PSに達していた。最後のモデルとなったタイプDは1938年導入の新GPフォーミュラ（コンプレッサー無しで最大4.5L、コンプレッサー付きで3Lに制限され、最低重量は850kg）に適合する2.9L バンク角60度V型12気筒、コンプレッサー付きエンジンで485PSを発揮し、1938年から1939年にかけて使用された。特に、160km/hの速度域で発生するホイールスピンと、開発が進化しても解決されることが無かった著しいオーバーステアにより操縦が非常に困難なマシンであったにも拘わらず、アウト・ウニオンのドライバーは絶妙にコントロールした。戦前の国際的なレースには、アウト・ウニオンの他、常勝メルセデス・ベンツ、アルファ・ロメオ等が参戦していた。けれども、1936年と1937年のGPシーズンでアウト・ウニオンは大きな成功を収めた。一方、1936年～1938年の速度記録挑戦はアウト・ウニオンとメルセデス・ベンツによる一騎打ちの最高潮に達した。このアウト・ウニオンのレース活躍は次項目のVSメルセデス・ベンツのシルバー・アローと共に詳しく紹介する。<br> 順調に推移していたアウト・ウニオンではあったが、ドイツを取り巻く国際状況は第2次世界大戦へと底知れぬ泥沼へと転がり出していた。アウト・ウニオンの工場で造り出される製品は、次第に軍需的な色合いを濃くしていった。同様にメルセデス・ベンツにも言える事であった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ（1934～1939年）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> メルセデス・ベンツのGPカーはアルミ地肌で矢の如く速いので「シルバー・アロー」と呼ばれたのに対し、アウト・ウニオンのレーシングカーもアルミ地肌で速く、しかもテールが長く魚が尾を振ってスイスイと泳ぐ姿に似ており「シルバー・フィッシュ」と呼ばれた。この両車に共通する人物が2人いる。1人はフェルディナンド・ポルシェ博士で、メルセデス・ベンツに1923年～1928年まで在籍し有名なSシリーズを設計し輝かしいメルセデス・ベンツレーシングカーの優勝の礎を造った。1930年12月1日に独立したポルシェ博士は「名誉工学博士F・ポルシェ有限会社」を設立しアウト・ウニオンのレーシングカーを設計した。もう1人は1933年1月30日に政権を獲得したナチスのアドルフ・ヒットラーである。数日後の2月11日にベルリンで開幕した自動車ショーで開会宣言を行った。演説の主な内容はドイツのモータリーゼーションに関するものだった。国民車構想、アウトバーンの建設、モータースポーツの推奨を唱えた。特に、ヒットラーが自動車レースに熱を入れたのは、モーターレースこそドイツの工業力を世界に示し、併せて国家意識を高揚する最適の道具と考え、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとしたからだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":13854,"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ポルシェ博士_ヒトラー.jpg" alt="" class="wp-image-13854"/><figcaption class="wp-element-caption">（左）はフェルディナンド・ポルシェ博士。新生アウト・ウニオン社の重役会は同社をアピ－ルするにはGPレースの参入を考え、自ら設計事務所を運営していたフェルディナンド・ポルシェ博士が1934年からの750kg GPフォーミュラの為に描き上げた設計図に注目し、これを買い取ってレースに参戦する事に決定。（右）自らメルセデス・ベンツの770Kに乗り国民にパレードするアドルフ・ヒットラー。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 前述の通り、1932年10月12日、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.（現在のFIA）が、1934年～1936年まで新しいGPフォーミュラを発表し、重量は750kg以下に規定した。そこで、1934年のこの新フォーミュラに向けた車両製造にナチスの第三帝国は助成金を供する事にした。ダイムラー・ベンツはGPレーシングに関わってきたドイツ自動車産業の唯一の代表会社として、これまでこの助成金を受け取ってきた。アウト・ウニオンではポルシェ博士と親交があり熱心なモータースポーツ愛好家のクラウス・フォン・エルツェン男爵が早速、助成金を申し出る準備を万全に整え、３月1日にヒットラーとの会合を取りつけた。フォン・エルツェン男爵はポルシェ博士とドライバーのハンス・シュトゥックを連れて3人で首相官邸に行った。ヒットラーはポルシェ博士から超先進的なレーシングカーの説明を熱心に聞いた（ミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションを備える）。それから3日後にヒットラーから支援を得る事が出来た。それまでヒットラーはこの助成金はただ1社、即ちダイムラー・ベンツに与えるつもりだった。つまり、国際的なモータースポーツで成功を収めており、すでに既成事実を作っていたからだ。だが、そうした意味では、ポルシェ博士はダイムラー・ベンツの取締役技術部長時代に、8気筒スーパーチャジャーエンジンを搭載の新型レーシングカー開発に携わっていた。この事実が1934年に大いに役立った。結果、ヒットラーはメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンの両社に資金援助をした。100万ライヒスマルクの資金を提供したが、その資金は2社間で分配する事になった。さらに、ナチスのアドルフ・ヒューンラインがドイツモータースポーツ軍団の司令官となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/ポルシェ博士が設計しヒットラ－が目にしたミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションという先進的な設計図_1-1024x316.jpg" alt="" class="wp-image-13857"/><figcaption class="wp-element-caption">ポルシェ博士が設計しヒットラーが目にしたミッドシップにV16を搭載し、全輪独立懸架サスペンションという革新的な設計図。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/写真偉大なメルセデス・ベンツのレ－ス監督；総計160のレ－スに参戦し監督を務め、その半数以上（84）の勝利を獲得！（1891年生まれ1980年没89歳）_1.jpg" alt="" class="wp-image-13858"/><figcaption class="wp-element-caption">アルフレッド・ノイバウアー；偉大なメルセデス・ベンツのレ－ス監督、総計160のレ－スに参戦し監督を務め、その半数以上（84）の勝利を獲得！（1891年生まれ1980年没89歳）</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/36_1.jpg" alt="" class="wp-image-13871"/><figcaption class="wp-element-caption">メルセデス・ベンツチーム；左からマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ、監督のアルフレッド・ノイバウアー、リチァード・シーマン、ヘルマン・ランク、ルドルフ・カラッチオラ（写真は1938年7月24日、ニュルブルクリンクのドイツGP）。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2022/03/37_1.jpg" alt="" class="wp-image-13872"/><figcaption class="wp-element-caption">アウト・ウニオンチーム；左からタツィオ・ヌボラーリ、ハンス・ミュラー、ハンス・シュトゥック、ウルリッヒ・ピカルケ、クリチアン・カウツ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 当時のメルセデス・ベンツチームのレース監督はアルフレッド・ノイバウアー、主なドライバーにはルドルフ・カラッチオラ、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ、リチャード・シーマン、ヘルマン・ランク等・・・。一方、アウト・ウニオンチームのレース監督はカール・フォイエルアイゼン博士（1936年にヴィリー・ヴァルプに代わって）、主なドライバーにはハンス・シュトゥック、ベルント・ローゼマイヤー、ルドルフ・ハッセ、エルンスト・フォン・デリウス、ヘルマン・パウル・ミューラー等・・・。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"backgroundColor":"very-light-gray"} -->
<p class="has-very-light-gray-background-color has-background">両社は、ドイツ国家の威信に賭けてレースに出場する事で技術促進とPRの一石二鳥を狙い技術の死闘が繰り広げた。しかし、当時のクルマの性能を考えてみると、名ドライバーと云えども、強い精神力と体力に加えてハイレベルな技術力が必要とした。レースで鍛えた革新技術を量産車にフィードバックし、メルセデス・ベンツのDas Beste order nichts(最善か無か)、アウディのVorsprung durch Technik(技術による先進)による車造りの哲学が、現在もDNAとして受け継がれている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> TEXT：妻谷裕二 <br>PHOTO：メルセデス・ベンツ・グループAG、アウディAG、メルセデス・ベンツ＆アウディ＆ドイツミュージアム、ドイツアーカイブ、妻谷コレクション。<br> 参考文献＝EDITION AUTOMOBILE；Renn-Impressionen （ニュルブルクリンク)。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> <strong>【筆者の紹介】<br>妻谷裕二（Hiroji Tsumatani）<br>1949年生まれ。幼少の頃から車に興味を持ち、1972年ヤナセに入社以来、40年間に亘り販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特に輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版カタログや販売教育資料等を制作。また、メルセデス・ベンツよもやま話全88話の執筆と安全性の独自講演会も実施。趣味はクラシックカーとプラモデル。現在は大阪日独協会会員。</strong> </p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong><a href="http://autobild.jp/14644/">シルバー・アロー VS シルバー・フィッシュ　国家の威信を賭けたサーキットバトル2に続く</a></strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

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			</item>
		<item>
		<title>アウディ 50周年を迎えた「Vorsprung durch Technik（技術による先進）」</title>
		<link>https://autobild.jp/9111/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 22 Jul 2021 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[面白ネタ＆ストーリー]]></category>
		<category><![CDATA[50周年]]></category>
		<category><![CDATA[Audi]]></category>
		<category><![CDATA[e-tron]]></category>
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		<category><![CDATA[オリバー・ホフマン]]></category>
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		<category><![CDATA[ドイツ車]]></category>
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		<category><![CDATA[ミッションゼロ]]></category>
		<category><![CDATA[技術による先進]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="960" height="679" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01.jpg 960w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-300x212.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-768x543.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-100x70.jpg 100w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-696x492.jpg 696w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-594x420.jpg 594w" sizes="auto, (max-width: 960px) 100vw, 960px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p>インゴルシュタット：アウディのスローガンである「Vorsprung durch Technik（技術による先進）」は、今年で50周年を迎えます。誕生から半世紀が経過した現在でも、この世界的に有名なスローガンは、その魅力を失っていません。そして毎年、そのスローガンの背景には、歴史が積み重ねられています。この重要な機会に、アウディは50年以上に及ぶ数多くのイノベーションを振り返っています。「Vorsprung durch Technik」は、アウディのスローガンであるだけでなく、未来を見据えたアウディのアプローチも表現しています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:core-embed/youtube {"url":"https://youtu.be/qr5ysgJd8eU","type":"video","providerNameSlug":"youtube","className":"wp-embed-aspect-16-9 wp-has-aspect-ratio"} -->
<figure class="wp-block-embed-youtube wp-block-embed is-type-video is-provider-youtube wp-embed-aspect-16-9 wp-has-aspect-ratio"><div class="wp-block-embed__wrapper">
https://youtu.be/qr5ysgJd8eU
</div></figure>
<!-- /wp:core-embed/youtube -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>・アウディのDNAに組み込まれた先進性：過去50年間のマイルストーンがそれを証明<br>・技術開発担当取締役オリバー ホフマン：「私たちの目標は常に変化を推進すること」<br>・販売・マーケティング担当取締役ヒルデガルト ヴォートマン：「私たちは先進性を再定義し、サステイナビリティ、デジタル化、電動化に焦点を合わせている」</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3>スローガンの誕生</h3>
<!-- /wp:heading -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s02.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s04.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> 1969年、インゴルシュタットのAuto Union GmbH（アウトウニオンGmbH）とネッカーズルムのNSU Motorenwerke AG（NSU自動車工業）が合併し、ネッカーズルムに本社を置くAudi NSU Auto Union AG（アウディNSUアウトウニオンAG）が誕生しました。新会社の製品ラインナップは、空冷エンジンを搭載した後輪駆動のNSU Prinzシリーズから、水冷4気筒エンジンを搭載した前輪駆動のAudi 60およびAudi 100、ロータリーエンジンを搭載した未来的なデザインのNSU Ro 80に至るまで、多岐に及んでいました。1970年、アウディNSUの広報部に所属していたハンス バウアーは、この技術的多様性を競争上のアドバンテージにするというアイデアを思いつきました。バウアーは、世界中の人々が明確に認識できるスローガン、「Vorsprung durch Technik」を考案しました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s03.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この新しいスローガンは、1971年1月に初めて登場し、大規模な宣伝が行われました。その後、このスローガンは、アウディNSUのカタログにも掲載されるようになりました。Audi 100、Audi 100 Coupé S、Audi 80、Audi 50はすべて、「Vorsprung durch Technik」を具現化していました。その後、アウディのスローガンは、「Audi. A nice bit of technology.」（アウディ、それはすばらしいテクノロジー）、「Audi. Relaxed driving with perfect technology」（アウディ、完璧なテクノロジーによるリラックスしたドライビング）など、さまざまな形に変化していきました。しかし、アウディはすぐに、これらのスローガンを元の「Vorsprung durch Technik」に戻しました。1980年のアウディquattroの導入により、このスローガンは、より頻繁に広告で使用されるようになりました。その当時、ヨーロッパ最大の広告とされたのが、ドイツのアウトバーンA9号線のインゴルシュタット北出口の近くに設置された広告です。赤いアウディオーバルロゴの横には、「Vorsprung durch Technik」の文字が添えられていました。このスローガンは、1986年10月までにアウディのコーポレートアイデンティティの重要な要素となり、Audi 80のカタログにも使用されました。50年が経過した今日、このスローガンはアウディと同義語となっています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3>テクノロジーの変化</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウディは、ネッカーズルムのアウディフォーラムで、「50 Years of Vorsprung durch Technik」と題された新しい特別展を開催し、フォーラムを訪れた来場者に、長年にわたるテクノロジーへの情熱を示しています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s05.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、「Vorsprung durch Technik」がアウディのイノベーションの原動力であり続け、そのスローガンが現在でもアウディの広告で使用されているという事実は、どのようなマイルストーンによって裏打ちされているのでしょうか？ AUDI AG技術開発担当取締役のオリバー ホフマンは、次のように述べています。「私にとってもっとも重要なマイルストーンは、quattroテクノロジーです。このテクノロジーは、ラリーにおける成功の基礎であっただけでなく、レースの世界から市販車へと技術を移植してきた私たちの歴史を示しています。それ以来、quattroとアウディは切っても切れない関係となっています。同様に重要なのは、1994年にアウディスペースフレームテクノロジーを採用した最初のAudi A8です。このモデルは、プレミアムセグメントにおけるアウディの地位を決定的なものにするのに貢献しました」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s06.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>近代レースシーンにおける「アウディの10年」と言うべき時代は、2000年代初頭のル・マン24時間レースから始まりました。FSI（ガソリン直噴）、ターボチャージャー付きFSI、レーザーライト、Ultra（軽量化）テクノロジー、ハイブリッドなどの新技術により、アウディは、世界的に有名なこの耐久レースで連続優勝を果たしました。この時期には、アルミニウム製ボディを纏ったコンパクトカー、Audi A2 1.2 TDIもデビューしました。このモデルは、今日に至るまで、唯一の4ドア 3リッターカー（100kmをわずか3ℓの燃料で走るクルマ）となっています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2018年にはAudi e-tronを発表し、次の飛躍的な進歩を遂げました。このモデルは、400km以上の航続距離を誇り、プレミアム電気自動車の道を切り開いたアウディ初の電気自動車です。その3年後、Audi e-tron GTが市場に導入されました。革新的なデザインを特徴とするこのクルマは、未来のe-モビリティがエキサイティングであることを証明しています。新しいブランドキャンペーン「Future is an Attitude（未来は考え方ひとつ）」は、従来のモビリティのあり方に絶えず疑問を投げかける、アウディの未来志向のアプローチを強調しています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"sizeSlug":"large"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s07.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2010年代の終わりに、サステイナビリティは企業の中核的な目標になりました。AUDI AG販売およびマーケティング担当取締役のヒルデガルト ヴォートマンは、次のように述べています。「これこそが、アウディが一貫して環境問題に取り組み、環境プログラム“Mission Zero”により各拠点でエコロジカルフットプリントを削減している理由です」 この活動のゴールは、2050年までにカーボンニュートラルな企業になることです。「私たちは持続可能なプレミアムモビリティ プロバイダーになることを目指しており、この分野のリーダーになりたいと考えています。そのため、私たちは環境にやさしいドライビングの技術的リーダーになるために全力を尽くしています。アウディが2026年以降、内燃エンジンを搭載したニューモデルを導入しないことを決定したのは、その目標に沿ったものです」とヴォートマンは説明しています。その一方で、電動化の推進は続いています。「私たちは、先進性という言葉を再定義し、サステイナビリティ、デジタル化、電動化に焦点を合わせています。それはつまり、意味のあるテクノロジーを実現することによって、住みやすい未来に貢献することです」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウディの先進性を継続的に推進するために、新しいテクノロジーを社会に提供することに関して、ホフマンは次のように述べています。「私たちが常に目指してきたことは、変化によって動かされるのではなく、変化の原動力となることです。新しいモビリティの時代において、私たちは、芸術の域に達したエンジニアリング、最先端のデザイン、デジタル体験などで先進性を表現していますが、それだけではありません。私たちは、クルマの外の世界のことも考えています。将来的には、インフラの問題を含む包括的なモビリティソリューションが重要になります。私たちは、アウディ充電ハブ パイロットプロジェクトにより、将来のピーク需要に対応し、さまざまな場所で使用できる柔軟な急速充電コンセプトを開発しました」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ヴォートマンは、次のように付け加えています。「アウディは、過去数年間のテクノロジーの進歩に頼ることはありません。アウディは、常に未来をチャンスととらえ、積極的に未来を形成する、もっとも先進的なプレミアムブランドです。“Vorsprung”（先進）とは、考え方次第なのです」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text＆photo：AUDI AG./Audi Japan</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
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<!-- /wp:html -->

<!-- wp:html -->
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<!-- /wp:html -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="960" height="679" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01.jpg 960w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-300x212.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-768x543.jpg 768w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-100x70.jpg 100w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-696x492.jpg 696w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s01-594x420.jpg 594w" sizes="auto, (max-width: 960px) 100vw, 960px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p>インゴルシュタット：アウディのスローガンである「Vorsprung durch Technik（技術による先進）」は、今年で50周年を迎えます。誕生から半世紀が経過した現在でも、この世界的に有名なスローガンは、その魅力を失っていません。そして毎年、そのスローガンの背景には、歴史が積み重ねられています。この重要な機会に、アウディは50年以上に及ぶ数多くのイノベーションを振り返っています。「Vorsprung durch Technik」は、アウディのスローガンであるだけでなく、未来を見据えたアウディのアプローチも表現しています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>・アウディのDNAに組み込まれた先進性：過去50年間のマイルストーンがそれを証明<br>・技術開発担当取締役オリバー ホフマン：「私たちの目標は常に変化を推進すること」<br>・販売・マーケティング担当取締役ヒルデガルト ヴォートマン：「私たちは先進性を再定義し、サステイナビリティ、デジタル化、電動化に焦点を合わせている」</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3>スローガンの誕生</h3>
<!-- /wp:heading -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s02.jpg" alt=""/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s04.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p> 1969年、インゴルシュタットのAuto Union GmbH（アウトウニオンGmbH）とネッカーズルムのNSU Motorenwerke AG（NSU自動車工業）が合併し、ネッカーズルムに本社を置くAudi NSU Auto Union AG（アウディNSUアウトウニオンAG）が誕生しました。新会社の製品ラインナップは、空冷エンジンを搭載した後輪駆動のNSU Prinzシリーズから、水冷4気筒エンジンを搭載した前輪駆動のAudi 60およびAudi 100、ロータリーエンジンを搭載した未来的なデザインのNSU Ro 80に至るまで、多岐に及んでいました。1970年、アウディNSUの広報部に所属していたハンス バウアーは、この技術的多様性を競争上のアドバンテージにするというアイデアを思いつきました。バウアーは、世界中の人々が明確に認識できるスローガン、「Vorsprung durch Technik」を考案しました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s03.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>この新しいスローガンは、1971年1月に初めて登場し、大規模な宣伝が行われました。その後、このスローガンは、アウディNSUのカタログにも掲載されるようになりました。Audi 100、Audi 100 Coupé S、Audi 80、Audi 50はすべて、「Vorsprung durch Technik」を具現化していました。その後、アウディのスローガンは、「Audi. A nice bit of technology.」（アウディ、それはすばらしいテクノロジー）、「Audi. Relaxed driving with perfect technology」（アウディ、完璧なテクノロジーによるリラックスしたドライビング）など、さまざまな形に変化していきました。しかし、アウディはすぐに、これらのスローガンを元の「Vorsprung durch Technik」に戻しました。1980年のアウディquattroの導入により、このスローガンは、より頻繁に広告で使用されるようになりました。その当時、ヨーロッパ最大の広告とされたのが、ドイツのアウトバーンA9号線のインゴルシュタット北出口の近くに設置された広告です。赤いアウディオーバルロゴの横には、「Vorsprung durch Technik」の文字が添えられていました。このスローガンは、1986年10月までにアウディのコーポレートアイデンティティの重要な要素となり、Audi 80のカタログにも使用されました。50年が経過した今日、このスローガンはアウディと同義語となっています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3>テクノロジーの変化</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p> アウディは、ネッカーズルムのアウディフォーラムで、「50 Years of Vorsprung durch Technik」と題された新しい特別展を開催し、フォーラムを訪れた来場者に、長年にわたるテクノロジーへの情熱を示しています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s05.jpg" alt=""/></figure>
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<p>しかし、「Vorsprung durch Technik」がアウディのイノベーションの原動力であり続け、そのスローガンが現在でもアウディの広告で使用されているという事実は、どのようなマイルストーンによって裏打ちされているのでしょうか？ AUDI AG技術開発担当取締役のオリバー ホフマンは、次のように述べています。「私にとってもっとも重要なマイルストーンは、quattroテクノロジーです。このテクノロジーは、ラリーにおける成功の基礎であっただけでなく、レースの世界から市販車へと技術を移植してきた私たちの歴史を示しています。それ以来、quattroとアウディは切っても切れない関係となっています。同様に重要なのは、1994年にアウディスペースフレームテクノロジーを採用した最初のAudi A8です。このモデルは、プレミアムセグメントにおけるアウディの地位を決定的なものにするのに貢献しました」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s06.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>近代レースシーンにおける「アウディの10年」と言うべき時代は、2000年代初頭のル・マン24時間レースから始まりました。FSI（ガソリン直噴）、ターボチャージャー付きFSI、レーザーライト、Ultra（軽量化）テクノロジー、ハイブリッドなどの新技術により、アウディは、世界的に有名なこの耐久レースで連続優勝を果たしました。この時期には、アルミニウム製ボディを纏ったコンパクトカー、Audi A2 1.2 TDIもデビューしました。このモデルは、今日に至るまで、唯一の4ドア 3リッターカー（100kmをわずか3ℓの燃料で走るクルマ）となっています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2018年にはAudi e-tronを発表し、次の飛躍的な進歩を遂げました。このモデルは、400km以上の航続距離を誇り、プレミアム電気自動車の道を切り開いたアウディ初の電気自動車です。その3年後、Audi e-tron GTが市場に導入されました。革新的なデザインを特徴とするこのクルマは、未来のe-モビリティがエキサイティングであることを証明しています。新しいブランドキャンペーン「Future is an Attitude（未来は考え方ひとつ）」は、従来のモビリティのあり方に絶えず疑問を投げかける、アウディの未来志向のアプローチを強調しています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://www.audi-press.jp/press-releases/2021/07/048_Audi_50_years_of_Vorsprung_durch_Technik_photo_s07.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>2010年代の終わりに、サステイナビリティは企業の中核的な目標になりました。AUDI AG販売およびマーケティング担当取締役のヒルデガルト ヴォートマンは、次のように述べています。「これこそが、アウディが一貫して環境問題に取り組み、環境プログラム“Mission Zero”により各拠点でエコロジカルフットプリントを削減している理由です」 この活動のゴールは、2050年までにカーボンニュートラルな企業になることです。「私たちは持続可能なプレミアムモビリティ プロバイダーになることを目指しており、この分野のリーダーになりたいと考えています。そのため、私たちは環境にやさしいドライビングの技術的リーダーになるために全力を尽くしています。アウディが2026年以降、内燃エンジンを搭載したニューモデルを導入しないことを決定したのは、その目標に沿ったものです」とヴォートマンは説明しています。その一方で、電動化の推進は続いています。「私たちは、先進性という言葉を再定義し、サステイナビリティ、デジタル化、電動化に焦点を合わせています。それはつまり、意味のあるテクノロジーを実現することによって、住みやすい未来に貢献することです」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウディの先進性を継続的に推進するために、新しいテクノロジーを社会に提供することに関して、ホフマンは次のように述べています。「私たちが常に目指してきたことは、変化によって動かされるのではなく、変化の原動力となることです。新しいモビリティの時代において、私たちは、芸術の域に達したエンジニアリング、最先端のデザイン、デジタル体験などで先進性を表現していますが、それだけではありません。私たちは、クルマの外の世界のことも考えています。将来的には、インフラの問題を含む包括的なモビリティソリューションが重要になります。私たちは、アウディ充電ハブ パイロットプロジェクトにより、将来のピーク需要に対応し、さまざまな場所で使用できる柔軟な急速充電コンセプトを開発しました」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ヴォートマンは、次のように付け加えています。「アウディは、過去数年間のテクノロジーの進歩に頼ることはありません。アウディは、常に未来をチャンスととらえ、積極的に未来を形成する、もっとも先進的なプレミアムブランドです。“Vorsprung”（先進）とは、考え方次第なのです」</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text＆photo：AUDI AG./Audi Japan</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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		<title>AUTO BILD KLASSIK編集部が選ぶ50台の最も美しいクラシックカー　後編</title>
		<link>https://autobild.jp/8758/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 08 Jul 2021 23:50:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="729" height="486" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4.jpg 729w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4-696x464.jpg 696w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4-630x420.jpg 630w" sizes="auto, (max-width: 729px) 100vw, 729px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p>我々はクラシックカーが大好きで、愛してやまない。<br>  年を追うごとに、より多くの車がクラシックカーとして成熟し、Hナンバーを取得し、クラシックカー愛好家の注目を集めるようになっている。<br>  クラシックカーに乗るということは、毎日の過酷な通勤や、冬の塩分を含んだ道路を走ることから解放されることを意味する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/3/7/fe14427a0e4ccace.jpeg?impolicy=leadteaser" alt=""/><figcaption>多くの人にとって、最も美しいBMWの一つであり、80年代の夢の車、それがBMW M5（E28）だ。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>走行距離が少なくても、暖房の効いた駐車場や高額なメンテナンスが必要なクルマは？<br>  車両価格以上のコストでレストアされるべき車は？<br>  30年以上経過した車すべてがそうではない、それだけは確かだ。<br>  しかし、夢のようなクラシックカーライフを送るために「アウトビルトクラシック（AUTO BILD KLASSIK）」チームが、価値のある50台を選ぶ。<br>  老朽化した技術を誇張して維持することに価値がある車。<br>  外が晴れていても、作業場で手を汚す価値のある車。<br>  そのためには、時には自分のシャツを脱ぐことも必要だ。<br>  それらはすべて、我々が愛する、あるいは全力で愛したいと思う1台のクルマのためにあるのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3>夢のようなクラシックカー50選</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>  我々はそれを知っているし、あなたたちも知っている。<br>  現在の自動車の大半は、日常的にはスマートなパートナーであるかもしれないが、我々の目には個性がないように映る。<br>  我々が好きだと思う50台のクラシックカーの価値観を押し付けるつもりは毛頭ないが、それでも「ジャガーEタイプ」、「ランドローバー」、「メルセデスW116」など、絶対に見逃せないクルマはある。<br>  以下、フォトギャラリーでは、人生のための、あるいは夢のための、「アウトビルトクラシック（AUTO BILD KLASSIK）」編集部の選んだ、50台の素晴らしいクラシックカーをご紹介する。<br>  豊富な知識を備えた通人の集まりである、「アウトビルトクラシック）」編集チームならではの、新旧取り混ぜた、ユニークで楽しいラインナップとなっており、思わず微笑んだり、驚いたり、なるほどと納得したり、今まで知らなかったクルマが登場したりと、存分に堪能できる内容となっている。<br>  エンジョイ！</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lamborghini-Miura-729x486-bd209fdadf69a343.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>ランボルギーニ ミウラ： </strong>説明は省略というか不要だろう。新しいスーパーカーの世界を創造するビッグバンだったのだ。一度でも運転したことのある人は、あの寂しい峠道に何度も戻りたいと思うものだ。<br> ドライバーの後ろに横置きされた12気筒エンジン、フラットなボディに特徴的なプラスチック製のまつげがついた跳ね上げ式ヘッドライト、軽量化のためのパンチングフレーム。そして、急に意地悪になることもあるハンドリング。<br> 大林晃平: 世界一美しいスポーツカーは、このミウラという評価はもう永続的なものなのだろう。フランク シナトラ、サミー デービスJr.、パーレビ国王をはじめとする世界中の王族などなど、この車を愛した者は多い。冷却性と騒音問題はつねにミウラにつきまとい、耐久性とか快適性などは期待すること自体が間違い。でもミウラのような車は美しいなぁ、格好いいじゃん、それで十分。もうこういうストレートに美しい、ごてごてエアロパーツなどを持たないスーパースポーツカーは二度と現れないのだろうか？<br> Photo: Sassen</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lloyd-Alexander-TS-729x486-536a957fa3f35e53.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>ロイド アレクサンダーTS: </strong>マジで?　そうなの！？　なぜなら、すべてのスポーティなスモールカーの祖先だからだ。まだハッチバックも発明されていなかった。25馬力と傾斜したリアアクスルを持つ1958年の「アレキサンダーTS（ツーリングスポーツ）」は、「ビートル」を脅かすのに適していた。この車は、A地点からB地点に移動するだけではなく、小さな人たちが楽しめるようになっていた。<br> 大林晃平: ロイド？　なにそれ？　な人のためにちょっとだけ解説しておくと、ロイドは、ドイツのロイド海運会社の子会社であり、ドイツの著名な工業地帯である、ブレーメンで作られたドイツ車である。この写真の「アレクサンダー」は、ロイドの中でも非常に多く作られた車種で、ざっと17万台以上が作られている（驚くほど多い）。残念ながら会社そのものが経営破綻してしまい、1960年代には姿を消してしまったが、この写真のモデルはなかなか上品なカラーリングで素敵な小型車である。<br> Photo: Bernd Ahrens</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/BMW-M5-729x486-49d197d1daea5254.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Uli Sonntag</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/BMW-M5-729x486-3cabae39d1f9e548.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>BMW M5（E28）: </strong>羊の皮を被った狼。スーパーカー「M1」直系のエンジン「M88/3」は徹頭徹尾、黒子に徹する。「ビジネスマンズエクスプレス」の先駆けだ。<br> 現在では、現行M5の560馬力に感動する人はいないが、1985年のM5の286馬力と251km/hの最高速度が巻き起こしたセンセーションはすさまじいものであった。フェラーリ328のエンジンよりも高出力である。<br> 大林晃平: 「羊の皮を被った狼」という有名なフレーズは、この「M5」のようなクルマのために本来ある。そもそもの歴史は「M535」にさかのぼるが、とにかく普通の5シリーズにBMWのモータースポーツ部門特製のエンジンを積んだ車、それが本来の「M」なのである。当時はもちろんMTのみ、また見分けるポイントはバッチと太いタイヤくらいだったため、バッチをとって「普通の5シリーズを装う」といった粋人が多くあらわれた。このころの「M5」に比べると、今の5シリーズは化け物のように高性能で、その姿も迫力満点、ちっとも「羊の皮をかぶっていない狼」、なのである。<br> Photo: Werk</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-450-SEL-6-9-729x486-23598ecd20008da1.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-450-SEL-6-9-729x486-2754c4421fc5f7b9.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>メルセデス・ベンツ450SEL 6.9： </strong>こんなにも真剣にクレイジーなものはない。70年代最大のエンジンを搭載したW116と呼ばれるブリキの権威は、企業の上司や首相のためのメルセデスだ。<br> 「ユーバーSクラス450SEL 6.9」として、この高級セダンはシュヴァーベンの技術的な強さを象徴していたが、すぐにファンを獲得したにもかかわらず、後継車は出なかった。ハイドロニューマチックサスペンション、ロングホイールベース、エアコンが標準装備されていた。<br> 大林晃平: 個人的にメルセデス・ベンツのセダンで、圧倒的に好きなのがこの「6.9」だ。普通の「450SEL」でも十分高性能なのに、特別な靴ベラで押し込んだと言われた6900ccエンジンを積み、外見は「6．9」のバッチのみのが判別点、と魅力満載。もちろん性能は圧倒的で、下手にアクセルを踏むとあっという間にホイールスピンしたという。<br> 日本には正規輸入されなかったが、少数が並行輸入され、また「6.9」のバッチがたくさん輸入され、450SELとか280SEに貼るのが流行ったという。本国ではバッチを外すのが流行ったというのに……。<br> Photo: Goetz von Sternenfels / AUTO BILD</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Audi-Sport-Quattro-729x486-eb164d65bae0e180.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Angelika Emmerling</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Audi-Sport-Quattro-729x486-31f7a566ab24bece.jpg" alt=""/></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>アウディ スポーツ クワトロ: </strong>新しい世界を切り開いた。アウディのスポーティなイメージは、何よりもスポーツクアトロに支えられている。306馬力の「スポーツ クアトロ」は、220台しか生産されなかった。当初の価格は204,000マルク（約1,380万円）という天文学的な価格だった。<br> 世界ラリー選手権でランチアとプジョーに一泡吹かせるために、リンゲグループが「ショートワン」を送り出す以前は、アウディとその顧客は、よく言えば価値に保守的であると考えられていた。<br> 大林晃平: 戦うための車。ラリーで優勝するためにはなりふり構ってなんかいられないよ、という言葉が聞こえてきそうだ。実際にこの写真だけで見ると、ものすごくショートホイールベースで、どことなくチョロQのようにアンバランスに見えるが、実際に車を目の当たりにすると、そんなことを思う隙のないほどぎゅっと凝縮された情熱、のようなものを感じる。格好ではなく性能、そして成績。これほどまでに割り切ったアウディは今までにない。<br> Photo: Lena Barthelmess</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Morgan-8-729x486-83f1c0cd04f0f9ed.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>モーガン＋8： </strong>このデザインは、歴史のあらゆる崖を越えて、シミジミと進むことができた。1936年にモーガンが初の四輪車を発表して以来、モノはほとんど変わっていない。1968年からは、ローバー製のV8エンジンを搭載したモーガンが登場した。このワイルドなロードスターの化石が十分にポップでないとしたら、あなたはこの世界にはタフすぎる。+8のドライビングは五感に過剰な刺激を与えてくれる。<br> 大林晃平: 今でもモーガンは文字通り昔ながらの手作り工房である。この「＋8」は8気筒モデルだが、モーガンといえば、言うまでもなく木のフレームで作られている、というのが有名。しかし、もちろん自動車すべてが全部木であるわけもなく、ちゃんと（？）鉄のはしご型フレームを持ち、随所に木を部分的に使っている（当たり前ではある　が、クルマ一台全部木というのはさすがに無理すぎる）。ちなみに80年前になんで木を使ったかというと、そのころは木こそが「軽量な素材」であったがため、である。<br> Photo: Bernd Hanselmann</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Unimog-729x486-3e6e46e3a1ac95a6.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Unimog-729x486-bccbec8a0b9ab2be.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>ウニモグ: </strong>その名に恥じない普遍的な機械だ。1940年代末、シュヴェービッシュ グミュントにあるエアハルト＆ゾーネ社で、トラクターとトラックを合体させた独創的なモデルが考案された。そして、メルセデスが買収するまでは、ゲッピンゲンのベーリンガー社で製造された。<br> これまでに製造されたウニモグの半数以上が今でも走っている。「不滅」という言葉は、万能の天才ほど似合うものはない。<br> 大林晃平: 「ウニモグ」、これこそがメルセデス・ベンツの中のメルセデス・ベンツ。まごうかたなきメルセデスの頂点は「Sクラス」でも「ゲレンデヴァーゲン」でも、「マイバッハ」でもなく。「ウニモグ」である。「ウニモグ」とは「Universal Motor Geret」の略であり、日本語で言えば多目的動力装置、ということ。そうメルセデスの本当の姿は、こういう働く自動車であるべきなのだ。写真はかなり前の「ウニモグ」だが、今でももちろん「似たようなもの（シリーズU219/U319など）」を新車で購入可能。自動車をとことんこき使って作業する職種の方は、どうぞ迷わず「ウニモグ」をお買い求め下さい。1000種類とも言われる専用アタッチメントがあなたの要求と期待を裏切りません。<br> Photo: Markus Heimbach</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Fiat-500-Jolly-729x486-4ecd1d870f493df6.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Fiat-500-Jolly-729x486-1bc2a6a907e4142b.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>フィアット500ジョリー: </strong>この車ほど人生を甘くしてくれる車はない。ギア社は、当時のフィアット副社長アグネリの要請を受けて、ブリキの切れ端を使って、フィアット500に籐の椅子を載せた風通しの良いビーチカーを作り、日当たりの良いマリーナの前に置いた。<br> その後、日よけ付きのバスケットが量産されたが、わが国（ドイツ）ではVWビートルよりも高価だったため、顧客にはあまり喜ばれなかった。<br> 大林晃平: 小粋でお洒落なビーチカーの最高傑作がこれ。ちゃんとメーカーが作っていっていたというのがなんとも良いセンスである。オナシスやハリウッドスターもこぞって購入し、自分の敷地内でちょっとそこまで、と乗っていたらしい。ワイパーもないし、もちろん雨が降れば、はいそれまでよ。でもそんな実用性を語ること自体、野暮ってもんです。お洒落なサンダルに実用性や耐久性など不要であるように、あくまでもさらっと乗って、さらっと降りる。あとは召使いが整備して次の夏まで車庫で保管、そういう自動車なんですから。<br> Photo: Angelika Emmerling</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Shelby-Cobra-729x486-e912b0b14298229b.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Shelby-Cobra-729x486-35ce5e71921eca8e.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>シェルビー コブラ： </strong>フェラーリに悪魔のような排気量の怖さを教えた。テキサスの養鶏業者であるキャロル シェルビーは、60年代に最も毒のあるヤンキースポーツカーを作った。<br> それは、ACエースというリーフストラングの島型ロードスターに、フォードの棚にあった太いエンジンをボンネットに積むというものだった。特に、「シェルビー コブラ427」は、7リッターV8で500馬力を発揮した。<br> 大林晃平: 映画「フォードvsフェラーリ」でも主役を張った（？）コブラ。乗りこなすのにはもちろん豪胆な精神力と強大な左足の力と腕力が必要。今のフェラーリと違い、免許取り立ての人には絶対に無理。でも本来スポーツカーというのは乗り手を選ぶものなのではないだろうか。男らしい自動車の最右翼。レプリカも世の中に多数あるが、いずれにしろ乗りこなせたならば、あなたはまごうかたなき「漢」である。<br> Photo: Alexandra Lier</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/McLaren-F1-729x486-e320de9e57870d2c.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>マクラーレンF1： </strong>90年代にスーパーカーの頂点に立ったマシンだ。最高速度370km/h、秒速103mは、20年後の「ラ フェラーリ」でも実現していない。<br> 1997年のル マン優勝車に搭載された600馬力の12気筒エンジンは、BMWが供給したもの。奇妙なことに、「F1」はドライバーが中央に座る3人乗りであるため、イギリスからの輸出のための改造費を節約できたという逸話もある。オリジナルの価格は140万マルク（約9,500万円）！<br> 大林晃平: ゴードン マレーの最高傑作はこの「F1」なのではないだろうか。一切の妥協を許さず、徹底的に利益を度外視して作った自動車。今度の「T.50」であっても、この「マクラーレンF1」の持つ絶対的な世界には近づけないものがある。完璧、完全なスーパースポーツというのは、まさにこの「マクラーレンF1」のためにある言葉ではないだろうか。<br> Photo: Uli Sonntag</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Opel-RAK-729x486-6ff334c5aae595ed.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>オペルRAK： </strong>オペルはかつて、ロケットの束の下に4つの車輪をボルトで固定するほどクレイジーだった。1928年4月、ロケットを搭載した最初のオペルがサーキットを疾走し、センセーションを巻き起こした。そして、1928年5月23日、アダムの孫であるオペルの「ラケッテンフリッツ」は、120キロの爆薬を搭載した「RAK 2」で、ベルリンのアヴスアウトバーンを時速230キロで疾走した。世界記録には届かなかったが、何千人もの観客はとにかく気に入ってくれた。<br> 大林晃平: こういう破天荒なモデルがオペルにあったことには、驚くほどしかない。いくら現代のブガッティが1000馬力で400km/hを記録したところで、そんなラグジュアリーな体験などこの「RAK」の前ではお金持ちの余技である。1920年代にはこういった「ロケット自動車（ロケット汽車も存在した）」が記録を達成するために多く存在したが、とにかく偉いのはそのドライバーである。命を懸けて勇敢に記録に挑むドライバー、ロケットに点火された瞬間「やっぱりやめておきゃよかった」とか、後悔しなかったのだろうか・・・。<br> Photo: Werk</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lancia-Lambda-729x486-0625d7d9f65b3a0e.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>ランチア ラムダ: </strong>他の車よりも軽く、軽快で、回転数も高く、低重心で、独立したフロントサスペンションを持ち、両輪にはブレーキが付いていた。そして、各ホイールにはブレーキがついていた。<br> 自動車産業がまだ原始時代にあった頃、ランチアは明日の車を持ってきた。独立したボディ、キングシャフトエンジン。ラムダは、ベントレーのトラックをはじめとする競合他社を圧倒した。<br> 大林晃平: 伝説のジャーナリスト、故小林彰太郎先生が、「無人島に一台のクルマと島流しにあうとしたら、迷わずラムダを選ぶ。一生分のタイヤをそえて」、と記されているのを今でも覚えているが、ラムダのどこにそれほどの魅力を感じ、一生の伴侶に選んだのだろう。どうして「オースティン セブン」ではなく、「ブガッティ」でもなく、ましてや「シトロエン エグザンティア」でなく「ラムダ」なのだろう、とずっと疑問に思っていた。<br> その回答はおそらく自分で所有し、自分のガレージで、自分の手を汚し、悪戦苦闘しながら魅力的な機構のひとつひとつをパズルでも解くかのように検証しなければ、本当の核心には到達できないだろう。だが、この写真を眺めていたらどことなくその佇まいが小林先生に似ていることに、今、気が付いた。<br> Photo: Markus Heimbach</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Facel-Vega-HK-500-560x373-fb83842ef720d19f.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>ファセル ヴェガHK500:</strong> 先鋭的なルックス、サウンドがここにフィット。さあ、ゴッサムシティを走ってジョーカーを追いかけよう。フランスの高級ブランドは、当時のジェットセットのために車を作っていた。パリで10年間だけ作られたが、アンティーブでもよかった。1958年、クライスラー製の5.8リッターV8を搭載した洗練された大型クーペは、ファセル社の創業者であるジャン・ダニノスが自らデザインしたフォルムを備えていた。<br> 大林晃平: 「ファセル ヴェガ」を愛していた女性がいた。雰囲気も佇まいもこの車に本当にぴったりで、「ファセル ヴェガ」の名前を聞くたびに、その人のことだけ思い出してしまう。ノーブルで、崇高な雰囲気を持ちながらもどこか妖艶、そんな「ファセル」は、乗り手を激しく選ぶ車だと思う。誰もが似合わない、オーナーを限定する自動車、今の世の中にこういった雰囲気のクルマはない。そして「ファセル」の成り立ちを理解したものだけが許される世界なのだろう。<br> Photo: Lars Busemann</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-300-SL-Fluegeltuerer-729x486-46d764c002529ac4.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Privat</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-300-SL-Fluegeltuerer-729x486-d83083c170aa269f.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>メルセデス・ベンツ300SLガルウイング: </strong>1950年代のボディビル時代を象徴する存在。誰もが知っている300SL。W198を1400台生産して60台しか国内に残らず、そのほとんどをアメリカに輸送していた時代のこと。<br> 1950年代の夢の車を運転するのは、目にも耳にも楽しいものだということは、ブリキのガルウイングの下から車内を覗かせてもらったことのある人なら誰でも知っている。その点は、今も何も変わっていない。そして、それがこの車の走りなのだ。<br> 大林晃平: ゲルマン民族の誇り。「Eタイプ対300SL」は、「スピットファイア対メッサーシュミット」であったともいえる。メルセデス・ベンツの歴代のクルマの中で最高の一台とは？と聞かれた時に、セダンであれば「6.3」だとか「いや6.9だ」、「500Eに決まってる」などと意見が分かれるだろうが、スポーツカーといえば「300SL」と圧倒的に票が一致することは明らかである。<br> その「300SL」のエンジンは生産車として、世界で最初の（ガソリン）燃料噴射エンジンであり、言うまでもなく6気筒であった。その名の通り3リッターの直6エンジンは215馬力を発生し、4MTと組み合わされ、当時の最高の高性能車であった。<br> もちろんガルウイングドアやルマン、石原裕次郎と力道山、といった300SLの名声を、ここまで高めるためのアイテムは多数あるが、シルバーがもっとも似合うメルセデスは、永遠にこの「300SL」であろう。巨人軍の「3番」みたいなものである。<br> Photo: RM Auctions</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Alfa-Romeo-1900-Sprint-729x486-84200b0530ab517d.jpg" alt=""/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Alfa-Romeo-1900-Sprint-729x486-1efc971038d3532c.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>アルファロメオ1900スプリント: </strong>ピニンファリーナのデザインは、もちろんフェラーリだけのものではなかったし、ほかにもベルトーネ、ギア、ヴィニャーレなどのアーティストも、ミッレノベ（アルファロメオ）のためにシートメタルドレスを仕立てた。<br> 幸運なことに、彼らは後にアレーゼで楽しい105シリーズのクーペを製造していたため、いまでもこんなクルマを見つけることもできる。<br> 大林晃平: アルファロメオに特別なボディを仮装する、最近（でもなく、もうネオクラシックではあるが）では、そんな例に「SZ」などもあったが、その昔はもっと優美で本当に飾っておきたいようなデザインのクルマが多数あった。この「1900」もその一台であり現在の世の中で見ると、なんともほっとするような暖かいデザインだ。特にリアの曲線美は文句なしのバランスだし、アルファロメオのグリルも完成されたプロポーションといえる。エンジンも言うまでもなくDOHCであるし、先進的なサスペンションを持つなど、60年前の車とは思えないほど、当時のアルファロメオは進んでいたのである。</p>
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<p class="has-text-color has-luminous-vivid-orange-color"><strong><a href="http://autobild.jp/?p=8758&amp;page=2&amp;preview=true">次ページ　プジョー 205GTI　に続く</a></strong></p>
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<!-- wp:html -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="729" height="486" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4.jpg 729w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4-696x464.jpg 696w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2021/07/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4-630x420.jpg 630w" sizes="auto, (max-width: 729px) 100vw, 729px" /></div><!-- wp:paragraph -->
<p>我々はクラシックカーが大好きで、愛してやまない。<br>  年を追うごとに、より多くの車がクラシックカーとして成熟し、Hナンバーを取得し、クラシックカー愛好家の注目を集めるようになっている。<br>  クラシックカーに乗るということは、毎日の過酷な通勤や、冬の塩分を含んだ道路を走ることから解放されることを意味する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/3/7/fe14427a0e4ccace.jpeg?impolicy=leadteaser" alt=""/><figcaption>多くの人にとって、最も美しいBMWの一つであり、80年代の夢の車、それがBMW M5（E28）だ。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>走行距離が少なくても、暖房の効いた駐車場や高額なメンテナンスが必要なクルマは？<br>  車両価格以上のコストでレストアされるべき車は？<br>  30年以上経過した車すべてがそうではない、それだけは確かだ。<br>  しかし、夢のようなクラシックカーライフを送るために「アウトビルトクラシック（AUTO BILD KLASSIK）」チームが、価値のある50台を選ぶ。<br>  老朽化した技術を誇張して維持することに価値がある車。<br>  外が晴れていても、作業場で手を汚す価値のある車。<br>  そのためには、時には自分のシャツを脱ぐことも必要だ。<br>  それらはすべて、我々が愛する、あるいは全力で愛したいと思う1台のクルマのためにあるのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<h3>夢のようなクラシックカー50選</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>  我々はそれを知っているし、あなたたちも知っている。<br>  現在の自動車の大半は、日常的にはスマートなパートナーであるかもしれないが、我々の目には個性がないように映る。<br>  我々が好きだと思う50台のクラシックカーの価値観を押し付けるつもりは毛頭ないが、それでも「ジャガーEタイプ」、「ランドローバー」、「メルセデスW116」など、絶対に見逃せないクルマはある。<br>  以下、フォトギャラリーでは、人生のための、あるいは夢のための、「アウトビルトクラシック（AUTO BILD KLASSIK）」編集部の選んだ、50台の素晴らしいクラシックカーをご紹介する。<br>  豊富な知識を備えた通人の集まりである、「アウトビルトクラシック）」編集チームならではの、新旧取り混ぜた、ユニークで楽しいラインナップとなっており、思わず微笑んだり、驚いたり、なるほどと納得したり、今まで知らなかったクルマが登場したりと、存分に堪能できる内容となっている。<br>  エンジョイ！</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lamborghini-Miura-729x486-097f54a7ec2db4f4.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lamborghini-Miura-729x486-bd209fdadf69a343.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>ランボルギーニ ミウラ： </strong>説明は省略というか不要だろう。新しいスーパーカーの世界を創造するビッグバンだったのだ。一度でも運転したことのある人は、あの寂しい峠道に何度も戻りたいと思うものだ。<br> ドライバーの後ろに横置きされた12気筒エンジン、フラットなボディに特徴的なプラスチック製のまつげがついた跳ね上げ式ヘッドライト、軽量化のためのパンチングフレーム。そして、急に意地悪になることもあるハンドリング。<br> 大林晃平: 世界一美しいスポーツカーは、このミウラという評価はもう永続的なものなのだろう。フランク シナトラ、サミー デービスJr.、パーレビ国王をはじめとする世界中の王族などなど、この車を愛した者は多い。冷却性と騒音問題はつねにミウラにつきまとい、耐久性とか快適性などは期待すること自体が間違い。でもミウラのような車は美しいなぁ、格好いいじゃん、それで十分。もうこういうストレートに美しい、ごてごてエアロパーツなどを持たないスーパースポーツカーは二度と現れないのだろうか？<br> Photo: Sassen</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lloyd-Alexander-TS-729x486-536a957fa3f35e53.jpg" alt=""/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>ロイド アレクサンダーTS: </strong>マジで?　そうなの！？　なぜなら、すべてのスポーティなスモールカーの祖先だからだ。まだハッチバックも発明されていなかった。25馬力と傾斜したリアアクスルを持つ1958年の「アレキサンダーTS（ツーリングスポーツ）」は、「ビートル」を脅かすのに適していた。この車は、A地点からB地点に移動するだけではなく、小さな人たちが楽しめるようになっていた。<br> 大林晃平: ロイド？　なにそれ？　な人のためにちょっとだけ解説しておくと、ロイドは、ドイツのロイド海運会社の子会社であり、ドイツの著名な工業地帯である、ブレーメンで作られたドイツ車である。この写真の「アレクサンダー」は、ロイドの中でも非常に多く作られた車種で、ざっと17万台以上が作られている（驚くほど多い）。残念ながら会社そのものが経営破綻してしまい、1960年代には姿を消してしまったが、この写真のモデルはなかなか上品なカラーリングで素敵な小型車である。<br> Photo: Bernd Ahrens</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/BMW-M5-729x486-49d197d1daea5254.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Uli Sonntag</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/BMW-M5-729x486-3cabae39d1f9e548.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>BMW M5（E28）: </strong>羊の皮を被った狼。スーパーカー「M1」直系のエンジン「M88/3」は徹頭徹尾、黒子に徹する。「ビジネスマンズエクスプレス」の先駆けだ。<br> 現在では、現行M5の560馬力に感動する人はいないが、1985年のM5の286馬力と251km/hの最高速度が巻き起こしたセンセーションはすさまじいものであった。フェラーリ328のエンジンよりも高出力である。<br> 大林晃平: 「羊の皮を被った狼」という有名なフレーズは、この「M5」のようなクルマのために本来ある。そもそもの歴史は「M535」にさかのぼるが、とにかく普通の5シリーズにBMWのモータースポーツ部門特製のエンジンを積んだ車、それが本来の「M」なのである。当時はもちろんMTのみ、また見分けるポイントはバッチと太いタイヤくらいだったため、バッチをとって「普通の5シリーズを装う」といった粋人が多くあらわれた。このころの「M5」に比べると、今の5シリーズは化け物のように高性能で、その姿も迫力満点、ちっとも「羊の皮をかぶっていない狼」、なのである。<br> Photo: Werk</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-450-SEL-6-9-729x486-23598ecd20008da1.jpg" alt=""/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-450-SEL-6-9-729x486-2754c4421fc5f7b9.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>メルセデス・ベンツ450SEL 6.9： </strong>こんなにも真剣にクレイジーなものはない。70年代最大のエンジンを搭載したW116と呼ばれるブリキの権威は、企業の上司や首相のためのメルセデスだ。<br> 「ユーバーSクラス450SEL 6.9」として、この高級セダンはシュヴァーベンの技術的な強さを象徴していたが、すぐにファンを獲得したにもかかわらず、後継車は出なかった。ハイドロニューマチックサスペンション、ロングホイールベース、エアコンが標準装備されていた。<br> 大林晃平: 個人的にメルセデス・ベンツのセダンで、圧倒的に好きなのがこの「6.9」だ。普通の「450SEL」でも十分高性能なのに、特別な靴ベラで押し込んだと言われた6900ccエンジンを積み、外見は「6．9」のバッチのみのが判別点、と魅力満載。もちろん性能は圧倒的で、下手にアクセルを踏むとあっという間にホイールスピンしたという。<br> 日本には正規輸入されなかったが、少数が並行輸入され、また「6.9」のバッチがたくさん輸入され、450SELとか280SEに貼るのが流行ったという。本国ではバッチを外すのが流行ったというのに……。<br> Photo: Goetz von Sternenfels / AUTO BILD</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Audi-Sport-Quattro-729x486-eb164d65bae0e180.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Angelika Emmerling</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Audi-Sport-Quattro-729x486-31f7a566ab24bece.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>アウディ スポーツ クワトロ: </strong>新しい世界を切り開いた。アウディのスポーティなイメージは、何よりもスポーツクアトロに支えられている。306馬力の「スポーツ クアトロ」は、220台しか生産されなかった。当初の価格は204,000マルク（約1,380万円）という天文学的な価格だった。<br> 世界ラリー選手権でランチアとプジョーに一泡吹かせるために、リンゲグループが「ショートワン」を送り出す以前は、アウディとその顧客は、よく言えば価値に保守的であると考えられていた。<br> 大林晃平: 戦うための車。ラリーで優勝するためにはなりふり構ってなんかいられないよ、という言葉が聞こえてきそうだ。実際にこの写真だけで見ると、ものすごくショートホイールベースで、どことなくチョロQのようにアンバランスに見えるが、実際に車を目の当たりにすると、そんなことを思う隙のないほどぎゅっと凝縮された情熱、のようなものを感じる。格好ではなく性能、そして成績。これほどまでに割り切ったアウディは今までにない。<br> Photo: Lena Barthelmess</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Morgan-8-729x486-83f1c0cd04f0f9ed.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>モーガン＋8： </strong>このデザインは、歴史のあらゆる崖を越えて、シミジミと進むことができた。1936年にモーガンが初の四輪車を発表して以来、モノはほとんど変わっていない。1968年からは、ローバー製のV8エンジンを搭載したモーガンが登場した。このワイルドなロードスターの化石が十分にポップでないとしたら、あなたはこの世界にはタフすぎる。+8のドライビングは五感に過剰な刺激を与えてくれる。<br> 大林晃平: 今でもモーガンは文字通り昔ながらの手作り工房である。この「＋8」は8気筒モデルだが、モーガンといえば、言うまでもなく木のフレームで作られている、というのが有名。しかし、もちろん自動車すべてが全部木であるわけもなく、ちゃんと（？）鉄のはしご型フレームを持ち、随所に木を部分的に使っている（当たり前ではある　が、クルマ一台全部木というのはさすがに無理すぎる）。ちなみに80年前になんで木を使ったかというと、そのころは木こそが「軽量な素材」であったがため、である。<br> Photo: Bernd Hanselmann</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Unimog-729x486-3e6e46e3a1ac95a6.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Unimog-729x486-bccbec8a0b9ab2be.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>ウニモグ: </strong>その名に恥じない普遍的な機械だ。1940年代末、シュヴェービッシュ グミュントにあるエアハルト＆ゾーネ社で、トラクターとトラックを合体させた独創的なモデルが考案された。そして、メルセデスが買収するまでは、ゲッピンゲンのベーリンガー社で製造された。<br> これまでに製造されたウニモグの半数以上が今でも走っている。「不滅」という言葉は、万能の天才ほど似合うものはない。<br> 大林晃平: 「ウニモグ」、これこそがメルセデス・ベンツの中のメルセデス・ベンツ。まごうかたなきメルセデスの頂点は「Sクラス」でも「ゲレンデヴァーゲン」でも、「マイバッハ」でもなく。「ウニモグ」である。「ウニモグ」とは「Universal Motor Geret」の略であり、日本語で言えば多目的動力装置、ということ。そうメルセデスの本当の姿は、こういう働く自動車であるべきなのだ。写真はかなり前の「ウニモグ」だが、今でももちろん「似たようなもの（シリーズU219/U319など）」を新車で購入可能。自動車をとことんこき使って作業する職種の方は、どうぞ迷わず「ウニモグ」をお買い求め下さい。1000種類とも言われる専用アタッチメントがあなたの要求と期待を裏切りません。<br> Photo: Markus Heimbach</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Fiat-500-Jolly-729x486-4ecd1d870f493df6.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Fiat-500-Jolly-729x486-1bc2a6a907e4142b.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>フィアット500ジョリー: </strong>この車ほど人生を甘くしてくれる車はない。ギア社は、当時のフィアット副社長アグネリの要請を受けて、ブリキの切れ端を使って、フィアット500に籐の椅子を載せた風通しの良いビーチカーを作り、日当たりの良いマリーナの前に置いた。<br> その後、日よけ付きのバスケットが量産されたが、わが国（ドイツ）ではVWビートルよりも高価だったため、顧客にはあまり喜ばれなかった。<br> 大林晃平: 小粋でお洒落なビーチカーの最高傑作がこれ。ちゃんとメーカーが作っていっていたというのがなんとも良いセンスである。オナシスやハリウッドスターもこぞって購入し、自分の敷地内でちょっとそこまで、と乗っていたらしい。ワイパーもないし、もちろん雨が降れば、はいそれまでよ。でもそんな実用性を語ること自体、野暮ってもんです。お洒落なサンダルに実用性や耐久性など不要であるように、あくまでもさらっと乗って、さらっと降りる。あとは召使いが整備して次の夏まで車庫で保管、そういう自動車なんですから。<br> Photo: Angelika Emmerling</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Shelby-Cobra-729x486-e912b0b14298229b.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Werk</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Shelby-Cobra-729x486-35ce5e71921eca8e.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>シェルビー コブラ： </strong>フェラーリに悪魔のような排気量の怖さを教えた。テキサスの養鶏業者であるキャロル シェルビーは、60年代に最も毒のあるヤンキースポーツカーを作った。<br> それは、ACエースというリーフストラングの島型ロードスターに、フォードの棚にあった太いエンジンをボンネットに積むというものだった。特に、「シェルビー コブラ427」は、7リッターV8で500馬力を発揮した。<br> 大林晃平: 映画「フォードvsフェラーリ」でも主役を張った（？）コブラ。乗りこなすのにはもちろん豪胆な精神力と強大な左足の力と腕力が必要。今のフェラーリと違い、免許取り立ての人には絶対に無理。でも本来スポーツカーというのは乗り手を選ぶものなのではないだろうか。男らしい自動車の最右翼。レプリカも世の中に多数あるが、いずれにしろ乗りこなせたならば、あなたはまごうかたなき「漢」である。<br> Photo: Alexandra Lier</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/McLaren-F1-729x486-e320de9e57870d2c.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>マクラーレンF1： </strong>90年代にスーパーカーの頂点に立ったマシンだ。最高速度370km/h、秒速103mは、20年後の「ラ フェラーリ」でも実現していない。<br> 1997年のル マン優勝車に搭載された600馬力の12気筒エンジンは、BMWが供給したもの。奇妙なことに、「F1」はドライバーが中央に座る3人乗りであるため、イギリスからの輸出のための改造費を節約できたという逸話もある。オリジナルの価格は140万マルク（約9,500万円）！<br> 大林晃平: ゴードン マレーの最高傑作はこの「F1」なのではないだろうか。一切の妥協を許さず、徹底的に利益を度外視して作った自動車。今度の「T.50」であっても、この「マクラーレンF1」の持つ絶対的な世界には近づけないものがある。完璧、完全なスーパースポーツというのは、まさにこの「マクラーレンF1」のためにある言葉ではないだろうか。<br> Photo: Uli Sonntag</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Opel-RAK-729x486-6ff334c5aae595ed.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>オペルRAK： </strong>オペルはかつて、ロケットの束の下に4つの車輪をボルトで固定するほどクレイジーだった。1928年4月、ロケットを搭載した最初のオペルがサーキットを疾走し、センセーションを巻き起こした。そして、1928年5月23日、アダムの孫であるオペルの「ラケッテンフリッツ」は、120キロの爆薬を搭載した「RAK 2」で、ベルリンのアヴスアウトバーンを時速230キロで疾走した。世界記録には届かなかったが、何千人もの観客はとにかく気に入ってくれた。<br> 大林晃平: こういう破天荒なモデルがオペルにあったことには、驚くほどしかない。いくら現代のブガッティが1000馬力で400km/hを記録したところで、そんなラグジュアリーな体験などこの「RAK」の前ではお金持ちの余技である。1920年代にはこういった「ロケット自動車（ロケット汽車も存在した）」が記録を達成するために多く存在したが、とにかく偉いのはそのドライバーである。命を懸けて勇敢に記録に挑むドライバー、ロケットに点火された瞬間「やっぱりやめておきゃよかった」とか、後悔しなかったのだろうか・・・。<br> Photo: Werk</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Lancia-Lambda-729x486-0625d7d9f65b3a0e.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>ランチア ラムダ: </strong>他の車よりも軽く、軽快で、回転数も高く、低重心で、独立したフロントサスペンションを持ち、両輪にはブレーキが付いていた。そして、各ホイールにはブレーキがついていた。<br> 自動車産業がまだ原始時代にあった頃、ランチアは明日の車を持ってきた。独立したボディ、キングシャフトエンジン。ラムダは、ベントレーのトラックをはじめとする競合他社を圧倒した。<br> 大林晃平: 伝説のジャーナリスト、故小林彰太郎先生が、「無人島に一台のクルマと島流しにあうとしたら、迷わずラムダを選ぶ。一生分のタイヤをそえて」、と記されているのを今でも覚えているが、ラムダのどこにそれほどの魅力を感じ、一生の伴侶に選んだのだろう。どうして「オースティン セブン」ではなく、「ブガッティ」でもなく、ましてや「シトロエン エグザンティア」でなく「ラムダ」なのだろう、とずっと疑問に思っていた。<br> その回答はおそらく自分で所有し、自分のガレージで、自分の手を汚し、悪戦苦闘しながら魅力的な機構のひとつひとつをパズルでも解くかのように検証しなければ、本当の核心には到達できないだろう。だが、この写真を眺めていたらどことなくその佇まいが小林先生に似ていることに、今、気が付いた。<br> Photo: Markus Heimbach</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Facel-Vega-HK-500-560x373-fb83842ef720d19f.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>ファセル ヴェガHK500:</strong> 先鋭的なルックス、サウンドがここにフィット。さあ、ゴッサムシティを走ってジョーカーを追いかけよう。フランスの高級ブランドは、当時のジェットセットのために車を作っていた。パリで10年間だけ作られたが、アンティーブでもよかった。1958年、クライスラー製の5.8リッターV8を搭載した洗練された大型クーペは、ファセル社の創業者であるジャン・ダニノスが自らデザインしたフォルムを備えていた。<br> 大林晃平: 「ファセル ヴェガ」を愛していた女性がいた。雰囲気も佇まいもこの車に本当にぴったりで、「ファセル ヴェガ」の名前を聞くたびに、その人のことだけ思い出してしまう。ノーブルで、崇高な雰囲気を持ちながらもどこか妖艶、そんな「ファセル」は、乗り手を激しく選ぶ車だと思う。誰もが似合わない、オーナーを限定する自動車、今の世の中にこういった雰囲気のクルマはない。そして「ファセル」の成り立ちを理解したものだけが許される世界なのだろう。<br> Photo: Lars Busemann</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-300-SL-Fluegeltuerer-729x486-46d764c002529ac4.jpg" alt=""/><figcaption>Photo: Privat</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Mercedes-300-SL-Fluegeltuerer-729x486-d83083c170aa269f.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>メルセデス・ベンツ300SLガルウイング: </strong>1950年代のボディビル時代を象徴する存在。誰もが知っている300SL。W198を1400台生産して60台しか国内に残らず、そのほとんどをアメリカに輸送していた時代のこと。<br> 1950年代の夢の車を運転するのは、目にも耳にも楽しいものだということは、ブリキのガルウイングの下から車内を覗かせてもらったことのある人なら誰でも知っている。その点は、今も何も変わっていない。そして、それがこの車の走りなのだ。<br> 大林晃平: ゲルマン民族の誇り。「Eタイプ対300SL」は、「スピットファイア対メッサーシュミット」であったともいえる。メルセデス・ベンツの歴代のクルマの中で最高の一台とは？と聞かれた時に、セダンであれば「6.3」だとか「いや6.9だ」、「500Eに決まってる」などと意見が分かれるだろうが、スポーツカーといえば「300SL」と圧倒的に票が一致することは明らかである。<br> その「300SL」のエンジンは生産車として、世界で最初の（ガソリン）燃料噴射エンジンであり、言うまでもなく6気筒であった。その名の通り3リッターの直6エンジンは215馬力を発生し、4MTと組み合わされ、当時の最高の高性能車であった。<br> もちろんガルウイングドアやルマン、石原裕次郎と力道山、といった300SLの名声を、ここまで高めるためのアイテムは多数あるが、シルバーがもっとも似合うメルセデスは、永遠にこの「300SL」であろう。巨人軍の「3番」みたいなものである。<br> Photo: RM Auctions</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Alfa-Romeo-1900-Sprint-729x486-84200b0530ab517d.jpg" alt=""/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://i.auto-bild.de/ir_img/1/1/2/3/5/5/0/Alfa-Romeo-1900-Sprint-729x486-1efc971038d3532c.jpg" alt=""/></figure>
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<p><strong>アルファロメオ1900スプリント: </strong>ピニンファリーナのデザインは、もちろんフェラーリだけのものではなかったし、ほかにもベルトーネ、ギア、ヴィニャーレなどのアーティストも、ミッレノベ（アルファロメオ）のためにシートメタルドレスを仕立てた。<br> 幸運なことに、彼らは後にアレーゼで楽しい105シリーズのクーペを製造していたため、いまでもこんなクルマを見つけることもできる。<br> 大林晃平: アルファロメオに特別なボディを仮装する、最近（でもなく、もうネオクラシックではあるが）では、そんな例に「SZ」などもあったが、その昔はもっと優美で本当に飾っておきたいようなデザインのクルマが多数あった。この「1900」もその一台であり現在の世の中で見ると、なんともほっとするような暖かいデザインだ。特にリアの曲線美は文句なしのバランスだし、アルファロメオのグリルも完成されたプロポーションといえる。エンジンも言うまでもなくDOHCであるし、先進的なサスペンションを持つなど、60年前の車とは思えないほど、当時のアルファロメオは進んでいたのである。</p>
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<p class="has-text-color has-luminous-vivid-orange-color"><strong><a href="http://autobild.jp/?p=8758&amp;page=2&amp;preview=true">次ページ　プジョー 205GTI　に続く</a></strong></p>
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