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	<title>エッセイ - AUTO BILD JAPAN Web（アウトビルトジャパンウェブ） 世界最大級のクルマ情報サイト</title>
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	<description>世界最大級のクルマ情報サイトAUTO BILDの日本版。いち早い新車情報。高品質なオリジナル動画ビデオ満載。チューニングカー、ネオクラシックなど世界のクルマ情報は「アウトビルトジャパン」でゲット！</description>
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	<title>エッセイ - AUTO BILD JAPAN Web（アウトビルトジャパンウェブ） 世界最大級のクルマ情報サイト</title>
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	<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その18（最終回）　デューセンバーグは超高級車</title>
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		<pubDate>Tue, 12 Aug 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="1037" height="687" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" fetchpriority="high" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2.jpg 1037w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2-300x199.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2-1024x678.jpg 1024w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2-768x509.jpg 768w" sizes="(max-width: 1037px) 100vw, 1037px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">7日目 2月23日（パート3）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ザ ロー コレクション」の展示車の解説が2回続いていささか食傷気味の読者諸氏もいるかと思うが、あと3台紹介したいクルマがあるのでお付き合いください。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ここで一度、大西洋を渡ってアメリカに目を向けてみよう。ロー コレクションにはアメリカ車の逸品も展示されており、そのなかで注目はやはりデューセンバーグ、アメリカの富と成功の象徴だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フレッド（Fred）とオーガスト(August)のデューセンバーグ（Duesenberg）兄弟が、ミネソタ州セントポールにてデューセンバーグ モーターを設立したのは1913年のこと。兄弟は1922年に意欲作モデルAを発売するが、あまりに高価ゆえ期待通りには売れず、これが躓き（つまずき）の元になって経営に行き詰まる。救いの手を差し伸べたのは実業家のイリット ロッバン コード（Errett Lobban Cord）という人物だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>イリット コードは20世紀中盤までアメリカの輸送産業を牽引したビジネスマン。1924年、その卓越したビジネス手腕を駆使して、当時財政苦境に陥っていたオーバーン オートモビル カンパニー（ACC）の経営方針決定権を手に入れる。彼は同社をたちまち利益の上がる企業へと復活させ、翌1925年2月、正式に同社の社長に就任すると同時に経営権を掌握した。そうしてACCが上げる利益を使って様々な企業の買収を始める。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ちなみに高級車メーカーの「コード」は彼自身が興したブランドで、皆さんも特異なスタイルをしたコード810/812の写真を見たことがあるだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>イリットが買収したブランドにはデューセンバーグもあった。1926年10月26日以降、同社はコードの支配下に入り、その際、社名もデューセンバーグInc.に改まった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>新体制下で放った第一作がモデルJで、1928年のニューヨークショーでデビューするや、威風堂々たるスタイルと先進的な設計でたちまち人々の注目を集めた。自然吸気ストレート8は、同社のレーシングエンジンの技術を取り入れたユニットで、気筒当たり4バルブのDOHCという今日に通じる先進的な設計が特徴だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この直列8気筒は、3.74in (95mm) x 4.76in (121mm)のボアストロークから420cu in (6900cc)の排気量を得て265hp/4250rpmの最高出力を発揮、重量級オープンボディを2速でも89mph (143km/h)まで引っ張り、最高速は116mph (187km/h)に達したという。モデルJは当時お金で買えた最速にしてもっとも高価なアメリカ車だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-4.jpg" alt="" class="wp-image-54842"/><figcaption class="wp-element-caption">デューセンバーグ モデルJ コンバーチブル クーペ。製造期間：1928～1937年。自然吸気 直列8気筒。排気量：420cu in (6900cc)。最高出力：265hp/4250rpm。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>モデルJは総数300台前後が製作された。その半数に同社チーフエクステリアデザイナーのゴードン ビューリグ（Gordon Buehrig）のペンが描いたボディが架装された。残りの半数はアメリカ国内の様々なコーチビルターがオーナーの好みに合わせたボディを製作、ロー コレクションが展示する1台はマーフィー（Murphy）の作品である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ウォルター M マーフィー（Walter M Murphy Company）はカリフォルニア州パサディナにワークショップを構えるコーチビルダーで、1922年に創業し1932年までボディ製作をつづけた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>イリット コードのリーダーシップのもと、モデルJを世に放って順調な再出発を遂げたデューセンバーグだったが、まもなく時代の波に翻弄されることになる。モデルJを発表したわずか翌年の1929年10月、ウォール街の株価暴落に端を発する世界大恐慌が勃発、この高級ブランドに壊滅的な打撃を及ぼした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>デューセンバーグはすこぶる高価なクルマだった。1928年当時、モデルJはシャシー単体で8500ドル、完成車は1万9000ドルもした。専門職である内科医の年間収入が3000ドルに満たなかった時代の話である。なんとか生産をつづけて契約済みの顧客に納車したが、最後は力尽き、世界中の富裕層から惜しまれつつ1937年にファクトリーのドアを閉じた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その希少性とプレスティッジ性ゆえ、デューセンバーグは今日、天井知らずの高値で取引されている。オークションハウス サザビーズによると、1930年製のマーフィー ボディを架装したモデルJ ディスアピアリング トップ（Disappearing Top）コンバーチブル クーペは、 2024年のオークションにて 385万5000ドルで落札されたという。2025年7月、本稿執筆時のドル換算レート（144.38 円/ドル）でおよそ5億5660万円（！）である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なお、トヨタ博物館にもルバロン ボディのモデルJフェートンが展示されている。興味のある方は足を運ばれるといいだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">VWタイプ1（ビートル）はタトラ V570のコピー？</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>漆黒に塗色された大柄なサルーンを目にして、私はギョッとした。緩やかな下降線を描くファストバックの真ん中から、大きな背びれが生えている。これは一体なんだ？しばらくしてメーカーの見当だけはついた。東欧チェコのタトラ（Tatra）だ。それ以上の細目がわかったのはようやく日本に戻ってからで、私を驚かせたタトラは1936年に発表されたT77Aというアッパーミドルクラスサルーンだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":54843,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-4-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-54843 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>タトラT77A。生産期間：1936年～1938年。生産台数：154台。前期型のT77を含めた総生産台数：255台。空冷V8 3.4リッターエンジン。最高出力：70hp。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1930年代当時、さらなるスピードを可能にする方策はただ一つ、大きなエンジンを搭載することだと一般的に考えられていた。しかしエンジンを大型化すれば重量も増え、その重量増を相殺するためにさらに排気量を増やすという「負の連鎖」から免れなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>タトラT77とその正常進化版T77Aは、高速走行を可能にするもう一つの手段として空気抵抗の低減に着目した先駆者の一人であり、その後の自動車のデザインに大きな影響を及ぼしたゲームチェンジャーだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>T77を完成させた功労者は二人いる。一人はエンジニアのハンス レドヴィンカ（Hans Ledwinka）、もう一人は空気力学のスペシャリスト、パウル ヤーライ（Paul Jaray）である。ヤーライはウィーン生まれのハンガリー人で、飛行船ツェッペリンのデザイナーでもある。LZ 127 グラーフ ツェッペリン(Graf Zeppelin)や、LZ 129ヒンデンブルク（Hindenburg）は彼の作品だ。余談だがハンガリーでは、姓名は日本と同じく「姓・名」の順に並ぶ。発音を含めて「ヤーライ パル」がもっとも原語に近いと思われる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>話は1931年、タトラR&amp;D部門の一隅から始まる。この年、レドヴィンカはT77の原点となるV570を製作、バックボーンフレームのリヤに2気筒エンジンを搭載した試作車だった。次いで1933年のV570 2号車では、原始的ではあるが空力の理論を取り入れた涙滴形状のボディを試行、ヤーライが提唱する空力理論を取り入れた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>二人の作業が進むそんなとき、タトラを訪れたある重要人物がV570の2号車に試乗して、いたく感激する。その人物とはアドルフ ヒトラーその人。あれは「国民車」の構想に合っているとフェルディナント ポルシェ博士に伝えた。1938年に登場したVWタイプ1「ビートル」は成り立ちといい恰好といい、不気味なまでにV570に似ていた。以降、タトラとVWとは微妙な関係になるが、1965年にVWが100万マルクを支払ってコトは落着したといわれる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>話を戻そう。V570で得た教訓は、タトラがかねてから計画していたニューモデルT77で実を結んだ。T77の機構には設計者レドヴィンカの理念が色濃く表れている。シャシーの骨格は箱形断面のスチール製バックボーンで、その後部が二股に分かれてエンジンとトランスミッションを抱える。サスペンションは前が2枚の横向きリーフスプリング。後ろはやはり横置きリーフスプリングによるスイングアクスルだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>空冷エンジンの熱心な信奉者であるレドヴィンカは、T77用にバンク角90度の空冷V8をゼロから設計した。2970ccの排気量から60hp/3500rpmの最高出力を生み出す。特殊なバルブ開閉機能を取り入れて半球形燃焼室を実現していた辺りに、レドヴィンカの独創性を見ることができる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一方、外観のデザインにはパウル ヤーライが思う存分腕を振るった。風洞実験で得たノウハウを元に、従来のデザインをはるかに上回る空力特性を目標に据えてT77のボディ形状を完成させた。全体形はV570で試行した涙滴形状を踏襲している。フロントフェンダーこそ依然としてボディから独立したパーツだったが、リヤはメインボディと完全に一体のフラッシュサイドとなり、前後フェンダーを繋ぐランニングボードもない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この時代、曲面ガラスはまだ製造できなかった。しかしヤーライはウインドスクリーンが起こす空気抵抗の軽減に意を尽くし、平ガラスを使いながら極力、曲面ガラスに近い形状を目指した。つまり中央に大きな1枚ガラスを据え、その左右にAピラーに向けて角度をつけた縦型ガラスを配したのだ。留めは冒頭に記したエンジンカバー上の「背びれ」である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このテールフィンについては、高速走行時の直進安定性の向上に寄与するとの説明が一般的で、私も素人なりにその通りだろうと思う。しかしこれがあるため横風の影響も受けやすくなりそうで、その効用は限定的だったのでは、と首をかしげてしまう。読者諸氏はどうお考えだろうか？</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ともあれ、こうした細部にわたる工夫を凝らした結果、1/5スケールのモデルでは、空気抵抗係数（Cd値）0.245を実測したという。平均値が0.5を超える1930年代の実用車としては傑出した数値だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ただし現実には大型の空冷V8に充分な冷却気を取り込むインテークを設ける必要があった。ヤーライは熟慮のすえ、ルーフ後端部とエンジンカバー前端に段差を設けた。こうしてできた開口部から冷却風をエンジンベイに流し、エンジンカバー上の2列のルーバーから排出するのだ。これなら空気抵抗を最小限に抑えられる。彼の努力は実を結び、わずか60hpでも140km/hの最高速に達した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>かくして完成したタトラ T77は1934年のプラハショーにて発表される。理想を求めるレドヴィンカはこれに満足することなくT77の改良に取り組んだ。ボアを5mm拡げて排気量を3.4リッターに拡大、最高出力を70hpに高めると同時に、ホイールベースを伸ばして、大人6名が快適に座れるキャビンを実現した。改良版はT77Aと名づけられ、1936年発表の運びとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>リヤエンジンレイアウトと優れた空力特性に特化したボディはタトラのトレードマークとなり、後継車のT87やT97に引き継がれていく。そして今日、電気自動車の航続距離を伸ばす有効な手段として空気力学に新たなスポットライトが当たっている。遠く1930年代にハンス レドヴィンカとパウル ヤーライの二人の技術者が切り拓いたテクノロジーの分野が、今日の乗用車のデザインに従来とは別の意義を持ったのは興味深いことだと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="1037" height="687" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2.jpg 1037w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2-300x199.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2-1024x678.jpg 1024w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/スライド2-2-768x509.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 1037px) 100vw, 1037px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">7日目 2月23日（パート3）</h3>
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<p>「ザ ロー コレクション」の展示車の解説が2回続いていささか食傷気味の読者諸氏もいるかと思うが、あと3台紹介したいクルマがあるのでお付き合いください。</p>
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<p>ここで一度、大西洋を渡ってアメリカに目を向けてみよう。ロー コレクションにはアメリカ車の逸品も展示されており、そのなかで注目はやはりデューセンバーグ、アメリカの富と成功の象徴だ。</p>
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<p>フレッド（Fred）とオーガスト(August)のデューセンバーグ（Duesenberg）兄弟が、ミネソタ州セントポールにてデューセンバーグ モーターを設立したのは1913年のこと。兄弟は1922年に意欲作モデルAを発売するが、あまりに高価ゆえ期待通りには売れず、これが躓き（つまずき）の元になって経営に行き詰まる。救いの手を差し伸べたのは実業家のイリット ロッバン コード（Errett Lobban Cord）という人物だった。</p>
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<p>イリット コードは20世紀中盤までアメリカの輸送産業を牽引したビジネスマン。1924年、その卓越したビジネス手腕を駆使して、当時財政苦境に陥っていたオーバーン オートモビル カンパニー（ACC）の経営方針決定権を手に入れる。彼は同社をたちまち利益の上がる企業へと復活させ、翌1925年2月、正式に同社の社長に就任すると同時に経営権を掌握した。そうしてACCが上げる利益を使って様々な企業の買収を始める。</p>
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<p>ちなみに高級車メーカーの「コード」は彼自身が興したブランドで、皆さんも特異なスタイルをしたコード810/812の写真を見たことがあるだろう。</p>
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<p>イリットが買収したブランドにはデューセンバーグもあった。1926年10月26日以降、同社はコードの支配下に入り、その際、社名もデューセンバーグInc.に改まった。</p>
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<p>新体制下で放った第一作がモデルJで、1928年のニューヨークショーでデビューするや、威風堂々たるスタイルと先進的な設計でたちまち人々の注目を集めた。自然吸気ストレート8は、同社のレーシングエンジンの技術を取り入れたユニットで、気筒当たり4バルブのDOHCという今日に通じる先進的な設計が特徴だった。</p>
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<p>この直列8気筒は、3.74in (95mm) x 4.76in (121mm)のボアストロークから420cu in (6900cc)の排気量を得て265hp/4250rpmの最高出力を発揮、重量級オープンボディを2速でも89mph (143km/h)まで引っ張り、最高速は116mph (187km/h)に達したという。モデルJは当時お金で買えた最速にしてもっとも高価なアメリカ車だった。</p>
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<p>モデルJは総数300台前後が製作された。その半数に同社チーフエクステリアデザイナーのゴードン ビューリグ（Gordon Buehrig）のペンが描いたボディが架装された。残りの半数はアメリカ国内の様々なコーチビルターがオーナーの好みに合わせたボディを製作、ロー コレクションが展示する1台はマーフィー（Murphy）の作品である。</p>
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<p>ウォルター M マーフィー（Walter M Murphy Company）はカリフォルニア州パサディナにワークショップを構えるコーチビルダーで、1922年に創業し1932年までボディ製作をつづけた。</p>
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<p>イリット コードのリーダーシップのもと、モデルJを世に放って順調な再出発を遂げたデューセンバーグだったが、まもなく時代の波に翻弄されることになる。モデルJを発表したわずか翌年の1929年10月、ウォール街の株価暴落に端を発する世界大恐慌が勃発、この高級ブランドに壊滅的な打撃を及ぼした。</p>
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<p>デューセンバーグはすこぶる高価なクルマだった。1928年当時、モデルJはシャシー単体で8500ドル、完成車は1万9000ドルもした。専門職である内科医の年間収入が3000ドルに満たなかった時代の話である。なんとか生産をつづけて契約済みの顧客に納車したが、最後は力尽き、世界中の富裕層から惜しまれつつ1937年にファクトリーのドアを閉じた。</p>
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<p>その希少性とプレスティッジ性ゆえ、デューセンバーグは今日、天井知らずの高値で取引されている。オークションハウス サザビーズによると、1930年製のマーフィー ボディを架装したモデルJ ディスアピアリング トップ（Disappearing Top）コンバーチブル クーペは、 2024年のオークションにて 385万5000ドルで落札されたという。2025年7月、本稿執筆時のドル換算レート（144.38 円/ドル）でおよそ5億5660万円（！）である。</p>
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<p>なお、トヨタ博物館にもルバロン ボディのモデルJフェートンが展示されている。興味のある方は足を運ばれるといいだろう。</p>
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<h3 class="wp-block-heading">VWタイプ1（ビートル）はタトラ V570のコピー？</h3>
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<p>漆黒に塗色された大柄なサルーンを目にして、私はギョッとした。緩やかな下降線を描くファストバックの真ん中から、大きな背びれが生えている。これは一体なんだ？しばらくしてメーカーの見当だけはついた。東欧チェコのタトラ（Tatra）だ。それ以上の細目がわかったのはようやく日本に戻ってからで、私を驚かせたタトラは1936年に発表されたT77Aというアッパーミドルクラスサルーンだった。</p>
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<p>タトラT77A。生産期間：1936年～1938年。生産台数：154台。前期型のT77を含めた総生産台数：255台。空冷V8 3.4リッターエンジン。最高出力：70hp。</p>
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<p>1930年代当時、さらなるスピードを可能にする方策はただ一つ、大きなエンジンを搭載することだと一般的に考えられていた。しかしエンジンを大型化すれば重量も増え、その重量増を相殺するためにさらに排気量を増やすという「負の連鎖」から免れなかった。</p>
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<p>タトラT77とその正常進化版T77Aは、高速走行を可能にするもう一つの手段として空気抵抗の低減に着目した先駆者の一人であり、その後の自動車のデザインに大きな影響を及ぼしたゲームチェンジャーだった。</p>
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<p>T77を完成させた功労者は二人いる。一人はエンジニアのハンス レドヴィンカ（Hans Ledwinka）、もう一人は空気力学のスペシャリスト、パウル ヤーライ（Paul Jaray）である。ヤーライはウィーン生まれのハンガリー人で、飛行船ツェッペリンのデザイナーでもある。LZ 127 グラーフ ツェッペリン(Graf Zeppelin)や、LZ 129ヒンデンブルク（Hindenburg）は彼の作品だ。余談だがハンガリーでは、姓名は日本と同じく「姓・名」の順に並ぶ。発音を含めて「ヤーライ パル」がもっとも原語に近いと思われる。</p>
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<p>話は1931年、タトラR&amp;D部門の一隅から始まる。この年、レドヴィンカはT77の原点となるV570を製作、バックボーンフレームのリヤに2気筒エンジンを搭載した試作車だった。次いで1933年のV570 2号車では、原始的ではあるが空力の理論を取り入れた涙滴形状のボディを試行、ヤーライが提唱する空力理論を取り入れた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>二人の作業が進むそんなとき、タトラを訪れたある重要人物がV570の2号車に試乗して、いたく感激する。その人物とはアドルフ ヒトラーその人。あれは「国民車」の構想に合っているとフェルディナント ポルシェ博士に伝えた。1938年に登場したVWタイプ1「ビートル」は成り立ちといい恰好といい、不気味なまでにV570に似ていた。以降、タトラとVWとは微妙な関係になるが、1965年にVWが100万マルクを支払ってコトは落着したといわれる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>話を戻そう。V570で得た教訓は、タトラがかねてから計画していたニューモデルT77で実を結んだ。T77の機構には設計者レドヴィンカの理念が色濃く表れている。シャシーの骨格は箱形断面のスチール製バックボーンで、その後部が二股に分かれてエンジンとトランスミッションを抱える。サスペンションは前が2枚の横向きリーフスプリング。後ろはやはり横置きリーフスプリングによるスイングアクスルだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>空冷エンジンの熱心な信奉者であるレドヴィンカは、T77用にバンク角90度の空冷V8をゼロから設計した。2970ccの排気量から60hp/3500rpmの最高出力を生み出す。特殊なバルブ開閉機能を取り入れて半球形燃焼室を実現していた辺りに、レドヴィンカの独創性を見ることができる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一方、外観のデザインにはパウル ヤーライが思う存分腕を振るった。風洞実験で得たノウハウを元に、従来のデザインをはるかに上回る空力特性を目標に据えてT77のボディ形状を完成させた。全体形はV570で試行した涙滴形状を踏襲している。フロントフェンダーこそ依然としてボディから独立したパーツだったが、リヤはメインボディと完全に一体のフラッシュサイドとなり、前後フェンダーを繋ぐランニングボードもない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この時代、曲面ガラスはまだ製造できなかった。しかしヤーライはウインドスクリーンが起こす空気抵抗の軽減に意を尽くし、平ガラスを使いながら極力、曲面ガラスに近い形状を目指した。つまり中央に大きな1枚ガラスを据え、その左右にAピラーに向けて角度をつけた縦型ガラスを配したのだ。留めは冒頭に記したエンジンカバー上の「背びれ」である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このテールフィンについては、高速走行時の直進安定性の向上に寄与するとの説明が一般的で、私も素人なりにその通りだろうと思う。しかしこれがあるため横風の影響も受けやすくなりそうで、その効用は限定的だったのでは、と首をかしげてしまう。読者諸氏はどうお考えだろうか？</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ともあれ、こうした細部にわたる工夫を凝らした結果、1/5スケールのモデルでは、空気抵抗係数（Cd値）0.245を実測したという。平均値が0.5を超える1930年代の実用車としては傑出した数値だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ただし現実には大型の空冷V8に充分な冷却気を取り込むインテークを設ける必要があった。ヤーライは熟慮のすえ、ルーフ後端部とエンジンカバー前端に段差を設けた。こうしてできた開口部から冷却風をエンジンベイに流し、エンジンカバー上の2列のルーバーから排出するのだ。これなら空気抵抗を最小限に抑えられる。彼の努力は実を結び、わずか60hpでも140km/hの最高速に達した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>かくして完成したタトラ T77は1934年のプラハショーにて発表される。理想を求めるレドヴィンカはこれに満足することなくT77の改良に取り組んだ。ボアを5mm拡げて排気量を3.4リッターに拡大、最高出力を70hpに高めると同時に、ホイールベースを伸ばして、大人6名が快適に座れるキャビンを実現した。改良版はT77Aと名づけられ、1936年発表の運びとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>リヤエンジンレイアウトと優れた空力特性に特化したボディはタトラのトレードマークとなり、後継車のT87やT97に引き継がれていく。そして今日、電気自動車の航続距離を伸ばす有効な手段として空気力学に新たなスポットライトが当たっている。遠く1930年代にハンス レドヴィンカとパウル ヤーライの二人の技術者が切り拓いたテクノロジーの分野が、今日の乗用車のデザインに従来とは別の意義を持ったのは興味深いことだと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その17　希少なクラシックカーの数々</title>
		<link>https://autobild.jp/54538/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 04 Aug 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[1937製ベントレー 4½リッター フィックストヘッドクーペ]]></category>
		<category><![CDATA[Bentley 4½ Litre Fixed Head Sport Coupe by Vesters & Neirinck]]></category>
		<category><![CDATA[Bucciali]]></category>
		<category><![CDATA[Bucciali TAV12]]></category>
		<category><![CDATA[Bugatti Type57]]></category>
		<category><![CDATA[Ettore Bugatti]]></category>
		<category><![CDATA[TALBOT]]></category>
		<category><![CDATA[Talbot Lago]]></category>
		<category><![CDATA[イギリス車]]></category>
		<category><![CDATA[エットーレ ブガッティ]]></category>
		<category><![CDATA[タルボ ラーゴT26グランスポール クーペ]]></category>
		<category><![CDATA[ビュッシアリTAV12]]></category>
		<category><![CDATA[ブガッティ タイプ57]]></category>
		<category><![CDATA[フランス車]]></category>
		<category><![CDATA[ベントレー]]></category>
		<category><![CDATA[ロー コレクション]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="928" height="696" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー.jpg 928w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー-300x225.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー-768x576.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 928px) 100vw, 928px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">７日目 2月23日（パート2）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回は歴史的な名車の収集家フリードヘルム ロー氏が個人で運営する「ザ ロー コレクション」のレポート パート1をお届けした。パート2ではドイツとイタリア以外の諸国の展示車を見て歩くことにしよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>まずは英国を代表して1937年製ベントレー 4½リッター フィックストヘッドクーペ (Bentley 4½ Litre Fixed Head Sport Coupe by Vesters &amp; Neirinck)を紹介する。このワンオフに注目したのはズバリ、スタイルが素晴らしかったからだ。ベントレーらしいスポーティネスと、ベントレーでは珍しい純ヨーロッパ調のエレガンスとが絶妙に溶け合っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フロントはラジエターに対してやや大きめのヘッドライトを配し、その下に一対のドライビングライト、中央にホーンというベントレースタイルの定石を守っている。これに対して斜め前方から見たボディサイドは俄然、個性が際立つ。豊かな涙滴形状をしたフロントとリヤフェンダーのあいだにランニングボードがないので、とてもスッキリした側面観が出来上がった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ホイールもこの1台のオリジナルで、ノックオフセンターハブの周囲を2個のクロームリングが囲み、その隙間を凝ったデザインのパターンが埋めている。これと比べると、フーパー ボディの4ドアサルーンが装着する真っ黒なワイアホイールがやけに野暮ったく見える。126インチ（3200mm）とたっぷりしたホイールベースを完全な2座席キャビンが占めるという贅沢な使い方。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>テールは大きなラゲッジコンパートメントとスペアホイール/タイヤを背負う。長めのボンネット、相対的に小さなパッセンジャーコンパートメント、テールの大ぶりなラゲッジコンパートメント、この三者が完璧なプロポーションを形作って見事だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":54857,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-のコピー.jpg" alt="" class="wp-image-54857"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年製ベントレー 4½リッター フィックストヘッドクーペ (ヴェスタース＆ナイアリンク ボディ)。シャシーナンバー: B156KT。エンジンナンバー: E9BH。OHV直列6気筒 4257cc。ツインSUキャブレター。最高出力：未公表（推定：125hp/4500rpm）。 トランスミッション：4速MT。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1931年、経営破綻に陥ったベントレーをロールス・ロイスが買収した。生産拠点がロールスのダービーに移ったので、それ以前のベントレーと区別するため、ロールス傘下で製造されたベントレーを“ダービー ベントレー”と呼ぶ。本稿の主人公も1937製なのでダービー ベントレーで、1936～1939年までに1234台が製造された4½リッターモデルの1台だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>4½リッターはベントレーの名に恥じない駿足の持ち主だった。英国の専門誌『The Autocar』が、現役当時のパークウォード ボディ4ドアサルーンの動力性能を計測したところ、最高速90.9mph（約146.3km/h）、0-60mph (約97km/h)加速15.5秒を実測している。趣味のいい内装と充実した装備を備えるこの時代のスポーティ サルーンとしては非常に優秀な数値だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このフィックストヘッドクーペのボディを架装したのは、ベルギーのVesters &amp; Neirinckというコーチビルダーだった。私には聞いたこともない名前なので、便宜的にカタカナ表記はヴェスタース＆ナイアリンクと記す。同社の創業は1914年ころと言われ、1923年のベルギーオートサロンを皮切りにさまざまなショーに作品を出展。おもにミネルバ、ロールス・ロイス、ドゥラージュなどのシャシー上にワンオフボディを製作した。私がヨーロッパ調のエレガンスを感じたのは、ボディがベルギー製だったからかもしれない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ちなみに注文主はクロード ラウール ブノワ ラン（Claude Raoul Benoit Lang）という人物。この黒塗りの伊達なクーペは、ムッシュ ランを乗せてヨーロッパを縦横無尽に駆け巡ったのだろう。まさにグランドツアラー ベントレーの面目躍如たるところである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">ビュッシアリTAV12</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その展示車を見たとき、私には車名すらわからなかった。説明板を見ると「Bucciali」とある。ビュッシアリ――。それでもピンとこない。そんなわけで以下の解説は日本に帰ってから、ネット上で得た情報を元に書き起こした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第一次世界大戦（1914～1918年）が終結して間もない1922年、アンジェロ（Angelo）とポール-アルベール（Paul-Albert）のビュッシアリ兄弟は、パリ近郊の街クールブヴォワにてビュッシアリ兄弟会社（Société Bucciali Frères）を興し、平凡なスポーツカーを少数生産した。1926年、兄弟は会社名をビュッシアリに改めて、業務を自動車エンジニアリングおよび設計へと転換、おもにFWDの開発に注力する。シトロエンのトラクシオン アヴァンが登場するのが1934年のことだから、兄弟はずいぶん早期から当時の先進技術に着目していたわけだ。その1926年以降、パリサロンに毎年、新技術を展示する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":54851,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-5-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-54851 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1932年 ビュッシアリTAV12。全長: 6360mm。全幅：不明。全高: 1480 mm。ホイールベース: 4089 mm。V型12気筒 4886cc。最高出力: 120 hpないしは180 hp（2説あり）。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なかでも注目は独自設計のビュッシアリ・ドゥブル・ユイット（Bucciali Double Huit＝ツイン8気筒）と名づけられた16気筒エンジンで、兄弟はこれをコンバーチブルボディに搭載、1930年のショーに展示した。兄弟の自信作だったが、この16気筒はほとんど顧みられることはなかった。しかしショーの会場でこれに強い関心を示した人物が一人だけいた。本稿の主人公ビュッシアリTAV12の初代オーナーとなる人である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"color":{"background":"#f1e9e9"}}} -->
<p class="has-background" style="background-color:#f1e9e9">1930年のある日、クールブヴォワのビュッシアリ オフィスに一人のビジネスマン、ジョルジュ ルール（Georges Roure)が訪れる。<br><br>「今年のパリサロンに君たちが展示した16気筒エンジンのコンバーチブル、あれの同型車を作ってもらいたい」。ルールは前置きなしに用向きを伝えた。兄弟は予期せぬ注文にうろたえる。<br><br>「実はあのV16ブロックはコンセプトモデルで、内部の可動パーツは一切ないダミーなのです」。兄弟は率直に事実を伝えた。<br><br>ルールは驚いた風もなく、代わりにヴォワザンのV12で手を打つことになり、製作依頼はまとまった。作業は迅速に進み、1931年秋には2ドア コンバーチブルが完成、公道走行に耐える完成度に仕上がっていたという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="928" height="696" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー.jpg 928w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー-300x225.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-のコピー-768x576.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 928px) 100vw, 928px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">７日目 2月23日（パート2）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回は歴史的な名車の収集家フリードヘルム ロー氏が個人で運営する「ザ ロー コレクション」のレポート パート1をお届けした。パート2ではドイツとイタリア以外の諸国の展示車を見て歩くことにしよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>まずは英国を代表して1937年製ベントレー 4½リッター フィックストヘッドクーペ (Bentley 4½ Litre Fixed Head Sport Coupe by Vesters &amp; Neirinck)を紹介する。このワンオフに注目したのはズバリ、スタイルが素晴らしかったからだ。ベントレーらしいスポーティネスと、ベントレーでは珍しい純ヨーロッパ調のエレガンスとが絶妙に溶け合っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フロントはラジエターに対してやや大きめのヘッドライトを配し、その下に一対のドライビングライト、中央にホーンというベントレースタイルの定石を守っている。これに対して斜め前方から見たボディサイドは俄然、個性が際立つ。豊かな涙滴形状をしたフロントとリヤフェンダーのあいだにランニングボードがないので、とてもスッキリした側面観が出来上がった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ホイールもこの1台のオリジナルで、ノックオフセンターハブの周囲を2個のクロームリングが囲み、その隙間を凝ったデザインのパターンが埋めている。これと比べると、フーパー ボディの4ドアサルーンが装着する真っ黒なワイアホイールがやけに野暮ったく見える。126インチ（3200mm）とたっぷりしたホイールベースを完全な2座席キャビンが占めるという贅沢な使い方。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>テールは大きなラゲッジコンパートメントとスペアホイール/タイヤを背負う。長めのボンネット、相対的に小さなパッセンジャーコンパートメント、テールの大ぶりなラゲッジコンパートメント、この三者が完璧なプロポーションを形作って見事だ。</p>
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<!-- wp:image {"id":54857,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-のコピー.jpg" alt="" class="wp-image-54857"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年製ベントレー 4½リッター フィックストヘッドクーペ (ヴェスタース＆ナイアリンク ボディ)。シャシーナンバー: B156KT。エンジンナンバー: E9BH。OHV直列6気筒 4257cc。ツインSUキャブレター。最高出力：未公表（推定：125hp/4500rpm）。 トランスミッション：4速MT。</figcaption></figure>
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<p>1931年、経営破綻に陥ったベントレーをロールス・ロイスが買収した。生産拠点がロールスのダービーに移ったので、それ以前のベントレーと区別するため、ロールス傘下で製造されたベントレーを“ダービー ベントレー”と呼ぶ。本稿の主人公も1937製なのでダービー ベントレーで、1936～1939年までに1234台が製造された4½リッターモデルの1台だ。</p>
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<p>4½リッターはベントレーの名に恥じない駿足の持ち主だった。英国の専門誌『The Autocar』が、現役当時のパークウォード ボディ4ドアサルーンの動力性能を計測したところ、最高速90.9mph（約146.3km/h）、0-60mph (約97km/h)加速15.5秒を実測している。趣味のいい内装と充実した装備を備えるこの時代のスポーティ サルーンとしては非常に優秀な数値だ。</p>
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<p>このフィックストヘッドクーペのボディを架装したのは、ベルギーのVesters &amp; Neirinckというコーチビルダーだった。私には聞いたこともない名前なので、便宜的にカタカナ表記はヴェスタース＆ナイアリンクと記す。同社の創業は1914年ころと言われ、1923年のベルギーオートサロンを皮切りにさまざまなショーに作品を出展。おもにミネルバ、ロールス・ロイス、ドゥラージュなどのシャシー上にワンオフボディを製作した。私がヨーロッパ調のエレガンスを感じたのは、ボディがベルギー製だったからかもしれない。</p>
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<p>ちなみに注文主はクロード ラウール ブノワ ラン（Claude Raoul Benoit Lang）という人物。この黒塗りの伊達なクーペは、ムッシュ ランを乗せてヨーロッパを縦横無尽に駆け巡ったのだろう。まさにグランドツアラー ベントレーの面目躍如たるところである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">ビュッシアリTAV12</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その展示車を見たとき、私には車名すらわからなかった。説明板を見ると「Bucciali」とある。ビュッシアリ――。それでもピンとこない。そんなわけで以下の解説は日本に帰ってから、ネット上で得た情報を元に書き起こした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第一次世界大戦（1914～1918年）が終結して間もない1922年、アンジェロ（Angelo）とポール-アルベール（Paul-Albert）のビュッシアリ兄弟は、パリ近郊の街クールブヴォワにてビュッシアリ兄弟会社（Société Bucciali Frères）を興し、平凡なスポーツカーを少数生産した。1926年、兄弟は会社名をビュッシアリに改めて、業務を自動車エンジニアリングおよび設計へと転換、おもにFWDの開発に注力する。シトロエンのトラクシオン アヴァンが登場するのが1934年のことだから、兄弟はずいぶん早期から当時の先進技術に着目していたわけだ。その1926年以降、パリサロンに毎年、新技術を展示する。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-5-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-54851 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1932年 ビュッシアリTAV12。全長: 6360mm。全幅：不明。全高: 1480 mm。ホイールベース: 4089 mm。V型12気筒 4886cc。最高出力: 120 hpないしは180 hp（2説あり）。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
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<p>なかでも注目は独自設計のビュッシアリ・ドゥブル・ユイット（Bucciali Double Huit＝ツイン8気筒）と名づけられた16気筒エンジンで、兄弟はこれをコンバーチブルボディに搭載、1930年のショーに展示した。兄弟の自信作だったが、この16気筒はほとんど顧みられることはなかった。しかしショーの会場でこれに強い関心を示した人物が一人だけいた。本稿の主人公ビュッシアリTAV12の初代オーナーとなる人である。</p>
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<p class="has-background" style="background-color:#f1e9e9">1930年のある日、クールブヴォワのビュッシアリ オフィスに一人のビジネスマン、ジョルジュ ルール（Georges Roure)が訪れる。<br><br>「今年のパリサロンに君たちが展示した16気筒エンジンのコンバーチブル、あれの同型車を作ってもらいたい」。ルールは前置きなしに用向きを伝えた。兄弟は予期せぬ注文にうろたえる。<br><br>「実はあのV16ブロックはコンセプトモデルで、内部の可動パーツは一切ないダミーなのです」。兄弟は率直に事実を伝えた。<br><br>ルールは驚いた風もなく、代わりにヴォワザンのV12で手を打つことになり、製作依頼はまとまった。作業は迅速に進み、1931年秋には2ドア コンバーチブルが完成、公道走行に耐える完成度に仕上がっていたという。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その16　フェラーリの名車たち</title>
		<link>https://autobild.jp/54540/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 30 Jul 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[(Aurelio Lampredi]]></category>
		<category><![CDATA[Dietzhölztal-Ewersbach]]></category>
		<category><![CDATA[Friedhelm Loh]]></category>
		<category><![CDATA[Gioachino Colombo]]></category>
		<category><![CDATA[Giovanni Michelotti]]></category>
		<category><![CDATA[Nationales Auto Museum]]></category>
		<category><![CDATA[The Loh Collection]]></category>
		<category><![CDATA[アウレリオ ランプレディ]]></category>
		<category><![CDATA[ジョアキーノ コロンボ]]></category>
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		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
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		<category><![CDATA[フェラーリ 1512]]></category>
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		<category><![CDATA[フェラーリ F1-2000]]></category>
		<category><![CDATA[フェラーリ250 GT スペチアーレ]]></category>
		<category><![CDATA[フェラーリ330 P4]]></category>
		<category><![CDATA[フリードヘルム ロー]]></category>
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		<category><![CDATA[ローナー電気自動車]]></category>
		<category><![CDATA[自動車専門翻訳家]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="950" height="715" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3.jpg 950w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3-300x226.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3-768x578.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 950px) 100vw, 950px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">７日目 2月23日（パート1）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツ車には白かシルバーのボディカラーがよく似合う。私たちはこの国の4大自動車メーカーが運営するミュージアムで白とシルバーの世界を堪能した。旅の最終日に当たり、随行ナビゲーターのアレックスは格別のプレゼントを用意してくれていた。ドイツに限らず広くヨーロッパ各国の名車や希少車を収集したミュージアム、ナショナレス アウト ムゼウム「ザ ロー コレクション」（Nationales Auto Museum – The Loh Collection）である。そこにはレッド、ブラック、グリーンなど様々なカラーを纏った展示車が私たちを待っていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フランクフルトを出発したバスは100km余り北上したディーツヘルツァル エヴェルスバッハ（Dietzhölztal-Ewersbach）という小さな町に到着した。日曜日とあって通りには人影一つない。商店もすべて閉まっており、本当に人が住んでいるのだろうかと思うほど町全体が静まりかえっている。小さな角を右折すると突然、超モダンな建物が現れた。今日の目的地ロー コレクションだ。予定よりだいぶ早く着いてしまったとのことで、駐車場のゲートが閉まっていたが、アレックスがすかさず電話で連絡。ほどなく係員が足早に現れて、ゲートを開けてくれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ロー コレクションは起業家として成功したフリードヘルム ロー（Friedhelm Loh）という個人が所有・運営するミュージアム。1908年以降、産業用の大型ボイラーを製造していた工場建屋を、ローが2015年に敷地ごと取得、ミュージアムに建て替えて2023年オープンした。建て替え作業に当たっては、現代の建物と融合させつつ、古い工場の歴史的な痕跡を可能な限り残したという。冒頭に掲げた写真に見るように、見上げるほど高く、明かり取りが一面に設けられた天井が往時の姿を留めている。展示スペースは延べ7500平方m、常設展示車は130台。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ロー コレクションはローの個人的な興味から蒐集した自動車を展示する場で、ヴィンテージカーから現代のレーシングカーまで、その守備範囲は多岐にわたる。1台を1つのボックスに収めたショーケース的ディスプレイや、館内の随所に見られるアールデコ調の装飾などにオーナーの趣味が表れている。その中から本稿では、とりわけ興味深いモデルを私の調べがついた範囲内でアトランダムに選んで紹介しようと思う。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-3.jpg" alt="" class="wp-image-54543"/><figcaption class="wp-element-caption">1台を1つのボックスに収めたショーケース的ディスプレイ。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4-3.jpg" alt="" class="wp-image-54545"/><figcaption class="wp-element-caption">館内にはアールデコ調の飾り文字で「CAPITOL」と名づけられた客席数、約50席の映画館も備わる。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-3.jpg" alt="" class="wp-image-54546"/><figcaption class="wp-element-caption">もっとも古い展示品がこの1895年製ベンツ ヴィクトリア。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>ロー コレクションの中でもっとも古いのが1895年製ベンツ ヴィクトリア。1893年から1900年にかけて製造されたベンツ最初の四輪車だ。単気筒エンジンにはいくつか異なる排気量があったが、ここでは2920ccで5hp/700rpmという代表的な数値を掲げる。この旅行記の「その2」で紹介した1886年の三輪車ベンツ パテント モートル ヴァーゲンと比べると、わずか9年の間に自動車が飛躍的進歩を遂げたことがわかる。ホイールは木製だし、半楕円リーフスプリングによるサスペンションまで備わっている。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/6-3.jpg" alt="" class="wp-image-54547"/><figcaption class="wp-element-caption">1906年製ローナー消防自動車。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>ポルシェミュージアムではインホイールモーターしか紹介できなかったローナー電気自動車、それも消防自動車にここでお目にかかれるとは思ってもいなかった。フェルディナント ポルシェ博士が開発した純電動モーター駆動で、後にハイブリッドに改造されたという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>図らずも地元ドイツ車2台からスタートしたが、ロー コレクションで注目なのは、ほかにも沢山ある。まずはマッキナ ロッサ、とりわけフェラーリ。そのF1マシンから紹介しよう。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/7-3.jpg" alt="" class="wp-image-54548"/><figcaption class="wp-element-caption">1964年フェラーリ 1512。今まさにトランスポーターから降ろされて、プラクティスに臨もうとしているシーンを再現している。全長×全幅×全高：3950×1697×768mm。ホイールベース：2400mm。乾燥重量：470kg。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>フェラーリ 1512はフェラーリが1964年のF1世界選手権に投入したマシンF158の強化派生型。マシン名「1512」は1.5リッター12気筒エンジンを表す。主任設計者マウロ フォルギエーリは、ベースになったF158にはV8を選んだのに対し、1512にはバンク角180度のV12ティーポ207ユニットを採用した。56.0×50.4 mmのボアストロークから得た排気量はレギュレーション一杯の1489.63 cc。217hp/12000rpmの最高出力を絞り出す。このパワーユニットは、ホンダ RA271に搭載されたV12に次いで、2番目にパワフルな1.5リッターF1エンジンだと言われる。1512は1964年のUS GPより実戦投入された。以降スクーデリアは1964年から1965年にかけて、ツイスティなコースではF158を、スパやモンツァなどの高速コースでは1512を使い分けた。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-3.jpg" alt="" class="wp-image-54549"/><figcaption class="wp-element-caption">フェラーリ 312B3-74。全長×全幅×全高：4380×2085×1290 mm。ホイールベース：2507 mm。乾燥重量：582 kg。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フェラーリ 312B3-74は、スクーデリア フェラーリが1970年から1975年までF1世界選手権に投入したF1マシン「フェラーリ 312 B」の最終型で、1974年シーズンを戦ったマシン。前年1973年はスクーデリアにとって惨敗のシーズンだった。312 B3を走らせて全15戦で獲得したポイントはわずか12、コンストラクターランキングで6位に沈み込んだのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>エンツォは事態を改善するためチーム監督にルカ ディ モンテゼーモロを就任させ、一度は主任設計者の立場から外したマウロ フォルギエーリを召還した。「こんなマシン（312 B3）しかないのなら、いっそレースになど出ない方がマシだ」。こう言いきったディ モンテゼーモロの強力なリーダーシップのもと、フェラーリはスポーツカーレース活動を一時休止して、1974年のF1シーズンに全力を注入することとなる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フォルギエーリは312 B3の徹底的な改良に取り組み、フルモノコックからフェラーリ本来の鋼管スペースフレームとアルミパネルで構成されるセミモノコックに戻し、重量配分を改善した。エンジンでは信頼性の強化が最重要課題だった。どんなに速くても最後まで走らなければレースには勝てない。バンク角180度のV12ユニットは80×49.6mmのボアストロークから2991.80ccの排気量を得て、最高出力490hp/12500rpmを生み出した。かくして312Bシリーズの最終型312 B3-74が誕生した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドライバーはクレイ レガツォーニと新進ニキ ラウダの布陣。312 B3-74はよく期待に応えた。ラウダは4戦目のスペインGPで優勝、スクーデリアに2年ぶりの勝利をもたらし、9度のポールポジションを獲得した。しかし本当の意味でチームに貢献したのはレガツォーニだった。全15選を通じて手堅くポイントを重ね、シリーズチャンピオンのエマーソン フィッティパルディの55点に肉迫する52点を獲得、ドライバーズランキング2位に着けた。312 B3-74はスクーデリアに上昇の機運をもたらす役割を果たし、翌シーズンより新型312 Tに主役の座を委ねた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/9-2-1024x767.jpg" alt="" class="wp-image-54550"/><figcaption class="wp-element-caption">1973年F1世界選手権の主力マシン、フェラーリ312 B3のエンジン。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>つづいてロー コレクションに展示されていたフェラーリF1のエンジンの中から2つ紹介する。上の写真は1993年の主力マシン、フェラーリ312 B3に搭載されたバンク角180度のV12ユニット。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フェラーリ312 Bの「B」はボクサー、つまり水平対向エンジンの頭文字だと言われるが、これがしばしば誤解を招く温床となった。実際のところ、312 Bに搭載された12気筒エンジンでは、一対の向かい合うピストンとコンロッドは共通のクランクピンに繋がっている。つまり右バンクのピストンがクランクに押されて上死点に向かうとき、左バンクは同じクランクに引っ張られて下死点に向かう。従って、構造的にこのエンジンはバンク角を180度に拡げたV型エンジンなのである。フォルギエーリは、水平対向エンジンと比べるとクランクケース内の空気膨張が左右で相殺されるので高回転が得やすく、なおかつ重心を低くできる180度V12を選んだのだと思われる。73年の312 B3に搭載されたV12の排気量は2991cc、最高出力は485hp/12500 rpmだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/10-2.jpg" alt="" class="wp-image-54551"/><figcaption class="wp-element-caption">こちらは同2000年の主力マシンF1-2000に搭載されたV10ユニット。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1973年の312 B3ユニットでは、空気を吸い込んでガソリンと混ぜ、燃焼、排出する内燃機関の構造が外からもよくわかったのに対して、27年後のF1エンジンは外観からしてずいぶん異なる。F1-2000に搭載されたティーポ049ユニットは、バンク角90度のV型10気筒。96.0×41.4 mmのボアストロークから得た排気量は2996.62cc。最高出力は805hp/17300rpmだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前年1999年シーズンのマシンF399が搭載していたエンジン、ティーポ048は同じV10だったがバンク角が80度だった。ティーポ049では重心を低める目的からバンク角を90度に拡げている。同時にシリンダー配置を見直して全長の短縮を図り、さらにエンジンとトランスミッションの油圧回路を統一することで単体重量の低減にも成功したと言われる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="950" height="715" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3.jpg 950w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3-300x226.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-3-768x578.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 950px) 100vw, 950px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">７日目 2月23日（パート1）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツ車には白かシルバーのボディカラーがよく似合う。私たちはこの国の4大自動車メーカーが運営するミュージアムで白とシルバーの世界を堪能した。旅の最終日に当たり、随行ナビゲーターのアレックスは格別のプレゼントを用意してくれていた。ドイツに限らず広くヨーロッパ各国の名車や希少車を収集したミュージアム、ナショナレス アウト ムゼウム「ザ ロー コレクション」（Nationales Auto Museum – The Loh Collection）である。そこにはレッド、ブラック、グリーンなど様々なカラーを纏った展示車が私たちを待っていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フランクフルトを出発したバスは100km余り北上したディーツヘルツァル エヴェルスバッハ（Dietzhölztal-Ewersbach）という小さな町に到着した。日曜日とあって通りには人影一つない。商店もすべて閉まっており、本当に人が住んでいるのだろうかと思うほど町全体が静まりかえっている。小さな角を右折すると突然、超モダンな建物が現れた。今日の目的地ロー コレクションだ。予定よりだいぶ早く着いてしまったとのことで、駐車場のゲートが閉まっていたが、アレックスがすかさず電話で連絡。ほどなく係員が足早に現れて、ゲートを開けてくれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ロー コレクションは起業家として成功したフリードヘルム ロー（Friedhelm Loh）という個人が所有・運営するミュージアム。1908年以降、産業用の大型ボイラーを製造していた工場建屋を、ローが2015年に敷地ごと取得、ミュージアムに建て替えて2023年オープンした。建て替え作業に当たっては、現代の建物と融合させつつ、古い工場の歴史的な痕跡を可能な限り残したという。冒頭に掲げた写真に見るように、見上げるほど高く、明かり取りが一面に設けられた天井が往時の姿を留めている。展示スペースは延べ7500平方m、常設展示車は130台。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ロー コレクションはローの個人的な興味から蒐集した自動車を展示する場で、ヴィンテージカーから現代のレーシングカーまで、その守備範囲は多岐にわたる。1台を1つのボックスに収めたショーケース的ディスプレイや、館内の随所に見られるアールデコ調の装飾などにオーナーの趣味が表れている。その中から本稿では、とりわけ興味深いモデルを私の調べがついた範囲内でアトランダムに選んで紹介しようと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-3.jpg" alt="" class="wp-image-54543"/><figcaption class="wp-element-caption">1台を1つのボックスに収めたショーケース的ディスプレイ。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-3.jpg" alt="" class="wp-image-54544"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4-3.jpg" alt="" class="wp-image-54545"/><figcaption class="wp-element-caption">館内にはアールデコ調の飾り文字で「CAPITOL」と名づけられた客席数、約50席の映画館も備わる。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-3.jpg" alt="" class="wp-image-54546"/><figcaption class="wp-element-caption">もっとも古い展示品がこの1895年製ベンツ ヴィクトリア。</figcaption></figure>
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<p>ロー コレクションの中でもっとも古いのが1895年製ベンツ ヴィクトリア。1893年から1900年にかけて製造されたベンツ最初の四輪車だ。単気筒エンジンにはいくつか異なる排気量があったが、ここでは2920ccで5hp/700rpmという代表的な数値を掲げる。この旅行記の「その2」で紹介した1886年の三輪車ベンツ パテント モートル ヴァーゲンと比べると、わずか9年の間に自動車が飛躍的進歩を遂げたことがわかる。ホイールは木製だし、半楕円リーフスプリングによるサスペンションまで備わっている。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/6-3.jpg" alt="" class="wp-image-54547"/><figcaption class="wp-element-caption">1906年製ローナー消防自動車。</figcaption></figure>
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<p>ポルシェミュージアムではインホイールモーターしか紹介できなかったローナー電気自動車、それも消防自動車にここでお目にかかれるとは思ってもいなかった。フェルディナント ポルシェ博士が開発した純電動モーター駆動で、後にハイブリッドに改造されたという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>図らずも地元ドイツ車2台からスタートしたが、ロー コレクションで注目なのは、ほかにも沢山ある。まずはマッキナ ロッサ、とりわけフェラーリ。そのF1マシンから紹介しよう。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/7-3.jpg" alt="" class="wp-image-54548"/><figcaption class="wp-element-caption">1964年フェラーリ 1512。今まさにトランスポーターから降ろされて、プラクティスに臨もうとしているシーンを再現している。全長×全幅×全高：3950×1697×768mm。ホイールベース：2400mm。乾燥重量：470kg。</figcaption></figure>
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<p>フェラーリ 1512はフェラーリが1964年のF1世界選手権に投入したマシンF158の強化派生型。マシン名「1512」は1.5リッター12気筒エンジンを表す。主任設計者マウロ フォルギエーリは、ベースになったF158にはV8を選んだのに対し、1512にはバンク角180度のV12ティーポ207ユニットを採用した。56.0×50.4 mmのボアストロークから得た排気量はレギュレーション一杯の1489.63 cc。217hp/12000rpmの最高出力を絞り出す。このパワーユニットは、ホンダ RA271に搭載されたV12に次いで、2番目にパワフルな1.5リッターF1エンジンだと言われる。1512は1964年のUS GPより実戦投入された。以降スクーデリアは1964年から1965年にかけて、ツイスティなコースではF158を、スパやモンツァなどの高速コースでは1512を使い分けた。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-3.jpg" alt="" class="wp-image-54549"/><figcaption class="wp-element-caption">フェラーリ 312B3-74。全長×全幅×全高：4380×2085×1290 mm。ホイールベース：2507 mm。乾燥重量：582 kg。</figcaption></figure>
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<p>フェラーリ 312B3-74は、スクーデリア フェラーリが1970年から1975年までF1世界選手権に投入したF1マシン「フェラーリ 312 B」の最終型で、1974年シーズンを戦ったマシン。前年1973年はスクーデリアにとって惨敗のシーズンだった。312 B3を走らせて全15戦で獲得したポイントはわずか12、コンストラクターランキングで6位に沈み込んだのだ。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>エンツォは事態を改善するためチーム監督にルカ ディ モンテゼーモロを就任させ、一度は主任設計者の立場から外したマウロ フォルギエーリを召還した。「こんなマシン（312 B3）しかないのなら、いっそレースになど出ない方がマシだ」。こう言いきったディ モンテゼーモロの強力なリーダーシップのもと、フェラーリはスポーツカーレース活動を一時休止して、1974年のF1シーズンに全力を注入することとなる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フォルギエーリは312 B3の徹底的な改良に取り組み、フルモノコックからフェラーリ本来の鋼管スペースフレームとアルミパネルで構成されるセミモノコックに戻し、重量配分を改善した。エンジンでは信頼性の強化が最重要課題だった。どんなに速くても最後まで走らなければレースには勝てない。バンク角180度のV12ユニットは80×49.6mmのボアストロークから2991.80ccの排気量を得て、最高出力490hp/12500rpmを生み出した。かくして312Bシリーズの最終型312 B3-74が誕生した。</p>
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<p>ドライバーはクレイ レガツォーニと新進ニキ ラウダの布陣。312 B3-74はよく期待に応えた。ラウダは4戦目のスペインGPで優勝、スクーデリアに2年ぶりの勝利をもたらし、9度のポールポジションを獲得した。しかし本当の意味でチームに貢献したのはレガツォーニだった。全15選を通じて手堅くポイントを重ね、シリーズチャンピオンのエマーソン フィッティパルディの55点に肉迫する52点を獲得、ドライバーズランキング2位に着けた。312 B3-74はスクーデリアに上昇の機運をもたらす役割を果たし、翌シーズンより新型312 Tに主役の座を委ねた。</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/9-2-1024x767.jpg" alt="" class="wp-image-54550"/><figcaption class="wp-element-caption">1973年F1世界選手権の主力マシン、フェラーリ312 B3のエンジン。</figcaption></figure>
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<p>つづいてロー コレクションに展示されていたフェラーリF1のエンジンの中から2つ紹介する。上の写真は1993年の主力マシン、フェラーリ312 B3に搭載されたバンク角180度のV12ユニット。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>フェラーリ312 Bの「B」はボクサー、つまり水平対向エンジンの頭文字だと言われるが、これがしばしば誤解を招く温床となった。実際のところ、312 Bに搭載された12気筒エンジンでは、一対の向かい合うピストンとコンロッドは共通のクランクピンに繋がっている。つまり右バンクのピストンがクランクに押されて上死点に向かうとき、左バンクは同じクランクに引っ張られて下死点に向かう。従って、構造的にこのエンジンはバンク角を180度に拡げたV型エンジンなのである。フォルギエーリは、水平対向エンジンと比べるとクランクケース内の空気膨張が左右で相殺されるので高回転が得やすく、なおかつ重心を低くできる180度V12を選んだのだと思われる。73年の312 B3に搭載されたV12の排気量は2991cc、最高出力は485hp/12500 rpmだった。</p>
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<p>1973年の312 B3ユニットでは、空気を吸い込んでガソリンと混ぜ、燃焼、排出する内燃機関の構造が外からもよくわかったのに対して、27年後のF1エンジンは外観からしてずいぶん異なる。F1-2000に搭載されたティーポ049ユニットは、バンク角90度のV型10気筒。96.0×41.4 mmのボアストロークから得た排気量は2996.62cc。最高出力は805hp/17300rpmだった。</p>
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<p>前年1999年シーズンのマシンF399が搭載していたエンジン、ティーポ048は同じV10だったがバンク角が80度だった。ティーポ049では重心を低める目的からバンク角を90度に拡げている。同時にシリンダー配置を見直して全長の短縮を図り、さらにエンジンとトランスミッションの油圧回路を統一することで単体重量の低減にも成功したと言われる。</p>
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		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その15　クルマ好きなら絶対行きたいニュルブルクリンク</title>
		<link>https://autobild.jp/54268/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 19 Jul 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="953" height="715" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2.jpg 953w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2-300x225.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2-768x576.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 953px) 100vw, 953px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">6日目 2月22日</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタートして1秒84後には4速181km/hに達している。4秒64後、4速193km/hから2速98km/hに落として最初のきついコーナーをクリア。すぐさま6速までシフトアップ。車速249km/h。その後、4～6速を使い分け、180～240を保って緩いコーナーの連続を抜ける。49秒後、7速で340km/h超。ブレーキングの際は、モーターが「ヒュイーン」と唸る。7速フラットアウト、瞬間的に330。先の見えない複合コーナーではコース幅一杯を使う。どのコーナーでもターンインからエイペックスのクリア、コーナー脱出まで、ひたすら理想のレーシングラインを辿る。2分12秒後、前方から直射日光が差し込み視界を遮るが、委細構わずスロットルを踏み続ける。3分6秒後、カラッチオラ カルッセルのヘアピンに備えて6速280から電光石火の速さで2速97km/hまで落としてここを慎重に抜ける。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":54273,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-2.jpg" alt="" class="wp-image-54273"/><figcaption class="wp-element-caption">ニュルブルクリンクのノルトシュライフェ（北コーズ）のレイアウトとサーキット周辺の略地図（この写真はサーキット内で配布しているRINGTAXIのパンフレットを撮影しました）。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタートしてから4分が経過し、集中力が薄れるところだが果敢にスロットルを践む。5速を多用しながら高低差のあるコースを走る。この区間はほとんどがブラインドコーナーだ。4分24秒後、2つの左コーナーを4速170km/hで抜けると、いよいよディッテンガー ヘーエから始まるノルトシュライフェ随一の高速セクションに差し掛かる。7速332km/hから瞬く間に車速が上がり、4分49秒後、369km/hを計測、このタイムアタックでの最高速が出た。その後も7速360km/h台後半をキープしながらゴール地点を目指す。5分14秒後、ゴール手前のコーナーで2速まで落として加速したところでフィニッシュ。5分19秒54。新たなコースレコードタイムの樹立だ！</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">移動はバスで</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前日、インゴルシュタットをあとにした私たち一行は80km北にある古都ニュルンベルクを訪れた。城壁に囲まれた旧市街を散策し、レストランで昼食を楽しんだ。静かな水を湛えた堀が窓から見える。ひとときを寛いだ気分で過ごしたのち、再びバスへ乗り込む。目指すはフランクフルト、約3時間を要する230kmの長距離移動だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「高層ビルが立ち並ぶ街はドイツでもフランクフルトだけです。ドイツの大都市にはそれぞれの役割があります。政治の中心はベルリン、自動車産業の中心はシュトゥットガルトとミュンヘン。ここフランクフルトは経済・金融の中心地です」。フランクフルトの街並みが近づくと、アレックスが説明してくれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なるほどバスの窓から望むフランクフルトの空は高層ビルの輪郭が区切っている。こういう風景はほかの街では見なかった。今回の旅行で私たちが最初にドイツの地を踏んだ街フランクフルトに戻って来た。市の中心にあるモダンなホテルの部屋に落ち着き、21日の日程を終えた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>明けて2月22日、私たちを乗せたバスは西へ約170km離れたニュルブルクの町に向かった。そう、目指すは世界に名だたるレースコース、ニュルブルクリンクだ。ニュルブルクリンクはノルトシュライフェ（＝北コース。全長20.832km）とGPコース（全長5.1km）の2つのコースの総称だが、とりわけノルトシュライフェは世界最長にして、世界有数の難コースとしてつとに知られる。数多くの自動車メーカーが試験走行を行うことでも有名で、ここの周回タイムは高性能を立証する1つの評価基準になっている。今日の日程はそのニュルブルクリンクの探訪。ドイツ4大ミュージアムの見学を昨日終えた私たちにとって、この旅唯一の「屋外アクティビティ」だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この稿の冒頭に掲げたコースレイアウト図は、同サーキット内で配布しているRINGTAXI（これについては後ほど触れる）のパンフレットを撮影した。それに続く「実況中継」はYouTube (https://www.youtube.com/watch?v=KsLi7HgSuhI)を見ながら、私が書いた。2018年6月29日、ティモ ベルンハルトがポルシェ919ハイブリッドEvoをノルトシュライフェで走らせたときのオンボード映像で、5分19秒546は今のところ（2025年5月現在）無制限車両のカテゴリーでの同コース最速周回タイムだ。これがどれほど速いのかは1周の平均時速233.8km/hが物語る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">走行はできなかったのだが</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私たちが訪れたこの日、ニュルブルクリンクはレースのオフシーズンを利用したコース路面補修作業の最中で、車両の走行はできなかった。それだけに普段は入れない施設まで見学できたのは収穫だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>サーキット敷地内に入るまえ、私たちを乗せたバスは、スタートから16km地点のブリュンヘン（Brunnchen）コーナーを見下ろす広場に立ち寄ってくれた。ご覧のようにコース幅は意外なほど狭く、エスケープゾーンもほとんどない。ブリュンヘンは下りコーナー、直線、上りコーナーと見どころ満載の人気の観戦スポットだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-2.jpg" alt="" class="wp-image-54274"/><figcaption class="wp-element-caption">ブリュンヘン。右、左と続く典型的なS字コーナーは途中からわずかな下りになっている。とにかくコース幅が狭い。最後のコーナー脱出時にアウトブレーキングを敢行して前車との間合いを詰めることができても――</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4-2.jpg" alt="" class="wp-image-54275"/><figcaption class="wp-element-caption">次に続くこの短い直線でオーバーテークするのは至難の業に思える。やや下り勾配のこの直線の先は緩い上り勾配の右コーナーが待っているので、制動ポイントを少しでも間違えるとコースアウトの危険をはらんでいる。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>以降、写真をご覧に入れながら、私たちが訪れた施設を紹介していく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-2.jpg" alt="" class="wp-image-54276"/><figcaption class="wp-element-caption">ニュルブルクリンク レースサーキットの入り口周辺。早くもレース場独特の緊張感が漂う。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/6-2.jpg" alt="" class="wp-image-54277"/><figcaption class="wp-element-caption">エントランスから入ってすぐの所にあるインフォメーションセンター。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/7-2.jpg" alt="" class="wp-image-54307"/><figcaption class="wp-element-caption">このトンネルを抜けてサーキット内部に入る。壁面の「Nürburgring. Volles Programm, seit 1927」の文字は創設された1927年以降のフルヒストリーといった意味で、下半分の濃い灰色部分に、年号とトピックが記されている。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-2.jpg" alt="" class="wp-image-54308"/><figcaption class="wp-element-caption">1927年の創設以来ニュルブルクリンクで記録を残したレーシングドライバーの名前を刻んだ記念碑。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/9-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54309"/><figcaption class="wp-element-caption">コントロールタワーに向かって移動する私たち一行。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/10-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54310"/><figcaption class="wp-element-caption">ピットレーン。コースを隔てた向こう側、屋根のある部分がグランドスタンド。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/11-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54311"/><figcaption class="wp-element-caption">実際にコース上に出ることもできた。スターティンググリッドから第1コーナーに向かって撮ったショット。路面に黒々と残るブラックマークが激しいスタートを物語る。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/12-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54312"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/13-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54313"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/14-1-1024x772.jpg" alt="" class="wp-image-54314"/><figcaption class="wp-element-caption">この3枚はコントロールタワー2階に設置されたモニターを撮影したもの。無数のモニターがコースのあらゆる区間をリアルタイムで映し出す。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/15-1-1024x771.jpg" alt="" class="wp-image-54315"/><figcaption class="wp-element-caption">緊急車両はいつでも出動準備ができている。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>残念ながら、おもに財政面の問題から、F1ドイツGPは2019年のホッケンハイムを最後に、現在中断の状態がつづいている。ニュルブルクリンクで開催されたのはさらに2013年に遡り、このときはレッドブル ルノー駆るセバスチャン フェッテル（Sebastian Vettel）が勝っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この日、ニュルブルクリンクを見学した私たちは、ここのGPコースはいつでもF1を開催できるだけの安全性を完備した、最新鋭のサーキットだという印象を得た。近い将来、この由緒正しいサーキットで、ドイツGPが開催されることを期待したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ニュルブルクリンクの敷地内に並ぶ付帯施設やアトラクションも魅力的だ。なかでも最初に紹介したいのがリンクタクシー(RingTaxi）である。RingTaxiにはRingTaxi Co-PilotとRingTaxi Pilotの2種類がある。前者はいわゆる一般的なサーキットタクシーで、プロのレーシングドライバーが操縦するマシンに同乗する体験走行。ただしマシンが別格にすごい。992型ポルシェ911GT3 RSを筆頭に、AMG GTブラックシリーズやマクラーレン720Sが用意されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もう1つのRingTaxi Pilotはあなた自身がマシンを駆る体験走行。「70を超えるコーナー、刻々と変わる路面状況。ノルトシュライフェの魅力にどっぷり浸かろう」とパンフレットは謳う。コーナーの数からおわかりのように、リンクタクシーはノルトシュライフェの1区間を使って行う（全体ではコーナーは172ある）。助手席からは経験豊富なインストラクターが適宜アドバイスしてくれるので、能力に応じた走りができるだろう。マシンはBMW M5 CS、991型ポルシェ911 GT3 RS、ポルシェ ケイマンGT4と、これまた贅沢な布陣。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":54316,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/16-1024x768.jpg" alt="" class="wp-image-54316"/><figcaption class="wp-element-caption">RingTaxi Co-PilotとRingTaxi Pilotを紹介する立派なパンフレットがサーキットホテル内で配布されていた。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私ならまず同乗走行のRingTaxi Co-Pilotを選ぶと思う。ただし「お手柔らかにお願いします」というドイツ語を覚えてからだ。なにしろ彼らプロドライバーはリヤタイヤがヌルヌルと横方向のグリップを失いかけているというのに、鼻歌交じりでスロットルを踏み続けるのだから……。パンフレットには「20.832km pure adrenaline!」とあるが、私には恐怖のあまり絶叫しないでいられる自信はない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>シナリオの決まった遊園地のアトラクションにはもう飽きた。欲しいのは予測不能の辛口スリルだと言うあなたはRingTaxi Pilotに挑戦するといい。ブラインドコーナーの先に現れる未知のコースをどう攻略するのか。問われるのはもっぱらあなたの腕と度胸、そしてインストラクターのアドバイスに耳を傾ける冷静な心構えだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ニュルブルクリンク敷地内の各種付帯設備の充実振りにも目を見張った。大型旅客機すら楽々と収容できそうな巨大な格納庫クラスの建物に収まるリンクアリーナ（Ring Arena）には、高級ブティックやドライビングアカデミーのレセプションなどが軒を連ねている。広いフロア面積を誇るサーキットグッズショップは、ブツ欲を刺激するアイテムがこれでもかとばかりに並んでいて、大きな買い物袋を抱えて店を出ること請け合いだ。日本では最近すっかり手に入り難くなったニュルブルクリンクのコースを描いたステッカーもここなら選り取り見取り。私も1枚購入した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/17.jpg" alt="" class="wp-image-54317"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/18.jpg" alt="" class="wp-image-54318"/><figcaption class="wp-element-caption">写真では閑散としているように見えるが、これはアリーナがあまりにも広いためと、土曜のため一部高級ブティックがクローズしていたため。サーキット専属のグッズショップは大変な賑わいだった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/19.jpg" alt="" class="wp-image-54319"/><figcaption class="wp-element-caption">リンクアリーナは大型旅客機も収容できそうな、巨大な格納庫クラスの建物に収まる。内部にはスペシャルショップや高級ブティックが軒を連ねる。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":54320,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/20.jpg" alt="" class="wp-image-54320"/><figcaption class="wp-element-caption">サーキットに併設されるドライビングアカデミー。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>有名なニュルブルクリンク24時間レースは、ドイツが一番麗しい季節を迎える6月に開催されるのが通例だ。とにかく24時間レースは長丁場。観戦に疲れたら、ホスピタリティ溢れるホテルに戻り、バーでカクテルを飲むのもよし、ショップでお土産探しをするもよし。充実した滞在を楽しめるに違いない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ニュルブルクリンクは一流のレースコースであると同時に、モータースポーツに関連するあらゆる施設を完備する、それ自体完結したエンタテインメント複合施設なのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>午後遅く、私たちはニュルブルクリンクを離れ、往路と同じ170kmの道のりをフランクフルトへと戻った。泊まるのは昨日と同じ、市内の中心に位置するモダンなホテル。実際、このホテルはとても快適だった。貧乏性の私など、一人で1部屋を使うには広すぎるほど。一旦外に出て、旅の一行の皆さんと一緒に夕食のテーブルを囲んだあとは、早めにベッドに潜り込んだ。しかしその日の夜はどういうわけか寝付けなかった。早いもので明日は旅の最終日。そう思うと寝てしまうのが惜しい気がしたせいかもしれない。日付が変わるころになっても緊急車両のサイレンが鳴り響くあたり、フランクフルトの街はニューヨークのマンハッタンに似ている。カーテンを少し開けて外を眺めると、闇のなかで高層ビルのシルエットが黒く浮かび上がっていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="953" height="715" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2.jpg 953w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2-300x225.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-2-768x576.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 953px) 100vw, 953px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">6日目 2月22日</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタートして1秒84後には4速181km/hに達している。4秒64後、4速193km/hから2速98km/hに落として最初のきついコーナーをクリア。すぐさま6速までシフトアップ。車速249km/h。その後、4～6速を使い分け、180～240を保って緩いコーナーの連続を抜ける。49秒後、7速で340km/h超。ブレーキングの際は、モーターが「ヒュイーン」と唸る。7速フラットアウト、瞬間的に330。先の見えない複合コーナーではコース幅一杯を使う。どのコーナーでもターンインからエイペックスのクリア、コーナー脱出まで、ひたすら理想のレーシングラインを辿る。2分12秒後、前方から直射日光が差し込み視界を遮るが、委細構わずスロットルを踏み続ける。3分6秒後、カラッチオラ カルッセルのヘアピンに備えて6速280から電光石火の速さで2速97km/hまで落としてここを慎重に抜ける。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":54273,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-2.jpg" alt="" class="wp-image-54273"/><figcaption class="wp-element-caption">ニュルブルクリンクのノルトシュライフェ（北コーズ）のレイアウトとサーキット周辺の略地図（この写真はサーキット内で配布しているRINGTAXIのパンフレットを撮影しました）。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタートしてから4分が経過し、集中力が薄れるところだが果敢にスロットルを践む。5速を多用しながら高低差のあるコースを走る。この区間はほとんどがブラインドコーナーだ。4分24秒後、2つの左コーナーを4速170km/hで抜けると、いよいよディッテンガー ヘーエから始まるノルトシュライフェ随一の高速セクションに差し掛かる。7速332km/hから瞬く間に車速が上がり、4分49秒後、369km/hを計測、このタイムアタックでの最高速が出た。その後も7速360km/h台後半をキープしながらゴール地点を目指す。5分14秒後、ゴール手前のコーナーで2速まで落として加速したところでフィニッシュ。5分19秒54。新たなコースレコードタイムの樹立だ！</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">移動はバスで</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前日、インゴルシュタットをあとにした私たち一行は80km北にある古都ニュルンベルクを訪れた。城壁に囲まれた旧市街を散策し、レストランで昼食を楽しんだ。静かな水を湛えた堀が窓から見える。ひとときを寛いだ気分で過ごしたのち、再びバスへ乗り込む。目指すはフランクフルト、約3時間を要する230kmの長距離移動だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「高層ビルが立ち並ぶ街はドイツでもフランクフルトだけです。ドイツの大都市にはそれぞれの役割があります。政治の中心はベルリン、自動車産業の中心はシュトゥットガルトとミュンヘン。ここフランクフルトは経済・金融の中心地です」。フランクフルトの街並みが近づくと、アレックスが説明してくれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なるほどバスの窓から望むフランクフルトの空は高層ビルの輪郭が区切っている。こういう風景はほかの街では見なかった。今回の旅行で私たちが最初にドイツの地を踏んだ街フランクフルトに戻って来た。市の中心にあるモダンなホテルの部屋に落ち着き、21日の日程を終えた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>明けて2月22日、私たちを乗せたバスは西へ約170km離れたニュルブルクの町に向かった。そう、目指すは世界に名だたるレースコース、ニュルブルクリンクだ。ニュルブルクリンクはノルトシュライフェ（＝北コース。全長20.832km）とGPコース（全長5.1km）の2つのコースの総称だが、とりわけノルトシュライフェは世界最長にして、世界有数の難コースとしてつとに知られる。数多くの自動車メーカーが試験走行を行うことでも有名で、ここの周回タイムは高性能を立証する1つの評価基準になっている。今日の日程はそのニュルブルクリンクの探訪。ドイツ4大ミュージアムの見学を昨日終えた私たちにとって、この旅唯一の「屋外アクティビティ」だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この稿の冒頭に掲げたコースレイアウト図は、同サーキット内で配布しているRINGTAXI（これについては後ほど触れる）のパンフレットを撮影した。それに続く「実況中継」はYouTube (https://www.youtube.com/watch?v=KsLi7HgSuhI)を見ながら、私が書いた。2018年6月29日、ティモ ベルンハルトがポルシェ919ハイブリッドEvoをノルトシュライフェで走らせたときのオンボード映像で、5分19秒546は今のところ（2025年5月現在）無制限車両のカテゴリーでの同コース最速周回タイムだ。これがどれほど速いのかは1周の平均時速233.8km/hが物語る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">走行はできなかったのだが</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私たちが訪れたこの日、ニュルブルクリンクはレースのオフシーズンを利用したコース路面補修作業の最中で、車両の走行はできなかった。それだけに普段は入れない施設まで見学できたのは収穫だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>サーキット敷地内に入るまえ、私たちを乗せたバスは、スタートから16km地点のブリュンヘン（Brunnchen）コーナーを見下ろす広場に立ち寄ってくれた。ご覧のようにコース幅は意外なほど狭く、エスケープゾーンもほとんどない。ブリュンヘンは下りコーナー、直線、上りコーナーと見どころ満載の人気の観戦スポットだ。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-2.jpg" alt="" class="wp-image-54274"/><figcaption class="wp-element-caption">ブリュンヘン。右、左と続く典型的なS字コーナーは途中からわずかな下りになっている。とにかくコース幅が狭い。最後のコーナー脱出時にアウトブレーキングを敢行して前車との間合いを詰めることができても――</figcaption></figure>
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<!-- wp:image {"id":54275,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4-2.jpg" alt="" class="wp-image-54275"/><figcaption class="wp-element-caption">次に続くこの短い直線でオーバーテークするのは至難の業に思える。やや下り勾配のこの直線の先は緩い上り勾配の右コーナーが待っているので、制動ポイントを少しでも間違えるとコースアウトの危険をはらんでいる。</figcaption></figure>
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<p>以降、写真をご覧に入れながら、私たちが訪れた施設を紹介していく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-2.jpg" alt="" class="wp-image-54276"/><figcaption class="wp-element-caption">ニュルブルクリンク レースサーキットの入り口周辺。早くもレース場独特の緊張感が漂う。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/6-2.jpg" alt="" class="wp-image-54277"/><figcaption class="wp-element-caption">エントランスから入ってすぐの所にあるインフォメーションセンター。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/7-2.jpg" alt="" class="wp-image-54307"/><figcaption class="wp-element-caption">このトンネルを抜けてサーキット内部に入る。壁面の「Nürburgring. Volles Programm, seit 1927」の文字は創設された1927年以降のフルヒストリーといった意味で、下半分の濃い灰色部分に、年号とトピックが記されている。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-2.jpg" alt="" class="wp-image-54308"/><figcaption class="wp-element-caption">1927年の創設以来ニュルブルクリンクで記録を残したレーシングドライバーの名前を刻んだ記念碑。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/9-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54309"/><figcaption class="wp-element-caption">コントロールタワーに向かって移動する私たち一行。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/10-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54310"/><figcaption class="wp-element-caption">ピットレーン。コースを隔てた向こう側、屋根のある部分がグランドスタンド。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/11-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54311"/><figcaption class="wp-element-caption">実際にコース上に出ることもできた。スターティンググリッドから第1コーナーに向かって撮ったショット。路面に黒々と残るブラックマークが激しいスタートを物語る。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/12-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54312"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/13-1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-54313"/></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/14-1-1024x772.jpg" alt="" class="wp-image-54314"/><figcaption class="wp-element-caption">この3枚はコントロールタワー2階に設置されたモニターを撮影したもの。無数のモニターがコースのあらゆる区間をリアルタイムで映し出す。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/15-1-1024x771.jpg" alt="" class="wp-image-54315"/><figcaption class="wp-element-caption">緊急車両はいつでも出動準備ができている。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>残念ながら、おもに財政面の問題から、F1ドイツGPは2019年のホッケンハイムを最後に、現在中断の状態がつづいている。ニュルブルクリンクで開催されたのはさらに2013年に遡り、このときはレッドブル ルノー駆るセバスチャン フェッテル（Sebastian Vettel）が勝っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この日、ニュルブルクリンクを見学した私たちは、ここのGPコースはいつでもF1を開催できるだけの安全性を完備した、最新鋭のサーキットだという印象を得た。近い将来、この由緒正しいサーキットで、ドイツGPが開催されることを期待したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ニュルブルクリンクの敷地内に並ぶ付帯施設やアトラクションも魅力的だ。なかでも最初に紹介したいのがリンクタクシー(RingTaxi）である。RingTaxiにはRingTaxi Co-PilotとRingTaxi Pilotの2種類がある。前者はいわゆる一般的なサーキットタクシーで、プロのレーシングドライバーが操縦するマシンに同乗する体験走行。ただしマシンが別格にすごい。992型ポルシェ911GT3 RSを筆頭に、AMG GTブラックシリーズやマクラーレン720Sが用意されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もう1つのRingTaxi Pilotはあなた自身がマシンを駆る体験走行。「70を超えるコーナー、刻々と変わる路面状況。ノルトシュライフェの魅力にどっぷり浸かろう」とパンフレットは謳う。コーナーの数からおわかりのように、リンクタクシーはノルトシュライフェの1区間を使って行う（全体ではコーナーは172ある）。助手席からは経験豊富なインストラクターが適宜アドバイスしてくれるので、能力に応じた走りができるだろう。マシンはBMW M5 CS、991型ポルシェ911 GT3 RS、ポルシェ ケイマンGT4と、これまた贅沢な布陣。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":54316,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/16-1024x768.jpg" alt="" class="wp-image-54316"/><figcaption class="wp-element-caption">RingTaxi Co-PilotとRingTaxi Pilotを紹介する立派なパンフレットがサーキットホテル内で配布されていた。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私ならまず同乗走行のRingTaxi Co-Pilotを選ぶと思う。ただし「お手柔らかにお願いします」というドイツ語を覚えてからだ。なにしろ彼らプロドライバーはリヤタイヤがヌルヌルと横方向のグリップを失いかけているというのに、鼻歌交じりでスロットルを踏み続けるのだから……。パンフレットには「20.832km pure adrenaline!」とあるが、私には恐怖のあまり絶叫しないでいられる自信はない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>シナリオの決まった遊園地のアトラクションにはもう飽きた。欲しいのは予測不能の辛口スリルだと言うあなたはRingTaxi Pilotに挑戦するといい。ブラインドコーナーの先に現れる未知のコースをどう攻略するのか。問われるのはもっぱらあなたの腕と度胸、そしてインストラクターのアドバイスに耳を傾ける冷静な心構えだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ニュルブルクリンク敷地内の各種付帯設備の充実振りにも目を見張った。大型旅客機すら楽々と収容できそうな巨大な格納庫クラスの建物に収まるリンクアリーナ（Ring Arena）には、高級ブティックやドライビングアカデミーのレセプションなどが軒を連ねている。広いフロア面積を誇るサーキットグッズショップは、ブツ欲を刺激するアイテムがこれでもかとばかりに並んでいて、大きな買い物袋を抱えて店を出ること請け合いだ。日本では最近すっかり手に入り難くなったニュルブルクリンクのコースを描いたステッカーもここなら選り取り見取り。私も1枚購入した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":54317,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/17.jpg" alt="" class="wp-image-54317"/></figure>
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<!-- wp:image {"id":54318,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/18.jpg" alt="" class="wp-image-54318"/><figcaption class="wp-element-caption">写真では閑散としているように見えるが、これはアリーナがあまりにも広いためと、土曜のため一部高級ブティックがクローズしていたため。サーキット専属のグッズショップは大変な賑わいだった。</figcaption></figure>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/19.jpg" alt="" class="wp-image-54319"/><figcaption class="wp-element-caption">リンクアリーナは大型旅客機も収容できそうな、巨大な格納庫クラスの建物に収まる。内部にはスペシャルショップや高級ブティックが軒を連ねる。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":54320,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/20.jpg" alt="" class="wp-image-54320"/><figcaption class="wp-element-caption">サーキットに併設されるドライビングアカデミー。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>有名なニュルブルクリンク24時間レースは、ドイツが一番麗しい季節を迎える6月に開催されるのが通例だ。とにかく24時間レースは長丁場。観戦に疲れたら、ホスピタリティ溢れるホテルに戻り、バーでカクテルを飲むのもよし、ショップでお土産探しをするもよし。充実した滞在を楽しめるに違いない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ニュルブルクリンクは一流のレースコースであると同時に、モータースポーツに関連するあらゆる施設を完備する、それ自体完結したエンタテインメント複合施設なのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>午後遅く、私たちはニュルブルクリンクを離れ、往路と同じ170kmの道のりをフランクフルトへと戻った。泊まるのは昨日と同じ、市内の中心に位置するモダンなホテル。実際、このホテルはとても快適だった。貧乏性の私など、一人で1部屋を使うには広すぎるほど。一旦外に出て、旅の一行の皆さんと一緒に夕食のテーブルを囲んだあとは、早めにベッドに潜り込んだ。しかしその日の夜はどういうわけか寝付けなかった。早いもので明日は旅の最終日。そう思うと寝てしまうのが惜しい気がしたせいかもしれない。日付が変わるころになっても緊急車両のサイレンが鳴り響くあたり、フランクフルトの街はニューヨークのマンハッタンに似ている。カーテンを少し開けて外を眺めると、闇のなかで高層ビルのシルエットが黒く浮かび上がっていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その14　見たかったNSU Ro80</title>
		<link>https://autobild.jp/53774/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[Felix Wankel]]></category>
		<category><![CDATA[NSU Ro80]]></category>
		<category><![CDATA[アウディミュージアム]]></category>
		<category><![CDATA[インゴルシュタット]]></category>
		<category><![CDATA[ヴァンケルエンジン]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
		<category><![CDATA[フェリックス ヴァンケル]]></category>
		<category><![CDATA[ロータリーエンジン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://autobild.jp/?p=53774</guid>

					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="1008" height="713" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1.jpg 1008w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1-300x212.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1-768x543.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 1008px) 100vw, 1008px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート3</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>お目当てのクルマはアウディミュージアムの一隅にひっそりと佇んでいた。<br>NSU Ro80――。<br>アウディミュージアムのなかで、いや、今回の旅全体を通じて私がもっとも実物を見たかった1台がこれだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>NSU Ro80はロータリーエンジンを搭載した初の本格量産車で、時代に先んじた機構を数々備える傑出した4ドア乗用車だと思う。しかし私のそんな思い入れとは裏腹に、最近ではメディアが取り上げることはほぼ皆無、事実上「忘れ去られた1台」になった感がある。私はこのクルマの実態をもっと知りたいと思ったし、なにより現物を見たかった。長年抱いていたその念願がようやくインゴルシュタットのお膝元で適った。初めて見るNSU Ro80の端正な姿は私の心を揺さぶった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53776,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-1.jpg" alt="" class="wp-image-53776"/><figcaption class="wp-element-caption">NSU Ro80。全長 x全幅 x全高：4780 x 1760 x 1410mm。ホイールベース：2860mm。空車重量：1251～1292kg。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今、私はRo80を、ロータリーエンジンを搭載した初の量産車と書いたが、これがデビューしたのは1967年のフランクフルトショーのこと。実はその3年前、1964年のフランクフルトショーにて、NSUはヴァンケルスパイダーというシングルローターの2座席スポーツカーを発表している。だから厳密には2番目のロータリーエンジン車だ。そうではあるが、2ローター ロータリーエンジンを搭載した実用的な4ドア乗用車としては掛け値なしに「世界初」であり、広く世間の注目を集めた点でもRo80の果たした役割は大きい、</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53777,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-1.jpg" alt="" class="wp-image-53777"/><figcaption class="wp-element-caption">1967年のフランクフルトショーにて華やかにワールドプレミアを果たすNSU Ro80。従来、コンパクトカーが中心だったNSUが、初めて手掛けるエグゼクティブ クラスの4ドアサルーンだった。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「世界初」の称号も大切だが、私がRo80に惹かれる理由はその外観デザインと、先進機構をズラリと揃えた野心的な設計にある。まずはデザインの話から始めよう。ボディデザインを統括したのは、当時NSUチーフデザイナーの任にあったクラウス ルーテ（Claus Luthe）という人。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53778,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4-1.jpg" alt="" class="wp-image-53778"/><figcaption class="wp-element-caption">NSU Ro80のサイドビューを見る。ホイールベース内の空間を一杯に使ったキャビン、広いガラスエリアと、それがもたらす四囲の良好な視界がわかる。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>サイドビューを見ると、短めにまとめたエンジンルームに対して、ホイールベース（2860mm）を大きく取っているのがわかる。全長（4780mm）のなかで可能な限り広いキャビンスペースを確保している。リヤドアのシャットラインが後輪ホイールアーチに蹴られていないのも注目で、良好な乗降性を実現した。乗用車で基本とすべき要件を満たしたデザインだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>6ライト（片側に3枚並ぶサイドウインドウ）を採用した効用も大きく、明るく開放感溢れる室内をもたらした。さらにこの6ライトは大きなリヤガラスと相まって、斜め方向を含めて優れた後方視界を提供する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうして見ていくと、クラウス ルーテはNSU Ro80で乗用車の理想像を徹底して追求したことがわかる。しかも完成したボディは普遍的でタイムレスな美を湛えている。機能に裏付けられた本質的な自動車美は、デビューから半世紀以上を経た今もその魅力を失っていない。空力面も優秀で、風洞実験を繰り返した結果、０.35というCd値（空気抵抗係数）を実現した。これは当時としては極めて優れた数値だという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>博識なAuto Bild Japanの読者諸氏は、今どきCd値0.3を切る乗用車は珍しくないと反論されるかもしれない。しかしRo80の開発は公式デビューの5年前、今から60余年もまえの1962年に遡ることを思い出して欲しい。それから現代にいたる間に、自動車に関する空気力学は飛躍的な進歩を遂げている。Ro80のCd値０.35は「当時としては」傑出した数字だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実際、ミュージアムの展示車のキャビン回りを見ると、前後ウインドウを囲むクロームメッキ仕上げのガーニッシュがルーフの前後端と滑らかな連続面を作っているのに気づく。一方、6ライトのサイドウインドウを囲むガーニッシュは雨樋の役割を兼務するが、これまたルーフと完璧な同一面を成している。どれも空気抵抗の低減を目指した、入念な風洞実験の成果だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53779,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-1.jpg" alt="" class="wp-image-53779"/><figcaption class="wp-element-caption">ウインドウ回りには入念な風洞実験がもたらした空力処理が見られる。アウトストラーダで超高速巡航を敢行した『Motor』誌は、Ro80のスムーズな走行性を「はるかに排気量の大きなV8でも適わない」と絶賛した。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":53780,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/6-1.jpg" alt="" class="wp-image-53780"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディミュージアムのRo80はエンジンが見えるように、ボンネットが透明素材に変えてあった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":53781,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/7-1.jpg" alt="" class="wp-image-53781"/><figcaption class="wp-element-caption">機能と無関係な装飾品を一切排したクリーンなリヤビュー。この写真からもたっぷりしたトランクスペースと、広く開けた四囲の視界が見て取れる。どちらも乗用車の基本要件を満たしたグッドデザインだ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":53782,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-1.jpg" alt="" class="wp-image-53782"/><figcaption class="wp-element-caption">Cピラーにベンチレーションアウトレットが組み込まれていることを、実車を見て初めて知った。デザインと機能を一体化した好例。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタイリングの話はこれくらいにして、そろそろ機構面を見ることにしよう。ロータリーエンジンの実用化に初めて成功したのはフェリックス ヴァンケル（Felix Wankel 1902～1988年）というエンジニアなのはご存じの通り。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ヴァンケル以前にもロータリーエンジンのコンセプトは広く知られていたが、実現不可能と片付けられていた。幼いころから独創的な想像力を発揮する天賦の才能に恵まれたヴァンケルは、機械の世界、とりわけ内燃機関に興味を抱くようになる。17歳のとき、「新しいタイプのエンジンを搭載した自動車を作るんだ」と夢を友人に語ったと言われる。「半分はタービンで、あとの半分は往復運動をするエンジンだ」。長じて後、彼はロータリーエンジンの原型を1924年に考案し、1929年、27歳の若さで最初の特許を取得している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第二次世界大戦中は、スイスとの国境に近いボーデン湖畔のリンダウ（Lindau）にて研究を進めた。戦後、自身の研究所は連合国側によって解体されるが、1951年からNSUのエンジン製造研究部門と共同で作業を続けることができるようになって、ロータリーエンジンの開発に拍車が掛かる。1954年にNSU向けロータリーエンジンの設計第1号が完成、1957年から翌年にかけてプロトタイプの試験が続き、ついに1964年、初のロータリーエンジン搭載車NSUヴァンケルスパイダーが日の目を見たのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="1008" height="713" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1.jpg 1008w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1-300x212.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1-1-768x543.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 1008px) 100vw, 1008px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート3</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>お目当てのクルマはアウディミュージアムの一隅にひっそりと佇んでいた。<br>NSU Ro80――。<br>アウディミュージアムのなかで、いや、今回の旅全体を通じて私がもっとも実物を見たかった1台がこれだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>NSU Ro80はロータリーエンジンを搭載した初の本格量産車で、時代に先んじた機構を数々備える傑出した4ドア乗用車だと思う。しかし私のそんな思い入れとは裏腹に、最近ではメディアが取り上げることはほぼ皆無、事実上「忘れ去られた1台」になった感がある。私はこのクルマの実態をもっと知りたいと思ったし、なにより現物を見たかった。長年抱いていたその念願がようやくインゴルシュタットのお膝元で適った。初めて見るNSU Ro80の端正な姿は私の心を揺さぶった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53776,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2-1.jpg" alt="" class="wp-image-53776"/><figcaption class="wp-element-caption">NSU Ro80。全長 x全幅 x全高：4780 x 1760 x 1410mm。ホイールベース：2860mm。空車重量：1251～1292kg。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>今、私はRo80を、ロータリーエンジンを搭載した初の量産車と書いたが、これがデビューしたのは1967年のフランクフルトショーのこと。実はその3年前、1964年のフランクフルトショーにて、NSUはヴァンケルスパイダーというシングルローターの2座席スポーツカーを発表している。だから厳密には2番目のロータリーエンジン車だ。そうではあるが、2ローター ロータリーエンジンを搭載した実用的な4ドア乗用車としては掛け値なしに「世界初」であり、広く世間の注目を集めた点でもRo80の果たした役割は大きい、</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-1.jpg" alt="" class="wp-image-53777"/><figcaption class="wp-element-caption">1967年のフランクフルトショーにて華やかにワールドプレミアを果たすNSU Ro80。従来、コンパクトカーが中心だったNSUが、初めて手掛けるエグゼクティブ クラスの4ドアサルーンだった。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「世界初」の称号も大切だが、私がRo80に惹かれる理由はその外観デザインと、先進機構をズラリと揃えた野心的な設計にある。まずはデザインの話から始めよう。ボディデザインを統括したのは、当時NSUチーフデザイナーの任にあったクラウス ルーテ（Claus Luthe）という人。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53778,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4-1.jpg" alt="" class="wp-image-53778"/><figcaption class="wp-element-caption">NSU Ro80のサイドビューを見る。ホイールベース内の空間を一杯に使ったキャビン、広いガラスエリアと、それがもたらす四囲の良好な視界がわかる。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>サイドビューを見ると、短めにまとめたエンジンルームに対して、ホイールベース（2860mm）を大きく取っているのがわかる。全長（4780mm）のなかで可能な限り広いキャビンスペースを確保している。リヤドアのシャットラインが後輪ホイールアーチに蹴られていないのも注目で、良好な乗降性を実現した。乗用車で基本とすべき要件を満たしたデザインだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>6ライト（片側に3枚並ぶサイドウインドウ）を採用した効用も大きく、明るく開放感溢れる室内をもたらした。さらにこの6ライトは大きなリヤガラスと相まって、斜め方向を含めて優れた後方視界を提供する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうして見ていくと、クラウス ルーテはNSU Ro80で乗用車の理想像を徹底して追求したことがわかる。しかも完成したボディは普遍的でタイムレスな美を湛えている。機能に裏付けられた本質的な自動車美は、デビューから半世紀以上を経た今もその魅力を失っていない。空力面も優秀で、風洞実験を繰り返した結果、０.35というCd値（空気抵抗係数）を実現した。これは当時としては極めて優れた数値だという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>博識なAuto Bild Japanの読者諸氏は、今どきCd値0.3を切る乗用車は珍しくないと反論されるかもしれない。しかしRo80の開発は公式デビューの5年前、今から60余年もまえの1962年に遡ることを思い出して欲しい。それから現代にいたる間に、自動車に関する空気力学は飛躍的な進歩を遂げている。Ro80のCd値０.35は「当時としては」傑出した数字だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実際、ミュージアムの展示車のキャビン回りを見ると、前後ウインドウを囲むクロームメッキ仕上げのガーニッシュがルーフの前後端と滑らかな連続面を作っているのに気づく。一方、6ライトのサイドウインドウを囲むガーニッシュは雨樋の役割を兼務するが、これまたルーフと完璧な同一面を成している。どれも空気抵抗の低減を目指した、入念な風洞実験の成果だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53779,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-1.jpg" alt="" class="wp-image-53779"/><figcaption class="wp-element-caption">ウインドウ回りには入念な風洞実験がもたらした空力処理が見られる。アウトストラーダで超高速巡航を敢行した『Motor』誌は、Ro80のスムーズな走行性を「はるかに排気量の大きなV8でも適わない」と絶賛した。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/6-1.jpg" alt="" class="wp-image-53780"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディミュージアムのRo80はエンジンが見えるように、ボンネットが透明素材に変えてあった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/7-1.jpg" alt="" class="wp-image-53781"/><figcaption class="wp-element-caption">機能と無関係な装飾品を一切排したクリーンなリヤビュー。この写真からもたっぷりしたトランクスペースと、広く開けた四囲の視界が見て取れる。どちらも乗用車の基本要件を満たしたグッドデザインだ。</figcaption></figure>
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<!-- wp:image {"id":53782,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-1.jpg" alt="" class="wp-image-53782"/><figcaption class="wp-element-caption">Cピラーにベンチレーションアウトレットが組み込まれていることを、実車を見て初めて知った。デザインと機能を一体化した好例。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>スタイリングの話はこれくらいにして、そろそろ機構面を見ることにしよう。ロータリーエンジンの実用化に初めて成功したのはフェリックス ヴァンケル（Felix Wankel 1902～1988年）というエンジニアなのはご存じの通り。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ヴァンケル以前にもロータリーエンジンのコンセプトは広く知られていたが、実現不可能と片付けられていた。幼いころから独創的な想像力を発揮する天賦の才能に恵まれたヴァンケルは、機械の世界、とりわけ内燃機関に興味を抱くようになる。17歳のとき、「新しいタイプのエンジンを搭載した自動車を作るんだ」と夢を友人に語ったと言われる。「半分はタービンで、あとの半分は往復運動をするエンジンだ」。長じて後、彼はロータリーエンジンの原型を1924年に考案し、1929年、27歳の若さで最初の特許を取得している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第二次世界大戦中は、スイスとの国境に近いボーデン湖畔のリンダウ（Lindau）にて研究を進めた。戦後、自身の研究所は連合国側によって解体されるが、1951年からNSUのエンジン製造研究部門と共同で作業を続けることができるようになって、ロータリーエンジンの開発に拍車が掛かる。1954年にNSU向けロータリーエンジンの設計第1号が完成、1957年から翌年にかけてプロトタイプの試験が続き、ついに1964年、初のロータリーエンジン搭載車NSUヴァンケルスパイダーが日の目を見たのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その13　滅多にお目にかかれないホルヒ</title>
		<link>https://autobild.jp/53504/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 03 Jul 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[Audi]]></category>
		<category><![CDATA[DKW]]></category>
		<category><![CDATA[DKW F89L Schnellaster]]></category>
		<category><![CDATA[DKW F89L シュネルラスター]]></category>
		<category><![CDATA[アウディ]]></category>
		<category><![CDATA[アウディミュージアム]]></category>
		<category><![CDATA[アウトウニオン1000Sクーペ]]></category>
		<category><![CDATA[フリッツ フィードラー]]></category>
		<category><![CDATA[ホルヒ]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="794" height="593" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1.jpg 794w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1-300x224.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1-768x574.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 794px) 100vw, 794px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート2</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回のパート1ではホルヒの創業者アウグスト ホルヒを主人公に据えてアウトウニオンが形成され、さらにはアウディがフォルクスワーゲン グループの一員になるまでの経緯をざっと俯瞰した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>本稿では私がミュージアムでぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、初めて見たモデルを紹介していこうと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ホルヒはぜひ見たかった。私が知る限り、トヨタ博物館が1937年製ホルヒ 853カブリオレを所蔵しているが、長らくバックヤードに仕舞い込まれたままだ。ホルヒは日本では簡単に目にすることができないブランドなのである。そんなわけで、1937年製ホルヒ853 シュポルト カブリオレと、1932年製670 シュポルト コンバーチブルの実物をこの目で見た嬉しさはひとしおだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>パート1で見たようにアウグスト ホルヒは1899年に創業したホルヒ社を1909年に去っている。つまりアウグストが同社に在籍した1909年を最後に、ホルヒ社は設計の中枢となる人物を失ったことになる。それにもかかわらず、このブランドが高く評価される製品を世に送り出すことができたのはなぜだろう。事実、メルセデスベンツやマイバッハと並び評される、ドイツを代表する高級車ブランドとしての名声は今も健在なのだ。その答えを求めていろいろな文献に当たった私は、フリッツ フィードラーという名前の技術者に行き着いた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この名前、BMWの稿でも紹介している。例の328スポーツカーを設計したのがフィードラーだった。彼は1924年にホルヒに入社、同社がアウトウニオンの一員になる1932年に辞するまで、チーフエンジニアの立場から8気筒や12気筒モデルの設計の主導役を勤めた。高品質な高級車メーカーとして、ホルヒの名声を確たるものにした立役者の一人がフリッツ フィードラーだった。彼はホルヒを離れたあとBMWに移籍、ここでも大いに活躍する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53506,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1.jpg" alt="" class="wp-image-53506"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年製ホルヒ853 シュポルト カブリオレ。直列8気筒、排気量4911cc。最高出力：120hp/3600rpm。最高速度：135km/h。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ホルヒ853シュポルト カブリオレは、威風堂々たる体躯をアウディミュージアムの特等席に鎮座させていた。周囲をがっちりプラスチック板で囲まれており、近づくことさえできないが、他車とは一線を画するオーラをはっきり感じ取れた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>5リッター直列8気筒エンジンは100hp/3400 rpm (1937年以降は120hp/ 3600 rpmにチューンされた)を生み出し、最高速135 km/hを誇った。ちなみに燃費は100km当たり約25リッター、つまり4km/リッター（！）だったから、容量95リッターの燃料タンクをもってしてもその航続距離は計算上380kmに過ぎない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53727,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2.jpg" alt="" class="wp-image-53727"/><figcaption class="wp-element-caption">アウトバーン上のガソリンステーションで給油するホルヒ853シュポルト カブリオレ。<br>Photo: Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そんなわけで、アウトバーンを高速巡航するホルヒ853シュポルト カブリオレは頻繁な給油ストップを要した。写真は1930年代終盤に撮影された1枚。1929年に起こった世界大恐慌の影響はこの頃のドイツ経済になお色濃い影響を及ぼし、本来のガソリンにベンジンを混ぜた燃料を用いていた。なお、シュポルト カブリオレは1935～1940年の製造期間中に1024台が製作されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53508,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53508"/><figcaption class="wp-element-caption">1932年製ホルヒ670 シュポルト コンバーチブル。生産年 : 1931～1934年。総生産台数 : 58台<br>V12エンジン。排気量 : 6021cc。最高出力 : 120hp / 3200rpm。最高速度 : 139km/h。燃料消費量 : 9mpg (約3.2km/リッター)。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ヘルマン アーレンという人物がデザインしたホルヒ670 シュポルト コンバーチブルは、世界的な経済危機の中、1931年秋のパリサロンにてデビューを果たした。チーフエンジニアのフリッツ フィードラーはこのモデルで、従来のV8からV12エンジンへの移行を敢行する。すでにライバルのマイバッハは1930年のDS8ツェッペリンでV12モデルを発表しており、ホルヒがヨーロッパのラグジュアリーカーセグメントでリーダーの立場を保持するには、多気筒化は避けて通れない選択だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フィードラーの製図板から生まれたV12エンジンのバンク角は66度。6リッターの排気量から120hpの最高出力を生み出した。フィードラーはこのV12に当時最先端のテクノロジーを駆使した。7個のベアリングが支持し、12個のバランスウェイトを備えるクランクシャフトはその一例。とりわけ油圧を用いたバルブクリアランスの自動調整機能は時代に先んじた技術で、フィードラーの面目躍如たるところだった。しかも振動を抑制するダンパーを備えて、ホルヒの名に相応しいスムーズな走行性の実現に万全を期している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>トランスミッションは一部がシンクロ化された4速マニュアルで、センタートンネルに位置するシフトレバーで変速する。ボディ外側のレバーで操作するか、長いロッドを介したコラムシフトが大半だった当時、フロアシフトは珍しかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53509,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4.jpg" alt="" class="wp-image-53509"/><figcaption class="wp-element-caption">ホルヒ670シュポルト コンバーチブルの写真をもう1枚掲げる。バンク角66度の6リッターV12は120hpの最高出力を生み出した。<br>Photo: Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>フィードラー渾身の力作エンジンを搭載したホルヒ670だったが、いかんせんデビューのタイミングが悪かった。1929年、アメリカの株価暴落に端を発する世界大恐慌のあおりを受けて、このホルヒは高価な希少品のまま終わる。コンバーチブル仕様の生産台数は58台、それ以外にこの12気筒エンジンを積んだタイプ600プルマン サルーンが20台生産されたに留まる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ホルヒの話が長くつづいたので、そろそろ話題を変えよう。以降、アウディミュージアムで初めて見たなかから印象に残ったモデルを3台紹介したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":53510,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53510 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1960年 アウトウニオン1000Sクーペ。ボディ形式は2ドアハードトップ。写真では見えないが、リヤウインドウは3枚の曲面ガラスから成るラップラウンドタイプだ。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1960年に登場したアウトウニオン1000Sクーペの源を辿ると、1953年発表のDKWゾンダークラッセ（Sonderklasse：特別クラス）に行き着く。34hpを生み出す900cc 2ストローク直列3気筒エンジンを搭載したFWD車だった。その後、DKWは、2ストローク直列3気筒のパワーとスムーズネスは4ストローク6気筒に匹敵するとセールストークで謳い、1955年からモデル名を「3＝6」に改めている。1957年にはエンジンを44hpの980ccに拡大、130km/hに向上したモデルを発表、これにはDKWではなくアウトウニオン1000クーペ デラックスと名づけた。さらに1960 年には50hpの強化版を発表、これがミュージアムで見たアウトウニオン1000Sクーペだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53515,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/プレゼンテーション1-1024x486.jpg" alt="" class="wp-image-53515"/><figcaption class="wp-element-caption">1949年 DKW F89L シュネルラスター (Schnellaster)</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>右の写真は「F89Lはこんな使い方もできます」というデモストレーションで、コーヒー豆の移動販売車を想定している。実際には小規模な工事などの用途に重用されたようだ。（右の写真はアウディミュージアム館内で配布している資料を撮影しました。）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>DKW F89Lは2ストロークエンジンを搭載したFWDのデリバリーバンで、1949年、ハノーバーのスプリングフェスティバルにて一般公開された。「Schnellaster（＝ファスト デリバリーバン）の別名で親しまれたF89Lは、第二次世界大戦によって荒廃したドイツの道路事情にあって、フットワークのよさを活かした理想的な輸送手段になった。高い耐久性もF89Lの美点で、様々な用途に用いられ、1951年末までに1万1504台が製造された。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2ストロークエンジンは登場当初は700ccの2気筒で20hpだったが、1952年には22hpに強化され、1955年に32hpを生み出す3気筒に換装されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":53513,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53513 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1959年 DKW ユニオア（Junior）</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>DKW ユニオアの前身は1957年3月のフランクフルトショーにてデビューしたDKW 600だった。DKW 600は当初から好評をもって迎えられ、1959年にモデル名をユニオアに変えて本格的な大量生産に移る。3気筒2ストロークエンジンは741 ccの排気量から34 hpを発揮。4速トランスミッションを介して前輪を駆動した。1961年当時の価格は4790マルクだったが、市場をリードするフォルクスワーゲン ビートルより室内空間も荷物スペースも広いのが利点だった。しかも空冷エンジンのVWより効率よく室内が暖まるので、ユニオアの顧客は大抵160マルクを払ってオプションのヒーターを注文したという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="794" height="593" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1.jpg 794w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1-300x224.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5_1-768x574.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 794px) 100vw, 794px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート2</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回のパート1ではホルヒの創業者アウグスト ホルヒを主人公に据えてアウトウニオンが形成され、さらにはアウディがフォルクスワーゲン グループの一員になるまでの経緯をざっと俯瞰した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>本稿では私がミュージアムでぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、初めて見たモデルを紹介していこうと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<p>ホルヒはぜひ見たかった。私が知る限り、トヨタ博物館が1937年製ホルヒ 853カブリオレを所蔵しているが、長らくバックヤードに仕舞い込まれたままだ。ホルヒは日本では簡単に目にすることができないブランドなのである。そんなわけで、1937年製ホルヒ853 シュポルト カブリオレと、1932年製670 シュポルト コンバーチブルの実物をこの目で見た嬉しさはひとしおだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>パート1で見たようにアウグスト ホルヒは1899年に創業したホルヒ社を1909年に去っている。つまりアウグストが同社に在籍した1909年を最後に、ホルヒ社は設計の中枢となる人物を失ったことになる。それにもかかわらず、このブランドが高く評価される製品を世に送り出すことができたのはなぜだろう。事実、メルセデスベンツやマイバッハと並び評される、ドイツを代表する高級車ブランドとしての名声は今も健在なのだ。その答えを求めていろいろな文献に当たった私は、フリッツ フィードラーという名前の技術者に行き着いた。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>この名前、BMWの稿でも紹介している。例の328スポーツカーを設計したのがフィードラーだった。彼は1924年にホルヒに入社、同社がアウトウニオンの一員になる1932年に辞するまで、チーフエンジニアの立場から8気筒や12気筒モデルの設計の主導役を勤めた。高品質な高級車メーカーとして、ホルヒの名声を確たるものにした立役者の一人がフリッツ フィードラーだった。彼はホルヒを離れたあとBMWに移籍、ここでも大いに活躍する。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/1.jpg" alt="" class="wp-image-53506"/><figcaption class="wp-element-caption">1937年製ホルヒ853 シュポルト カブリオレ。直列8気筒、排気量4911cc。最高出力：120hp/3600rpm。最高速度：135km/h。</figcaption></figure>
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<p>ホルヒ853シュポルト カブリオレは、威風堂々たる体躯をアウディミュージアムの特等席に鎮座させていた。周囲をがっちりプラスチック板で囲まれており、近づくことさえできないが、他車とは一線を画するオーラをはっきり感じ取れた。</p>
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<p>5リッター直列8気筒エンジンは100hp/3400 rpm (1937年以降は120hp/ 3600 rpmにチューンされた)を生み出し、最高速135 km/hを誇った。ちなみに燃費は100km当たり約25リッター、つまり4km/リッター（！）だったから、容量95リッターの燃料タンクをもってしてもその航続距離は計算上380kmに過ぎない。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/2.jpg" alt="" class="wp-image-53727"/><figcaption class="wp-element-caption">アウトバーン上のガソリンステーションで給油するホルヒ853シュポルト カブリオレ。<br>Photo: Audi AG</figcaption></figure>
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<p>そんなわけで、アウトバーンを高速巡航するホルヒ853シュポルト カブリオレは頻繁な給油ストップを要した。写真は1930年代終盤に撮影された1枚。1929年に起こった世界大恐慌の影響はこの頃のドイツ経済になお色濃い影響を及ぼし、本来のガソリンにベンジンを混ぜた燃料を用いていた。なお、シュポルト カブリオレは1935～1940年の製造期間中に1024台が製作されている。</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/3-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53508"/><figcaption class="wp-element-caption">1932年製ホルヒ670 シュポルト コンバーチブル。生産年 : 1931～1934年。総生産台数 : 58台<br>V12エンジン。排気量 : 6021cc。最高出力 : 120hp / 3200rpm。最高速度 : 139km/h。燃料消費量 : 9mpg (約3.2km/リッター)。</figcaption></figure>
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<p>ヘルマン アーレンという人物がデザインしたホルヒ670 シュポルト コンバーチブルは、世界的な経済危機の中、1931年秋のパリサロンにてデビューを果たした。チーフエンジニアのフリッツ フィードラーはこのモデルで、従来のV8からV12エンジンへの移行を敢行する。すでにライバルのマイバッハは1930年のDS8ツェッペリンでV12モデルを発表しており、ホルヒがヨーロッパのラグジュアリーカーセグメントでリーダーの立場を保持するには、多気筒化は避けて通れない選択だった。</p>
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<p>フィードラーの製図板から生まれたV12エンジンのバンク角は66度。6リッターの排気量から120hpの最高出力を生み出した。フィードラーはこのV12に当時最先端のテクノロジーを駆使した。7個のベアリングが支持し、12個のバランスウェイトを備えるクランクシャフトはその一例。とりわけ油圧を用いたバルブクリアランスの自動調整機能は時代に先んじた技術で、フィードラーの面目躍如たるところだった。しかも振動を抑制するダンパーを備えて、ホルヒの名に相応しいスムーズな走行性の実現に万全を期している。</p>
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<p>トランスミッションは一部がシンクロ化された4速マニュアルで、センタートンネルに位置するシフトレバーで変速する。ボディ外側のレバーで操作するか、長いロッドを介したコラムシフトが大半だった当時、フロアシフトは珍しかった。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/4.jpg" alt="" class="wp-image-53509"/><figcaption class="wp-element-caption">ホルヒ670シュポルト コンバーチブルの写真をもう1枚掲げる。バンク角66度の6リッターV12は120hpの最高出力を生み出した。<br>Photo: Audi AG</figcaption></figure>
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<p>フィードラー渾身の力作エンジンを搭載したホルヒ670だったが、いかんせんデビューのタイミングが悪かった。1929年、アメリカの株価暴落に端を発する世界大恐慌のあおりを受けて、このホルヒは高価な希少品のまま終わる。コンバーチブル仕様の生産台数は58台、それ以外にこの12気筒エンジンを積んだタイプ600プルマン サルーンが20台生産されたに留まる。</p>
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<p>ホルヒの話が長くつづいたので、そろそろ話題を変えよう。以降、アウディミュージアムで初めて見たなかから印象に残ったモデルを3台紹介したい。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/5-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53510 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1960年 アウトウニオン1000Sクーペ。ボディ形式は2ドアハードトップ。写真では見えないが、リヤウインドウは3枚の曲面ガラスから成るラップラウンドタイプだ。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>1960年に登場したアウトウニオン1000Sクーペの源を辿ると、1953年発表のDKWゾンダークラッセ（Sonderklasse：特別クラス）に行き着く。34hpを生み出す900cc 2ストローク直列3気筒エンジンを搭載したFWD車だった。その後、DKWは、2ストローク直列3気筒のパワーとスムーズネスは4ストローク6気筒に匹敵するとセールストークで謳い、1955年からモデル名を「3＝6」に改めている。1957年にはエンジンを44hpの980ccに拡大、130km/hに向上したモデルを発表、これにはDKWではなくアウトウニオン1000クーペ デラックスと名づけた。さらに1960 年には50hpの強化版を発表、これがミュージアムで見たアウトウニオン1000Sクーペだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53515,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/プレゼンテーション1-1024x486.jpg" alt="" class="wp-image-53515"/><figcaption class="wp-element-caption">1949年 DKW F89L シュネルラスター (Schnellaster)</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>右の写真は「F89Lはこんな使い方もできます」というデモストレーションで、コーヒー豆の移動販売車を想定している。実際には小規模な工事などの用途に重用されたようだ。（右の写真はアウディミュージアム館内で配布している資料を撮影しました。）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>DKW F89Lは2ストロークエンジンを搭載したFWDのデリバリーバンで、1949年、ハノーバーのスプリングフェスティバルにて一般公開された。「Schnellaster（＝ファスト デリバリーバン）の別名で親しまれたF89Lは、第二次世界大戦によって荒廃したドイツの道路事情にあって、フットワークのよさを活かした理想的な輸送手段になった。高い耐久性もF89Lの美点で、様々な用途に用いられ、1951年末までに1万1504台が製造された。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2ストロークエンジンは登場当初は700ccの2気筒で20hpだったが、1952年には22hpに強化され、1955年に32hpを生み出す3気筒に換装されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/07/8-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53513 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1959年 DKW ユニオア（Junior）</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>DKW ユニオアの前身は1957年3月のフランクフルトショーにてデビューしたDKW 600だった。DKW 600は当初から好評をもって迎えられ、1959年にモデル名をユニオアに変えて本格的な大量生産に移る。3気筒2ストロークエンジンは741 ccの排気量から34 hpを発揮。4速トランスミッションを介して前輪を駆動した。1961年当時の価格は4790マルクだったが、市場をリードするフォルクスワーゲン ビートルより室内空間も荷物スペースも広いのが利点だった。しかも空冷エンジンのVWより効率よく室内が暖まるので、ユニオアの顧客は大抵160マルクを払ってオプションのヒーターを注文したという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
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			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その12　アウディミュージアム</title>
		<link>https://autobild.jp/53141/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 26 Jun 2025 06:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[Audi]]></category>
		<category><![CDATA[Audi museum mobile]]></category>
		<category><![CDATA[Dampfkraftwagen]]></category>
		<category><![CDATA[DKW]]></category>
		<category><![CDATA[アウグスト・ホルヒ]]></category>
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		<category><![CDATA[アウトウニオン]]></category>
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		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
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		<category><![CDATA[ヨルゲン・スカフテ・ラスムッセン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://autobild.jp/?p=53141</guid>

					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="997" height="656" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg 997w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-300x197.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-768x505.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 997px) 100vw, 997px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート1</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツ自動車博物館を巡る私たちの旅も5日目を迎えた。今、ミュンヘンを後にしてインゴルシュタットに向かっている。今回の旅でミュンヘンはもっとも南に位置する街で、次の目的地インゴルシュタットは北に上ること約80km先にある。約1時間30分の道のりだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>インゴルシュタットは約13万人の人口を擁するバイエルン州で6番目に大きい都市。1989年に人口10万人の大台を突破したばかりの、成長著しい街でもある。そのインゴルシュタットに、アウディは本社と工場、ミュージアムを合わせて286万平方ｍの敷地を有する。従業員の総数は約4万人（2023年現在）というから、雇用の機会提供を含めて、アウディはインゴルシュタット成長の原動力となっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウディミュージアム（Audi museum mobile）は2000年12月にオープンした。設計したのはギュンター・ヘンという人物で、ガラスとスチールから成る建物の高さは22 m。4輪車は約50台を、2輪車は約30台を常設展示する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>内部は1階から4階まで吹き抜けになっており、写真に見るように空間的な開放感がある。その吹き抜けを貫通しているのが、このミュージアムの大きな特徴となっている回転式展示パレット。遊園地の観覧車のように1～4階のあいだを常時循環しており、どの階からもパレットに載った展示車両を見られる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":53143,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-3.jpg" alt="" class="wp-image-53143 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1階から4階まで吹き抜けになっており、空間的な開放感がある。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>現代のアウディの前身がアウトウニオンであることは、私も知っていたつもりだった。しかしアウディ博物館の概要を紹介するに先立って、アウトウニオンの成立から現アウディに至るまでの歴史を調べてみると、これが私の大雑把な理解をはるかに越えた、複雑なストーリーなのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":53144,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-4.jpg" alt="" class="wp-image-53144 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>回転式展示パレットには、2007年DTM（ドイツツーリングカー選手権）のタイトルホルダーであるA4 DTMや、2002年のルマン R8 LMPプロトタイプなど、14台のモータースポーツ関連車両が載っている。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今ではインターネット上の情報を含めて、高名な自動車史研究家たちによる詳細な研究の成果を閲覧できるが、本稿ではアウトウニオンが成立するまでのあらましを簡単にまとめてみようと思う。ストーリーの主人公はアウグスト ホルヒ（August Horch 1868～1951年）だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウグスト ホルヒは1899年11月14日、自身が理想とするクルマを作るため「ホルヒ自動車製造会社（Horch &amp; Cie. Motorwagenwerke ）」をケルンにて設立する。事業は順調に伸びて1904年には生産拠点をザクセン州ツヴィッカウ（Zwickau）に移転する。当時、ツヴィッカウはザクセン州の産業の中心地だったのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53145,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-4.jpg" alt="" class="wp-image-53145"/><figcaption class="wp-element-caption">ホルヒ 4-5 PS ヴィ ザ ヴィ (1901年)。アウグスト ホルヒが1901年完成させた自身最初の自動車。彼が「無振動」と名付けた2気筒エンジンは、キャビン床下に水平に搭載されていた。ホルヒが最初に作った10台のうち1台は、ドライバーと乗員が向かい合うヴィ ザ ヴィ（Vis-à-Vis）モデルだった。最高出力 : 4～5 hp/1400 rpm、最高速度 : 30 km/h、価格 : 3500マルク（シャシーのみ）。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしその後、取締役会および監査役会との意見が合わず、自分が興した会社を去り、1909年、新たに2番目の会社「アウグスト ホルヒ自動車製作有限会社（August Horch Automobil werke GmbH）」を、場所も同じツヴィッカウに興す。アウグストにすればこの新会社にも自分の名前を冠するのは自然なことだったが、ここで既存のホルヒ社から待ったが掛かる。「ホルヒ」の名称はすでに商標登録されているというのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ホルヒ」の使用権を巡り、アウグストは法廷闘争にまで持ち込んだが、裁判所はその使用権は既存のホルヒ社にあると認めた。しかたなく彼は新会社を「アウディ自動車製造会社(Audi Automobilwerke GmbH）」と名づけて創業した。1910年のことだ。ちなみにドイツ語の「horch」は「聴く」という意味で、彼は同じ意味のラテン語表記「アウディ」を社名にして新会社を発足させたのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このエピソードを知った私は、翻訳家の習性から「アウディ」の綴りAudiによく似た英語「audio」を辞書で引いてみた。するとそこには「聴覚の」という訳語とともに、「ラテン語audire（聴く）の語幹に-o」をつけた言葉という解説が添えてあった。私たちが音楽を楽しむオーディオ器機の「audio」、その語源はラテン語にあり、どうやら「アウディ」とも無関係ではないようだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":53151,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-5-725x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53151 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>アウグスト ホルヒ。1896年からカール ベンツのもとで働き、1899年11月に自身の会社ホルヒを創業。1910年に新会社アウディを設立するも、1920年にはそこを辞する。以後、1951年にこの世を去るまで、アウトウニオンの名誉役員を務めた。<br>Photo:：Audi AG</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><br></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>かくしてアウグスト ホルヒはようやく名実ともに自分の会社で設計に打ち込むことができるかに見えたが、時代は彼の運命を翻弄する。ここで新たな主人公として登場するのがヨルゲン スカフテ ラスムッセンという人物。ラスムッセンは1917年に蒸気自動車の試作に成功、これを契機にドイツ語で蒸気自動車を意味するDampfkraftwagenの頭文字を採ってDKWを発足させる。その後、モーターサイクルの生産によりDKWの事業は順調に発展し、1928年には同社初の4輪車を発表した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その1928年、ラスムッセンはアウディの大株主になり、両社は合併する。さらに1932年にはヴァンダラーとホルヒが傘下に入り、ここにアウトウニオンが生まれる。折りしも1929年、ウォール街に端を発する世界恐慌がドイツ経済にも暗い影を落としており、比較的小規模なこの4つのメーカーが生き残るには合併しかなかったのだ。一度は縁を切ったホルヒと同じ傘の下に収まり、またもや独立独歩の道を阻まれたアウグスト・ホルヒ。彼はこのときどのような心境だったのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53147,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6-3-1024x725.jpg" alt="" class="wp-image-53147"/><figcaption class="wp-element-caption">アウトウニオンを構成する5つのブランドを象徴する写真。左上から反時計回りに。Horch 830 BL, 1938。 DKW3=6F91, 1953。NSU Prinz 30, 1959（赤）。Wanderer W25K, 1937。Audi Front 225, 1936。<br>Photo:：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトウニオンの運命も時代に翻弄された。第二次世界大戦の結果により生産設備を奪われた同社は、戦後西ドイツで態勢を一新、本社をインゴルシュタットに移し、再建への道を歩む。その後、1958年にダイムラー・ベンツに、さらに64年にはフォルクスワーゲン（VW）に吸収合併されるが、VW傘下に入ったことにより経営が安定する。1960年代後半には戦前の匂いがするアウトウニオンからのイメージチェンジを図り、モデル名にアウディを使うようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1969年にはNSUがアウトウニオン傘下に入って社名がアウディNSUアウトウニオンになり、さらに1985年、企業名が今日、私たちが知るアウディへと変わった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53148,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/7-2.jpg" alt="" class="wp-image-53148"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディAGの家系図。今日、私たちが知るアウディの姿が完成したのは1985年のことで、その間、計5つのメーカーが関与している。それぞれのエンブレムの変遷もこれを見るとわかる。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":53149,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/8-2.jpg" alt="" class="wp-image-53149"/><figcaption class="wp-element-caption">興味深い写真をご覧に入れよう。1971年、NSUのネッカーズルム（Neckarsulm）工場を捉えたショット。NSUがアウトウニオン傘下に入った1969年以降、同工場ではアウディ100 とNSU Ro 80 が同じラインで生産された。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":53150,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/9-2.jpg" alt="" class="wp-image-53150"/><figcaption class="wp-element-caption">自社ブランドの製品のみを扱うアウトウニオンの販売店。アウディ・ミュージアム館内で配布しているカードを撮影しました。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この稿を締めくくるまえに、アウトウニオンが採った独自の販売方法にも触れておこう。1920～30年代は、自動車の販売台数がその後と比べると少なかったため、販売店は複数のメーカーの製品を扱った。ホルヒの販売店でオペルやシトロエンを買うことができたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーと、それぞれターゲットカスタマーの異なる4社が集まってできたアウトウニオンでは、扱うモデルも多様で合計販売台数も多かった。そこでショールームに自社とライバルメーカーの製品を一緒に並べることを止め、アウトウニオン・モデルのみを扱う正規販売店から成るネットワークを構築したのである。上に掲げた写真に見るように、アウトウニオンのディーラーは立派な店舗を構え、自社ブランドの製品のみを扱っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>5つのブランドが構成するアウディ ミュージアムの展示品は多種多様だ。次回は、私がぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、ミュージアムで初めて見たクルマを紹介していこうと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="997" height="656" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4.jpg 997w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-300x197.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-4-768x505.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 997px) 100vw, 997px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">5日目 2月21日 パート1</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツ自動車博物館を巡る私たちの旅も5日目を迎えた。今、ミュンヘンを後にしてインゴルシュタットに向かっている。今回の旅でミュンヘンはもっとも南に位置する街で、次の目的地インゴルシュタットは北に上ること約80km先にある。約1時間30分の道のりだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>インゴルシュタットは約13万人の人口を擁するバイエルン州で6番目に大きい都市。1989年に人口10万人の大台を突破したばかりの、成長著しい街でもある。そのインゴルシュタットに、アウディは本社と工場、ミュージアムを合わせて286万平方ｍの敷地を有する。従業員の総数は約4万人（2023年現在）というから、雇用の機会提供を含めて、アウディはインゴルシュタット成長の原動力となっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウディミュージアム（Audi museum mobile）は2000年12月にオープンした。設計したのはギュンター・ヘンという人物で、ガラスとスチールから成る建物の高さは22 m。4輪車は約50台を、2輪車は約30台を常設展示する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>内部は1階から4階まで吹き抜けになっており、写真に見るように空間的な開放感がある。その吹き抜けを貫通しているのが、このミュージアムの大きな特徴となっている回転式展示パレット。遊園地の観覧車のように1～4階のあいだを常時循環しており、どの階からもパレットに載った展示車両を見られる。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-3.jpg" alt="" class="wp-image-53143 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>1階から4階まで吹き抜けになっており、空間的な開放感がある。</p>
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<p>現代のアウディの前身がアウトウニオンであることは、私も知っていたつもりだった。しかしアウディ博物館の概要を紹介するに先立って、アウトウニオンの成立から現アウディに至るまでの歴史を調べてみると、これが私の大雑把な理解をはるかに越えた、複雑なストーリーなのだった。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-4.jpg" alt="" class="wp-image-53144 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>回転式展示パレットには、2007年DTM（ドイツツーリングカー選手権）のタイトルホルダーであるA4 DTMや、2002年のルマン R8 LMPプロトタイプなど、14台のモータースポーツ関連車両が載っている。</p>
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<p>今ではインターネット上の情報を含めて、高名な自動車史研究家たちによる詳細な研究の成果を閲覧できるが、本稿ではアウトウニオンが成立するまでのあらましを簡単にまとめてみようと思う。ストーリーの主人公はアウグスト ホルヒ（August Horch 1868～1951年）だ。</p>
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<p>アウグスト ホルヒは1899年11月14日、自身が理想とするクルマを作るため「ホルヒ自動車製造会社（Horch &amp; Cie. Motorwagenwerke ）」をケルンにて設立する。事業は順調に伸びて1904年には生産拠点をザクセン州ツヴィッカウ（Zwickau）に移転する。当時、ツヴィッカウはザクセン州の産業の中心地だったのだ。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-4.jpg" alt="" class="wp-image-53145"/><figcaption class="wp-element-caption">ホルヒ 4-5 PS ヴィ ザ ヴィ (1901年)。アウグスト ホルヒが1901年完成させた自身最初の自動車。彼が「無振動」と名付けた2気筒エンジンは、キャビン床下に水平に搭載されていた。ホルヒが最初に作った10台のうち1台は、ドライバーと乗員が向かい合うヴィ ザ ヴィ（Vis-à-Vis）モデルだった。最高出力 : 4～5 hp/1400 rpm、最高速度 : 30 km/h、価格 : 3500マルク（シャシーのみ）。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
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<p>しかしその後、取締役会および監査役会との意見が合わず、自分が興した会社を去り、1909年、新たに2番目の会社「アウグスト ホルヒ自動車製作有限会社（August Horch Automobil werke GmbH）」を、場所も同じツヴィッカウに興す。アウグストにすればこの新会社にも自分の名前を冠するのは自然なことだったが、ここで既存のホルヒ社から待ったが掛かる。「ホルヒ」の名称はすでに商標登録されているというのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「ホルヒ」の使用権を巡り、アウグストは法廷闘争にまで持ち込んだが、裁判所はその使用権は既存のホルヒ社にあると認めた。しかたなく彼は新会社を「アウディ自動車製造会社(Audi Automobilwerke GmbH）」と名づけて創業した。1910年のことだ。ちなみにドイツ語の「horch」は「聴く」という意味で、彼は同じ意味のラテン語表記「アウディ」を社名にして新会社を発足させたのだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このエピソードを知った私は、翻訳家の習性から「アウディ」の綴りAudiによく似た英語「audio」を辞書で引いてみた。するとそこには「聴覚の」という訳語とともに、「ラテン語audire（聴く）の語幹に-o」をつけた言葉という解説が添えてあった。私たちが音楽を楽しむオーディオ器機の「audio」、その語源はラテン語にあり、どうやら「アウディ」とも無関係ではないようだ。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-5-725x1024.jpg" alt="" class="wp-image-53151 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>アウグスト ホルヒ。1896年からカール ベンツのもとで働き、1899年11月に自身の会社ホルヒを創業。1910年に新会社アウディを設立するも、1920年にはそこを辞する。以後、1951年にこの世を去るまで、アウトウニオンの名誉役員を務めた。<br>Photo:：Audi AG</p>
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<p><br></p>
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<p>かくしてアウグスト ホルヒはようやく名実ともに自分の会社で設計に打ち込むことができるかに見えたが、時代は彼の運命を翻弄する。ここで新たな主人公として登場するのがヨルゲン スカフテ ラスムッセンという人物。ラスムッセンは1917年に蒸気自動車の試作に成功、これを契機にドイツ語で蒸気自動車を意味するDampfkraftwagenの頭文字を採ってDKWを発足させる。その後、モーターサイクルの生産によりDKWの事業は順調に発展し、1928年には同社初の4輪車を発表した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その1928年、ラスムッセンはアウディの大株主になり、両社は合併する。さらに1932年にはヴァンダラーとホルヒが傘下に入り、ここにアウトウニオンが生まれる。折りしも1929年、ウォール街に端を発する世界恐慌がドイツ経済にも暗い影を落としており、比較的小規模なこの4つのメーカーが生き残るには合併しかなかったのだ。一度は縁を切ったホルヒと同じ傘の下に収まり、またもや独立独歩の道を阻まれたアウグスト・ホルヒ。彼はこのときどのような心境だったのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53147,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6-3-1024x725.jpg" alt="" class="wp-image-53147"/><figcaption class="wp-element-caption">アウトウニオンを構成する5つのブランドを象徴する写真。左上から反時計回りに。Horch 830 BL, 1938。 DKW3=6F91, 1953。NSU Prinz 30, 1959（赤）。Wanderer W25K, 1937。Audi Front 225, 1936。<br>Photo:：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトウニオンの運命も時代に翻弄された。第二次世界大戦の結果により生産設備を奪われた同社は、戦後西ドイツで態勢を一新、本社をインゴルシュタットに移し、再建への道を歩む。その後、1958年にダイムラー・ベンツに、さらに64年にはフォルクスワーゲン（VW）に吸収合併されるが、VW傘下に入ったことにより経営が安定する。1960年代後半には戦前の匂いがするアウトウニオンからのイメージチェンジを図り、モデル名にアウディを使うようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1969年にはNSUがアウトウニオン傘下に入って社名がアウディNSUアウトウニオンになり、さらに1985年、企業名が今日、私たちが知るアウディへと変わった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":53148,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/7-2.jpg" alt="" class="wp-image-53148"/><figcaption class="wp-element-caption">アウディAGの家系図。今日、私たちが知るアウディの姿が完成したのは1985年のことで、その間、計5つのメーカーが関与している。それぞれのエンブレムの変遷もこれを見るとわかる。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/8-2.jpg" alt="" class="wp-image-53149"/><figcaption class="wp-element-caption">興味深い写真をご覧に入れよう。1971年、NSUのネッカーズルム（Neckarsulm）工場を捉えたショット。NSUがアウトウニオン傘下に入った1969年以降、同工場ではアウディ100 とNSU Ro 80 が同じラインで生産された。<br>Photo：Audi AG</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":53150,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/9-2.jpg" alt="" class="wp-image-53150"/><figcaption class="wp-element-caption">自社ブランドの製品のみを扱うアウトウニオンの販売店。アウディ・ミュージアム館内で配布しているカードを撮影しました。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この稿を締めくくるまえに、アウトウニオンが採った独自の販売方法にも触れておこう。1920～30年代は、自動車の販売台数がその後と比べると少なかったため、販売店は複数のメーカーの製品を扱った。ホルヒの販売店でオペルやシトロエンを買うことができたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーと、それぞれターゲットカスタマーの異なる4社が集まってできたアウトウニオンでは、扱うモデルも多様で合計販売台数も多かった。そこでショールームに自社とライバルメーカーの製品を一緒に並べることを止め、アウトウニオン・モデルのみを扱う正規販売店から成るネットワークを構築したのである。上に掲げた写真に見るように、アウトウニオンのディーラーは立派な店舗を構え、自社ブランドの製品のみを扱っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>5つのブランドが構成するアウディ ミュージアムの展示品は多種多様だ。次回は、私がぜひ実物を見たいと思っていたクルマや、ミュージアムで初めて見たクルマを紹介していこうと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その11　ドイツのスイーツは繊細な味わい</title>
		<link>https://autobild.jp/52398/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[JALパック]]></category>
		<category><![CDATA[ヴルスト]]></category>
		<category><![CDATA[ザワークラウト]]></category>
		<category><![CDATA[シュニッツェル]]></category>
		<category><![CDATA[ソーセージ]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツグルメ]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
		<category><![CDATA[自動車専門翻訳家]]></category>
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					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="993" height="659" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2.jpg 993w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2-300x199.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2-768x510.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 993px) 100vw, 993px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">コラム　ドイツの食事を楽しむ</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>正味6日間のドイツ滞在中、私たちはすばらしい料理を堪能した。ランチは主催者のJALパックツアーがあらかじめ手配してあったので、私たちはただ案内されたレストランのテーブルに着くだけ。ややこしいメニューを読み解く手間は一切なしで、日々異なるドイツ料理が目の前に並んだ。これは一種の贅沢だ。食事は旅の楽しみの大切な一部。ここでは写真を中心に、私たちを幸せにしてくれたごちそうを紹介しよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52400,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-2.jpg" alt="" class="wp-image-52400"/><figcaption class="wp-element-caption">豚頬（ほほ）肉の赤ワイン煮込み。じっくり煮込んであるのでフォークを刺すだけでホロホロと肉の線維がほどける。コクのあるソースと相まって、とりわけ味わい深い一品だった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツではソーセージをヴルスト（Wurst）と言うのだそう。地域によって特色あるヴルストが作られ、その種類は1500ほどもあるという。ニュルンベルクで味わったこの一皿、付け合わせのザワークラウトとの相性も抜群だった。ちなみにザワークラウトは乳酸菌を使った発酵食品で、ビタミンCやBを多く含む健康食品なのを、今回の旅行で初めて知った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52401,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-2.jpg" alt="" class="wp-image-52401"/><figcaption class="wp-element-caption">やはりヴルスト（ソーセージ）は美味しかった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>巨大な骨付き豚肉にも挑んだ。正式な料理名は聞き漏らしたが、豚のすね肉をアップルワインに漬け込んで焼き上げた料理をシュヴァイネハクセと言うらしく、これもその一種だろうか。カリカリになった分厚い皮に阻まれて「解体」するのに一苦労。鋭いステーキナイフが欲しかったが、周囲の常連客とおぼしき地元の人たちは、刃のなまったナイフでガシガシ切り刻んでいた。とにかく彼らは（彼女たちも）力が強い。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52402,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-2.jpg" alt="" class="wp-image-52402"/><figcaption class="wp-element-caption">巨大な骨付き豚肉を豪快に食した。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>帰国を明日に控えたフランクフルトでは、一同揃って夕食のテーブルを囲んだ。主役はシュニッツエル。豚ロース肉を薄く伸ばして揚げたカツレツだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52403,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-2.jpg" alt="" class="wp-image-52403"/><figcaption class="wp-element-caption">シュニッツェルはドイツの定番メニュー。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>特徴はグリューネゾーゼと呼ばれるグリーンのソース（お皿の左上に添えてある）。ハーブを主体にサワークリームやマスタード、マヨネーズをミックスしたソースというから、超ハイカロリーなこと間違いなし。前半はクリスピーなカツレツとクリーミーなソースの組み合わせが美味しく夢中で食べたが、そのうち醤油が欲しくなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52408,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/スライド1-1024x373.jpg" alt="" class="wp-image-52408"/><figcaption class="wp-element-caption">新鮮な野菜たっぷりのグリーンサラダが毎日出たのも嬉しかった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>食後のスイーツも絶品だった。ただ甘いばかりの大味なケーキを想像していたのだが、毎日供される様々なデザートはどれも繊細な味わいで、すでにメインで一杯のはずの胃にも楽々と収まった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52409,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/スライド2-1024x378.jpg" alt="" class="wp-image-52409"/><figcaption class="wp-element-caption">スイーツはどれも絶品。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>新鮮な野菜盛りだくさんのサラダ、ドイツを代表するメイン料理、上等なデザート。舌の肥えた参加者一同を満足させるに充分なメニューだった。たぶん今回の旅の案内役Kさんとアレックスの知恵と経験が活きているのだろう。ドイツ料理の魅力を教えてくれた二人に、感謝したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="993" height="659" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2.jpg 993w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2-300x199.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-2-768x510.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 993px) 100vw, 993px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">コラム　ドイツの食事を楽しむ</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>正味6日間のドイツ滞在中、私たちはすばらしい料理を堪能した。ランチは主催者のJALパックツアーがあらかじめ手配してあったので、私たちはただ案内されたレストランのテーブルに着くだけ。ややこしいメニューを読み解く手間は一切なしで、日々異なるドイツ料理が目の前に並んだ。これは一種の贅沢だ。食事は旅の楽しみの大切な一部。ここでは写真を中心に、私たちを幸せにしてくれたごちそうを紹介しよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52400,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-2.jpg" alt="" class="wp-image-52400"/><figcaption class="wp-element-caption">豚頬（ほほ）肉の赤ワイン煮込み。じっくり煮込んであるのでフォークを刺すだけでホロホロと肉の線維がほどける。コクのあるソースと相まって、とりわけ味わい深い一品だった。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>ドイツではソーセージをヴルスト（Wurst）と言うのだそう。地域によって特色あるヴルストが作られ、その種類は1500ほどもあるという。ニュルンベルクで味わったこの一皿、付け合わせのザワークラウトとの相性も抜群だった。ちなみにザワークラウトは乳酸菌を使った発酵食品で、ビタミンCやBを多く含む健康食品なのを、今回の旅行で初めて知った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-2.jpg" alt="" class="wp-image-52401"/><figcaption class="wp-element-caption">やはりヴルスト（ソーセージ）は美味しかった。</figcaption></figure>
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<p>巨大な骨付き豚肉にも挑んだ。正式な料理名は聞き漏らしたが、豚のすね肉をアップルワインに漬け込んで焼き上げた料理をシュヴァイネハクセと言うらしく、これもその一種だろうか。カリカリになった分厚い皮に阻まれて「解体」するのに一苦労。鋭いステーキナイフが欲しかったが、周囲の常連客とおぼしき地元の人たちは、刃のなまったナイフでガシガシ切り刻んでいた。とにかく彼らは（彼女たちも）力が強い。</p>
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<!-- wp:image {"id":52402,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-2.jpg" alt="" class="wp-image-52402"/><figcaption class="wp-element-caption">巨大な骨付き豚肉を豪快に食した。</figcaption></figure>
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<p>帰国を明日に控えたフランクフルトでは、一同揃って夕食のテーブルを囲んだ。主役はシュニッツエル。豚ロース肉を薄く伸ばして揚げたカツレツだ。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-2.jpg" alt="" class="wp-image-52403"/><figcaption class="wp-element-caption">シュニッツェルはドイツの定番メニュー。</figcaption></figure>
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<p>特徴はグリューネゾーゼと呼ばれるグリーンのソース（お皿の左上に添えてある）。ハーブを主体にサワークリームやマスタード、マヨネーズをミックスしたソースというから、超ハイカロリーなこと間違いなし。前半はクリスピーなカツレツとクリーミーなソースの組み合わせが美味しく夢中で食べたが、そのうち醤油が欲しくなった。</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/スライド1-1024x373.jpg" alt="" class="wp-image-52408"/><figcaption class="wp-element-caption">新鮮な野菜たっぷりのグリーンサラダが毎日出たのも嬉しかった。</figcaption></figure>
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<p>食後のスイーツも絶品だった。ただ甘いばかりの大味なケーキを想像していたのだが、毎日供される様々なデザートはどれも繊細な味わいで、すでにメインで一杯のはずの胃にも楽々と収まった。</p>
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/スライド2-1024x378.jpg" alt="" class="wp-image-52409"/><figcaption class="wp-element-caption">スイーツはどれも絶品。</figcaption></figure>
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<p>新鮮な野菜盛りだくさんのサラダ、ドイツを代表するメイン料理、上等なデザート。舌の肥えた参加者一同を満足させるに充分なメニューだった。たぶん今回の旅の案内役Kさんとアレックスの知恵と経験が活きているのだろう。ドイツ料理の魅力を教えてくれた二人に、感謝したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
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			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その10　ノイエクラッセ</title>
		<link>https://autobild.jp/52063/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 13 Jun 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[BMW 1500]]></category>
		<category><![CDATA[BMW 328ミッレミリア・トゥーリング・クーペ]]></category>
		<category><![CDATA[BMW Z3 V12]]></category>
		<category><![CDATA[BMW328]]></category>
		<category><![CDATA[BMWイセッタ]]></category>
		<category><![CDATA[BMWクラシック]]></category>
		<category><![CDATA[BMWミュージアム]]></category>
		<category><![CDATA[BMW経営危機からの脱出]]></category>
		<category><![CDATA[ノイエクラッセ]]></category>
		<category><![CDATA[バイエルン]]></category>
		<category><![CDATA[フシュケ・フォン・ハインシュタイン]]></category>
		<category><![CDATA[ミッレ・ミリア]]></category>
		<category><![CDATA[ミュンヘン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://autobild.jp/?p=52063</guid>

					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="992" height="661" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1.jpg 992w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 992px) 100vw, 992px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">4日目 2月20日（パート2）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回のその9で見たように、ようやく第二次世界大戦（1939～1945年）の荒廃から立ち上がったBMWだったが、早くも1950年代序盤、思い通りに収益が上がらず苦しんでいた。それには理由があった。戦後のドイツ市場に向けた同社の製品は501/502系の豪華なリムジーネと、これをベースにしたスポーツモデル503と507しかなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「大戦で疲弊したこの国で高級車が売れるはずはない。戦前と同じ豪華車路線を採用したのは、我々経営陣の戦略ミスだ」経営陣がその事実に気づいたのはまだしも幸運だった。当時のBMWが人々に供給すべきは、乗員を雨風から防ぐボディを備え、少なくとも2名が乗れる簡便な日々の足だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしBMWにそんなミニマムカーをゼロから開発するだけの人的・財政的余力はない。なにより時間がなかった。そこで彼らはイタリアのイソからイセッタという超小型車をライセンス生産することにする。そのイセッタに自社のモーターサイクル用フラットツインを組み合わせて、BMWイセッタ250の名前で市場に送り出した。1956年のことだった。このイセッタは当時の需要にマッチして、16万台が生産されるヒット作となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52065,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-1.jpg" alt="" class="wp-image-52065"/><figcaption class="wp-element-caption">イセッタ250/300 (1956～62年)。空冷単気筒OHVエンジンの動力をチェーンで後輪に伝えた。そのチェーンを内包するケースがトレーリングアームを兼用する合理的な設計。最高出力は250が12hp/5800rpm、300が13hp/5200rpm。360kgの車重を85km/hまで引っ張った。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これで経営陣はひと息つけたが、小さなイセッタがすべてを解決してくれたわけではなかった。しだいに社会が落ち着き、経済活動が活発になるに連れて、人々は4人家族が乗れる“まっとうな”乗用車を求めるようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ところがBMWには高級車と軽便車しかない。もっとも安定した需要が見込める中間車種を欠いていた。501以下、高価なリムジンでは多くの販売台数は望めない。一方、イセッタのような軽便車はいくら作っても利潤は高が知れている。BMWには両者の間をつなぐ、屋台骨を支える稼ぎ手を欠いていた。これはBMWのような中規模自動車メーカーにとって致命傷だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>果たして1956年以降のバランスシートは赤い数字で埋め尽くされ、1959年には1500万ドイツマルクという史上最悪の欠損を計上する。 BMWが独立した企業として存続するのはもはや不可能と見たドイツバンクは1959年12月9日の株主総会の席上、融資を中止する旨を発表、併せてダイムラー・ベンツによる「救済という名の買収策」を提議した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし経営に大鉈を振るおうとする銀行の提案に労働組合が猛烈に反発する。郷土愛の強い彼らは自分たちがBayerische Motoren Werke、つまりバイエルン州のエンジン工場で働くことに強いプライドを抱いていた。「北のメーカー」の一員になるなど、彼らには到底受け入れられない話だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これまで事態を静観していた大株主ヘルベルト・クヴァントがここで声を上げる。「手塩にかけて育てたBMW、みすみすライバルに乗っ取られるつもりはない！」ヘルベルトは株を50％まで買い戻し、経営の主導権を取り戻した。ヘルベルト・クヴァントの大英断によりBMWはようやくひと息ついた。その後、頼みの綱と放ったノイエクラッセ1500がヒットとなり、今日見るような隆盛への一歩を踏み出したのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52066,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-1.jpg" alt="" class="wp-image-52066"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW 1500 「ノイエクラッセ」。1961年のフランクフルト・ショーで・デビューしたBMW初の中型セダン。苦境に喘いでいたBMWを建て直す重要な立役者となった。<br>Photo: BMW</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>話題を変えて、時計の針をBMWが経営危機に陥る前の1940年に戻そう。本稿の主人公BMW328の出番だ。1940年4月のある日、この328にまつわるイタリアから届いた知らせにミュンヘンの本社は歓喜に沸き立った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52067,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-1.jpg" alt="" class="wp-image-52067"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW328。製造期間：1936～1940年。全長x全幅x全高：3900 x 1550 x 1400 mm。ホイールベース：2400 mm。空車重量：830 kg 。最高速度：150 km/h。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMW328は主として第二次世界大戦以前にレースで活躍したスポーツカー。設計を主導したのは同社主任設計者フリッツ・フィードラーで、ラックピニオンステアリングや油圧ブレーキなど先進的な機構を取り入れた、いかにもBMWらしいスポーツカーだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>エンジンは1971 cc の直列6気筒。3基のソレックス30 JFダウンドラフト・キャブレターを備え、最高出力80 ps/5000rpmを発揮。アルミボディによる830 kgという軽い重量を活かし、最高速は150km/hに達した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>328はこの駿足と軽量がもたらす優れた操縦性を利して、数多くのレースで好成績を残した。1936年、ニュルブルクリンクで開催されたアイフェルレンネン・レースでは、エルンスト・ヘーネの操縦により2リッタークラスで優勝、自身のデビュー戦を飾った。これを皮切りに、1937年だけで100を越えるクラスウィンを記録している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52068,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-1.jpg" alt="" class="wp-image-52068"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW328。写真に見るこの1台は公道仕様で、天地高の高いウインドスクリーンにはワイパーもあるし、リヤビューミラーも備わる。 直列6気筒1971 cc。最高出力80 ps。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1938年にはミッレ・ミリアでクラス1位を遂げ、328は国際舞台で初めての勝利を得る。この結果に意を強くしたBMW首脳陣は、1940年のミッレ・ミリアに照準を絞った328のワンオフモデルの製作を決める。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWの意向を受けてミラノのカロッツェリア・トゥーリングが製作したのは、標準型のオープンボディとは異なるクーペボディだった。オープントップの公道仕様と区別するために、このワンオフはBMW 328ミッレミリア・トゥーリング・クーペと呼ばれる。トゥーリングの作品ゆえに、アルミボディは超軽量なスーパーレッジェラ工法で作られた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6-1.jpg" alt="" class="wp-image-52069"/><figcaption class="wp-element-caption">BMWミュージアムに展示される328ミッレミリア・トゥーリング・クーペ。6気筒1971cc。136hp /6000rpm。長距離公道レースに的を絞った328のスペシャルモデルだ。冒頭の写真は、2016年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにて快走するこの個体（Photo：BMW）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>エンジンは標準型と同じ6 気筒1971ccだが、136hp/6000rpm とかなりのハイチューンを施されていた。最高速は155 km/h。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>迎えた1940年4月28日のミッレ・ミリア。ツーリングクーペボディを架装した328トゥーリング・クーペは、BMWの期待に100%応えてみせた。シャシーナンバー85368上に構築されたクーペボディを操るのは、だれあろうフシュケ・フォン・ハインシュタイン、後のポルシェのレース監督だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52070,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/7.jpg" alt="" class="wp-image-52070"/><figcaption class="wp-element-caption">1940年4月28日、イタリア・ブレシアにて、まさにミッレ・ミリアのスタートを切ろうとしているBMW 328トゥーリング・クーペ。<br>Photo: BMW</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ヴァルター・バウマーというコ・ドライバーと組んだフォン・ハインシュタインは、1491.8580 kmを8時間54分46秒60で走り切り、平均スピード166.7 km/hという驚異的なスピードをもって総合優勝を果たしたのである。しかもこの勝利、ジュゼッペ・ファリーナ駆るアルファロメオ 6C 2500を破っての金星であり、加えてスパイダーボディの328が3、5、6位に入賞、この年のミッレ・ミリアは、さながら328による328のためのレースとなった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>現場のレース監督は、「上位を席巻する」の知らせをすぐさまミュンヘンの本社へ打電した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>328ミッレミリア・トゥーリング・クーペは優勝したシャシーナンバー85368とは別に2台が製作されており、BMWミュージアムではそのうちの1台が展示されていた。輝かしいヒストリーの持ち主であるBMW 328は、その後、同社がサーキットに送り出した様々なレーシングモデルの先駆けとなる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52071,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/8.jpg" alt="" class="wp-image-52071"/><figcaption class="wp-element-caption">V12を搭載したBMW Z3。写真ではボディカラーは黄色に見えるが、実際は鮮やかなオレンジ色だった。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWクラシックという「アリババの洞窟」に隠されているお宝はこれだけではなかった。展示品を見て行くなかで、私はある1台の前で思わず「オッ」と声を上げ、足を止めた。視線の先にあるのはE36型3シリーズをベースにしたBMW Z3。しかしボンネットの下にうずくまっているのはV12エンジンだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一時期、Z3に乗っていたことがある。BMW Z3は1995～2002年にかけて製造された2座席スポーツカーで、当初はロードスターのみだったが、シューティングブレークスタイルのクーペが1997年のフランクフルト・ショーでデビュー、ラインナップに追加になった。私が乗っていたのは1.9リッターの4気筒を搭載した初期型ロードスターで、5速MTとの組み合わせだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実車をデザインしたのは永島譲二氏。2ドアボディに似合うようE36 型3シリーズのホイールベース2700mmを2446mmに短縮したうえで、トランクの長さを意図的に短く取って、ロングノーズ/ショートデッキのスポーツカーらしいプロポーションを実現したという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私はこのZ3を大いに気に入り、日々の足に供しただけでなく、たまにはちょっとした旅行にも連れ出した。ベースが乗用車の鑑のようなE36型3シリーズなので、とりわけ高性能でもスポーティでもないが、とても乗りやすいのが魅力だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もともと4気筒か、せいぜい大きくても6気筒のエンジンを前提にしたZ3だが、展示品はそのノーズに靴べらを使ってV12エンジンを滑り込ませていた。その詳細は不明だが、インターネットを検索して得られた、あるドイツの媒体による推測を交えた情報をお伝えしよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>くだんのZ3は1999年に作られたワンオフ。V12は社内呼称M73型の5.4リッターで、7 シリーズのE38型に搭載されたユニットを移植したらしい。最高出力は326hp、最大トルクは490 Nmで、駆動力は6速MTを介して後輪に伝えられた。<br>あくまで推定値だが0-100 km/h加速は5.5秒、最高速は263 km/h。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52072,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/9.jpg" alt="" class="wp-image-52072"/><figcaption class="wp-element-caption">吸気系の位置から判断するに、Ｖ12はなんとか前車軸より後方に収まっている。Z3のロングノーズが貢献して、ノーズ先端までは充分なクラッシャブルゾーンが残されているようだ。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>V12を無理に押し込んだゆえ、当然ながらこのZ3は極端なノーズヘビーであり、本来の軽快な操縦性は大いに損なわれたことだろう。製作したのは当時のM部門だったという。彼らは無理を承知でなぜこんなZ3を作ったのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一つには「その気になれば、こういうこともできます」という、首脳陣に向けたアピールだったのかもしれない。あるいは単に自分たちがやってみたかったことを実行しただけの一種のジョークだったのかもしれない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>野暮をわかったうえでモンスター的Z3を作ったBMW M部門。その遊び心に触れたような気がして、私は写真を撮りながらニンマリするのを抑えきれなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWクラシックで楽しい時間を過ごした私たちは、昼食を挟んで午後はBMWミュージアムに移動、同社の歴史を中心にした解説を受けた。その後は自由解散となり、参加者はそれぞれにミュンヘンの探索を楽しんだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="992" height="661" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1.jpg 992w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-1-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 992px) 100vw, 992px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">4日目 2月20日（パート2）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回のその9で見たように、ようやく第二次世界大戦（1939～1945年）の荒廃から立ち上がったBMWだったが、早くも1950年代序盤、思い通りに収益が上がらず苦しんでいた。それには理由があった。戦後のドイツ市場に向けた同社の製品は501/502系の豪華なリムジーネと、これをベースにしたスポーツモデル503と507しかなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「大戦で疲弊したこの国で高級車が売れるはずはない。戦前と同じ豪華車路線を採用したのは、我々経営陣の戦略ミスだ」経営陣がその事実に気づいたのはまだしも幸運だった。当時のBMWが人々に供給すべきは、乗員を雨風から防ぐボディを備え、少なくとも2名が乗れる簡便な日々の足だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしBMWにそんなミニマムカーをゼロから開発するだけの人的・財政的余力はない。なにより時間がなかった。そこで彼らはイタリアのイソからイセッタという超小型車をライセンス生産することにする。そのイセッタに自社のモーターサイクル用フラットツインを組み合わせて、BMWイセッタ250の名前で市場に送り出した。1956年のことだった。このイセッタは当時の需要にマッチして、16万台が生産されるヒット作となった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52065,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2-1.jpg" alt="" class="wp-image-52065"/><figcaption class="wp-element-caption">イセッタ250/300 (1956～62年)。空冷単気筒OHVエンジンの動力をチェーンで後輪に伝えた。そのチェーンを内包するケースがトレーリングアームを兼用する合理的な設計。最高出力は250が12hp/5800rpm、300が13hp/5200rpm。360kgの車重を85km/hまで引っ張った。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これで経営陣はひと息つけたが、小さなイセッタがすべてを解決してくれたわけではなかった。しだいに社会が落ち着き、経済活動が活発になるに連れて、人々は4人家族が乗れる“まっとうな”乗用車を求めるようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ところがBMWには高級車と軽便車しかない。もっとも安定した需要が見込める中間車種を欠いていた。501以下、高価なリムジンでは多くの販売台数は望めない。一方、イセッタのような軽便車はいくら作っても利潤は高が知れている。BMWには両者の間をつなぐ、屋台骨を支える稼ぎ手を欠いていた。これはBMWのような中規模自動車メーカーにとって致命傷だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>果たして1956年以降のバランスシートは赤い数字で埋め尽くされ、1959年には1500万ドイツマルクという史上最悪の欠損を計上する。 BMWが独立した企業として存続するのはもはや不可能と見たドイツバンクは1959年12月9日の株主総会の席上、融資を中止する旨を発表、併せてダイムラー・ベンツによる「救済という名の買収策」を提議した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし経営に大鉈を振るおうとする銀行の提案に労働組合が猛烈に反発する。郷土愛の強い彼らは自分たちがBayerische Motoren Werke、つまりバイエルン州のエンジン工場で働くことに強いプライドを抱いていた。「北のメーカー」の一員になるなど、彼らには到底受け入れられない話だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これまで事態を静観していた大株主ヘルベルト・クヴァントがここで声を上げる。「手塩にかけて育てたBMW、みすみすライバルに乗っ取られるつもりはない！」ヘルベルトは株を50％まで買い戻し、経営の主導権を取り戻した。ヘルベルト・クヴァントの大英断によりBMWはようやくひと息ついた。その後、頼みの綱と放ったノイエクラッセ1500がヒットとなり、今日見るような隆盛への一歩を踏み出したのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52066,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3-1.jpg" alt="" class="wp-image-52066"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW 1500 「ノイエクラッセ」。1961年のフランクフルト・ショーで・デビューしたBMW初の中型セダン。苦境に喘いでいたBMWを建て直す重要な立役者となった。<br>Photo: BMW</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>話題を変えて、時計の針をBMWが経営危機に陥る前の1940年に戻そう。本稿の主人公BMW328の出番だ。1940年4月のある日、この328にまつわるイタリアから届いた知らせにミュンヘンの本社は歓喜に沸き立った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52067,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4-1.jpg" alt="" class="wp-image-52067"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW328。製造期間：1936～1940年。全長x全幅x全高：3900 x 1550 x 1400 mm。ホイールベース：2400 mm。空車重量：830 kg 。最高速度：150 km/h。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMW328は主として第二次世界大戦以前にレースで活躍したスポーツカー。設計を主導したのは同社主任設計者フリッツ・フィードラーで、ラックピニオンステアリングや油圧ブレーキなど先進的な機構を取り入れた、いかにもBMWらしいスポーツカーだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>エンジンは1971 cc の直列6気筒。3基のソレックス30 JFダウンドラフト・キャブレターを備え、最高出力80 ps/5000rpmを発揮。アルミボディによる830 kgという軽い重量を活かし、最高速は150km/hに達した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>328はこの駿足と軽量がもたらす優れた操縦性を利して、数多くのレースで好成績を残した。1936年、ニュルブルクリンクで開催されたアイフェルレンネン・レースでは、エルンスト・ヘーネの操縦により2リッタークラスで優勝、自身のデビュー戦を飾った。これを皮切りに、1937年だけで100を越えるクラスウィンを記録している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5-1.jpg" alt="" class="wp-image-52068"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW328。写真に見るこの1台は公道仕様で、天地高の高いウインドスクリーンにはワイパーもあるし、リヤビューミラーも備わる。 直列6気筒1971 cc。最高出力80 ps。</figcaption></figure>
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<p>1938年にはミッレ・ミリアでクラス1位を遂げ、328は国際舞台で初めての勝利を得る。この結果に意を強くしたBMW首脳陣は、1940年のミッレ・ミリアに照準を絞った328のワンオフモデルの製作を決める。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWの意向を受けてミラノのカロッツェリア・トゥーリングが製作したのは、標準型のオープンボディとは異なるクーペボディだった。オープントップの公道仕様と区別するために、このワンオフはBMW 328ミッレミリア・トゥーリング・クーペと呼ばれる。トゥーリングの作品ゆえに、アルミボディは超軽量なスーパーレッジェラ工法で作られた。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6-1.jpg" alt="" class="wp-image-52069"/><figcaption class="wp-element-caption">BMWミュージアムに展示される328ミッレミリア・トゥーリング・クーペ。6気筒1971cc。136hp /6000rpm。長距離公道レースに的を絞った328のスペシャルモデルだ。冒頭の写真は、2016年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにて快走するこの個体（Photo：BMW）</figcaption></figure>
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<p>エンジンは標準型と同じ6 気筒1971ccだが、136hp/6000rpm とかなりのハイチューンを施されていた。最高速は155 km/h。</p>
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<p>迎えた1940年4月28日のミッレ・ミリア。ツーリングクーペボディを架装した328トゥーリング・クーペは、BMWの期待に100%応えてみせた。シャシーナンバー85368上に構築されたクーペボディを操るのは、だれあろうフシュケ・フォン・ハインシュタイン、後のポルシェのレース監督だ。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/7.jpg" alt="" class="wp-image-52070"/><figcaption class="wp-element-caption">1940年4月28日、イタリア・ブレシアにて、まさにミッレ・ミリアのスタートを切ろうとしているBMW 328トゥーリング・クーペ。<br>Photo: BMW</figcaption></figure>
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<p>ヴァルター・バウマーというコ・ドライバーと組んだフォン・ハインシュタインは、1491.8580 kmを8時間54分46秒60で走り切り、平均スピード166.7 km/hという驚異的なスピードをもって総合優勝を果たしたのである。しかもこの勝利、ジュゼッペ・ファリーナ駆るアルファロメオ 6C 2500を破っての金星であり、加えてスパイダーボディの328が3、5、6位に入賞、この年のミッレ・ミリアは、さながら328による328のためのレースとなった。</p>
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<p>現場のレース監督は、「上位を席巻する」の知らせをすぐさまミュンヘンの本社へ打電した。</p>
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<p>328ミッレミリア・トゥーリング・クーペは優勝したシャシーナンバー85368とは別に2台が製作されており、BMWミュージアムではそのうちの1台が展示されていた。輝かしいヒストリーの持ち主であるBMW 328は、その後、同社がサーキットに送り出した様々なレーシングモデルの先駆けとなる。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/8.jpg" alt="" class="wp-image-52071"/><figcaption class="wp-element-caption">V12を搭載したBMW Z3。写真ではボディカラーは黄色に見えるが、実際は鮮やかなオレンジ色だった。</figcaption></figure>
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<p>BMWクラシックという「アリババの洞窟」に隠されているお宝はこれだけではなかった。展示品を見て行くなかで、私はある1台の前で思わず「オッ」と声を上げ、足を止めた。視線の先にあるのはE36型3シリーズをベースにしたBMW Z3。しかしボンネットの下にうずくまっているのはV12エンジンだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一時期、Z3に乗っていたことがある。BMW Z3は1995～2002年にかけて製造された2座席スポーツカーで、当初はロードスターのみだったが、シューティングブレークスタイルのクーペが1997年のフランクフルト・ショーでデビュー、ラインナップに追加になった。私が乗っていたのは1.9リッターの4気筒を搭載した初期型ロードスターで、5速MTとの組み合わせだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実車をデザインしたのは永島譲二氏。2ドアボディに似合うようE36 型3シリーズのホイールベース2700mmを2446mmに短縮したうえで、トランクの長さを意図的に短く取って、ロングノーズ/ショートデッキのスポーツカーらしいプロポーションを実現したという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私はこのZ3を大いに気に入り、日々の足に供しただけでなく、たまにはちょっとした旅行にも連れ出した。ベースが乗用車の鑑のようなE36型3シリーズなので、とりわけ高性能でもスポーティでもないが、とても乗りやすいのが魅力だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もともと4気筒か、せいぜい大きくても6気筒のエンジンを前提にしたZ3だが、展示品はそのノーズに靴べらを使ってV12エンジンを滑り込ませていた。その詳細は不明だが、インターネットを検索して得られた、あるドイツの媒体による推測を交えた情報をお伝えしよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>くだんのZ3は1999年に作られたワンオフ。V12は社内呼称M73型の5.4リッターで、7 シリーズのE38型に搭載されたユニットを移植したらしい。最高出力は326hp、最大トルクは490 Nmで、駆動力は6速MTを介して後輪に伝えられた。<br>あくまで推定値だが0-100 km/h加速は5.5秒、最高速は263 km/h。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/9.jpg" alt="" class="wp-image-52072"/><figcaption class="wp-element-caption">吸気系の位置から判断するに、Ｖ12はなんとか前車軸より後方に収まっている。Z3のロングノーズが貢献して、ノーズ先端までは充分なクラッシャブルゾーンが残されているようだ。</figcaption></figure>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>V12を無理に押し込んだゆえ、当然ながらこのZ3は極端なノーズヘビーであり、本来の軽快な操縦性は大いに損なわれたことだろう。製作したのは当時のM部門だったという。彼らは無理を承知でなぜこんなZ3を作ったのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一つには「その気になれば、こういうこともできます」という、首脳陣に向けたアピールだったのかもしれない。あるいは単に自分たちがやってみたかったことを実行しただけの一種のジョークだったのかもしれない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>野暮をわかったうえでモンスター的Z3を作ったBMW M部門。その遊び心に触れたような気がして、私は写真を撮りながらニンマリするのを抑えきれなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWクラシックで楽しい時間を過ごした私たちは、昼食を挟んで午後はBMWミュージアムに移動、同社の歴史を中心にした解説を受けた。その後は自由解散となり、参加者はそれぞれにミュンヘンの探索を楽しんだ。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>自動車専門翻訳家がゆくドイツ自動車博物館の旅　その9　BMWミュージアム</title>
		<link>https://autobild.jp/52051/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ehara]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Jun 2025 02:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[BMW]]></category>
		<category><![CDATA[BMW 501]]></category>
		<category><![CDATA[BMW 507]]></category>
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		<category><![CDATA[アウトバーン]]></category>
		<category><![CDATA[ドイツ自動車博物館]]></category>
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		<category><![CDATA[相原俊樹]]></category>
		<category><![CDATA[自動車専門翻訳家]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://autobild.jp/?p=52051</guid>

					<description><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="934" height="623" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1.jpg 934w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 934px) 100vw, 934px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">4日目 2月20日（パート1）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「皆さま、途中トイレ休憩を挟みますが、がまん大会ではありませんので、それ以前にご希望があれば遠慮なくおっしゃってくださいね！」バスが出発するや、ツアーコンダクターのKさんが私たちに声を掛けた。　</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ポルシェ・ミュージアムの見学を終えた私たちはバスに乗り、シュトゥットガルトを後にして一路ミュンヘンに向かっている。今回の旅行のなかでもこの行程は長距離で、南東に約230kmも下る。アウトバーンを使って3時間を要する旅だ。出発してすぐにKさんが私たちに声を掛けたのは、ベテランツアーコンダクターの彼女らしい気遣いだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトバーンのサービスエリアには大抵トイレが併設されている。ただし使うには1セント払う。最初はコインを準備するのが煩わしかったが、旅の途中から少額でも実費を支払うのは当然だと思うようになった。トイレを清潔に保ち、備品を揃えるには費用がかかる。日本のようにパーキングエリアのトイレが無料なのがむしろ異例だろう。海外旅行は日本を客観的に見るいいチャンスだとこんな場面で実感した次第。余談ついでにもう一つ、「ミュンヘン」の発音について。アレックスもバスドライバーのセバスチャンも、私の耳には「ムュンシェン」と言っているように聞こえた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>19日夕刻ミュンヘンに到着、市内のホテルで荷物を解いた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>バイエルン州の州都ミュンヘンはベルリンとハンブルクに次ぐドイツで3番目に大きな都市。ホテルのある界隈はいささか雑然とした印象だ。2月20日木曜日のこの日、午前中はミュンヘンの観光に充てられた。市内を抜けて郊外に出ると、一転して視界が広がる。私たちが訪れたのは、20ヘクタールという広大な庭園内に建つ建造物、ニンフェンブルク宮殿だ。360度空が広がる。空気が清々しい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52053,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2.jpg" alt="" class="wp-image-52053"/><figcaption class="wp-element-caption">ニンフェンブルク宮殿。かつてはバイエルン選帝侯の夏の居所だった。写真は建物の中心部のみで、ここから左右に翼棟が伸びている。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWミュージアム(BMW Museum)は「フィーア・ツイリンダー」（4気筒）の別名で知られるBMW本社に隣接したお椀形の建物で、そのすぐ横のレーヘンナウアー・シュトラーセ（Lerchenauer Str.）を渡るとBMW ワールド（BMW Welt）がある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":52054,"mediaLink":"https://autobild.jp/?attachment_id=52054","mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3.jpg" alt="" class="wp-image-52054 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>手前のお椀形の建物がBMWミュージアム。後方の円筒形の建物がBMW本社。その形状から「フィーア・ツイリンダー」（4気筒）の別名で知られる。<br>Photo: BMW</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ミュージアムを設計したのはカール・シュヴァンツァーという建築家。内部は大小5つの円形フロア（最大半径9.4m、最小4.2m）が層を成し、それぞれを緩い傾斜のらせん回廊が結ぶ。来場者は最上階から順次、下のフロアに降りて展示物を見学するので、構造的にはメルセデスベンツ・ミュージアムに似ている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アレックスはミュージアム正面入り口ではなく、横の入り口へと私たちを導いた。そこでこの日の案内役のスタッフを紹介すると、「普段は入れない場所へと案内します」と言って、敷地内の通路を横切り、大きな建物に連れて行った。ここが古いBMWのメンテナンスを行う「BMWクラシック」の展示場だ。顧客の所有車も所蔵するので、一部撮影禁止の区画もある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私たち一同が建物内部に入ったのを確認すると、係員がすぐさまシャッターを降ろした。見学を終えて出るときも間髪を入れずに降ろして、外部の目から遮断する。いやに物々しい警戒振りだなという気がしたが、この辺りもゲルマン的完璧主義の表れなのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし内部に置かれた様々なBMWは、表舞台のミュージアムに劣らず魅力的だった。まさにアリババの洞窟。一歩進むごとに普段お目にかかれないBMWに出会う。そんなわけで本稿ではBMWクラシックの展示品を中心に、私が特に惹かれたモデルをアトランダムに紹介することにしたい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaPosition":"right","mediaId":52055,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text has-media-on-the-right is-stacked-on-mobile"><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>BMW 3/20 PS。製造期間：1932～1934年。直列4気筒782 cc。最高出力：20 hp/4000 rpm。最高速：80 km/h。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/4.jpg" alt="" class="wp-image-52055 size-full"/></figure></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMW初の4輪モデルBMW 3/15（別名ディキシー）がオースティン7のライセンス生産だったのに対し、3/20は100％社内で設計した最初のBMWだった。製造期間は第二次世界大戦前の1932～1934年まで。エンジンは3/15用を準用したが、ストロークを80mmに伸ばして788ccを得ると同時に、ウオーターポンプとOHVシリンダーヘッドを備えていた（オースティン7は750ccのサイドバルブだった）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この結果、最高出力は20hpへ高まり、課税馬力の3hpと合わせて3/20がモデル名となった。ボディサイズも3/15より大きく、2119mmのホイールベースにより快適なキャビンスペースを実現している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なお、標準ボディはダイムラー・ベンツのジンデルフィンゲン工場が製作した。3/20は製造期間中AM1（Automobil München の頭文字）、AM2、 AM3、 AM4と年次改良を受けるごとにサブネームが改まっていく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>3/20は自動車メーカーとしてBMWが独り立ちする節目になったモデルだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:media-text {"mediaId":52056,"mediaType":"image"} -->
<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5.jpg" alt="" class="wp-image-52056 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>BMW 501。直列6気筒。4速コラムシフト。全長x全幅x全高: 4730 x 1780 x 1530 mm。トレッド前:1322 mm。同後: 1408 mm。ホイールベース: 2835 mm。空車重量: 1340 kg。最高速: 135 km/h。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div></div>
<!-- /wp:media-text -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMW 501。写真のプレートナンバー「M FV9501 H」は1956年2月10日に登録された。持ち主の名義は個人だった。その後ルーフに回転灯が取り付けられ、「POLIZEI」の文字が入ったが、ミュンヘン警察が当該の「M FV9501 H」をパトロールカーに採用した事実はない。一説によると、当時人気のあったテレビドラマシリーズに感化されて、オーナーがこうした改造を施したという。50年代といえば今から70年も前のこと、おっとりした時代だったのだろう。いずれにしてもこの「M FV9501 H」、珍しい経歴の持ち主である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ナンバープレートに話が及んだついでに言うと、ミュンヘンやシュトゥットガルトなどの大都市では、ナンバープレートはその都市名の頭文字で始まるのだそう。私たちはそのことをアレックスから教わった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1951年のフランクフルトモーターショーでデビューした501は、BMWが放った第二次世界大戦（1939～1945年）後初のモデルだった。戦後型BMW の開発は早くも1948年に始まっており、当初は全く異なる2つのモデルが平行して進められた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1つは社内開発ナンバー331と呼ばれたモダンなスモールカーで、実にピニンファリーナがデザインを担当したという。もう1つは戦前の326をベースにした豪華モデルで、結局、BMW首脳陣は後者の豪華モデルを採択、これが生産型の501になった。歴史に「if」はあり得ないが、もし前者のスモールカーを選んでいたらBMWの戦後は大きく変わっていたかもしれない……。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>501用のM337型6気筒エンジンは生産期間中、数度の変更を受けており、初期の64 hpから72 hpにパワーアップしている。排気量も最初の1971ccから最終的に2077 ccに増え、1954年からは 100 hpの2.6リッターV8が搭載されるようになった。このV8は1954年デビューの502にも搭載される。502は501と同じ外観で、内装を豪華に設えた派生型だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>501も502もハードウェアとしての出来は悪くなかったが、商業的には成功作とは言えず、これが戦後BMWの屋台骨を揺るがすことになる。詳しくは追って述べよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":52057,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6.jpg" alt="" class="wp-image-52057"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW 507。製造期間: 1956～1959年。全長x全幅x全高: 4385 x 1650 x 1257 mm。ホイールベース：2480 mm。空車重量: 1330 kg。エンジン：バンク角90度のプッシュロッドOHV 3168 cc。最高出力: 150hp/5000rpm 最大トルク: 24mkg/4000rpm。</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>BMWクラシック展示品のなかで断トツに目を引いたのが、この鮮やかなレッドに塗色された2座席ロードスターの507だった。製造期間が1950年代後半なこと、おもな市場が北米なこと、外寸が似通っていたことなど、507は同じ2座席オープンであるメルセデスベンツ190SLの恰好のライバルになると思われた（190SLの製造期間は1955～1963年。全長：4290 mm。ホイールベース；2400 mm）。しかし高価な販売価格ゆえに507は失敗作の烙印を押され、企業としてのBMWを窮地に陥れる引き金になる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>メルセデスベンツ190SLがあの300SLのデザインを踏襲した理詰めの外観なのに対し、アルブレヒト・フォン・ゲルツ(初代日産シルビアのデザインに関与したと言われる)のペンから生まれた507は流麗で洒脱、軽快なリズム感に溢れている。フォン・ゲルツを507のデザイナーに起用するよう提案したのは、アメリカの有力なインポーター、マックス・ホフマンだった。ホフマンはこの507に5000ドル程度の価格を付けて、総計5000台を売りさばこうと目論んだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし507はホフマンの思惑とは裏腹に、極めて高価にならざるを得なかった。アルミ製ボディをフォン・ゲルツのデザインに忠実に仕上げるには、腕のいい職人がハンマーで叩いて成形するしかなく手間が掛かったのだ。一説には完全に同じ形状の507は2台となかったと言われる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>生産コストが嵩んだゆえ、ドイツ国内の価格は2万6500 ドイツマルクとなり、間もなく2万9950ドイツマルクに上がった。北米の販売価格も当初から9000ドルと安くなかったが、最終的には1万500 ドルになった。一方、仮想ライバルの190SLは1万6500ドイツマルク、価格面でも市場競争力は一枚上手だった。結局、507の生産台数は252台に留まり、その大半が裕福な好事家のガレージに納まった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>507は1台製造するたびに損失を出した。しかしこの時、BMW首脳陣はもっと深刻な問題を抱えていた。1951年の501を皮切りに、その豪華版の502、さらにはスポーツモデルの503、507と放ってきた同社だが、いずれも思ったような利益を会社にもたらさないのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>どのモデルも同社の技術をフルに活かした力作なのに、戦前のようなヒットとはならなかった。年を追うごとに利益は減っていく。首脳陣は頭を抱えた。「なにか手を打たなければ」とは思うものの、わずか数年後に会社が倒産の瀬戸際に立たされるとまで予想した者はいなかった。しかし実のところ、BMWには抜き差しならない運命が急迫していたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="post_thumbnail"><img width="934" height="623" src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1.jpg" class="attachment-post-thumbnail size-post-thumbnail wp-post-image" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1.jpg 934w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-300x200.jpg 300w, https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/1-768x512.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 934px) 100vw, 934px" /></div><!-- wp:heading {"level":3} -->
<h3 class="wp-block-heading">4日目 2月20日（パート1）</h3>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「皆さま、途中トイレ休憩を挟みますが、がまん大会ではありませんので、それ以前にご希望があれば遠慮なくおっしゃってくださいね！」バスが出発するや、ツアーコンダクターのKさんが私たちに声を掛けた。　</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ポルシェ・ミュージアムの見学を終えた私たちはバスに乗り、シュトゥットガルトを後にして一路ミュンヘンに向かっている。今回の旅行のなかでもこの行程は長距離で、南東に約230kmも下る。アウトバーンを使って3時間を要する旅だ。出発してすぐにKさんが私たちに声を掛けたのは、ベテランツアーコンダクターの彼女らしい気遣いだった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アウトバーンのサービスエリアには大抵トイレが併設されている。ただし使うには1セント払う。最初はコインを準備するのが煩わしかったが、旅の途中から少額でも実費を支払うのは当然だと思うようになった。トイレを清潔に保ち、備品を揃えるには費用がかかる。日本のようにパーキングエリアのトイレが無料なのがむしろ異例だろう。海外旅行は日本を客観的に見るいいチャンスだとこんな場面で実感した次第。余談ついでにもう一つ、「ミュンヘン」の発音について。アレックスもバスドライバーのセバスチャンも、私の耳には「ムュンシェン」と言っているように聞こえた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>19日夕刻ミュンヘンに到着、市内のホテルで荷物を解いた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>バイエルン州の州都ミュンヘンはベルリンとハンブルクに次ぐドイツで3番目に大きな都市。ホテルのある界隈はいささか雑然とした印象だ。2月20日木曜日のこの日、午前中はミュンヘンの観光に充てられた。市内を抜けて郊外に出ると、一転して視界が広がる。私たちが訪れたのは、20ヘクタールという広大な庭園内に建つ建造物、ニンフェンブルク宮殿だ。360度空が広がる。空気が清々しい。</p>
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<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/2.jpg" alt="" class="wp-image-52053"/><figcaption class="wp-element-caption">ニンフェンブルク宮殿。かつてはバイエルン選帝侯の夏の居所だった。写真は建物の中心部のみで、ここから左右に翼棟が伸びている。</figcaption></figure>
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<p>BMWミュージアム(BMW Museum)は「フィーア・ツイリンダー」（4気筒）の別名で知られるBMW本社に隣接したお椀形の建物で、そのすぐ横のレーヘンナウアー・シュトラーセ（Lerchenauer Str.）を渡るとBMW ワールド（BMW Welt）がある。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/3.jpg" alt="" class="wp-image-52054 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>手前のお椀形の建物がBMWミュージアム。後方の円筒形の建物がBMW本社。その形状から「フィーア・ツイリンダー」（4気筒）の別名で知られる。<br>Photo: BMW</p>
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<p>ミュージアムを設計したのはカール・シュヴァンツァーという建築家。内部は大小5つの円形フロア（最大半径9.4m、最小4.2m）が層を成し、それぞれを緩い傾斜のらせん回廊が結ぶ。来場者は最上階から順次、下のフロアに降りて展示物を見学するので、構造的にはメルセデスベンツ・ミュージアムに似ている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アレックスはミュージアム正面入り口ではなく、横の入り口へと私たちを導いた。そこでこの日の案内役のスタッフを紹介すると、「普段は入れない場所へと案内します」と言って、敷地内の通路を横切り、大きな建物に連れて行った。ここが古いBMWのメンテナンスを行う「BMWクラシック」の展示場だ。顧客の所有車も所蔵するので、一部撮影禁止の区画もある。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>私たち一同が建物内部に入ったのを確認すると、係員がすぐさまシャッターを降ろした。見学を終えて出るときも間髪を入れずに降ろして、外部の目から遮断する。いやに物々しい警戒振りだなという気がしたが、この辺りもゲルマン的完璧主義の表れなのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし内部に置かれた様々なBMWは、表舞台のミュージアムに劣らず魅力的だった。まさにアリババの洞窟。一歩進むごとに普段お目にかかれないBMWに出会う。そんなわけで本稿ではBMWクラシックの展示品を中心に、私が特に惹かれたモデルをアトランダムに紹介することにしたい。</p>
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<div class="wp-block-media-text has-media-on-the-right is-stacked-on-mobile"><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>BMW 3/20 PS。製造期間：1932～1934年。直列4気筒782 cc。最高出力：20 hp/4000 rpm。最高速：80 km/h。</p>
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<p>BMW初の4輪モデルBMW 3/15（別名ディキシー）がオースティン7のライセンス生産だったのに対し、3/20は100％社内で設計した最初のBMWだった。製造期間は第二次世界大戦前の1932～1934年まで。エンジンは3/15用を準用したが、ストロークを80mmに伸ばして788ccを得ると同時に、ウオーターポンプとOHVシリンダーヘッドを備えていた（オースティン7は750ccのサイドバルブだった）。</p>
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<p>この結果、最高出力は20hpへ高まり、課税馬力の3hpと合わせて3/20がモデル名となった。ボディサイズも3/15より大きく、2119mmのホイールベースにより快適なキャビンスペースを実現している。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>なお、標準ボディはダイムラー・ベンツのジンデルフィンゲン工場が製作した。3/20は製造期間中AM1（Automobil München の頭文字）、AM2、 AM3、 AM4と年次改良を受けるごとにサブネームが改まっていく。</p>
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<p>3/20は自動車メーカーとしてBMWが独り立ちする節目になったモデルだった。</p>
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<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/5.jpg" alt="" class="wp-image-52056 size-full"/></figure><div class="wp-block-media-text__content"><!-- wp:paragraph {"placeholder":"コンテンツ…"} -->
<p>BMW 501。直列6気筒。4速コラムシフト。全長x全幅x全高: 4730 x 1780 x 1530 mm。トレッド前:1322 mm。同後: 1408 mm。ホイールベース: 2835 mm。空車重量: 1340 kg。最高速: 135 km/h。</p>
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<p>BMW 501。写真のプレートナンバー「M FV9501 H」は1956年2月10日に登録された。持ち主の名義は個人だった。その後ルーフに回転灯が取り付けられ、「POLIZEI」の文字が入ったが、ミュンヘン警察が当該の「M FV9501 H」をパトロールカーに採用した事実はない。一説によると、当時人気のあったテレビドラマシリーズに感化されて、オーナーがこうした改造を施したという。50年代といえば今から70年も前のこと、おっとりした時代だったのだろう。いずれにしてもこの「M FV9501 H」、珍しい経歴の持ち主である。</p>
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<p>ナンバープレートに話が及んだついでに言うと、ミュンヘンやシュトゥットガルトなどの大都市では、ナンバープレートはその都市名の頭文字で始まるのだそう。私たちはそのことをアレックスから教わった。</p>
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<p>1951年のフランクフルトモーターショーでデビューした501は、BMWが放った第二次世界大戦（1939～1945年）後初のモデルだった。戦後型BMW の開発は早くも1948年に始まっており、当初は全く異なる2つのモデルが平行して進められた。</p>
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<p>1つは社内開発ナンバー331と呼ばれたモダンなスモールカーで、実にピニンファリーナがデザインを担当したという。もう1つは戦前の326をベースにした豪華モデルで、結局、BMW首脳陣は後者の豪華モデルを採択、これが生産型の501になった。歴史に「if」はあり得ないが、もし前者のスモールカーを選んでいたらBMWの戦後は大きく変わっていたかもしれない……。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>501用のM337型6気筒エンジンは生産期間中、数度の変更を受けており、初期の64 hpから72 hpにパワーアップしている。排気量も最初の1971ccから最終的に2077 ccに増え、1954年からは 100 hpの2.6リッターV8が搭載されるようになった。このV8は1954年デビューの502にも搭載される。502は501と同じ外観で、内装を豪華に設えた派生型だ。</p>
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<p>501も502もハードウェアとしての出来は悪くなかったが、商業的には成功作とは言えず、これが戦後BMWの屋台骨を揺るがすことになる。詳しくは追って述べよう。</p>
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<!-- wp:image {"id":52057,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://autobild.jp/media/wp-content/uploads/2025/06/6.jpg" alt="" class="wp-image-52057"/><figcaption class="wp-element-caption">BMW 507。製造期間: 1956～1959年。全長x全幅x全高: 4385 x 1650 x 1257 mm。ホイールベース：2480 mm。空車重量: 1330 kg。エンジン：バンク角90度のプッシュロッドOHV 3168 cc。最高出力: 150hp/5000rpm 最大トルク: 24mkg/4000rpm。</figcaption></figure>
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<p>BMWクラシック展示品のなかで断トツに目を引いたのが、この鮮やかなレッドに塗色された2座席ロードスターの507だった。製造期間が1950年代後半なこと、おもな市場が北米なこと、外寸が似通っていたことなど、507は同じ2座席オープンであるメルセデスベンツ190SLの恰好のライバルになると思われた（190SLの製造期間は1955～1963年。全長：4290 mm。ホイールベース；2400 mm）。しかし高価な販売価格ゆえに507は失敗作の烙印を押され、企業としてのBMWを窮地に陥れる引き金になる。</p>
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<p>メルセデスベンツ190SLがあの300SLのデザインを踏襲した理詰めの外観なのに対し、アルブレヒト・フォン・ゲルツ(初代日産シルビアのデザインに関与したと言われる)のペンから生まれた507は流麗で洒脱、軽快なリズム感に溢れている。フォン・ゲルツを507のデザイナーに起用するよう提案したのは、アメリカの有力なインポーター、マックス・ホフマンだった。ホフマンはこの507に5000ドル程度の価格を付けて、総計5000台を売りさばこうと目論んだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし507はホフマンの思惑とは裏腹に、極めて高価にならざるを得なかった。アルミ製ボディをフォン・ゲルツのデザインに忠実に仕上げるには、腕のいい職人がハンマーで叩いて成形するしかなく手間が掛かったのだ。一説には完全に同じ形状の507は2台となかったと言われる。</p>
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<!-- wp:paragraph -->
<p>生産コストが嵩んだゆえ、ドイツ国内の価格は2万6500 ドイツマルクとなり、間もなく2万9950ドイツマルクに上がった。北米の販売価格も当初から9000ドルと安くなかったが、最終的には1万500 ドルになった。一方、仮想ライバルの190SLは1万6500ドイツマルク、価格面でも市場競争力は一枚上手だった。結局、507の生産台数は252台に留まり、その大半が裕福な好事家のガレージに納まった。</p>
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<p>507は1台製造するたびに損失を出した。しかしこの時、BMW首脳陣はもっと深刻な問題を抱えていた。1951年の501を皮切りに、その豪華版の502、さらにはスポーツモデルの503、507と放ってきた同社だが、いずれも思ったような利益を会社にもたらさないのだ。</p>
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<p>どのモデルも同社の技術をフルに活かした力作なのに、戦前のようなヒットとはならなかった。年を追うごとに利益は減っていく。首脳陣は頭を抱えた。「なにか手を打たなければ」とは思うものの、わずか数年後に会社が倒産の瀬戸際に立たされるとまで予想した者はいなかった。しかし実のところ、BMWには抜き差しならない運命が急迫していたのである。</p>
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<p>Text：相原俊樹<br>Photo：相原俊樹ほか</p>
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<p><strong>【筆者の紹介】<br>相原俊樹：自動車専門の翻訳家・著述家。月刊の自動車専門誌向けに海外のロードインプレッションや新車情報などを翻訳。自動車関連の翻訳書多数。現在の愛車はポルシェ・ボクスター。趣味は60年代のカンツォーネと藤沢周平の時代小説。</strong></p>
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